| 第2次世界大戦 | 項目ビュー | ||||
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| III. | ヒトラーの野望と世界戦争への道 |
ドイツ国内の支配体制を確立したヒトラーは、戦争を前提とする領土拡大政策に着手した。ヒトラーは社会ダーウィニズムにもとづく人種思想に強く感化されており、アーリヤ人とよばれる理想化されたドイツ民族を支配人種として賛美し、劣等なスラブ人はドイツ民族に隷従し、ユダヤ人は害虫として抹殺されねばならないと主張した。
共産主義もユダヤ人の考案物とされ、したがって、ユダヤ・共産主義の中心であるソ連を撃破し、ユダヤ人を絶滅するとともに、ソ連領内にドイツ民族のための広大な土地(生存圏)を確保してドイツ民族の永遠の繁栄を実現すること、これがヒトラーの構想の基本となった。この目的を実現するために、最初にヨーロッパを征服し、その後にソ連の打破をめざすことが計画された。
ヒトラーは、1938年3月13日にオーストリアをドイツに併合したあと、戦争の脅しをもってチェコスロバキアにおそいかかった。そして、9月29~30日にミュンヘンで開かれたイギリス、フランス、ドイツ、イタリア4国の首脳会談で、350万人のドイツ人が居住するチェコスロバキア西部国境のズデーテン地方の奪取に成功した(→ ミュンヘン協定)。
この会談でイギリス首相チェンバレンはドイツに対する「宥和政策」をとなえたが、その意図は、戦争をおそれるイギリス、フランス両国にとって死活の問題ではない東南ヨーロッパを取引材料に、ヒトラー・ドイツを社会主義国ソ連に対する防壁として利用しようとすることにあった。そして、ドイツがチェコスロバキアの残りの領土を併合しないことを条件に、ヒトラーに譲歩したのである。
ヒトラーはイギリス、フランス両国の弱腰に乗じてチェコスロバキアの残りの領土解体に着手した。1939年3月14~15日に、ボヘミアとモラビアはドイツの保護領、スロバキアは名目上の独立国家となり、チェコスロバキアは消滅した。ポーランドを次の侵略目標とさだめたヒトラーは3月21日、第1次世界大戦でうしなったダンチヒ(グダニスク)とポーランド回廊の返還をポーランド政府に強要した。ここにいたってポーランドと相互援助条約をむすんでいたイギリス、フランスはドイツとの戦争を覚悟せざるをえず、ヨーロッパ戦争の危険が現実のものとなった。
ヒトラーの野望を阻止する唯一の手段は、イギリス、フランス、ソ連が同盟をむすび、ドイツに対する包囲網を完成することだった。いっぽうヒトラーも、これら3国との東西二正面戦争を回避する必要にせまられ、ソ連との暫定的な関係修復をいそがねばならなかった。ソ連の支配者スターリンは、イギリス、フランスの「宥和政策」をドイツの矛先をソ連にむけさせるものであると見ぬき、両国の態度に強い不信をいだいていた。この時期、ソ連の戦争準備は軍将校の大量粛清のために完了しておらず、スターリンはポーランドの次に予想されるドイツのソ連侵攻を回避して時をかせぐために、仇敵(きゅうてき)ドイツとの関係改善をはかる決意をかためた。
1939年8月23日、独ソ不可侵条約がむすばれた。この条約には4カ条からなる「付属秘密議定書」が付されていて、両国間でのポーランド分割、フィンランドおよびバルト3国へのソ連の影響力の拡大、ルーマニア領ベッサラビアでのソ連権益の保証などがとりきめられた。こうして、ドイツはソ連から攻撃されることなく、ポーランド侵攻に着手できることになった。