| ナポレオン1世 | 項目ビュー | ||||
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| IV. | ヨーロッパ支配 |
本国と衛星諸国の整備が一段落すると、海外植民地の拡大とイギリス侵攻の準備がはじめられた。英・仏関係は緊張し、1805年にはアミアンの和約がやぶられた。フランスはドーバー海峡をのぞむブローニュに大軍を結集、イギリスはロシア、オーストリアなどとの間に第3次対仏大同盟を結成した。フランスは、陸上部隊をイギリス本土に上陸させる作戦に失敗し、海上でもフランス艦隊はトラファルガーの海戦でやぶれ、イギリスを屈伏させることはできなかった。
もっとも、フランス軍はオーストリア皇帝とロシア皇帝のひきいる部隊をアウステルリッツで撃破したので、対仏大同盟は崩壊し、また西南ドイツ一帯に、ナポレオン自身が支配する巨大な衛星国ライン同盟を建設して、神聖ローマ帝国を崩壊させた。ひきつづいてプロイセンが中心となって組織された第4次対仏大同盟に対しても大勝し、プロイセンは小国家に転落した。
1807年には、西ヨーロッパと中央ヨーロッパはナポレオンの支配下にはいり、彼の一族や部下が各地の君主として配置された。いっぽう、10年にはジョゼフィーヌと離婚して、ハプスブルク家出身のオーストリア皇女マリー・ルイズと結婚し、古い王朝とのきずなによって、大陸の支配を高めようとした。また、イギリスを攻略できなかったナポレオンは、大陸封鎖によってイギリスを孤立させ、経済的にイギリスに打撃をあたえる作戦をとった。
しかし、フランスには、イギリスにかわって全ヨーロッパに工業製品を供給する能力はなかった。しかも、それまでイギリスから工業製品を輸入していた中・東ヨーロッパ諸国のうけた打撃も小さくなかった。神聖ローマ帝国やロシアの支配から解放され、古い封建制のしくみから解放されたヨーロッパ諸国は、フランス人の支配と、大陸封鎖から生じた生活苦に対して、しだいに不満をもつようになった。そして、1813年からの第6次対仏大同盟との戦争では、フランス軍は追われる立場にたたされた。
短い期間ではあったが、ナポレオンに支配された諸国は、急激な変化を経験した。ナポレオンは、各地で領主の支配や農奴制を打破し、憲法と議会をおき、フランス式の行政や司法の制度を確立した。そして、フランスと同様の民法が移植されていった。長くフランスの支配をうけた地域では工業化がはじまり、19世紀にはヨーロッパの先進地帯となっていく。また、ヨーロッパの諸民族は、他民族からの解放や、民族の統一をまなび、列強の君主たちは、ナポレオン退位後にヨーロッパ社会をフランス革命以前にもどそうとしたが、社会のしくみは変化しており、新しい政治勢力が生まれていた。