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南北戦争
I. プロローグ

1861~65年、アメリカ合衆国が南北にわかれてたたかった内戦。連邦を脱退し、アメリカ南部連合を結成した南部11州と、北部23州(当時アメリカ合衆国は34州)の間でたたかわれた。南部では諸州間の戦争ともよばれる。

II. 戦争の背景

南北戦争にいたるまでの40年間、北部と南部の経済的・政治的・社会的な相違が拡大し、それとともに利害対立がはげしくなった。急速に工業化がすすんだ北部に対し、南部は農業中心の社会で、綿花・タバコ・砂糖などの商品作物を栽培し、なかでも綿花は北部やヨーロッパに輸出されて発展していた。プランテーション経済は黒人奴隷労働によって成立していたが、奴隷制は経済面だけでなく価値基準や生活様式など文化や社会のあり方にも大きな影響をあたえていた。奴隷を所有するプランター(プランテーション所有者)は少数派だったが、この階級が政治的・社会的に南部を支配していた。

1. 奴隷制をめぐる南北対立

北部で奴隷制拡大反対の気運が高まると、それまでふれることをさけてきた奴隷制問題は、しだいにさけることのできない政治課題となった。1820年に成立したミズーリ協定は、ミズーリ州以西では北緯36度30分より北の地域に奴隷制をみとめないとさだめていた。しかし、アメリカ・メキシコ戦争の結果、領土がいっきょに太平洋岸にまで拡大すると、新たな州を奴隷州とするか否かをめぐり、南北の対立が激化した。これは奴隷州と自由州の勢力バランスの問題だった。「1850年の妥協」はカリフォルニアを自由州とし、さらにニューメキシコとユタを準州にして、奴隷制をみとめるか否かは州に昇格する際に住民自らが決定するという「人民主権」の原理を導入した。

2. 高まる南北の緊張

この妥協によっても南北の対立は解決せず、自由州の増加により連邦議会で劣勢になった南部は、いっそう危機感を強めた。北東部は商工業振興のため、連邦議会に対して保護関税、海運業や国内交通網開発の国家助成、安定した銀行制度や通貨制度の確立をもとめていた。また北西部は、西部開拓民に160エーカー(約65ha)の公有地を無償で与えるホームステッド法を要求していた。南部は、こうした政策は北部の商工業発展に有利で、南部に対して差別的であると反発。さらに北部では奴隷制廃止運動が台頭し、奴隷制の拡大に反対するフリー・ソイル党が勢力をのばすと、南部の不安は高まった。

1854年、イリノイ州選出の民主党上院議員スティーブン・ダグラスがカンザス・ネブラスカ法案を提出すると、奴隷制問題をめぐる南北間の対立はさらに激化した。カンザスとネブラスカを準州としてみとめ、「人民主権」を採用する同法案は、ミズーリ協定の原則を否定するものだった。北部で抗議の声が高まる中、同年、奴隷制拡大反対を明確にうちだした共和党が結成された。57年には奴隷州に有利な、連邦最高裁判所のドレッド・スコット判決がくだされ、北部社会に大きな衝撃をあたえた(ドレッド・スコット事件)。59年、北部の黒人で熱烈な奴隷制廃止論者ジョン・ブラウンが南部奴隷の大規模な暴動を計画し、バージニア州ハーパーズ・フェリーの連邦軍武器庫を襲撃。南北間の緊張は一触即発の状態にまで高まった。

III. 南部諸州の連邦脱退と戦争勃発

1860年の大統領選挙は奴隷制をめぐる選挙となった。民主党は分裂し、南部派はジョン・ブリキンリッジを、北部派はダグラスを大統領候補に指名。南北境界州の支持で結成された立憲統一党はジョン・ベルを候補とし、共和党はリンカンを指名した。結果的に民主党の分裂が共和党を勝利にみちびいた。リンカンが当選すると、同年12月、サウスカロライナ州は連邦脱退を決議、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスがつづいた。これら7州は61年2月、アメリカ南部連合を樹立、ジェファソン・デービスを大統領に任命した。

