| 検索ビュー | アイルランド | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
ヨーロッパ大陸の北西、北大西洋上のアイルランド島にある共和国。正式国名はアイルランド、アイルランド語ではエーレ。島の6分の5を占め、同島北部アルスター地方の一部は、イギリスに属する北アイルランドとなっている。面積は7万273km²。人口は415万6119人(2008年推計)。首都はダブリン。
| II. | 国土と資源 |
アイルランド東部の海岸は出入りが少なく、深い入り江もほとんどないが、西海岸はフィヨルドやけわしい断崖(だんがい)、無数の島に縁どられている。中部から東部にかけての平野と島の周辺部を複雑な形の山系がへだてている。おもな山地は北西部のネフィンベグ山、南西部のカハ山脈、南部のボガラ山地、東部のウィックロー山地など。最高峰は島の南西部にあるキャラントゥーアル山で、標高1041m。低地には湖沼が多い。主要河川はアーン川とシャノン川。シャノン川は中央平野をうるおし、大西洋にそそぐ。シャノン川の半分近くを、アレン湖、リー湖、ダーグ湖が占める。
| 1. | 気候 |
大西洋からの暖かくしめった風の影響をうけ、冬の平均気温は4.4~7.2°Cで、ヨーロッパ内陸部や北アメリカ大陸東岸の同緯度地方より14°Cも高い。一方、夏の平均気温は15~16.7°C、同緯度地方より4°Cほど低い。年降水量は1016mm。
| 2. | 植生と動物 |
アイルランドの動物は、イギリスやフランスとほぼ同じであるが、種類は少ない。アイルランドオオジカやオオウミガラス(→ ウミガラス)はすでに絶滅している。島の開発がすすむにつれ、クマ、オオカミ、ヤマネコ、ビーバーなどはきえ、小型げっ歯類、小型の鳥類が142種(2000年)生息している。爬虫類の現存種はトカゲ1種だけである。植生はスゲ、トウシンソウ、シダなど牧草が中心。
| III. | 住民 |
住民の95%近くがアイルランド人である。アイルランド人はケルト系(→ ケルト人)といわれているが、アングロ・サクソン人、ノルマン人なども祖先にふくまれると考えられている。
| 1. | 人口の特徴 |
人口は415万6119人(2008年推計)で、人口密度は60.3人/km²。1840年代初頭のアイルランド島には800万人以上がすんでいたが、45~46年の大飢饉(だいききん)で100万人が死亡し、120万人がアイルランド島をはなれたと推測されている。アメリカはアイルランド人移民の最大の受け入れ国となった。20世紀初頭の人口は全体で450万人にまでへり、その後も移民によって1960年ごろまで人口は減少の一途をたどったが、近年は経済が好調に転じたことから、他のEU(ヨーロッパ連合)諸国からの移住者もふえ、増加率が高い。人口の60%が都市部に集中している。
| 2. | 行政区分と主要都市 |
アイルランドは歴史的な地方であるレンスター、マンスター、コノート、およびアルスターの一部からなり、行政上、26の県(カウンティ)と5つの特別市(ダブリン、コーク、ゴールウェー、リマリック、ウォーターフォードの5都市とその都市圏)にわけられている。最大の都市は首都ダブリン。
| 3. | 宗教と言語 |
イギリス支配時代に抑圧されたカトリック信仰は、アイルランドのナショナリズムに大きな役割をはたしてきた。独立後の憲法で信教の自由は保障されているが、今も住民の88%がカトリック教徒である。言語は、憲法では第1公用語がアイルランド語、第2公用語が英語とさだめられているが、実際には、住民のほとんどが英語を話すのに対して、アイルランドの伝統的な言語であるゲール語系のアイルランド語(→ケルト語派の「アイルランド語」)を日常的につかっているのは一部の地域にすぎず、国はアイルランド語の積極的使用を奨励している。
| 4. | 教育 |
