検索ビュー ナポレオン1世

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ナポレオン1世
I. プロローグ

1769~1821 フランス皇帝。在位1804~14、15年。たぐいまれな能力によって皇帝の地位にまでのぼりつめ、一時的にヨーロッパの大半を支配した。コルシカ島のアジャクシオで、シャルル・ボナパルトとレティツィアの8人の子のうちの2番目として生まれた。本名はコルシカ語でナポレオーネ・ブオナパルテ。ボナパルト家はロンバルディアに起源をもつ古い家柄で代々アジャクシオの町の行政にかかわってきたが、父は貧しい判事だった。

ながらくジェノバの支配下にあったコルシカ島は、18世紀に独立をもとめてたたかい、手をやいたジェノバは、この島をフランスに売却し、1768年からフランス領となった。ボナパルト家はコルシカ独立戦争で指導的役割をはたしていたが、フランス支配に協力する立場に転向し、その功績によって貴族の資格を認定された。ナポレオンが国王の給費生としてフランス本土でまなぶことができたのは、この資格によるものだった。

II. 革命期のナポレオン

ナポレオンは、1779年にオータンのコレージュ、ついでブリエンヌの陸軍幼年学校にすすみ、数学で抜群の成績をおさめ、84年にパリの士官学校に進学した。85年には砲兵隊に任官し、フランス革命がおきると故郷のアジャクシオで国民軍中佐になったが、コルシカ独立支持派と対立し、一家をあげてフランス本土に移住した。ジャコバン・クラブに共鳴する小冊子を発表していたナポレオンは、93年、国民公会議員の推薦で、当時イギリスに支援されて革命政府に反乱をおこしていた港町トゥーロン攻略部隊の砲兵隊長に任命された。

ナポレオンは短期間に港をうばいかえし、24歳で少将に昇進した。革命政府に対しヨーロッパ列強は対仏大同盟を結成して干渉したが、新しく編成された共和国軍は国内に侵入した外国軍を一掃し、戦いは国外へとひろがっていった。ナポレオンは、1794年にイタリア遠征軍の砲兵司令官となって各地で勝利をえたが、7月のテルミドール反動のあと、それまでジャコバン派と交流していたことにより、逮捕、収監された。休職処分ののち、95年10月にパリでおきた王党派の反乱鎮圧の指揮をまかされて成功。翌年にはボアルネ子爵未亡人ジョゼフィーヌと結婚している。

1796年、ナポレオンはイタリア遠征軍司令官に任命された(以後ナポレオン戦争も参照)。総裁政府は、ドイツ側2方向とイタリア側1方向からオーストリアを攻略する計画をたてており、ナポレオンは後者の部隊の指揮をゆだねられた。ドイツ方面からの進撃が挫折したのに対して、イタリア方面軍はすばやくイタリア北部を横断し、オーストリアにまで到達、97年10月にはカンポ・フォルミオの条約をむすんだ。ナポレオンはイタリア北部に広大な領土を獲得して、いくつもの衛星国を建設し、膨大な戦利品をたずさえて凱旋した。98年には対イギリス戦争を有利にするためにエジプトに出兵したが、この戦いではイギリス海軍の抵抗が強く、エジプトの一部を占領しただけで、作戦は進展しなかった。

1799年春、列強は第2次対仏大同盟を結成し、フランス本国は緊迫した状況となった。エジプトにいたナポレオンは、本国の情勢からとりのこされることをおそれ、エジプトを部下にまかせて、同年10月、単身で本国に帰還した。総裁政府は、国内においても左右からの攻撃で危機的な状況にあった。富裕なブルジョワジーの意向をうけたシエイエスらは、ナポレオンの軍事力を利用するクーデタを計画した。政府の転覆は11月9日(ブリュメール18日)に実施され、3人の執政からなる新政府が成立した。ナポレオンはすぐに全権をにぎり、共和暦第8年の憲法を制定して立法権と行政権をもつ第一執政となり、実質的な独裁を開始した。