1861年4月、サウスカロライナ州チャールストンの連邦軍サムター要塞(ようさい)を南部連合軍が砲撃、南北戦争がはじまった。リンカン大統領はただちに志願兵を募集したが、それを機に、バージニア、ノースカロライナ、アーカンソー、テネシーの4州も連邦を離脱し、南部連合にくわわった。

1861年の段階では、北部、南部とも戦争の準備はととのっていなかった。約2200万人の人口を擁する北部に対し、南部は人口900万人、そのうち400万人近くは黒人奴隷だった。両軍とも当初は志願兵でたたかっていたが、戦局がすすむにつれ徴兵にたよらざるをえなくなった。終戦までに南部では90万人の白人男性が、北部では200万人の男性が従軍した。金融や工業・食料生産力、資源、輸送能力でも北部は南部より遥かにまさり、南部はあらゆる物資の不足にくるしむことになる。

人的・物的には優位にたっていた北部だったが、伝統のある南軍(南部連合軍)はリー将軍のような有能な軍人にめぐまれ、北軍(連邦軍)がグラント将軍やシャーマン将軍をみいだすまでには、試行錯誤をへなければならなかった。

南部攻略作戦として北部世論や政治家に支持されたのは、南部連合国の首都、バージニア州リッチモンドへ陸路をいっきに進軍し、息の根をとめることだった。しかし、リンカンの軍事顧問は「アナコンダ作戦」の実行をすすめた。これは海上封鎖で南部を包囲、ヨーロッパからの物資補給路をたち、つづいてミシシッピ川を確保、さらに南部中心部へ侵入して南部を分断するというものだった。

1. 第1次ブル・ランの戦

1861年、マクダウェル将軍ひきいる兵力3万の北軍はポトマック川をわたり、バージニアに侵攻した。いっぽう南軍は、ボーリガード将軍ひきいる2万2000が首都ワシントンの約48km南西にある鉄道拠点マナサスに結集。同年7月21日、ブル・ラン川の近くで両軍ははげしくたたかったが、援軍をえた南軍に北軍は総崩れとなった(第1次ブル・ランの戦)。この戦いで屈辱的な敗北を喫し、短期決戦の困難をさとった北部は、ただちに軍を拡充強化。これに対し、自らの力を過信した南部は、長期戦の適切な準備をおこたることになる。

第1次ブル・ランの戦ののち、リンカンはマクレラン将軍を東部戦線のポトマック方面軍司令官に任命した。

2. リッチモンド攻防とアンティータムの戦

1862年の東部戦線での最大の会戦は、マクレランのひきいるポトマック軍と、南軍のジョンストン、リー、ジャクソン3将軍による、南部連合国の首都リッチモンドにおける攻防戦だった。同年春、マクレランは陸路を正面から進撃する戦術をさけ、首都南東から迂回して進軍した。5月31日、両軍は戦闘を開始、南軍が撃退され、負傷したジョンストンにかわってリー将軍が北バージニア軍司令官となる(フェア・オークスの戦)。マクレランが南軍を過大評価して追撃をためらう間、ジャクソン将軍の軍がリーの部隊と合流し、北軍に攻撃をくわえた(7日会戦、6月25日~7月1日)。この戦闘で両軍とも致命的損害はうけなかったが、マクレランは退却した。

1862年8月29~30日、第2次ブル・ランの戦で北軍はふたたび惨敗を喫し、勝利したリー将軍は9月、5万の兵をひきいてメリーランド州に侵入する。リーがこのような大胆な行動にでたのは、北部人の戦意喪失をねらっただけではなく、連邦の領土で南軍が勝利すればヨーロッパ諸国が南部連合の独立を承認するだろう、と期待したからだった。9月17日、マクレランの部隊がリー軍をむかえうったアンティータムの戦は激戦となり、死傷者は北軍1万2500(うち戦死は2108)、南軍1万500(戦死は少なくとも2700)におよんだ。劣勢となったリー軍はバージニアに退却したが、またもマクレランは追撃せず、リンカンの怒りを買って司令官の地位を解任された。