古くから、アイルランドは西ヨーロッパの教育に大きな影響をあたえていた。6~8世紀には、1000人近くのアイルランド人宣教師がイングランドとヨーロッパ大陸にわたってキリスト教をつたえた。彼らは中世初期を通じて多くの修道院を設立し、文化の振興に寄与した。大学教育は、1592年のトリニティ・カレッジ(ダブリン大学)の設立をもってはじまる。1908年にダブリンで創設されたアイルランド国立大学はコーク、ゴールウェーなどにカレッジをもっている。
義務教育は6~15歳で、私立学校をのぞいて小学校から大学まで教育費は国の負担。初等・中等教育を通じてアイルランド語は必修科目となっており、アイルランド語だけで授業をおこなう学校もある。高等教育機関への入学者数は17万6296人(2001-2002年)である。そのほか技術訓練校や、農村での農業教育をおこなう冬季授業のネットワークもある。
| 5. | 文化 |
アイルランドの最初の居住者はおそらく新石器人で、つづいて青銅器をたずさえた地中海人や、ピクト人がやってきた。彼らがつくった前2000~前1000年のドルメンやメンヒル、石の砦(とりで)などが数多くのこされている(→ 巨石記念物)。鉄器時代には、ケルト人の侵入(前350年頃)によって新しい文化がもたらされた。ケリー県のオガム文字による5世紀の石碑文に、最古のケルト語(ゲール語)の跡をみることができる。5世紀にはパトリックがアイルランドにキリスト教をつたえた。
| 5.A. | 文学 |
世界文学でもアイルランドの貢献は大きい。ゲール語の二大伝説群は、クホリン(クフーリン)、フィン・マクウァルなどの神話的な英雄の物語をつたえている(→ ケルト神話)。長くきびしいイギリス植民地の時代をへて、アイルランドはスウィフト、ゴールドスミス、ショーなどの英語による大作家を生んだ。20世紀に独立運動とむすびついておこったアイルランド文芸復興では、イェーツやオケーシーを輩出し、ジョイスは20世紀ヨーロッパ文学に多大な影響をあたえた。不条理劇作家のベケットもアイルランド出身。1995年にノーベル文学賞を受賞したヒーニーは、北アイルランドからダブリンに移住して、アイルランドをテーマにした詩を書きつづけている。→ アイルランド文学
| 5.B. | 美術 |
5~9世紀に、アイルランドの修道院では彩飾写本など世界的に有名な芸術品がつくられた。なかでも「ケルズの書」は中世でもっともうつくしいものとされる。こうしたアイルランド独特の教会美術はイギリス支配期に姿をけしたものの、17世紀以降は多くの著名なアイルランド人画家や彫刻家が輩出する。バレット、バレー、ホーンらは、1768年のロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの創立メンバーでもあった。オコナーは風景画家として知られ、マクライズは上院のロイヤル・ギャラリーにすばらしいフレスコ画を描いた。19世紀のアイルランド人画家の中では、ホーン(息子)とオズボーンが有名である。さらに時代がくだると、印象派のイェーツ、キュビストのジェレット、ステンド・グラス作家のホーンが世界的名声をかちとる。→ アイルランド美術
| 5.C. | 音楽 |
アイリッシュ・ハープ(→ ハープ)は12世紀からヨーロッパに知られていた。ハープ奏者としては盲目のオカロランが知られ、彼が作曲した200余りの歌の多くは、1720年にダブリンで発行されている。同じころ、ハープ演奏の保存と振興のために、フェイスとよばれる民謡フェスティバルがおこなわれるようになった。アイルランド民謡は子守歌から酒をたたえる歌まで幅広く、テンポやリズムもさまざまである。92年のベルファスト・ハープフェスティバルではバンティングが伝統的なアイルランド民謡を収集し、96年に発行した。アイルランドの大詩人ムーアも、1807年初版の「アイルランド歌曲集」の中でこれを使用している。アイルランドでは、18世紀になるまで古典音楽はあまり知られていなかった。作曲家としてはじめて国際的名声をえたのは夜想曲で知られるピアニストのフィールドである。ほかに、オペラ「ボヘミアの少女」の作曲家バルフや、テノールのマコーマックが知られる。
| 5.D. | 文化施設 |