III. ナポレオンの統治

ナポレオンは、国内政治の安定、社会生活・経済生活を円滑にするための諸制度の整備など、彼に期待された役割を正確に理解していた。ただちに司法制度や地方行政制度を確立(1800)し、政教協約によってローマ教皇と和解(1801)して宗教をめぐる国内の対立を解消し、また、亡命貴族の帰国をゆるして、王党派、ジャコバン派の前歴をとわず軍隊や行政に登用し、政治的な和解をおしすすめた。もっとも、ナポレオンに対する敵対行為に対してはなさけ容赦ない弾圧をくわえた。

対外的には、イタリアでオーストリア軍を撃破してリュネビルの和約(1801)をむすび、1802年にはイギリスともアミアンの和約をむすんで戦争を終結させた。法体系の整備の面では、1791年憲法は、フランスが単一の法制によって統治されることをさだめていたが、全国共通の法体系はまだ完成していなかった。のちにナポレオン法典とよばれる「フランス人の民法典」を1804年に公布し、さらに、刑法(1810)、刑事訴訟法(1808)などの整備を逐次おこない、10年ごろまでには法体系を確立した。

教育制度の整備も難問だった。革命勃発(ぼっぱつ)後はやくから教育の普及は提案されていたが、政治的・社会的混乱の中で、教員の養成と施設の拡充は急速にはすすまなかった。ナポレオンは全国を数個の大学管区に分割し、大学管区の中に、県ごとに中等学校、師範学校をおき、さらに小学校を多数設置した。そして、教員の不足をおぎなうために、政治的妥協をはかって聖職者の教育活動への従事をゆるした。国家の監視のもとで教会の助けをかりたのである。

いっぽう、ベルギー・オランダ、イタリア方面にまでひろがった広大な領土を支配するため、交通網の整備を精力的に推進した。道路網、運河、港湾の改善は、商工業の発展だけでなく軍事活動にもかかわるもので、全国に派遣された100人近い知事の最大の業務のひとつは土木建設だった。他の重要な業務に警察活動があり、迅速な情報伝達のために「テレグラフ」網がパリを中心として東西、南北に敷設された。手動で腕木をうごかして信号をおくるシグナルが数キロおきに立てられ、暗号文が伝達された。

首都パリでは大規模な都市計画がたてられた。この間、ナポレオンは1802年に憲法を改定し、自身を終身執政と規定、04年には、議会の議決と国民投票によって、世襲の皇帝の地位についた。

ナポレオンの有能さは、資本主義経済のしくみをよく理解したところにあった。すでに、執政に就任してまもない1800年にフランス銀行を設立して金融制度を確立していたが、03年には、1フラン=10デシム=100サンチームという新しい通貨制度を制定した。1フランは純銀で約4.5グラムであった。この、いわゆるジェルミナール・フランは第1次世界大戦後まで利用された。私有財産や営業の自由については憲法が、また契約や相続など物と人の関係については民法典がルールをさだめ、ブルジョワジーは安心して経済活動にはげむことができた。

ナポレオンは戦争によって膨大な需要を生みだし、広大な衛星国を支配することで、かつてフランス王国がもったことのない、ひろい市場を確保した。最大の課題は、こうした条件を利用して、ながらくフランスの最大のライバルであり、どうしてもかなわなかったイギリスを追い越すことであった。

IV. ヨーロッパ支配

本国と衛星諸国の整備が一段落すると、海外植民地の拡大とイギリス侵攻の準備がはじめられた。英・仏関係は緊張し、1805年にはアミアンの和約がやぶられた。フランスはドーバー海峡をのぞむブローニュに大軍を結集、イギリスはロシア、オーストリアなどとの間に第3次対仏大同盟を結成した。フランスは、陸上部隊をイギリス本土に上陸させる作戦に失敗し、海上でもフランス艦隊はトラファルガーの海戦でやぶれ、イギリスを屈伏させることはできなかった。

もっとも、フランス軍はオーストリア皇帝とロシア皇帝のひきいる部隊をアウステルリッツで撃破したので、対仏大同盟は崩壊し、また西南ドイツ一帯に、ナポレオン自身が支配する巨大な衛星国ライン同盟を建設して、神聖ローマ帝国を崩壊させた。ひきつづいてプロイセンが中心となって組織された第4次対仏大同盟に対しても大勝し、プロイセンは小国家に転落した。

