ナポレオン1世
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ナポレオン1世
II. 革命期のナポレオン

ナポレオンは、1779年にオータンのコレージュ、ついでブリエンヌの陸軍幼年学校にすすみ、数学で抜群の成績をおさめ、84年にパリの士官学校に進学した。85年には砲兵隊に任官し、フランス革命がおきると故郷のアジャクシオで国民軍中佐になったが、コルシカ独立支持派と対立し、一家をあげてフランス本土に移住した。ジャコバン・クラブに共鳴する小冊子を発表していたナポレオンは、93年、国民公会議員の推薦で、当時イギリスに支援されて革命政府に反乱をおこしていた港町トゥーロン攻略部隊の砲兵隊長に任命された。

ナポレオンは短期間に港をうばいかえし、24歳で少将に昇進した。革命政府に対しヨーロッパ列強は対仏大同盟を結成して干渉したが、新しく編成された共和国軍は国内に侵入した外国軍を一掃し、戦いは国外へとひろがっていった。ナポレオンは、1794年にイタリア遠征軍の砲兵司令官となって各地で勝利をえたが、7月のテルミドール反動のあと、それまでジャコバン派と交流していたことにより、逮捕、収監された。休職処分ののち、95年10月にパリでおきた王党派の反乱鎮圧の指揮をまかされて成功。翌年にはボアルネ子爵未亡人ジョゼフィーヌと結婚している。

1796年、ナポレオンはイタリア遠征軍司令官に任命された(以後ナポレオン戦争も参照)。総裁政府は、ドイツ側2方向とイタリア側1方向からオーストリアを攻略する計画をたてており、ナポレオンは後者の部隊の指揮をゆだねられた。ドイツ方面からの進撃が挫折したのに対して、イタリア方面軍はすばやくイタリア北部を横断し、オーストリアにまで到達、97年10月にはカンポ・フォルミオの条約をむすんだ。ナポレオンはイタリア北部に広大な領土を獲得して、いくつもの衛星国を建設し、膨大な戦利品をたずさえて凱旋した。98年には対イギリス戦争を有利にするためにエジプトに出兵したが、この戦いではイギリス海軍の抵抗が強く、エジプトの一部を占領しただけで、作戦は進展しなかった。

1799年春、列強は第2次対仏大同盟を結成し、フランス本国は緊迫した状況となった。エジプトにいたナポレオンは、本国の情勢からとりのこされることをおそれ、エジプトを部下にまかせて、同年10月、単身で本国に帰還した。総裁政府は、国内においても左右からの攻撃で危機的な状況にあった。富裕なブルジョワジーの意向をうけたシエイエスらは、ナポレオンの軍事力を利用するクーデタを計画した。政府の転覆は11月9日(ブリュメール18日)に実施され、3人の執政からなる新政府が成立した。ナポレオンはすぐに全権をにぎり、共和暦第8年の憲法を制定して立法権と行政権をもつ第一執政となり、実質的な独裁を開始した。