第2次世界大戦
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第2次世界大戦
II. ファシズムの台頭

第2次世界大戦の遠因は、第1次世界大戦後の世界秩序をきめたベルサイユ条約などにもとづく、いわゆるベルサイユ体制にもとめられる。帝政にかわって共和国となったドイツ(ワイマール共和国)は領土の喪失、徴兵制禁止などの一方的軍縮にくわえて巨額の賠償支払いを課せられ、空前のインフレの進行により国民生活は窮乏の一途をたどった。屈辱的なベルサイユ条約をむすんだ共和国政府への反感とともにベルサイユ体制打破が国民の合い言葉となった。

戦勝国のイタリアも戦後の領土配分にいきどおり、同じく戦勝国の日本も中国進出の野望がさまたげられたことに不満をいだいた。イタリアではムッソリーニが不満分子をひきいて1922年にローマに進軍し、政権を奪取して反共産主義、反議会主義、軍国主義的独裁にもとづく全体主義体制(ファシズム)を樹立した。ファシズムの動きはやがてドイツと日本にも波及した。

戦勝国のイギリス、フランスは1920年に国際連盟を創設し、現状維持をかかげて自らつくりだした戦後の国際秩序をたもとうとしたが、国力の衰えからそれを実現する条件を欠いており、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは、内政上の理由から伝統的な孤立主義にまいもどり、国際政治の舞台からしりぞいた。

1924年のマルクの安定やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画の導入とともに、ドイツ経済は平静をとりもどし、ワイマール共和国は相対的安定期にはいった。25年にはロカルノ条約がむすばれて、ドイツ、フランス間の国境不可侵と、ドイツ、ポーランド間の紛争の調停が約束され、ドイツは翌年に国際連盟への加盟をみとめられた。日本も22年にワシントン海軍軍備制限条約(ワシントン会議)に調印し、大正デモクラシーの興隆の中で幣原外相の推進する国際協調主義が主流となった。さらに、28年にはパリで不戦条約がむすばれ、ソ連をのぞく63カ国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約した。こうして、平和維持の試みは達成されるかに思われた。

しかし、1929年におきた世界大恐慌(恐慌)は事態を一変させた。恐慌は、とりわけ資源や資本あるいは植民地をもたないドイツ、イタリア、日本を直撃し、3国における現状打破の動きを促進させた。

ドイツでは失業者が激増する中で、ヒトラーひきいる国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党またはナチス:ナチズム)がベルサイユ体制打破、反共産主義、社会主義的綱領をかかげて小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1933年1月に政権獲得に成功した。さらに、翌年8月の共和国大統領ヒンデンブルクの死によってヒトラーは首相兼総統に就任し、独裁体制を確立した。国内体制をかためるいっぽうでヒトラーは、33年10月に国際連盟を脱退し、35~36年に徴兵制復活、ラインラント進駐などを強行し、強大な軍備をととのえながらベルサイユ体制の打破をおしすすめた。

日本も軍部と天皇を中心とする全体主義的支配体制を樹立しながら、1931年9月の柳条湖事件を契機に中国東北部を占領し、37年7月には本格的な中国本土への侵略を開始した(日中戦争)。イタリアも35~36年にエチオピア征服を完了した。こうしてドイツ、イタリア、日本のファシズム3国は結束を強化し、37年の三国防共協定の調印によって、いわゆるローマ・ベルリン・東京枢軸を結成して積極的な領土拡大政策にのりだしていった。