3. 東西両戦線での攻防

北軍は、東部戦線での戦況は手詰まり状態だったが、西部戦線ではかなりの戦果をおさめていた。西部戦線の目的はミシシッピ川を制圧し、南部を分断して補給をたつことにあった。1862年初め、北軍のグラント将軍はテネシー州のヘンリー要塞とドネルソン要塞をおとし、同年4月、同州シャイロでも南軍をうちやぶった。5月に南部の重要な鉄道の拠点であるミシシッピ州コリンスを陥落させ、さらに6月にはテネシー州ほぼ全域を制圧、メンフィスまでのミシシッピ川の支配権をえた。

北軍は陸上攻撃とともに、ミシシッピ川をさかのぼって水上攻撃の戦術もとる。北部海軍のファラガット提督ひきいる小艦隊は、ミシシッピ川河口の南部最大の都市で主要貿易港でもあるニューオーリンズを陥落させ、支配下においた。

東部戦線では、ポトマック方面軍の新指揮官フッカー将軍が、戦況を打破すべく1863年5月、バージニア州に進軍。リーの南軍に攻撃をしかけるが失敗した。フッカー軍のすきをつき、リーはジャクソンとともに攻撃、勝利をおさめた。このチャンセラーズビルの戦(5月2~4日)では、北軍、南軍とも大きな犠牲がでた。リーは兵力の2割とジャクソン将軍をうしなった。

東部戦線の勝利に力をえたリー将軍は、北部に軍をすすめる。これは、西部戦線で包囲された南部連合の戦況を打開する作戦だった。さらに将軍は、厭戦(えんせん)気分が高まりつつある北部が、これで和平交渉の開始に合意することをねがっていた。1863年7月1日、南軍はペンシルベニア州南部のゲティスバーグに侵入、有利な防衛態勢の北軍に、リーは各方面から攻撃をしかけるが成功しなかった。同月3日、北軍の中央を突破する正面攻撃にでるが、一斉射撃をうけ大きな損害をこうむった。将軍は後退を命じたものの、ポトマック川の氾濫で退路ははばまれた。しかし北軍が追撃をためらったために、なんとかバージニアにたどりついたが、兵の約3分の1が犠牲になり、このゲティスバーグ会戦は南北戦争の転換点となった。

西部戦線では、南軍最後の拠点としてテネシー州のビックスバーグとチャタヌーガがのこっていたが、北軍はゲティスバーグでの勝利の翌日、まずビックスバーグをグラント将軍の攻撃で陥落させ、11月にはチャタヌーガの戦に勝利、西部戦線は完全に北軍が掌握した。これで南部連合の内陸部アラバマ州、ジョージア州に進軍する道がひらかれ、1863年末までに戦局は完全に北部優位に転じた。

4. 戦争の終結

グラント将軍は1864年3月、アメリカ陸軍総司令官に任命された。グラントは、3方向からの南部連合追撃作戦をとった。(1)グラントとミードがポトマック方面軍の指揮をとってバージニアのリーとたたかい、リッチモンドをおとす。(2)シャーマン将軍の部隊は、チャタヌーガからジョージア州に侵攻しアトランタを攻略する。(3)シェリダン将軍は南軍の補給基地であるシェナンドア川流域を破壊、補給をたつ。

1864年3月、グラント将軍は兵力11万5000の北軍をひきいてリッチモンドにむかった。バージニア州のウィルダーネスの森で、6万2000人のリー軍と北軍の戦闘が開始され、両軍に多くの犠牲者がでたが勝敗はつかなかった(5月5~6日)。グラントはひきさがることなく、両軍の死闘は各地でつづいた。6月、グラントは鉄道の要所であるバージニア州ピーターズバーグに進軍。包囲戦を開始してリッチモンドへの補給路をたとうとしたが、南軍は9カ月ふみこたえる。

いっぽうシャーマン将軍は、1864年5月、9万の北軍とともにジョージア州アトランタへ進軍を開始していた。4カ月にわたる攻防戦のすえ、南軍は9月1日、ついにアトランタを放棄し退却。また同じころ、シェナンドア川流域のシェリダン将軍も南軍をうちやぶり、南軍の補給基地を支配下においた。北部はこの勝利の報にわき、リンカンは同年11月の大統領選挙で再選された。11月15日、炎につつまれたアトランタをあとにしたシャーマン将軍は沿岸部へ進撃(海への進軍)、徹底的な破壊作戦をおこなった。クリスマス前にサバナを陥落させると、南北カロライナ州に北上した。

