| ワーグナー,R. | 項目ビュー | ||||
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| III. | 急進的な政治思想 |
ワーグナーは、急進的な政治思想の持ち主であった。1849年、ドレスデンでおきた革命運動に参加して亡命を余儀なくされ、パリからチューリヒへと逃亡する。チューリヒでは、12世紀の高地ドイツ語で書かれた叙事詩「ニーベルンゲンの歌」にもとづいて書きはじめていた「ニーベルングの指環」のスケッチを書きすすめた。「指環」は4作の楽劇から構成されるが、台本は4作目から逆行する順序で書かれた。ワーグナーはまず、第4作「神々の黄昏(たそがれ)」の原型を書く。次に、その中のいくつかのエピソードを充実させて劇的にふくらませると、全体の物語がより理解しやすくなると考え、第3作「ジークフリート」を書く。しかし、それでも満足できずに第2作「ワルキューレ」を書きくわえ、さらにその前に説明的な「ラインの黄金」をつけたした。53年に「ラインの黄金」の作曲に着手し、翌年5月に完成。56年12月末に「ワルキューレ」の作曲が完了した。
この間、1852年にワーグナーは富裕な商人オットー・ウェーゼンドンク夫妻と知りあう。ウェーゼンドンクはチューリヒ郊外にある自分の所有地にたつ小さな別荘「アジール」を、ワーグナー夫妻に自由につかわせた。おちついた環境にめぐまれて、作曲家はいくつかの着想をえる。
ここでワーグナーはまもなくしてウェーゼンドンクの妻マティルデと恋愛関係におちいるが、思いはとげられなかった。しかし、2人のロマンスは情熱的な愛をテーマとした「トリスタンとイゾルデ」(1857~59)となって実をむすぶ。この作品はワーグナーの楽劇の中でとくに長く、難解な作品である。ようやく1865年6月10日になって、ワーグナーのパトロンとなっていたバイエルン国王ルートウィヒ2世の援助をうけ、ミュンヘンで初演される。またこの時期に、マティルデの5編の詩に音楽をつけ、オーケストラもしくはピアノ伴奏による「ウェーゼンドンク歌曲集」(1857~58)を書きあげた。
1862年、ワーグナーの国外追放令が解除されてプロイセンに帰国。ビーブリヒに腰をおちつけて唯一のコミック・オペラ「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に着手し、67年に完成させる。翌68年6月21日、ミュンヘンで初演。この町では69年に「ラインの黄金」、70年に「ワルキューレ」がルートウィヒ2世の要請で初演される。
「マイスタージンガー」の初演後、12年間中断していた「ジークフリート」の作曲を再開、1871年2月に完成させ、つづいて「神々の黄昏」の作曲をはじめる。この間の70年8月25日、ワーグナーは、コジマ・フォン・ビューローと再婚する。別居していた最初の妻ミンナは66年になくなっていた。コジマはリストの娘で、指揮者・ピアニストのハンス・フォン・ビューローの妻だったが、ワーグナーとむすばれるために離婚し、結婚のときには2児をもうけていた。管弦楽曲「ジークフリート牧歌」(1870)は、コジマのために書かれた。
1872年夏、「指環」の最後の楽劇「神々の黄昏」の作曲をはじめ、74年11月までにオーケストレーションも完成させる。76年8月13~17日、ワーグナーの楽劇上演のために設計・建設されたバイロイトの祝祭劇場で「ニーベルングの指環」(正式には序夜つき3部作とよばれ、上演には4日かかる)初の通し上演がおこなわれた。
1877年、キリストの血をうけたとされる聖杯の伝説にもとづく「パルジファル」の作曲に着手。このワーグナー最後の楽劇は、82年7月26日、バイロイトで初演された。
1882年、健康状態が悪化。ベネツィアの大運河をのぞむベンドラミン宮殿をかりて転地療養をしたが、翌83年2月13日に急死した。遺体は5日後、バイロイトの私邸の墓所に埋葬された。