図書館や美術館はダブリンに集中している。50万冊を所蔵するアイルランド国立図書館は、公立図書館としては最大であり、1601年に創設されたトリニティ・カレッジの図書館は、「ケルズの書」など280万冊を所蔵する。国立博物館はケルト美術やバイキング美術のコレクションで知られ、8世紀の「タラのブローチ」「アダックの聖杯」、12世紀の「コングの十字架」「聖パトリックの鏡」などを所蔵している。国立美術館では、アイルランド絵画、ヨーロッパ各地の名画が展示されている。演劇に対する関心も大きく、ダブリンのアベー座は20世紀初頭の世界演劇でひとつの拠点となった。
3月17日の聖パトリック・デーはアイルランド最大の祝日である。人気のあるスポーツは、ホッケーによく似たハーリングとサッカーに似たゲーリック・フットボールで、競馬も盛んである。
| IV. | 経済 |
アイルランド経済は、伝統的に農業中心だったが、1950年代半ばから工業化がすすんだ。70~80年代は公共投資拡大による赤字が累積して、一時は財政破綻(はたん)の危機に瀕(ひん)したが、政府主導ですすめられた外国資本の誘致と、ハイテク産業の発展によって、90年代半ばから経済は飛躍的な成長をとげた。
| 1. | 農業 |
アイルランドの国土の17.7%(2005年推計)が農耕地である。そのほか牧草地は多い。牛、ヒツジ、豚、馬などの畜産が盛んで、コムギ、オオムギ、カラスムギ、ジャガイモを中心にカブ、テンサイなども栽培される。
| 2. | 林業と漁業 |
木材の輸入依存をたちきり、また製紙業などへの原料供給のために、アイルランド政府は大規模な再植林計画を実行している。国土の森林の割合は9.5%(2005年)である。
開発がおくれていた漁業も、拡大しつつある。ニシン、タラ、サバ、カレイ、イセエビ、カキなどが魚介類輸出の大部分を占める。また、内陸の川や湖でもサケやマスがとれる。
| 3. | 鉱工業 |
1970年代から鉱業生産は大きくのび、ヨーロッパにおける亜鉛と鉛の主要輸出国のひとつとなった。天然ガスのほか、泥炭も燃料として利用される。
工業は1930年以降発展したものがほとんどである。肉缶詰、醸造および蒸留、製粉、精糖、乳製品、マーガリン、菓子、ジャムなどの食品加工、事務機器、電機、タバコ、ウール製品、繊維、衣料、家具、建築用材、石油精製、薬品などの工業がおこなわれる。とくに近年めざましい発展をとげているのは、コンピューターをはじめとするハイテク産業である。
| 4. | 通貨と銀行 |
アイルランド・ポンドが基本通貨単位であったが、2002年1月1日からEU(ヨーロッパ連合)の単一通貨ユーロの紙幣や硬貨が流通し、独自通貨は2月9日をもって法的効力をうしなった。アイルランド中央銀行は1942年創立。
| 5. | 商業と貿易 |
ダブリンとコークは、アイルランドの工業、金融、商業の中心である。代表的な港はダブリンで、コークは大西洋横断客船が発着する。そのほかダンレアラ、ウォーターフォード、ロスレア、リマリックなどの港がある。アイルランドは1973年にヨーロッパ共同体(EC。現EU)に加盟し、輸出市場を広げた。2004年の輸入額は623億米ドル、輸出は1043億米ドル。主要貿易相手国はイギリス、アメリカ合衆国、ドイツなど。主要輸出品は医薬品、コンピューター、ソフトウェア、機械・各種機器、畜産物など、輸入品は機械、各種機器、コンピューター、化学製品、石油および石油製品などである。
1970年代から積極的にとりくんできた観光事業も順調な伸びをみせている。
| 6. | 交通とコミュニケーション |
アイルランドの鉄道網は1919km(2005年)で、すべてアイルランド運輸公団の経営である。道路網は9万6602km(2003年)、内陸の航行水路は435km。シャノン、ダブリン、コークに国際空港があり、世界の主要各都市との定期便も出ている。電信電話は1990年代に民営化された。
| V. | 環境問題 |
伝統的に農業が国の経済の中心となってきたアイルランドでは、農業活動による環境破壊が深刻な問題となっている。この30年ほどの間に農業技術が発達した結果、農薬や化学肥料の使用量がふえ、農地から流出する水の汚染がすすんだ。水質汚染は河川や河口付近の海域にもおよんでいる。また土壌の流出や浸食が各地で問題になっている。アイリッシュ海の一部は、イギリスの投棄した核廃棄物で汚染されている。
