| エクアドル | 項目ビュー | ||||
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| VII. | 歴史 |
エクアドルの太平洋岸でおこったバルビディア文化は、前3000年ともいわれるアメリカ大陸最古の土器文化とされ、「バルビディアのビーナス」とよばれる女性土偶が数多く発見されていることでも知られる。その後にみられる古代の建造物の遺跡は、中央アメリカのマヤ文明と関連があると考えられている。のちのインカ文明をふくめ、いずれも文字による記録はのこされていない。インカ文明はペルーのクスコからティティカカ湖周辺を中心に発展していた。インカ帝国は、15世紀後半にはエクアドルの先住民部族を支配しており、初期のスペイン人侵略者にとって大きな軍事的障害となっていた。
| 1. | スペインの支配 |
1526年バルトロメ・ルイスにひきいられたスペイン人一行が現在のエクアドルの海岸にはじめて上陸した。32年、ピサロが指揮するスペイン人がこの地に侵入してインカをほろぼし、2年後、一帯を支配下においた。ピサロは40年12月、弟のゴンサロをキトの総督に任命した。その直後、ピサロは暗殺され、ゴンサロはスペインに反旗をひるがえして単独支配をつづけたが、48年4月、スペイン軍はハキハワナでゴンサロ軍をやぶり、ゴンサロを処刑した。
エクアドルの地域は最初、16世紀スペインのアメリカにおける二大行政区のひとつペルー副王領(→ 副王制)にふくまれたが、18世紀にはヌエバグラナダ副王領になるなどの変遷をたどった。
スペインに対する最初の蜂起(ほうき)は1809年におこった。ボリーバル将軍の副官スクレにひきいられた解放軍が最終的にスペイン軍を打破したのは22年で、エクアドルは現在のベネズエラ、パナマ、コロンビアをふくむグランコロンビアの南部領域となった。
| 2. | 独立 |
1830年、エクアドルは独立した。初代大統領フロレスは独立戦争の英雄で、キトの保守派を代表した。33年、キトの保守派とグアヤキルの自由派の間で内戦がおこった。これは長期にわたる抗争の始まりだった。この抗争の中でエクアドルの歴史上有名な3人の独裁者が誕生した。保守党のフロレス、モレノと自由党のアルファロである。アルファロがふたたび大統領の座についた1907~11年に、比較的リベラルな新憲法がさだめられた。
エクアドルは第2次世界大戦では連合国側についた。1944年、自由党のアロヨ・デル・リオにかわって保守党のベラスコ・イバラが大統領にかえりざいた。45年、国際連合(国連)の原加盟国となった。同年12月31日に新憲法が公布され、この憲法は67年までつづいた。
1947年ベラスコが軍事クーデタで政権をおわれた直後に反革命がおこり、フリオ・アロセメナが臨時大統領となり、翌年6月、元駐米大使プラサ・ラソが大統領に選出された。同年、ボゴタで開かれた第9回米州諸国会議に出席し、米州機構憲章に調印した。
長期にわたってつづいてきたペルーとのアマゾン地域での国境紛争が1941年に再燃した。42年には新国境を画定するリオデジャネイロ議定書に調印するが、50年、60年にも紛争は再燃した。リオデジャネイロ議定書を、エクアドルは強制されたもので無効と主張しつづけ、その後も武力紛争などがおきた。
| 3. | 不安定な政局 |
1952年ベラスコは、左右両派連合の候補者として3度目の大統領選に出馬して当選、56年まで政権を維持した。56年の大統領選では、保守党のポンセ・エンリケスが自由党候補者をやぶった。60年の大統領選では、無党派の候補として立候補したベラスコが、ポンセ政権の保守主義的経済政策を痛烈に批判して広範な改革をおこなうことをうったえて当選した。しかし、効果的な改革プログラムをしめせなかったため、61年11月、辞任においこまれた。その直前、彼はアメリカから10年間にわたり援助をうけることを約束した「進歩のための同盟」文書に署名した。
ベラスコの後をアロセメナ・モンロイ副大統領がついだが、彼も長期政権を維持することができず、1963年7月、農地改革をふくめた経済、社会改革をとなえる軍部政治委員会にとってかわられた。64年、軍部政治委員会は「進歩のための同盟」協議会に開発10カ年計画を提出し、開発プロジェクトへの借款交渉をはじめた。まもなくそれは莫大(ばくだい)な財政赤字をもたらしたため、65年7月、2週間の暴動ののち、反政府派がうけいれやすい内閣が成立したが、政治的不安定はつづいた。66年3月、反政府デモが全国的な暴動に発展し、軍部政治委員会は政権の座からおろされた。
