ユグノー
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ユグノー
III. ユグノー戦争

改革派教会会議が開催されると、カトリック教会と改革派教会は、教義も組織も別個のものとして対立が激化した。1559年、アンリ2世が事故で急死し、15歳のフランソワ2世が即位すると、王母の親戚にあたるギーズ公の一族が権力をにぎった。ギーズ公が熱狂的なカトリックだったため、政敵のブルボン公やコリニーらは、改革派を味方につけて対立するようになった。62年、ギーズ公の部隊が、礼拝のために集合していた改革派信徒を殺害する事件が発生した。これがきっかけとなって、36年間、8次にわたる宗教戦争、いわゆるユグノー戦争がはじまった。

カトリック側の指導者にはギーズ公、アンヌ・ド・モンモランシー元帥らがおり、ユグノー側には、ブルボン公、コンデ親王、コリニーらがいた。王母で摂政のカトリーヌ・ド・メディシスは中立をたもち、両派の均衡の上に王家の威信をたかめようとし、数次にわたって寛容令を公布してユグノーに自由をあたえようとした。しかし、王家はしだいにカトリック側に近づくようになり、1572年8月にはサン・バルテルミの虐殺がおきた。

カトリック側はカトリック同盟を結成して異端撲滅をとなえ、ユグノー側は暴君の抹殺を主張し、戦いはますます激化した。社会の混乱と国土の破壊がすすむなかで、やがて都市のブルジョワや高等法院の司法官などの間から、宗教上の対立よりも王国の統一と政治的安定を重視するグループ、いわゆるポリティーク(政治)派が出現し、その影響力はしだいに大きくなった。

1585年になると、国王アンリ3世がカトリック同盟の指導者ギーズ公アンリとむすび、ユグノーの指導者となったナバーラ国王ブルボン家のアンリ(のちにアンリ4世)と対決する、「三アンリの戦」がはじまるが、過激なカトリック信徒で、また旧来からの名門貴族の特権の擁護を主張するギーズ公と国王との距離はしだいにはなれ、88年、国王アンリはギーズ公アンリを暗殺し、ナバーラ国王アンリとの協調を模索しはじめた。自己の信奉する宗派の勝利よりも、国内の統一と安定を重視する姿勢は、ポリティーク派と同じで、今度は、国王はカトリック同盟とたたかうことになった。そして89年、国王アンリ3世はカトリック修道士に暗殺された。

アンリ3世の死去によってバロワ家の直系がたえ、王位継承者として浮上したのは、ナバーラ国王ブルボン家のアンリだった。しかし、アンリがユグノーの最高指導者だったために、1589年にアンリ4世として新王の宣言をしたもののカトリック側は即位をみとめず、ユグノー戦争は、カトリック支援のためにフランスに駐留したスペイン軍をまじえて継続した。93年、アンリ4世はカトリックに改宗し、多数のカトリック信者からも正当な王位継承者としてみとめられた。ユグノー戦争は98年に公布された、ユグノーの信条の自由を基本的に容認する「ナントの王令」によって終結したが、この際の、アンリ4世の立場も基本的にはポリティーク派の立場であった。

ユグノー戦争によって明らかになったことのひとつは、王国の政治指導者にとっては宗教上の立場はあまり重要でなく、国王の任務は王国の政治的統一と社会的安定を維持することにある、ということだった。宗教改革の意義のひとつはここにあった。また国内的には、名門貴族を代表する家系がこの騒乱を通じて衰退し、ひいては旧来からの貴族層全体の影響力が低下した。以後国王は、高等法院の司法官など、売官制によって上昇した新興特権層に支援されるようになる。