生物多様性についてはとくに注目すべき点はない。しかし、渡り鳥をはじめとする野生生物の、ほかの地域にはあまりない貴重な生息地の宝庫といえる。海岸部には多種多様な湿地が広がり、水鳥などさまざまな鳥にとってかけがえのない生息地となっている。現在、もっとも深刻な危機にさらされているバイオームは、泥炭地である。これは一面を草におおわれた隆起性の天然の沼沢地で、何百年も前から泥炭の採掘地となっており、家庭ばかりでなく発電所でもこの泥炭を昔から燃料としてつかってきた。近代になって、とくに泥炭地を中心として植林計画がすすめられ、国土のおよそ5%に外来の針葉樹がうえられた。近年、政府はEU(ヨーロッパ連合)とともに、のこっている泥炭地の保全に力をそそいでいる。
アイルランドでは国立公園が5カ所あり、また森林公園12カ所をふくむ300カ所の森林が公的な管理の下におかれている。さらに、ユネスコの「人間と生物圏計画」にもとづく生物圏保護地区が2カ所ある。さらに、EUによる環境関連の指令にもとづき、国内20カ所を特別保護地域に、14カ所を生物圏保護地区に指定している。科学研究のためにもうけられた自然保護区など、ほかにも環境保全地区があり、すべてあわせると全国土の0.74%(2007年)がなんらかの形で保護されている。
| VI. | 政治 |
1937年憲法のもと、アイルランドは独立主権民主国家である。
| 1. | 行政 |
アイルランド憲法のもとでは、行政権は7~15名の閣僚からなる内閣にある。下院で指名され、大統領によって任命される首相が、政府の長をつとめる。各省の大臣は首相によって指名され、下院の承認をうけて大統領に任命される。国家元首は大統領で、7年ごとにおこなわれる直接選挙でえらばれる。
| 2. | 立法と司法 |
アイルランドは二院制の議会をもつ。下院は直接選挙でえらばれ、議員数は166名。上院は60名の議員からなるが、そのうち11名は首相の任命、6名は大学からの選出、残り43名は、文化・教育、農業、労働、産業・商業、行政それぞれの専門家として、県および特別市の評議会メンバーと国会議員からなる選挙委員会によってえらばれる。任期は上院・下院ともに5年。
アイルランドの司法権は、最高裁判所、高等裁判所、刑事控訴裁判所、中央刑事裁判所、巡回裁判所、地方裁判所にある。裁判官は政府の推薦のうえに大統領が任命する。
| 3. | 政党 |
アイルランドのおもな政党は、共和党(フィアナ・フォイル)、統一アイルランド党(フィネ・ゲール)、労働党、進歩民主党、緑の党、シン・フェーン党、社会党などである。
| 4. | 防衛 |
アイルランド軍は志願制で、2004年現在、陸海空をあわせて1万460人の兵力をもつ。第2次世界大戦時前から中立政策をかかげ、NATO(北大西洋条約機構)には加盟していないが、1999年に「平和のためのパートナーシップ」協定に調印した。国連平和維持活動(PKO)には積極的に参加し、レバノンなどに兵力を派遣してきた。
| VII. | 歴史 |
1916年以前のアイルランドの歴史については、アイルランド島を参照。
| 1. | アイルランド革命(1919~22年) |
1916年4月24日、復活祭の月曜日にダブリンでおきたイースター蜂起(アイルランド民族主義蜂起)は、アイルランド人の支持も少なく、失敗におわった。しかし、15人の民族主義者の処刑をふくむイギリス側の弾圧は、アイルランド人の民族感情をかきたて、民族勢力を結集したシン・フェーン党の台頭をうながすことになった。シン・フェーンとはアイルランド語で「われら自身」を意味する。
1918年のイギリス議会総選挙で、アイルランドにわりあてられた議席の大部分を獲得したシン・フェーン党は、イギリス議会への登院を拒否し、19年1月、ダブリンで第1回アイルランド国民議会を開催して、アイルランド独立を宣言し、デ・バレラを大統領とする政府をうちたてた。これにつづいて、独立をみとめなかったイギリスと、のちにアイルランド共和軍(IRA)とよばれるようになる義勇軍との間に、はげしい戦争が勃発(ぼっぱつ)した。
