シチリア島
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シチリア島
III. 歴史

ギリシャの伝承によれば、シチリア島にはシクロスあるいはシカノスとよばれる人々がすんでいた。彼らはイタリアの南端からこの島にわたってきたといわれている。歴史は、前8世紀のギリシャとフェニキアの植民市の建設からはじまる。最初のギリシャの植民市ナクソスは前735年に、最後の植民市アグリゲントゥム(現在のアグリジェント)は前582年ごろに建設された。アグリゲントゥムは短期間だがシチリアでもっとも有力な植民市となった。ゲラ(現在のジェーラ)は、ゲロンという有能な僭主があらわれ、島内にあったギリシャ植民市の大部分を支配下においた。

カルタゴ人が前536年にはじめてこの島にやってきたときには、ギリシャ植民市が富と権力をもっていたため、長い間北西部から勢力を広げることができなかった。おもなカルタゴの植民市にはパノルモス、モテュア、ソレイスがあった。前480年のヒメラの戦で、カルタゴ軍はゲラの僭主ゲロンに制圧された。前466年にシラクーザにおけるゲロンの支配がおわり、前410年、カルタゴ人とギリシャ人はシチリア島の領有をめぐる争いをふたたびおこしたが、カルタゴ人が勝利した。しかし、シラクーザの僭主ディオニュシオス1世の強力な支配が前405~前367年までつづいたため、カルタゴはシチリア島を征服することはできなかった。

ポエニ戦争の結果、前246年にシチリア島のカルタゴ領がローマの属州となり、残りの地域も前210年には属州となった。前135~前132年と、前102~前99年の2度にわたる奴隷の反乱は、ローマ史上の大事件だったとつたえられる。その後、前74~前70年には、ローマの政治家ウェレスによる悪名高い総督支配がおこなわれた。440年、シチリア島はバンダル族のガイセリックに征服され、東ゴート族の王テオドリックへ割譲されたあと、535年にビザンティン帝国の将軍ベリサリオスによって征服された。

827年、イスラム勢力によるシチリア島支配がはじまった。1061年にロベルト・グイスカルドとその弟であるメッシーナにすんでいたノルマン人ルッジェーロ1世が、シチリア島の征服にのりだし、91年には全島を支配した。ルッジェーロ2世はイタリア半島南部のプーリアとカラブリアの王となり、1130年にはシチリア王の称号をえた。ルッジェーロ2世の領地が両シチリア王国、または両シチリアとよばれるのは、イタリア本土の南部が「ファロ岬のこちら側のシチリア」として知られていたからである。ファロ岬はシチリア島北東端にあるイタリア本土にもっとも近い岬である。

1. 両シチリア王国

1194年、シチリアの王位を継承したのはホーエンシュタウフェン家だった。神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世はとくに有名で、シチリア王フェデリコ1世として華やかな宮廷を支配した彼は、1231年にメルフィ法典を発布してシチリアを中央集権化した。彼の死後、ホーエンシュタウフェン家の統治は長くつづかず、66年にフランス王ルイ9世の弟アンジュー伯シャルル・ダンジューがローマ教皇の援助をうけて王国の支配権をにぎった。しかし、彼のきびしい支配に反感をいだいたシチリア島民は、82年に「シチリアの晩鐘」として知られる反乱をおこした。

その後まもなく、両シチリア王国は分割された。アンジュー家はナポリでシチリア王を名のってイタリア半島南部を支配し、シチリア島はナポリの支配から独立して、ホーエンシュタウフェン家と姻戚関係(いんせきかんけい)にあったアラゴン王ペドロ3世をシチリア王としてむかえた。1442年、アラゴンのアルフォンソ5世がナポリを征服し、両シチリア王国を統合した。

1468年以来シチリア王でもあったカスティリャ王国のフェルナンド5世は、1504年ナポリ王国の王に即位し、両国に対するスペインの統治はスペイン継承戦争(1701~13年)までつづいた。1713年のユトレヒト条約で、シチリア島はナポリから切りはなされ、サボイア家の支配下に入ったが、さらにその7年後サルデーニャ島と交換され、ハプスブルク家領となった。

