| 南北戦争 | 項目ビュー | ||||
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| II. | 戦争の背景 |
南北戦争にいたるまでの40年間、北部と南部の経済的・政治的・社会的な相違が拡大し、それとともに利害対立がはげしくなった。急速に工業化がすすんだ北部に対し、南部は農業中心の社会で、綿花・タバコ・砂糖などの商品作物を栽培し、なかでも綿花は北部やヨーロッパに輸出されて発展していた。プランテーション経済は黒人奴隷労働によって成立していたが、奴隷制は経済面だけでなく価値基準や生活様式など文化や社会のあり方にも大きな影響をあたえていた。奴隷を所有するプランター(プランテーション所有者)は少数派だったが、この階級が政治的・社会的に南部を支配していた。
| 1. | 奴隷制をめぐる南北対立 |
北部で奴隷制拡大反対の気運が高まると、それまでふれることをさけてきた奴隷制問題は、しだいにさけることのできない政治課題となった。1820年に成立したミズーリ協定は、ミズーリ州以西では北緯36度30分より北の地域に奴隷制をみとめないとさだめていた。しかし、アメリカ・メキシコ戦争の結果、領土がいっきょに太平洋岸にまで拡大すると、新たな州を奴隷州とするか否かをめぐり、南北の対立が激化した。これは奴隷州と自由州の勢力バランスの問題だった。「1850年の妥協」はカリフォルニアを自由州とし、さらにニューメキシコとユタを準州にして、奴隷制をみとめるか否かは州に昇格する際に住民自らが決定するという「人民主権」の原理を導入した。
| 2. | 高まる南北の緊張 |
この妥協によっても南北の対立は解決せず、自由州の増加により連邦議会で劣勢になった南部は、いっそう危機感を強めた。北東部は商工業振興のため、連邦議会に対して保護関税、海運業や国内交通網開発の国家助成、安定した銀行制度や通貨制度の確立をもとめていた。また北西部は、西部開拓民に160エーカー(約65ha)の公有地を無償で与えるホームステッド法を要求していた。南部は、こうした政策は北部の商工業発展に有利で、南部に対して差別的であると反発。さらに北部では奴隷制廃止運動が台頭し、奴隷制の拡大に反対するフリー・ソイル党が勢力をのばすと、南部の不安は高まった。
1854年、イリノイ州選出の民主党上院議員スティーブン・ダグラスがカンザス・ネブラスカ法案を提出すると、奴隷制問題をめぐる南北間の対立はさらに激化した。カンザスとネブラスカを準州としてみとめ、「人民主権」を採用する同法案は、ミズーリ協定の原則を否定するものだった。北部で抗議の声が高まる中、同年、奴隷制拡大反対を明確にうちだした共和党が結成された。57年には奴隷州に有利な、連邦最高裁判所のドレッド・スコット判決がくだされ、北部社会に大きな衝撃をあたえた(ドレッド・スコット事件)。59年、北部の黒人で熱烈な奴隷制廃止論者ジョン・ブラウンが南部奴隷の大規模な暴動を計画し、バージニア州ハーパーズ・フェリーの連邦軍武器庫を襲撃。南北間の緊張は一触即発の状態にまで高まった。