ナポレオン戦争
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ナポレオン戦争
III. 第2次対仏大同盟

ナポレオンの北イタリア遠征によってオーストリアが敗北したため、第1次大同盟は崩壊した。しかし、ナポレオンのエジプト滞在中の1798年12月24日に第2次大同盟が結成され、ロシア、イギリス、オーストリア、ナポリ王国、ポルトガル、オスマン帝国が参加した。主要な戦闘は、99年に北イタリアとスイスでおこなわれ、北イタリアでは、ロシアの将軍スボロフ伯指揮下のロシア軍とオーストリアの部隊が優勢で、マニャーノ、カサーノ、トレビア、ノービでフランス軍はやぶれた。この結果、97年にフランスが樹立した保護国、チザルピナ共和国は崩壊し、これ以前にフランスが獲得していた成果がほぼ無に帰した。

スイスにおいてはフランス軍が優勢で、1799年9月末、マセナ将軍の指揮するフランス軍は、コルサコフ将軍ひきいるロシア軍をやぶった。北イタリアのスボロフ軍はコルサコフ軍に合流するために、アルプスを越えてスイスにかけつけたが、コルサコフ軍はすでに壊滅しており、フランス軍に攻められて、山中に逃げたスボロフ軍は、飢えと寒さにより戦闘能力を失った。この時にオーストリアの協力をえられなかったことで、ロシアは第2次大同盟を脱退した。

エジプトから帰還したナポレオンは、1799年11月のクーデタで総裁政府をたおして第1執政となり、事実上の独裁を開始した。和平の実現のために、ナポレオンは講和を申し入れたが、同盟国側に拒否され、そこで、アルプスを越えて北イタリアに進撃、1800年6月のマレンゴの戦でオーストリア軍を打破した。またモロー将軍ひきいる部隊も、12月、バイエルンのホーエンリンデンでヨーハン大公のオーストリア軍をやぶり、さらにオーストリアのリンツにまで軍をすすめた。

敗北したオーストリアは、1801年2月、リュネビルで和約に応じ、ライン川の左岸をフランスに譲渡し、フランスの保護国としてバタビア(オランダ)、ヘルベティア(スイス)、チザルピナ(北イタリア)、リグリア(アドリア海沿岸)の各共和国を再確認した。この和約により第2次大同盟はくずれ、イギリスだけは対フランス戦争をつづけたが、1802年3月にアミアンの和約が成立、戦争は終結した。