バルカン半島
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バルカン半島
III. 歴史

バルカン半島に最初に居住したのは、ヨーロッパの中央部や南部、アジア、小アジアなどからきた人々であった。ローマ帝国(ローマ史)とビザンティン帝国に支配されていた1世紀から中世末まで、この地域はさまざまな民族の侵入をうけた。3世紀ごろから、ゲルマン、ゴート、フンなどがあらわれ、6世紀にはスラブ人がこの半島へ移住してきた。7世紀に出現したトルコ系のブルガール人はスラブ人を支配した。その後、各地域のブルガール人、スラブ人や他の民族は、自然環境が民族間の交流をさまたげたため、それぞれ独自の文化、習慣、宗教を発展させた。

バルカン半島の歴史は外部勢力の進出とそれに対する抵抗でいろどられている。この半島は、アジアとヨーロッパをむすぶ地域で、黒海から地中海にぬける陸路にもあたるため、政治的・経済的に重要視され、長い間さまざまな征服者たちの支配下におかれた。中世末まではローマ帝国とビザンティン帝国に支配されたが、ブルガリア、クロアチア、セルビア、ボスニアは中世にみずからの王国をきずいている。その後、オスマン帝国が徐々に進出し、14世紀後半から500年以上にわたってバルカン半島を掌握した。

19世紀に入るとバルカンの諸民族は次々とはげしい民族運動をおこし、オスマン帝国からの独立をかちとった。この解放のための戦いは、バルカン進出をねらっていたロシアやハプスブルク帝国の強い関心をひき、バルカンは東方問題の中心的な地域となった。

19世紀末、独立を達成したギリシャ、セルビア、ルーマニア、モンテネグロ、自治を達成したブルガリアは近代化をきそって相互に対立した。1912~13年にはバルカン戦争が、14年には第1次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した。バルカン諸国がはげしく対立するようになるのはこのころからであり、「ヨーロッパの火薬庫」といった表現に代表されるバルカン半島は、対立と紛争の地域とのマイナス・イメージが西ヨーロッパの列強から付与され固定化されていった。

第1次世界大戦が1918年に終結すると、オーストリア・ハンガリー二重帝国の支配下にあった南スラブ地域のクロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナはセルビア、モンテネグロ両王国とともにセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国を樹立した。のちにユーゴスラビア(南スラブ人の地の意)と改名した。バルカン戦争と第1次世界大戦の結果、マルマラ海以北のトラキア東部だけがトルコ領としてのこされた。

第1次世界大戦後、バルカン諸国の政治指導者たちは共通にかかえる政治的な課題を認識し、相互対立をのりこえようとする努力をはらった。1934年、ユーゴスラビア、トルコ、ギリシャ、ルーマニアの諸国はバルカン協商を締結したが、小国だけの同盟関係で安全保障をたもつことができなくなり、ドイツやイタリアのファシズム諸国への傾斜を強めた結果、バルカン協商は内部から崩壊してしまった。

イタリアは、1939年4月にアルバニアを占領し、第2次世界大戦勃発後の40年10月にはギリシャへ侵攻したが、アルバニアまで撃退された。一方ドイツはルーマニアとブルガリアに進出し、三国同盟に加盟させた。さらに、41年初めにははげしい抵抗をしりぞけてユーゴスラビアとギリシャを降伏させた。しかし、これに対する抵抗運動は大戦を通じてつづけられ、パルチザン勢力が独力で国土の解放をなしとげた。

ユーゴスラビアとギリシャはともにロンドンに亡命政府を樹立したが、戦争の終結時、それぞれの臨時政府にとってかわられ、ギリシャは内戦をへて自由主義陣営の王国として、ユーゴスラビアは社会主義陣営の連邦国家として戦後のあゆみをはじめた。アルバニアでもパルチザン勢力が臨時政府を樹立し、アルバニア全域を掌握してアルバニア人民共和国の成立を宣言した。枢軸国の敗北により、ソ連の占領下でブルガリアもルーマニアも人民共和国が樹立された。

第2次世界大戦後のバルカン諸国は自由主義陣営のギリシャ、社会主義陣営のブルガリア、ルーマニア、アルバニア、1948年のコミンフォルム(インターナショナル)からの追放を契機として独自の社会主義の道をすすみはじめるユーゴスラビアといったように、さまざまな政治的立場をとるようになる。冷戦期にバルカンは国際政治上、きわめて重要な地域となった。