1865年4月、ついにリッチモンドは北軍の手におちた。退却した南軍は北軍に包囲され、4月9日、リー将軍はバージニア州南西部にあるアポマトックスの郡役所でグラント将軍に降伏、ここに4年にわたった内戦は事実上幕をとじた。

5. 海上での戦闘

南北戦争開戦当時、北軍の海軍はかろうじて存在するだけだった。また当時の軍艦は公海上での戦闘用に設計されており、港湾封鎖には適さなかったため、南部の海上封鎖には新型軍艦を建造しなければならなかった。これに対し南軍は、封鎖破りの新兵器メリマック号(別名バージニア号)を登場させた。これは木造フリゲート艦に鉄の装甲板をかぶせたものだった。メリマック号との交戦によって甲鉄艦の威力が証明されると、北部も同様の軍艦の建造をすすめる。北軍にとって海軍の役割は大きかった。テネシー川やミシシッピ川の制圧、ニューオーリンズ占領のため海軍の支援は不可欠だった。いっぽう、南部の海軍力はじゅうぶんではなかったが、大西洋各海域で北部の商船を攻撃した。

IV. 南北戦争での外交戦

南部連合は、独立を諸外国、なかでもイギリスとフランスに承認させるために外交戦略を展開した。ヨーロッパの繊維産業は南部の綿花に依存していたため、海上封鎖で綿花輸出が停止すればヨーロッパ諸国は戦争に干渉する、と確信していた。しかし、この綿花外交はいくつかの点で破綻した。イギリスは開戦前に綿花を大量に備蓄して供給過剰になっており、また北部はイギリスから武器や工業製品を購入、イギリスも小麦粉を輸入し、ともに利益をあげていた。さらに1863年、奴隷解放宣言がだされると、諸外国の世論は連邦支持にかたむいた。同年以降、戦局が北部に好転したことも、南部連合が諸外国の支持をうしなう要因となった。

V. 戦争の意義

南北戦争開始当初、リンカン大統領と連邦議会は、戦争目的はあくまでも連邦の統一であることを明言していた。南北境界奴隷州の忠誠を維持するため、リンカンは奴隷制の問題を注意深くあつかっていたが、この問題をさけてとおることはできなかった。1862年9月、大統領は奴隷解放予備宣言をだし、翌63年1月1日、奴隷解放宣言を発布。この宣言は、南部連合にくわわらなかった境界奴隷州や、すでに連邦占領下にあった地域の奴隷には適用されなかったが(アメリカ全土での奴隷制廃止は、65年12月の憲法修正第13条による)、南北戦争に人道的大義をあたえ、戦争の性格をかえていくことになった。戦争では19万人近い黒人が陸海の戦闘に参加、その多くが奴隷州出身だった。

南北戦争はアメリカ史上もっとも犠牲の大きい戦争となった。終戦時の戦死者は約62万人(当時の総人口は約3500万人)、負傷者はそれ以上にのぼった。死者の80%は病死だった。戦場となった南部は壊滅的な損害をうけ、リッチモンド、チャールストン、アトランタなどの都市は荒廃し、北軍の通過地域では道路は寸断され、農場も破壊されていた。南部は奴隷制解体、南部連合公債や通貨の支払い、換金禁止、綿花の没収など、戦争によって約40億ドル相当の財産をうしなった。

戦争は連邦政府、とくに大統領の権限を拡大した。また、戦争前には連邦議会内の南部議員の反対で実施できなかったいくつもの政策が実現された。ホームステッド法、大陸横断鉄道など国内交通網の開発への政府助成、最高税率のモリル関税法などがその例である。さらに、北部の工業の機械化と資本の蓄積をうながし、軍需のための加工食品、軍服・軍靴などの大量生産がおこなわれ、こうした産業は戦後、民間向けに飛躍的に成長した。1865年までにアメリカは工業国として発展の道をあゆみはじめる。

南北戦争は約400万人の黒人に自由をもたらしたが、300年以上にもわたって奴隷制を維持してきた南部の体制や価値観は、戦争終結とともになくなったわけではなかった。そのため、人種間にはさまざまな緊張や問題が生じ、20世紀にはいってからも尾をひくことになる。