放送
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VI. 番組制作

アメリカではふつう、放送前にだされる予想視聴率で広告時間が売買される。そのため、どんな番組が大衆の人気をとるか予想する技量によって放送事業者の収入がきまってくる。

日本でも近年では、スポット広告の価格は視聴率に直接比例してきめられる。番組の視聴率が極端に下落するとスポンサーは提供を中止することもある。主要都市地域では毎朝前日の視聴率が調査会社からおくられ、局の担当者は大衆の関心の高いものに注目し、それをとりいれて番組をつくるので、各放送局の番組は似たものが多くなる。

1. 初期の商業ラジオ

研究者はアメリカの放送番組制作を4段階にわけている。第1段階は1920年代の商業ラジオの登場である。前例も経験もないので、放送事業家はどんな番組を人々がききたいのかわからなかった。初期のラジオ放送は品よく、かたくるしいもので、クラシック音楽やセミ・クラシック音楽、歴史ドラマなどを中心に放送した。コマーシャルは簡潔で控えめであった。

日本では終戦直後、GHQや政府に、民間のラジオは必要ないという意見があったが、結局1950年、NHKの民主的改組と民放の設立をもりこんだ電波三法が制定された。民放ラジオは初年度から好調な滑り出しをみせ、早々に黒字になった局が多かった。初期の民放ラジオは、NHKに対抗したオールラウンド編成で、ドラマ、クイズ、演芸、歌謡曲など大衆的娯楽番組をならべていた。

2. ラジオの黄金時代

アメリカのラジオの隆盛は1928年にはじまった。番組制作の第2段階はラジオの黄金時代で、アクション冒険物と芸人による寄席演芸風のコメディがラジオにあふれた。

1930年にはクロスレー聴取率会社が設立され、聴取率競争が進行しつつあった。大恐慌による経済停滞から第2次世界大戦へと社会情勢が緊迫化していく中、ラジオはいぜん好調で、人々は夜は家庭でラジオの娯楽番組や冒険物語にくつろぎ、戦争と恐慌の時代の緊張から解放された。

日本では1950年の朝鮮戦争による好況とスーパー受信機の普及により、ラジオの成長がつづいた。庶民感覚の娯楽番組、地元密着の情報番組、在野ジャーナリズムにたったニュース報道番組など、民放ラジオは聴取者に好感をもってうけいれられた。一方、NHKもこれに対抗して「とんち教室」「20の扉」「陽気な喫茶店」「夢声百話」「社会の窓」など強力な娯楽情報番組をそろえ、大衆路線をひろげた。

その中から「君の名は」の大ヒットが生まれた。民放とNHKとの競争は、結果的にはラジオをきく習慣を日常化した。1953年5月にはじまった「聴取率調査」では、高聴取率番組はNHKに多かったが、54~55年には、全日聴取率でラジオ東京がNHKをぬくまでになった。

朝鮮戦争がおわった1953年がテレビ放送の始まりだった。53年のラジオ広告費45億円、テレビ1億円、ラジオはテレビの出現を前にして全盛期であった。

3. 初期のテレビ放送

1945年から50年代の初めまでがアメリカの番組制作の第3段階で、この時期テレビは爆発的な成長をとげた。初期のテレビは「絵付きラジオ」とみなされ、ラジオから経験者がひきぬかれ、多くの芸人が番組ごとテレビにうつった。

この時期、ラジオは居間から寝室、浴室、車へと場所をかえ、放送内容はポピュラー音楽とディスクジョッキー形式へ方向転換した。ネットワークは存在価値をうしない、地域向けのメディアとなった。1960年代には、FM局の高性能(ハイファイ)ステレオ放送が関心をよび、FMラジオは大いにのびた。

日本でも初期のテレビは多くを先行メディアの手法に依存した。ラジオ人気番組の共用、新聞取材システムや映画ニュースの表現スタイルにならったニュース報道など、種々の先行メディアのソフトを「借り着」してスタートした。

テレビの成長を警戒する映画会社は、1953年、テレビに作品を供給しないという5社協定をむすび、映画スターはテレビ出演ができなかった。テレビは歌舞伎・新派・新劇の俳優、落語家などにたよらざるをえなかった。

テレビのお茶の間進出に対し、ラジオはテレビの未開拓ゾーンである朝・昼・深夜の時間帯に活路をもとめた。1955年に登場したトランジスターラジオは、個人聴取を促進し、これにあわせてラジオは音楽・ニュース・おしゃべりで構成するワイド番組を登場させた。ラジオ東京が57年に開始した「東京ダイヤル」はその代表的番組のひとつである。

1969年「NHKFM」につづき、「FM愛知」が開局、70年には大阪、東京、福岡にFM局が開局し、その収入は75年にはスタート時の4倍になった。

4. テレビの黄金時代

アメリカのテレビの黄金時代である第4段階には、テレビメディアに順応する、新しいスターと番組があらわれはじめた。シチュエーション喜劇「アイ・ラブ・ルーシー」に主演したルシール・ボールとデジ・アルナーズはその典型である。この時期バラエティショーがもっとも人気のある番組で、なかでもエド・サリバン司会の「街の有名人」(日本の放送タイトルは「エド・サリバン・ショー」)は数百万の人々がかならずみる番組となった。サリバンはプレスリーやビートルズのような大衆的人気のあるスターを紹介し、長寿番組にした。もうひとつの主要番組は西部劇で、「ガンスモーク」などは長く放送された。

1950年代の後半にはアクション冒険番組が主要人気番組となった。60年代のテレビ・ネットワークは映画を再編集して放送することを呼び物とし、それにテレビ向けの2時間ドラマとがプライムタイムの主要部分を占めた。

日本では放送設備の改良と演出技術の向上により、テレビ固有の番組制作手法や、テレビ的表現の開拓の動きが、ニュース、ドキュメンタリー、ドラマなどの分野ではじまった。図版や文字パターンを活用した「見せるニュース」手法や、NHKの「日本の素顔」に代表されるドキュメンタリー手法の開拓などである。芸術祭賞をとったラジオ東京(現TBS)のドラマ「私は貝になりたい」(1958)は、導入されたばかりのVTRを利用、生放送とくみあわせて陰影にとんだ映像をつくった。5社協定のため日本映画がつかえなかったので、その対策としてアメリカ製テレビドラマが導入され、1956年にラジオ東京が放送した「カウボーイGメン」を皮切りに、続々とアメリカ物が登場した。「アイ・ラブ・ルーシー」「アンタッチャブル」「ペリイ・メイスン」「ガンスモーク」「サンセット77」などである。

日本のテレビは1960年にカラー放送をはじめ、61~62年に全日放送を編成、63年には衛星中継実験に成功するなどその媒体価値を向上していった。