1966年11月まで暫定政権がつづいたが、新憲法制定をめざしておこなわれた総選挙で成立した議会は、アロセメナ・ゴメスを大統領に選出した。アロセメナ政権は多くの反対にあいながらも、67年5月、新憲法を発布。翌年6月、新憲法のもとで大統領選挙がおこなわれ、ベラスコがかえりざいた。ベラスコの第5期政権は成功しなかったが、70年まで軍部の協力を背景に独裁的支配がつづいた。72年、ふたたび軍部がクーデタをおこし、ベラスコをアルゼンチンに追放し、クーデタの指導者ロドリゲス・ララ将軍が大統領に就任した。
| 4. | 新たな繁栄 |
新たな政権は農業、住宅、工業に重点をおいた経済5カ年計画を作成した。1972年、アメリカの会社が開発した新油田から産出された原油がはじめて輸出され、エクアドルはベネズエラについでラテンアメリカで2番目の石油輸出国となった。石油は外貨を獲得し、外国人の投資をふやしたが、同時にインフレがおこり、貧富の差が拡大した。
1976年、ロドリゲス大統領は退陣し、ポベダ・ブルバーノ海軍中将を議長とする執政評議会がひきつぐことになった。以後、数年間、インフレ圧力は弱まり、78年には新憲法に対する国民投票と大統領選挙がおこなわれた。79年4月、ハイメ・ロルドス・アギレーラが大統領となり、新憲法が発効した。
| 5. | 経済の低迷 |
1981年5月、ロルドス大統領は飛行機事故で死亡し、弟のレオン・ロルドス・アギレーラが副大統領となり、元副大統領のウルタード・ラレアが大統領となった。84年5月の大統領選では、保守派の実業家レオン・フェブレス・コルデロ・リバデネイラが決選投票で左派候補をやぶった。フェブレス・コルデロ政権は頻繁にくりかえされる軍部の反乱に手をやいた。
1988年の大統領選では、民主左翼(ID)のロドリゴ・ボルハ・セバジョスが決選投票の末、大統領に選出された。また92年8月の選挙では、キリスト教社会党(PSC)からわかれた共和連合党のシスト・ドゥラン・ベジェンが大統領になった。ドゥラン政権は国営企業の民営化をすすめ、石油会社ペトロエクアドルを民営化する政策をとった。その他の政策としては、未利用の土地を貧農に解放せずに売却するという方針の農地改革をおこなおうとし、広範な反対運動にあった。
1994年の議会選挙ではドゥランの保守的政策への反対票が多かったが、同年の国民投票ではドゥランの提案した憲法改革案の大部分が承認された。95年1月、アマゾン地域でペルーとの国境紛争が再燃し、一時停戦協定がむすばれたものの、両国は事実上断絶関係にあった。しかし、リオ・グループの仲介もあり、97年から国境画定交渉がはじまり、98年10月に和平協定に調印し、99年5月には最終的に国境が画定している。
| 6. | つづく政局の混乱 |
1996年7月に、ドゥラン大統領の任期満了にともなう大統領選挙がおこなわれ、中道左派のロルドス党(PRE)のアブダラ・ブカランが貧困層の救済などを公約にかかげて当選した。ブカラン大統領は、前政権の緊縮政策に立脚した新自由主義経済政策を継続。しかし、97年2月、放漫財政や公共料金の大幅値上げなど政府の経済政策への不満が増大し、ゼネストで首都は混乱した。国会は大統領罷免を決議したのにつづき、副大統領を暫定大統領に選出。軍部が事態収拾にのりだし、2日後にはアラルコン国会議長を暫定大統領に選出したが、その後も政局の混乱はつづいた。大統領罷免手続きに関して憲法に明確な規定がないことが混乱をまねいたとして、97年11月、憲法改正のための暫定国民議会が設置された。98年に施行された改正憲法では、議会は内閣の解散権をもたないことが規定され、大統領の罷免権に関しては、(1)審議開始に議会の4分の1以上が賛成すること、(2)大統領が憲法にしるされている罪をおかしていること、(3)罷免に議会の3分の2以上が賛成することが法制化された。
1998年の大統領選挙では人民民主(DP)のジャミル・マワが当選、8月に就任した。マワ大統領は2000年1月に非常事態宣言を出し、通貨暴落による経済破綻(はたん)を回避するために自国の通貨を米ドルにかえるドル化政策をうちだした。しかし、まもなく先住民インディオや労働者らが首都に集結してはげしい抗議デモがおき、それに軍部がくわわってクーデタに発展した。マワ大統領は辞任をこばんだが結局辞任し、まもなくグスタボ・ノボア副大統領(無所属)が新大統領となった。
