ナポレオン1世
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ナポレオン1世
III. ナポレオンの統治

ナポレオンは、国内政治の安定、社会生活・経済生活を円滑にするための諸制度の整備など、彼に期待された役割を正確に理解していた。ただちに司法制度や地方行政制度を確立(1800)し、政教協約によってローマ教皇と和解(1801)して宗教をめぐる国内の対立を解消し、また、亡命貴族の帰国をゆるして、王党派、ジャコバン派の前歴をとわず軍隊や行政に登用し、政治的な和解をおしすすめた。もっとも、ナポレオンに対する敵対行為に対してはなさけ容赦ない弾圧をくわえた。

対外的には、イタリアでオーストリア軍を撃破してリュネビルの和約(1801)をむすび、1802年にはイギリスともアミアンの和約をむすんで戦争を終結させた。法体系の整備の面では、1791年憲法は、フランスが単一の法制によって統治されることをさだめていたが、全国共通の法体系はまだ完成していなかった。のちにナポレオン法典とよばれる「フランス人の民法典」を1804年に公布し、さらに、刑法(1810)、刑事訴訟法(1808)などの整備を逐次おこない、10年ごろまでには法体系を確立した。

教育制度の整備も難問だった。革命勃発(ぼっぱつ)後はやくから教育の普及は提案されていたが、政治的・社会的混乱の中で、教員の養成と施設の拡充は急速にはすすまなかった。ナポレオンは全国を数個の大学管区に分割し、大学管区の中に、県ごとに中等学校、師範学校をおき、さらに小学校を多数設置した。そして、教員の不足をおぎなうために、政治的妥協をはかって聖職者の教育活動への従事をゆるした。国家の監視のもとで教会の助けをかりたのである。

いっぽう、ベルギー・オランダ、イタリア方面にまでひろがった広大な領土を支配するため、交通網の整備を精力的に推進した。道路網、運河、港湾の改善は、商工業の発展だけでなく軍事活動にもかかわるもので、全国に派遣された100人近い知事の最大の業務のひとつは土木建設だった。他の重要な業務に警察活動があり、迅速な情報伝達のために「テレグラフ」網がパリを中心として東西、南北に敷設された。手動で腕木をうごかして信号をおくるシグナルが数キロおきに立てられ、暗号文が伝達された。

首都パリでは大規模な都市計画がたてられた。この間、ナポレオンは1802年に憲法を改定し、自身を終身執政と規定、04年には、議会の議決と国民投票によって、世襲の皇帝の地位についた。

ナポレオンの有能さは、資本主義経済のしくみをよく理解したところにあった。すでに、執政に就任してまもない1800年にフランス銀行を設立して金融制度を確立していたが、03年には、1フラン=10デシム=100サンチームという新しい通貨制度を制定した。1フランは純銀で約4.5グラムであった。この、いわゆるジェルミナール・フランは第1次世界大戦後まで利用された。私有財産や営業の自由については憲法が、また契約や相続など物と人の関係については民法典がルールをさだめ、ブルジョワジーは安心して経済活動にはげむことができた。

ナポレオンは戦争によって膨大な需要を生みだし、広大な衛星国を支配することで、かつてフランス王国がもったことのない、ひろい市場を確保した。最大の課題は、こうした条件を利用して、ながらくフランスの最大のライバルであり、どうしてもかなわなかったイギリスを追い越すことであった。