1807年には、西ヨーロッパと中央ヨーロッパはナポレオンの支配下にはいり、彼の一族や部下が各地の君主として配置された。いっぽう、10年にはジョゼフィーヌと離婚して、ハプスブルク家出身のオーストリア皇女マリー・ルイズと結婚し、古い王朝とのきずなによって、大陸の支配を高めようとした。また、イギリスを攻略できなかったナポレオンは、大陸封鎖によってイギリスを孤立させ、経済的にイギリスに打撃をあたえる作戦をとった。

しかし、フランスには、イギリスにかわって全ヨーロッパに工業製品を供給する能力はなかった。しかも、それまでイギリスから工業製品を輸入していた中・東ヨーロッパ諸国のうけた打撃も小さくなかった。神聖ローマ帝国やロシアの支配から解放され、古い封建制のしくみから解放されたヨーロッパ諸国は、フランス人の支配と、大陸封鎖から生じた生活苦に対して、しだいに不満をもつようになった。そして、1813年からの第6次対仏大同盟との戦争では、フランス軍は追われる立場にたたされた。

短い期間ではあったが、ナポレオンに支配された諸国は、急激な変化を経験した。ナポレオンは、各地で領主の支配や農奴制を打破し、憲法と議会をおき、フランス式の行政や司法の制度を確立した。そして、フランスと同様の民法が移植されていった。長くフランスの支配をうけた地域では工業化がはじまり、19世紀にはヨーロッパの先進地帯となっていく。また、ヨーロッパの諸民族は、他民族からの解放や、民族の統一をまなび、列強の君主たちは、ナポレオン退位後にヨーロッパ社会をフランス革命以前にもどそうとしたが、社会のしくみは変化しており、新しい政治勢力が生まれていた。

V. ナポレオンの失脚

1814年、連合軍がフランス国内にせめこむ中で、ナポレオンは退位した。情勢を正確に把握していた部下たちは対仏大同盟の諸国とひそかに連絡をとって、退位の準備をしていた。イタリア沿岸のエルバ島をあたえられたナポレオンは、小島の君主として、地理的条件や地下資源を調査し、エルバ島を近代国家にする計画をたてた。しかし、フランスの王位についたルイ18世が支配体制の確立に手こずっていることを知ったナポレオンは、ふたたび攻勢にでた。15年3月、本土に上陸しパリをめざして北上するナポレオンにつきしたがう勢力はしだいにふくれあがり、ナポレオンは皇帝の地位をとりもどした。

しかし、ナポレオンにこりていた諸国は、フランス帝国の存続をゆるすつもりはなかった。ナポレオンは機先を制してベルギーに出撃し、連合軍を打ち破ろうとしたが、もはやじゅうぶんな兵力も能力ものこっていなかった(ワーテルローの戦)。1815年、ナポレオンはアフリカ西方沖合はるかなセントヘレナ島に、今度は囚人としておくられ、21年に死去した。

VI. ナポレオンの遺産

今日のパリ市街で、ナポレオンの支配をおもいおこさせるものは少ない。しかし、法体系をはじめ、中央の行政機構、地方行政のしくみ、司法制度、学校教育のしくみなど、ナポレオンによってきずかれたものは、多少の手直しをうけながら、今日でもフランス人の生活をささえている。また道路網や運河網、上水道など、ナポレオンが手がけ、のちに大きく発展したものも少なくない。

ナポレオンの退位後フランスにもどり、革命前の社会にもどしたいと願ったブルボン家の2人の王、ルイ18世およびシャルル10世も、ナポレオンの建設したフランスをこわすことはできなかった。ナポレオンのくみたてたしくみの有効性はすぐに理解できるものであり、それらのしくみは、19世紀を通じて、世界各地に輸出された。また、フランスに編入されたばかりの辺境の地、コルシカの貧しい青年が、フランスの栄光をつくりだしたことは、フランスが、出身地や出自に関係なく出世の機会を保証する社会であることを証明した。そして、フランス革命とナポレオンは、のちに世界各地の多くの若者に理想をあたえることになる。