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アポロ計画
I. プロローグ

人類の月面着陸を目的としたアメリカの宇宙探査計画。1960年7月にNASA(アメリカ航空宇宙局)が発表し、61年5月にケネディ大統領が69年末までに成功させることを宣言、それからはアメリカの国家的目標としてすすめられた。その背景には、57年10月に旧ソ連が初の人工衛星スプートニクを成功させたことにより、宇宙開発に遅れをとったアメリカの威信がかかっていた。そして多くの宇宙工学的課題を解決するための巨大な研究開発機構が構築され、8年間に9兆円近くの費用が投入された。直接計画に参加した人員だけでも17万5000人以上という巨大なプロジェクトであった。

II. 準備段階

アポロ宇宙船および打ち上げに使用される大型ロケットのサターンVの開発がすすめられるのと平行して、サーベイヤー計画やルナ・オービター計画(→宇宙探査の「サーベイヤー」)などの無人探査機をつかった月面調査が重ねられ、マーキュリー計画やジェミニ計画という有人宇宙船による多くの実験がくりかえされて貴重なデータの蓄積がはかられた。だが、1967年1月に発射台上で地上実験中のアポロ宇宙船(1号)に火災事故が発生し、3人の宇宙飛行士(バージル・グリソム、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィー)が死亡するという惨事がおこった。

この事故を契機に事故対策が急速にすすめられ、1968年に入って計画は急速に進展した。10月11日にはアポロ7号が初の有人飛行をおこない、11日間で地球を173周した。また12月21日に打ち上げられた8号は、24日にはじめて月からおよそ271kmの上空を周回した。3周目からは月上空約96kmの軌道まで降下し、全部で10周して地球に帰還した。さらに69年3月3日に打ち上げられたアポロ9号は、地球軌道上で6年の年月をかけて設計・製造されていた月着陸船のテストをおこなった。5月18日に打ち上げられたアポロ10号では、月着陸のための最終的な飛行テストが本番さながらにおこなわれた。宇宙飛行士のトーマス・スタフォードとユージン・サーナンが月着陸船にのりこみ、月軌道上を周回しながら月面の「静かの海」から1万4447mのところまで接近することに成功したのである。

III. アポロ宇宙船とサターンVロケット

アポロ宇宙船は司令船(CM)と機械船(SM)、月着陸船(LM)の3つの部位から構成される。司令船は円錐形をした3人乗りの居住カプセルで、全長3.23m、底辺の直径3.91m、重量は5.56t。機械船は、司令船に酸素や電力の供給をおこなうほか、推進ロケットの機能をする。円筒形をしており全長7.37m、直径3.91m、重量23.2t。月着陸船は母船(指令船と機械船)と月面との往復に利用され、全長7m、重量15.1t。2段構造となっていて、下部の発射台は月面から離脱するときには切りはなされる。

アポロ宇宙船の打ち上げに利用されるサターンVロケットは3段式の大型ロケットで、宇宙船をふくめた全長が111m、重量2941t。第1段に推力694tのエンジンを5基、第2段に推力93tのエンジンが5基、第3段に推力93tのエンジンが1基ついていた。

IV. 月面への着陸

1969年7月16日、ニール・アームストロング、マイケル・コリンズ、エドウィン・オルドリンという3人の宇宙飛行士をのせたアポロ11号はケープケネディをとびたち、20日午後4時17分39秒(日本時間21日午前5時17分39秒)に、ついに史上初の人間による月面着陸をはたした。着陸地点は「静かの海」で、月着陸船イーグル号から月面におりたったニール・アームストロング船長の第一声は「1人の人間にとっては小さな1歩だが、人類にとっては大きな1歩である」というものであった。そして、アメリカと旧ソ連の宇宙計画で命をうしなった5人の宇宙飛行士(バージル・グリソム、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィー、ウラジミール・コマロフ、ユーリー・ガガーリン)のための記念碑が、月面におかれた。記念碑には「地球から来た人類がここにはじめて足跡をしるす。1969年7月。すべての人類のため、われわれは平和のうちにやって来た」ときざまれていた。

つづいて月着陸船操縦士のエドウィン・オルドリンも月面におりたち、2人は21時間36分のあいだ月面にとどまり、地震計や太陽風(太陽)の実験装置、レーザー反射装置などを設置、合計21kgの月の岩石や砂の標本を採集して地球にもちかえった。

