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ナポレオン戦争
I. プロローグ

1799~1815年に、ナポレオン1世支配下のフランスとヨーロッパ諸国との間でたたかわれた一連の戦争で、フランス革命政府とヨーロッパ諸国との間の革命戦争(1792~99)にひきつづいておきた。

II. 第1次対仏大同盟

フランス革命の中で生まれた共和政府に対し、1793年、オーストリア、プロイセン、イギリス、スペイン、オランダ、サルデーニャ王国は対仏大同盟をむすんで対抗した。ナポレオンは96年に総裁政府からイタリア遠征軍司令官に任命され、その地のオーストリア軍を1年たらずのうちに撃破し、オーストリアとカンポ・フォルミオの和約をむすんだ。そのあと、英領インド攻撃の拠点とするため、エジプトの征服にむかったが、この作戦には失敗した。これらの戦闘は、ナポレオンが支配者となる以前の、革命政府のもとでの戦闘であるが、ナポレオン戦争の第1段階とされる。

III. 第2次対仏大同盟

ナポレオンの北イタリア遠征によってオーストリアが敗北したため、第1次大同盟は崩壊した。しかし、ナポレオンのエジプト滞在中の1798年12月24日に第2次大同盟が結成され、ロシア、イギリス、オーストリア、ナポリ王国、ポルトガル、オスマン帝国が参加した。主要な戦闘は、99年に北イタリアとスイスでおこなわれ、北イタリアでは、ロシアの将軍スボロフ伯指揮下のロシア軍とオーストリアの部隊が優勢で、マニャーノ、カサーノ、トレビア、ノービでフランス軍はやぶれた。この結果、97年にフランスが樹立した保護国、チザルピナ共和国は崩壊し、これ以前にフランスが獲得していた成果がほぼ無に帰した。

スイスにおいてはフランス軍が優勢で、1799年9月末、マセナ将軍の指揮するフランス軍は、コルサコフ将軍ひきいるロシア軍をやぶった。北イタリアのスボロフ軍はコルサコフ軍に合流するために、アルプスを越えてスイスにかけつけたが、コルサコフ軍はすでに壊滅しており、フランス軍に攻められて、山中に逃げたスボロフ軍は、飢えと寒さにより戦闘能力を失った。この時にオーストリアの協力をえられなかったことで、ロシアは第2次大同盟を脱退した。

エジプトから帰還したナポレオンは、1799年11月のクーデタで総裁政府をたおして第1執政となり、事実上の独裁を開始した。和平の実現のために、ナポレオンは講和を申し入れたが、同盟国側に拒否され、そこで、アルプスを越えて北イタリアに進撃、1800年6月のマレンゴの戦でオーストリア軍を打破した。またモロー将軍ひきいる部隊も、12月、バイエルンのホーエンリンデンでヨーハン大公のオーストリア軍をやぶり、さらにオーストリアのリンツにまで軍をすすめた。

敗北したオーストリアは、1801年2月、リュネビルで和約に応じ、ライン川の左岸をフランスに譲渡し、フランスの保護国としてバタビア(オランダ)、ヘルベティア(スイス)、チザルピナ(北イタリア)、リグリア(アドリア海沿岸)の各共和国を再確認した。この和約により第2次大同盟はくずれ、イギリスだけは対フランス戦争をつづけたが、1802年3月にアミアンの和約が成立、戦争は終結した。

IV. 第3次対仏大同盟

ナポレオンはイギリス制覇をねらって、ドーバー海峡に面したブローニュに大軍を集結した。これに対してイギリスは、オーストリア、ロシア、プロイセンとともに第3次大同盟を結成(1805年4月)、ふたたびフランスと開戦した。フランス軍はウルムの会戦でオーストリア軍を破り、ドナウ川沿いにすすんでウィーンを陥落させた。1805年12月に、ロシア皇帝アレクサンドル1世とクトゥーゾフ将軍のひきいるロシア軍がオーストリア皇帝軍に合流、ナポレオン指揮下のフランス軍とアウステルリッツでたたかったが、この戦闘は「三帝会戦」の名でしられている。ナポレオンはこの戦闘に快勝し、プレスブルクの和約をむすばせ、第3次大同盟は崩壊した。

イタリアでもマセナ将軍がひきいるフランス軍がヨーハン大公のオーストリア軍をやぶった。ナポレオンは、1806年に兄ジョゼフをナポリ王とし、弟ルイをオランダ王とした。またドイツにおいては、諸邦をまとめてライン同盟を結成させて、フランスの保護下におき、これによって神聖ローマ帝国は崩壊した。

ナポレオンはヨーロッパ中枢部を制圧したが、海上においては、イギリスに上陸しようとしたフランス・スペイン連合艦隊が1805年10月、ネルソン提督ひきいるイギリス艦隊にトラファルガーの海戦でやぶれ、制海権をうしなった。翌年11月から、ナポレオンは、大陸諸国にイギリスとの通商関係を断絶させる大陸封鎖を命令するが、海上での支配権をうしなったことで、この政策の遂行は困難になった。

V. 第4次対仏大同盟

ドイツでのナポレオンの勢力が強くなったことから、1806年、プロイセンはイギリス、ロシア、スウェーデンなどと第4次大同盟を結成し、対フランス戦争を開始した。フランス軍は、10月、イエナとアウエルシュテットでプロイセン軍を撃破し、ベルリンに入城した。このフランス軍の勝利によって締結されたのがティルジットの和約で、プロイセンはバルト海に面した小国となり、ロシアは、ポーランドをうしなった。ここにはフランス保護下のワルシャワ大公国がつくられ、プロイセンの分割によって生まれたウェストファーレン王国とともに、ナポレオンの弟ジェロームに支配されるようになった。