ノボア大統領は就任後すぐにドル化政策を実行、2000年3月に経済改革基本法を制定し、為替リスクの回避とインフレの終息をはかった。政情不安はつづき、翌01年2月には、IMF(国際通貨基金)の緊急援助をうけるための公共料金値上げなどに反対する先住民たちが首都で大規模な抗議行動をくりひろげ、大統領は全土に非常事態を宣言したが、先住民と政府は対話をつづけ、運動は収束にむかった。01年6月、ノボア政権は消費税率を12%から14%へひきあげ、IMFの融資条件にこたえたが、同年8月に憲法裁判所がこれを違憲としたため、消費税は12%にもどった。
2002年11月にノボア大統領の任期満了にともなう大統領選挙の決選投票がおこなわれ、愛国的社会1・21(PSP)から出馬した元陸軍大佐のルシオ・グティエレスが当選した。グティエレスは2000年1月にマワ大統領を失脚させたクーデタの中心人物のひとりで、貧困対策や汚職の撲滅をかかげ、先住民や労働組合に支持された。03年1月に就任したグティエレス大統領は、先住民組織政党のパチャクティク(PNP)と連立をくみ、外相ポストなどをあたえた。しかし、IMFとの合意による財政緊縮政策をすすめる大統領とパチャクティクは、社会保障や労働問題などをめぐってしだいに溝を深め、同年8月にパチャクティクは連立政権を離脱、政権基盤は弱体化した。国内経済は、緊縮財政の効果もあって03年の物価上昇率が6.1%にさがり、財政も黒字目標を達成した。
2004年に入ると、コロンビアやペルーとともにアメリカとの自由貿易協定(FTA)交渉をはじめ、輸出競争力強化のために積極的にうごいた。そして緊縮財政政策の一環として、ガソリンや電気料金の引き上げなどをおこなった。しかし、これに反対するデモがおこるなど、国民に財政政策や親米的な政策に対する不満が高まった。12月には、政権基盤強化をはかって、最高裁判事のほぼ全員を息のかかった判事にいれかえる人事をしたために野党が強く反発、側近のあいつぐ不正などもあって、05年4月、ついにキトを中心に数万人規模の抗議デモがおき、死者も出る衝突となった。結局、グティエレス大統領は国会で罷免され、政権発足から2年4カ月で失脚し、ブラジルに亡命した。後任大統領には憲法の規定でアルフレド・パラシオ副大統領が昇格した。
パラシオ政権は、小選挙区制導入などの政治改革やインフラ整備などを就任時の重点施策とし、経済政策では、経済成長と雇用促進を優先課題として2000年以来のドル化政策も継続した。05年10月、亡命していたグティエレス前大統領がコロンビアから帰国し逮捕された。06年には、アメリカの石油会社オキシデンタル・ペトロリアムが政府承認をうけずに石油を転売していたことが判明、アメリカとの自由貿易協定交渉に反対する先住民組織などが反発してはげしいデモがおきた。これを機にパラシオ政権は同社との契約を破棄、そのためにアメリカとの自由貿易協定交渉も中断した。
パラシオ大統領の任期満了にともなう大統領選挙の決選投票が2006年11月におこなわれ、左派のラファエル・コレア元経済相が、制度的革新国民行動党(PRIAN)をひきいる親米右派のアルバロ・ノボアをやぶって当選した。コレアは、パラシオ政権発足時に大学教授から経済相に起用されたが、石油収入をもっと社会政策にまわすようにと、債務返済を優先する世界銀行などを批判、4カ月たらずで辞任においこまれた。選挙期間中もアメリカとの自由貿易協定締結やドル化政策に反対し、アメリカ主導のFTAA(米州自由貿易地域)に対抗するメルコスール(南米共同市場)への正式加盟にも積極姿勢をしめした。また、反米で知られるベネズエラのチャベス大統領ともしたしく、天然資源の国家管理強化や国内のアメリカ軍の基地使用延長反対などを主張している。
| 7. | 改憲によって反米路線を推進するコレア政権 |
2007年1月に不安定な内政をかかえて船出したコレア政権は、新自由主義というアメリカの強い影響のもとにある経済を国民にとりもどし、新しい政治体制づくりをするとして、憲法改正のための制憲議会設置を問う国民投票を4月におこなった。富裕層を中心とする保守派が支配する議会の反対の声をおしきっての国民投票だったが、結果は賛成が大きくうわまわった。その後、制憲議会で新憲法草案が可決されたのをうけ、08年9月にはこの憲法改正案の是非を問う国民投票を実施、国民に承認されて新憲法は公布された。
この新憲法は「21世紀型社会主義」を標榜するといわれ、経済格差是正や大統領権限の強化、国家による資源管理強化がもりこまれた。もっとも重要な条項は大統領権限の強化とされ、議会解散権の大統領への付与や大統領の2期連続再選(1期4年)がみとめられた。2009年4月、この憲法にもとづいて大統領選挙と総選挙がおこなわれ、コレア大統領が新憲法下での初代大統領に当選した。