1920年12月、イギリス議会はアイルランド統治法を制定し、プロテスタントが多い北部の6県に1議会、他の26県に1議会を設置した。北アイルランドはこの法律をうけいれるが、その他の地域では分離に反対するゲリラ戦がつづき、21年7月にようやく停戦した。アイルランド国民議会代表とイギリス政府首相ロイド・ジョージとの交渉の結果、12月に26県がイギリス連邦内の自治領としてアイルランド自由国となることをさだめたイギリス・アイルランド条約が締結され、22年に批准された。
| 2. | アイルランド自由国(1922~37年) |
イギリス・アイルランド条約に反対していたデ・バレラらの共和派は、同条約により成立したアイルランド自由国政府に武力攻撃をしかけ、1922年6月から流血の内戦状態に入った。コスグレーブひきいる臨時議会は憲法草案を作成、イギリス議会の承認をへて、22年12月より施行された。共和派は23年4月にゲリラ戦を停止し、治安は少しずつ回復された。8月の総選挙ではいずれの政党も多数を占めるにいたらず、コスグレーブが政権にとどまる。政府はシャノン川水力発電計画など経済の強化につとめた。アイルランド自由国と北アイルランドとの境界は、25年12月に確定された。
アイルランド自由国は1923年に国際連盟に加盟し、24年には他のイギリス連邦諸国にさきがけて、ワシントンに独自の代表をおくった。26年、イギリスの政治家バルフォアは、イギリス本国と自治領内の対等な関係を定義した報告書をイギリス議会に提出、これは31年にウェストミンスター憲章として条文化された。
デ・バレラは1926年にシン・フェーン党をはなれて共和党(フィアナ・フォイル)を結成。共和党は27年8月の選挙で議席を獲得して議会に参加した。30年代初頭の世界的不況に起因する国内問題の対処に失敗したことが一因となって、コスグレーブの与党(のちのフィネ・ゲール)は32年2月の選挙にやぶれ、以降デ・バレラが16年にわたって首相の座を占めた。デ・バレラはイギリスへの土地購入代金の支払いを拒否して、イギリスとの間に経済戦争をひきおこしたが、これは国内経済に重大な損害をあたえた。また、デ・バレラはアイルランド共和軍(IRA)への法的制限の撤回を獲得した。
共和党は1933年の選挙で多数派となり、国民の支持をえたデ・バレラは、イギリスの影響を漸次とりのぞいていくとともに国内経済の自給自足にむけた政策をとりはじめた。35年6月、デ・バレラは彼の政策に批判的だったIRAとの政治的関係をたち、新憲法の作成をすすめた。36年、議会はイギリス王エドワード8世の退位に乗じて、憲法から国王に関するあらゆる記述をのぞき、アイルランドにおけるイギリス政府代表職を廃止する法律を制定した。
| 3. | エール |
1937年の選挙で、デ・バレラと共和党はふたたび政権を獲得し、同時におこなわれた国民投票で新憲法が承認された。この憲法はアイルランド自由国を廃止し、「主権をもつ独立民主国家」としてエールの建国を規定するもので、アイルランド全土に適用されるものとうたわれていた。38年、作家のハイドがエールの初代大統領になり、デ・バレラが首相に就任した。
1938年、エールとイギリスの経済戦争は終結し、イギリスへの土地購入代金支払いと引き換えに、イギリス軍はエールの海軍基地から撤退した。両国の関係はわずかに好転したが、アイルランド共和軍(IRA)がイギリスでのテロ行為を指揮したため、その関係もそこなわれた。
エールは第2次世界大戦中(1939~45年)中立をまもったが、市民の多くは連合軍側でたたかうか、イギリスの軍事産業ではたらいた。戦後は、経済が混乱してはげしいインフレがおこり、1948年2月の選挙では共和党が敗北した。その結果、統一アイルランド党(フィネ・ゲール)など6政党の連合により、コステロが首相に就任した。低価格と低額課税、工業生産の拡大、イギリスとの商業関係の強化をうったえたコステロは、同年11月にアイルランド共和国法案を通過させた。