また、スウェーデンでは、国王グスタブ4世が退位し、叔父がカール13世として即位、またフランスの元帥ベルナドットがカール13世の王位継承者に指名された。ベルナドットは1818年にカール14世としてスウェーデン王位につき、この家系は、スウェーデン王家として現在もつづいている。

VI. 第5次対仏大同盟

ナポレオンの支配が、ヨーロッパにひろくおよんだ1808年ごろから、ナポレオン戦争の意味合いがかわった。それまで封建領主に支配されていたヨーロッパ諸国の民衆にとってナポレオン軍は解放軍だった。しかし、民族的自覚と自由にめざめた彼らは、しだいにナポレオンの占領と独裁的支配に対して、反感をおぼえるようになっていった。

ナポレオンが最初に民衆の反抗に遭遇したのはスペインにおいてだった。1808年、ナポレオンはブルボン家の内紛を利用して、カルロス4世とその子フェルナンド7世を追放し、兄ジョゼフをスペイン王にした。しかし、スペイン人の反抗に直面してジョゼフはマドリードを逃亡、これによりスペイン独立戦争(1808~14)がおきた。スペイン側はのちのウェリントン公ウェルズリーの指揮するイギリス軍の支援をうけて健闘するが、なによりもフランス軍はスペイン民衆のゲリラ戦に苦しめられた。大きな犠牲をうけたフランス軍はゲリラに対して残虐な報復をおこなった。画家ゴヤの作品に、この戦争の情景がえがかれている。

ナポレオンがスペインで苦戦している間の1809年、イギリスとオーストリアが第5次対仏大同盟を結成した。オーストリアはスペイン人の反抗をみて、ドイツ人の反ナポレオン感情による結束を期待したが、プロイセンの参戦をはばまれて孤立した戦いを強いられ、ワグラムの戦でフランス軍に敗北した。同年10月のシェーンブルンの和約で、オーストリアの領土は縮小され、第5次大同盟は解消した。ナポレオンが、最初の妻ジョゼフィーヌと離婚し、ハプスブルク家出身でオーストリア皇帝の娘マリー・ルイズと結婚したのは、この和約のあとである。

VII. 第6次対仏大同盟

1810年末、ロシアが経済的な事情から大陸封鎖を解除したのに対して、ナポレオンは封鎖の継続を要求したが、ロシアが拒否したため、12年にロシア遠征を開始した。ナポレオン自身が指揮する主力軍は、スモレンスク(8月)、ボロジノ(9月)でロシア軍をくだし、9月にモスクワに到着した。

しかし、ロシア軍の指揮官クトゥーゾフ将軍はモスクワの市街地に火をはなって退却。ナポレオン軍は、冬の到来の中で駐屯が困難になったため、撤退を開始したが、寒さと飢えの中をロシア軍に追撃され、壊滅状態で帰還した。出発時に50万をこえる兵力であったナポレオンの「グラン・タルメ(偉大なる軍)」は、ロシア国境到着時に約10万へり、モスクワからの退却後、ロシア国境にたどりついた兵員はわずか5000にすぎなかった。

1813年、プロイセンはナポレオンに対して「解放戦争」を開始し、第6次大同盟が結成される。ここにはかつてフランス帝国元帥だったベルナドットがスウェーデン軍をひきいて加わっていた。フランス軍は、10月、ライプツィヒにおける「諸国民戦争」で敗北し、ライン川をわたってフランス国内に退却した。これによって、ヨーロッパにおけるナポレオンの支配体制は崩壊。翌14年、ロシア、オーストリア、プロイセン、イギリスの同盟軍は国境をこえて北フランスにはいり、3月にはパリを陥落させた。同年4月ナポレオンはフォンテンブロー条約により退位し、地中海のエルバ島に幽閉されることになった。

VIII. 第7次対仏大同盟

第6次大同盟諸国による会議がウィーンで開催され、ヨーロッパの戦後体制が検討されたが、各国間の利害調整は難航した(ウィーン会議)。いっぽう、フランスでは、王位についたルイ18世の政治指導が、ナポレオン戦争後の不況に苦しむ国民に不満をあたえた。こうした状況をみてナポレオンは、1815年3月、エルバ島を脱出して、ふたたび帝位についた。同盟諸国は軍を再編成し、ウェリントン公ひきいるイギリス軍などを派遣した。同盟軍とナポレオン軍はベルギーのワーテルローで決戦をおこなった(ワーテルローの戦)。6月18日、ナポレオンは敗北し、ここにナポレオン戦争は終結した。

ナポレオン戦争は、軍事史においても画期的なものだった。ナポレオンは、戦場での戦列の組み立て方、砲兵・騎兵・歩兵部隊をたくみに組み合わせた用兵術、兵員と物資の補給の仕方など、戦略・戦術に関するすべての事項に自らたずさわって、近代戦の基本的な方式をつくりあげた。また、愛国心や忠誠心による士気の維持、軍功による昇進、軍事指揮官の養成など、軍隊組織のあり方についても、ナポレオンの方式は、やがて各国の模範とされた。ナポレオン戦争を分析して、近代的な軍事論を展開したのは、ナポレオンに苦汁をのまされたプロイセン軍のクラウゼウィツだった。

なお、パリの西部、エトワール広場にある凱旋門には、ナポレオン戦争に従軍したすべての将軍の名称と、ナポレオン戦争の戦闘の名称がしるされており、バンドーム広場の円柱には戦闘場面がえがかれている。また、ナポレオンの墓のあるアンバリッドには、ナポレオン戦争以来の戦争に関する博物館が併設されている。