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難民
I. プロローグ

政治的または人種的、宗教的迫害などからのがれるために、すんでいた土地をはなれざるをえなくなった人々をいい、古くから存在した。しかし、難民の保護問題が国際社会の共通の関心事になったのは、ロシア革命後に大量の難民が発生して以来のことである。

難民の保護にあたる国際機関は、国際連盟の時代からあるが、第2次世界大戦後は、1948年に国連総会により国際避難民機関(IRO)が設立され、さらに51年以降その任務は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)がひきついでいる。

II. 難民条約

1951年の国連全権会議で採択された「難民の地位に関する条約」(難民条約)は、難民の定義を「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であること、または政治的意見を理由に、迫害をうけるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために国籍国の外にいる者で、その国籍国の保護をうけることができない者、またはその恐怖のためにその国籍国の保護をうけることをのぞまない者」(1条A項)としている。

難民と認定されれば、難民条約上の保護がうけられる。しかし、この定義によれば、経済的困窮、内乱または自然災害などの理由による者は、難民とはみとめられない。

締約国は難民を積極的にうけいれる義務まではおわないが、少なくとも迫害の予想される所に難民を追放したり、送還してはならない。これをノン・ルフールマン(追放・強制送還禁止)原則という。締約国は、難民と認定した人々に対しては、さまざまな権利を保障しなければならず、難民条約はその内容を規定している。

難民条約は当初、1951年以前に生じた事件によって難民になった人々を対象としていた。しかし、その後も各地で難民が多発したため、67年に「難民の地位に関する議定書」(難民議定書)がつくられ、時間的、地理的制限が正式に撤廃された。さらに69年、アフリカ統一機構(OAU)は、特殊事情をふまえた新たな地域条約を採択した。この条約では、それまでの難民の定義を拡大して、「外国の侵略、占領、支配、社会秩序を著しく乱す事件の発生により」国外脱出を余儀なくされた人々もくわえた。

また最近は、難民条約にさだめる難民だけでなく、天災や人災としての環境破壊、また飢餓など経済的な要因による、いわゆる「環境難民」「経済難民」が発生し、新たな問題となっている。

日本は、1981年(昭和56)に難民条約および難民議定書に加入するに際して、出入国管理令を「出入国管理及び難民認定法」にあらため、さらに日本国籍者に対象を限定していた国民年金法、児童手当法などを改正し、国籍要件を撤廃した。

III. 難民の歴史

難民の歴史は古い。さかのぼれば聖書の出エジプト記も難民の記述である。近代では、カルバン派のユグノーとよばれた人々がオランダ、スイスへ大量にのがれたり、フランス革命時に王党派の人々が移民となって流出した。

1. 第2次世界大戦前

20世紀になると、1つの事件で発生する難民の数が増大する。19世紀末からつづいたトルコからのアルメニア人難民は、殺害されたり、ロシアにのがれたりした者の数が数十万にも数百万にものぼるといわれている。

1917年のロシア革命後、革命に反対するロシア人が150万人もヨーロッパ各地に脱出し、その保護のために、21年に初代の難民高等弁務官が国際連盟によって任命された。ナチス(ナチズム)の台頭とともに、ドイツからユダヤ人難民が大量に流出し、その保護のために、33年にはドイツ難民高等弁務官が設置された。後に両者は統一され、39年に国際連盟難民高等弁務官の設置をみた。

2. 戦後世界

第2次世界大戦では、ファシズムの台頭によってドイツ、イタリアから多くの人々が追放され、戦後も東ドイツからの難民は多数にのぼる。

さらに、その後も朝鮮戦争、インドシナ戦争、中東戦争などが発生するたびに、大量の難民が発生している。なかでも、イスラエルの建国と中東戦争によるパレスティナ難民は現在300万人にのぼり、1949年には国連パレスティナ難民救済事業機関(UNRWA)が設置されている。71年のバングラデシュの独立の過程では1000万人もの難民が発生した。

1975年には、サイゴン陥落後のベトナムから海をこえて脱出するボートピープルが、さらに79年からは内戦のつづくカンボジアからもタイへ多数の人々が難民となって流出している。80年代にはソ連のアフガニスタン侵攻やその後の内戦でパキスタンとイランに流出したアフガニスタン難民は500万人に達し、イラクのクルド人やイスラム教シーア派の人々、イラン人などが戦争や政治的弾圧で故国をはなれた。