| 4. | イギリス連邦離脱とその後 |
1949年4月18日(復活祭の月曜日)、イースター蜂起の記念日に、エールは独立の共和国を宣言し、イギリス国王およびイギリス連邦との関係を正式にたった。翌5月、イギリス議会は北アイルランド議会が反対の選択をしないかぎり、北アイルランドがイギリスの一部であることを確認した。アイルランドは55年12月14日に国際連合に加盟した。
インフレと貿易不均衡はつづいたものの、アイルランド経済は1950~60年代を通じて大きく安定化へむかった。この時期にアイルランドは、それまでの保守的な自給自足体制を脱して輸出主導型の経済への転換をはかっている。経済成長率は50年代の1%から60年代後半には4.5%へとのび、外国資本の導入も積極的におこなわれた。経済発展によって海外移民も減少し、長年にわたる人口流出に歯止めがかけられた。イギリスおよびヨーロッパと緊密な関係をきずき、73年にはヨーロッパ共同体(EC。現EU)への加盟をはたした。
経済発展とともに政治も安定期に入り、長年の反イギリス感情もうすれていった。1957年、コステロ首相はアイルランド共和軍(IRA)に対して強い態度でのぞむことを表明し、首相の座をついだデ・バレラも、統一は力によってはえられないとの見解に公式に賛同した。62年2月には、IRAが武力闘争の方針をすてることを発表した。
1960年代の後半になると、北アイルランドにおけるプロテスタント住民とカトリック住民との対立が表面化し、69年4月の両派住民が衝突した事件にはイギリス軍も導入される事態になった。これを機にアイルランドの内外でIRAの武力闘争が再燃した。71年に、アイルランド議会は国外での使用を目的とした武器の購入および所持を禁止し、72年には政府が銃の引き渡しを命じた。
| 5. | 経済の急成長 |
1970年代後半から80年代初めにかけて、アイルランドは困難な問題に直面する。国内での民族主義過激派によるテロが増加する一方、政府は多額の財政赤字をかかえこみ、失業がふえた。共和党と統一アイルランド党の間で政権交代がくりかえされた。破綻寸前の国内経済をたてなおすため、政府は87年から徹底した緊縮財政をしき、政府・雇用者・労働組合が協調して経済政策の合意を形成する仕組みを導入した。優遇税制などにより積極的に誘致した外資系企業を中心とするハイテク産業の発展、輸出の急伸で、90年代後半から21世紀初めにかけて経済成長率は10%に達した。このアイルランド経済のめざましい急成長ぶりは「ケルティック・タイガー」とよばれて世界の注目をあつめた。
1990年11月、労働党のメアリー・ロビンソンが初の女性大統領として選出された。リベラル派のロビンソンは社会的弱者の立場にたって精力的に活動し、内外から高い評価をうけた。
1991年12月、アイルランドはヨーロッパ連合条約(→ マーストリヒト条約)に署名し、92年6月の国民投票で批准が承認された。なお、アイルランドはEU(ヨーロッパ連合)諸国の中で唯一憲法で離婚が禁止されていたが、95年の憲法の離婚禁止条項の削除を問う国民投票による賛成をうけて、97年2月に正式に禁止条項が削除された。
| 6. | アハーン政権 |
1997年6月の総選挙で、野党連合が小差で与党連合をやぶり、共和党党首のバーティ・アハーンが新首相に就任した。10月におこなわれた大統領選挙でも、共和党のメアリー・マッカリースが当選した(2004年に再選)。ヨーロッパ通貨統合への参加とならんで北アイルランド和平の促進を最優先課題としてかかげたアハーン首相は、イギリスのブレア首相とともに和平交渉に柔軟に対応し、98年4月、プロテスタント、カトリック両派の妥協をひきだして和平の最終合意文書に調印した。合意文書では、アイルランドは北アイルランドに対する領有権をうたったアイルランド憲法を修正し、北アイルランド地方議会とアイルランド議会の代表で構成する南北評議会をもうけて、南北アイルランドの共通問題にとりくむことがきめられており、翌5月、合意内容にそった憲法修正の是非を問う国民投票が実施され、圧倒的支持で承認された。99年12月には、イギリス・北アイルランド自治政府と、南北評議会の初会合を開いた。