1. 人類の月面活動

1969年11月14日に打ち上げられたアポロ12号では、月着陸船イントレピッド号で「嵐の大洋」に着陸したが、この場所は67年に無人探査機サーベイヤー3号の着陸地点からわずか180mしかはなれていなかった。そこで、地球に帰還するときサーベイヤー3号からTVカメラと宇宙線感知板を回収した。チャールズ・コンラッド船長と月着陸船操縦士のアラン・ビーンの2人は、31時間31分の間月面にとどまり、3時間53分と3時間49分の2回の船外活動をおこない、34.3kgの月面物質を採集した。また、月面にALSEP(無人観測ステーション)を設置した。12号では地球に帰還する前に、切りはなした月着陸船を月面に衝突させ、はじめて人工地震(月震)を発生させる実験をおこなっている。

1970年4月11日に打ち上げられたアポロ13号は、「嵐の大洋」フラ・マウロ高地に着陸する予定だったが、月にむかう途中で機械船の酸素タンク爆発事故が発生し計画を断念した。生還があやぶまれたが、月をまわることで月の引力を利用して地球へとむかい、17日に無事に帰還した。なお、この事件は映画にもなっている。

1971年1月31日に打ち上げられたアポロ14号では、月着陸船アンタレス号で「嵐の大洋」フラ・マウロ高地に着陸した。アラン・シェパード船長と月着陸船操縦士のエドガー・ミッチェルは33時間31分の間月面にとどまった。このシェパード船長は、アメリカ人として初の宇宙飛行をおこなった人物である(マーキュリー計画)。2人は2度の船外活動で合計3kmを歩き、43kgの岩石を採集した。またALSEP(無人観測ステーション)を設置し、クレーターの麓(ふもと)で火薬を爆発させて人工地震(月震)を発生させる実験をおこなった。またサターンVロケットの第3段を月面に衝突させて人工地震を発生させる実験もおこなったが、翌年その近くに直径3mほどの隕石が落下したとき、地震計により衝突実験の100倍をこえる振動を計測することができた。

1971年7月26日に打ち上げられたアポロ15号では、月着陸船ファルコン号で「雨の海」のアペニン山脈とハドリー渓谷の間にある台地に着陸した。デビッド・スコット船長と月着陸船操縦士ジェームズ・アーウィンは66時間55分月面にとどまり、3度の船外活動で18時間37分の月面探査をおこなった。このときはじめて電動の4輪月面移動車が使用され、合計で28.2kmをはしり、山岳地帯の探査で活躍した。ALSEP(無人観測ステーション)などの観測機器を設置して、77kgの岩石をもちかえったが、そのなかには約46億年前の月が誕生したころの地殻を形成していたと思われる斜長石(長石)のサンプルもふくまれていた。

1972年4月16日に打ち上げられたアポロ16号では、月着陸船オライオン号で「神酒の海」デカルト・クレーターの北側にあるケイリー高地に着陸した。ジョン・ヤング船長と月着陸船操縦士チャールズ・デュークは71時間2分月面にとどまった。20時間15分におよぶ3度の船外活動で合計26.6kmの距離を移動し、ALSEP(無人観測ステーション)などの観測機器を設置して、97kgの岩石をもちかえった。

1972年12月7日に打ち上げられたアポロ17号は、アポロ計画最後の宇宙船となった。月着陸船チャレンジャー号で「晴の海」東南にある高地のタウリス・リトロー地域に着陸したユージン・サーナン船長と月着陸船操縦士ハリソン・シュミットは75時間月面にとどまった。シュミットは地質学者で、はじめて月をおとずれた科学者として月面を調査した。約22時間におよぶ3度の船外活動で合計35kmの距離を移動し、計画中で最大の110kgの岩石をもちかえった。

V. その後のアポロ宇宙船

1972年12月19日のアポロ17号の地球帰還をもってアポロ計画は終了し、それ以降、人類は月をおとずれていない。当時アメリカの宇宙計画は、ベトナム戦争と、それにともなう不景気のため、縮小をよぎなくされた。そこで、アポロ計画の打ち上げロケット・サタンーVやアポロ宇宙船の予備部品を転用し、宇宙ステーションを建造することになった。

スカイラブ(Skylab:Sky laboratory(空の実験室)から)と名づけられたこの宇宙ステーションは、サターンVロケットの3段部をステーション本体に改造したものだった。計画は、1973年5月14日の本体(スカイラブ1号)打ち上げからはじまり、さまざまな科学実験が74年2月までおこなわれたが、79年7月に大気圏へ突入、消滅した。宇宙ステーション

1975年7月には、「アポロ-ソユーズ(ドッキング)計画」にもとづきアポロ宇宙船と旧ソ連のソユーズ宇宙船がドッキングに成功し、相互に宇宙飛行士の移乗をおこなっている。

→宇宙探査の「月に立った人類」