このように、紛争がおこるたびに難民の発生は後をたたない。近年では、戦乱などによってルワンダ、ソマリア、チャド、スーダン、リベリアなどのアフリカ諸国、中東と中央アジア諸国、そして東ティモールなど東南アジアでも、国境をこえた難民だけではなく、国内にとどまっているが難民と同じ状況にある国内避難民が発生している。

また、中南米・カリブ海地域では、1959年のキューバ革命後に多くのキューバ人がアメリカや中南米諸国あるいはスペインへ脱出、70~80年代にはチリ、アルゼンチン、ニカラグア、エルサルバドルから難民が流出した。さらに、ソ連・東欧諸国の社会主義体制の崩壊にともない、新たな民族紛争がもとになり膨大な国内避難民などが生じている。

IV. 国際的難民支援

現在地球上には50億をこえる人々が生きている。そのうち、難民の人数は、UNHCRが支援する人々を合計した数値によると、2002年1月1日現在、概数でアフリカ417万、アジア882万、オセアニア8万、ヨーロッパ486万、北米109万、中南米・カリブ海地域77万で、世界全体では2000万人弱である(避難民、その他の援助対象者をふくむ)。

これにUNRWAが支援する約300万人をくわえると3000万人である。さらに、世界には2600万人の国内避難民がいるという。したがって、全人類のおよそ100人に1人は難民である。

難民は、着の身着のままでのがれてくる。中央政府の行政のゆきとどかない周辺から周辺への移動が多く、教育も満足にうけていない場合が多い。とくに、戦乱からのがれてくる場合などは、成人男子は兵にとられているために少なく、老人、女性、子供が圧倒的である。そのために、自給自活能力に欠け、外部支援が必要とされてくる。こうした難民を一手にひきうけてきたUNHCRの年間予算は、ここ数年来毎年10億ドルをこえている。

UNHCRは、最近では、ベトナム難民国際会議、カンボジア難民国際会議、アフリカ難民国際会議のように個別に会議を開催して、国際救援活動全体の円滑化をはかろうとつとめている。

国際機関では、WFP(世界食糧計画)、ICRC(赤十字国際委員会)(赤十字)、IOM(国際移住機構)、UNICEF(国連児童基金)、そして海外や地元のNGO(非政府組織)がUNHCRと協力してきめ細かい援助をおこなっている。

V. 今日の難民問題

難民問題の解決の第1は、本国への自主帰還である。アフリカでは、130万人のモザンビーク難民の帰国に成功したと報告されている。しかし、難民となった原因を考えると、この方法をすべての難民にあてはめるのは、いちじるしい困難をともなう。

第2に、第1次庇護国での定住が考えられる。アフリカの伝統的政治・社会体系においては、歴史的にみると、この解決策がとられる場合が多かった。しかし、難民の発生状況をみると、発展途上国が圧倒的に多く、近隣の第1次庇護国も、貧困・失業など深刻な問題を国内にかかえている。

そのうえ、マレーシアのように多民族国家特有の悩みをもつ国も少なくない。オーストラリアやEU(ヨーロッパ連合)諸国など避難民をうけいれてきた国でも反対運動や法的な規制がおきている。逆に日本のように、「単一民族国家」という特殊な社会なので難民が社会に適合するのは困難であるとして、難民の定住をしぶる国もある。

第3に、第三国での定住がある。これは、定住先の言語の違い、生活や文化への適応に困難があることなどから難民問題の解決策としては一般に最後の手段としてつかわれる。大規模な第三国定住の例としては、インドシナ難民があげられる。これは国際的な取り決めをもとに西側諸国が実施し成果をあげたもので、今後に生かされるべきものであるが、同時に定住枠のいたずらな拡大は、かえって難民を流出させる誘因になりかねないことや、定住受け入れ国の負担などの問題もある。

こうした難民問題の具体的解決法とともに、より根本的には、難民を流出させる政治的、経済的、宗教的、民族的緊張の原因そのものに対処しなければならないという主張がふえているのは、いうまでもない。

21世紀は難民の世紀だといわれる。こうした「予言」の背景には、問題は、難民個人にあるのではなく、彼らを生みだし、彼らを拒絶する国家こそ問題なのだという認識があることを知らねばならない。

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