一方、1998年5月の国民投票では、新ヨーロッパ連合条約(アムステルダム条約)の批准についても過半数の賛成を獲得。99年1月には通貨統合に参加して、ユーロを導入した。しかし、2001年6月、東方拡大にそなえてEU(ヨーロッパ連合)の機構改革をさだめたニース条約の批准をめぐる国民投票では、54%の反対により批准が否決された。条約発効はEU加盟全15カ国の批准が前提であり、批准に際して唯一憲法の規定により国民投票にかけた国アイルランドで拒否の結果が出たことは、EU本部と加盟各国に衝撃をあたえた。02年5月の総選挙では、与党共和党が大勝。ひきつづき進歩民主党との中道右派連立政権で首相をつとめることになったアハーンは、ニース条約批准にむけて積極的に活動した。緑の党をのぞく主要政党と経済界も賛成をよびかけるキャンペーンを展開し、10月に再度おこなわれた国民投票では、63%の賛成をえて条約の批准が承認された。
北アイルランドの自治は、自治政府発足後もしばしば暗礁にのりあげ、2002年からイギリスの直轄統治にもどされていた。05年7月、アイルランド共和軍(IRA)が武装闘争の終結を宣言して、今後は政治活動でアイルランド統一をめざすと表明。06年4月、イギリスのブレア首相とアイルランドのアハーン首相が共同声明を発表し、期限内に自治政府を再開するよう強く圧力をかけたことから、07年5月、ようやく連立内閣が成立して4年半ぶりに自治政府が復活した。
2007年5月の総選挙では、最大野党の統一アイルランド党が躍進したが、与党共和党は議席をへらしたものの第1党の座を維持。連立与党の進歩民主党に緑の党をくわえた3党連立政権でアハーンが3期目連続で首相をつとめることになった。しかし、08年になって、アハーンが財務相時代に知人から不正な資金提供をうけていた疑惑がもちあがり、捜査当局がのりだす事態に発展して、4月、世論の批判が強まる中で、アハーンは首相と共和党党首を辞任する意向を表明した。
| 7. | 国民投票でEUのリスボン条約を否決 |
2008年5月、11年にわたって首相をつとめ、北アイルランド和平やアイルランドの経済改革をてがけたアハーン首相が辞任した。後任首相には、共和党の新党首となったブライアン・カウエン副首相兼財務相が就任、アハーン政権の枠組みを継承して新内閣を発足させた。
カウエン新政権のさしせまった課題は、国民投票によるEU(ヨーロッパ連合)リスボン条約の批准承認だった。リスボン条約は、拡大するEUの効率的運営法を規定した新基本条約で、2005年にフランスとオランダの国民投票で批准が否決されて挫折(ざせつ)した「憲法条約」の骨子を生かして、将来拡大するEUの効率的運営法を規定したもの。発効には全27カ国の批准が必要で、他の26カ国は議会での批准承認がみこまれているのに対して、アイルランドだけは憲法の規定によって国民投票をおこなうため、条約発効の鍵(かぎ)をにぎるその成否が注目されていた。
2008年6月12日に実施された国民投票で、リスボン条約の批准は、賛成46.6%、反対53.4%と、7ポイント近い差で否決された。投票率は53%だった。シン・フェーン党をのぞく与野党各党が批准を支持しており、国民投票では賛成票がうわまわると予想されていたが、投票日間近になって形勢が逆転した。長文で難解な表現もあるリスボン条約については「わからない」という声が多く、また、「アイルランドの主権と中立がおびやかされる」として批准反対キャンペーンが展開されて、市民団体や労働組合、漁業協同組合、農業協同組合などが反対にまわっていた。
この時点ですでに18カ国が条約の批准をすませていたが(6月19日にはイギリスも批准)、EUがめざしていた2009年1月の条約発効は、事実上不可能になった。数日後に開催されたEU首脳会議で対応が協議され、とりあえず、今後も各国で批准手続きをすすめること、アイルランド政府は否決の原因を究明して解決策を提示することになった。