1734年にブルボン家のドン・カルロス、のちのスペイン王カルロス3世がナポリとシチリアを侵略し、35年、彼はウィーン条約で、両シチリア王国の王位についた。48年のアーヘンの和約ののちおよそ50年間、イタリアは平和がつづき、その間シチリアは政治、経済、教育の面で発展をとげた。しかし、フランス革命がおこったことで、両シチリア王国の王フェルディナンド1世は対仏大同盟に加盟した。

2. ナポレオン戦争

1798年12月、ナポリの人々は教皇領からフランスをおいはらおうとしたが、撃退された。99年1月、ナポリは占領され、パルテノペーア共和国がつくられた。同じころ、フェルディナンドは英国艦隊の援護をうけてふたたび王位についた。同年、ナポレオン・ボナパルトがナポリ王国を征服し、その兄ジョセフを王位につけた。一方、フェルディナンドはシチリアの統治をつづけた。1808年にジョセフの後をついでミュラがナポリ王となったが、15年にミュラが失脚すると、フェルディナンドはふたたびナポリ王となった。16年の終わりに、彼はナポリとシチリアを両シチリア王国に統一すると同時に改革の約束を破棄した。

3. 王家の争いとイタリアとの連合

1820年、ナポリ領内で立憲政治を確立しようとする軍の暴動がおこり、カルボナリ党とよばれる革命的なグループがこれにくわわった。フェルディナンドは憲法に関するいかなる譲歩もしないと、オーストリアとの間で合意していたにもかかわらず、その要求をうけいれた。シチリア島では同時に、自治をもとめる革命運動がおこっていた。その後、21年のライバハでの列国会議の決定で、オーストリアはフェルディナンドを絶対君主の地位に復帰させた。25年にフェルディナンドの子フランチェスコ1世が後をつぎ、30年フェルディナンド2世がその後をついだ。

1843年以降、イタリアの愛国主義者マッツィーニによる共和国構想が、イタリア南部で強い影響力をもった。48年のはじめにシチリア島民は反乱をおこし、島民に立憲議会制をあたえることをフェルディナンド2世にみとめさせたが、島民はこれだけでは満足せず、フェルディナンドの退位を宣言した。フェルディナンドは、ナポリ領内では反動派の支援をうけて革命運動をおさえることに成功した。同年9月、彼の軍隊がシチリア島に入り、翌49年5月パレルモが降伏したことで、シチリア島の革命はおわった。

1859年、フェルディナンド2世の子フランチェスコ2世が後をついだ。60年に北イタリアがオーストリアの支配から解放されたのち、イタリア人の民族主義者ガリバルディは1000人の義勇兵とともにシチリア島に上陸し、島を制圧した。61年にシチリアは新しいイタリア王国にくみいれられた。

しかし北イタリアのピエモンテの勢力がひきいる統一政府は、南部に対して理解をしめさず、重税と徴兵をともなった中央集権化政策をとった。南イタリアの不満は大きくなり、1866年にパレルモで反乱がおきたが、失敗におわった。87~91年と93~96年には、シチリア生まれのクリスピが首相だったが、北部と南部の関係はよくならなかった。労働者と農民は団結して反王国運動を展開したが、クリスピは94年シチリアに戒厳令をしいた。相互不信をつのらせた南北関係は、イタリアが第1次世界大戦に参戦した1915年になってもつづいた。

戦後の1922年、ファシストが政権をうばいとると、ムッソリーニはマフィア撲滅運動にとりかかり、きびしくとりしまった。第2次世界大戦中の43年7月9日、10日の夜、アメリカ、カナダ、イギリスの連合軍は北アフリカからシチリア島に上陸、その38日後、シチリアを制圧した。この上陸作戦はヨーロッパ進攻の最初の作戦で、ムッソリーニの失脚と、その数週間後のイタリア政府の降伏をもたらした。

4. 第2次世界大戦後の発展

1948年の憲法のもとで、シチリアはイタリアの特別自治州となり、大きな自治権があたえられた。州議会は、選挙でえらばれる議員で構成され、州知事を長とする。

シチリアでは工業化がすすまず、あまった労働力をうまく吸収してこられなかった。そのため、多くのシチリア人は北イタリアやドイツ、スイスに移民し、南北アメリカやオーストラリアにもわたっている。同時に、シチリアではマフィアがふたたび力をもりかえし強い影響をあたえている。マフィアは現代のイタリアにとって、常に深刻な問題となっている。