| 医学 | 項目ビュー | ||||
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| III. | 古代医学 |
先史時代と同様、多くの国や地方で、病気の元は悪霊だと考えられていたが、独自の医学も発達していった。
| 1. | エジプト |
古代のエジプトにおける医学についての基本的な考え方は、経験と観察にもとづいた合理的なものだった。皮膚や目など、観察しやすい部分は、医師が合理的な治療にあたった。しかし、体内の組織の病気については、聖職者でもある魔術師の祈祷(きとう)が中心だった。前2900年ごろの初期王朝時代には、科学者の祖となる医師たちがあらわれた。彼らは、神殿に付属する学校で問診、検査、触診の訓練をうけた。なかでも、ピラミッドの設計者としても知られるイムヘテプは、のちに医神としてあがめられる。現存するパピルス文書によると、当時は900種近い処方がつくられていた。たとえば、下剤にはイチジク、ナツメヤシ、ヒマシ油がよくもちいられた。
前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスによれば、古代エジプトでは歯科は重視されていたが、外科のレベルは低かった。前3世紀になると、ギリシャ医学がエジプトで発展する。イムへテプ以来の生理学および病理学の研究がおこなわれた。前7世紀ごろのギリシャの哲学者タレスは、すべてのものの元は水だと考えたが、それは、アレクサンドリアで活躍したギリシャの解剖学者ヘロフィロスにも影響をあたえた。
| 2. | メソポタミア |
バビロニア、アッシリアの支配したこの地域では、病気は罪に対して神があたえる罰だと考えられていた。したがって診断には、占いで神の意志をうかがった。とくに占星術が発達していたが、ほかに夢占い、肝臓占い(魂は肝臓にやどるとされていた)もよくおこなわれた。治療には500種類以上の薬品がもちいられた。前18世紀のハンムラピ法典には、医療行為、医療過誤について規定した記述がある。
| 3. | パレスティナ |
バビロニアやアッシリアの支配をうけていたため、その影響が大きい。したがって、病気は神の怒りの表れと考えられていた。聖職者は公衆衛生に責任があった。また、助産婦(助産師)の地位がみとめられていた。旧約聖書では、病気の予防を強調している。
| 4. | インド |
古代インドの医学には、アーユル・ベーダという大きな思想体系が確立していた。この思想は、病気を治療することだけではなく、幸福に長生きすることを目的としている。この世は3つの要素でできており、そのバランスがくずれた状態を病気という。したがって、バランスを回復すれば病気はなおる、というのが具体的な考え方である。この体系にもとづいた医書を、2世紀ごろのチャラカと、4世紀ごろスシュルタがそれぞれ書きのこしている。
臨床的な知識はかなりすすんでおり、マラリア、結核、糖尿病などをはっきり診断することができた。毒物についての知識も豊富で、とくに毒蛇に対しては解毒薬などももちいられていた。薬の種類は多く、タイマ、ヒヨスからは麻酔薬(→ 麻酔)がつくられた。また、現在の精神安定剤の元となる薬もつかわれていた。手術の技術もすぐれており、古代医学の中ではもっとも高度な外科の技術をほこっていた。世界ではじめて皮膚移植と鼻の形成外科手術に成功したのは、古代インド医学だといわれる。
のちに仏教の不殺生の思想がひろがり、手術はきらわれるようになった。体にメスをいれられないため、解剖学に関する知識はとぼしい。11世紀にイスラムの支配をうけると、インド医学はおとろえていった。しかし、衛生学、食事療法、優生学など、インドのすぐれた知識は、アラブ人によってヨーロッパにつたえられていく。
| 5. | 中国 |
殷(商)時代は、病気は祖先の怒りによっておこると考えられ、呪術による治療がおこなわれた。次の周代には、医学の知識が発達し、専門化もすすみ、中国医学をささえる思想が体系化された。中国医学の思想は、陰陽五行説にもとづいている。この説は、万物は陰と陽から生みだされ、木、火、土、金、水の5つの基本要素からなりたっているという。医学にもとりいれられ、病気は体の5つの器官の5つの要素のバランスがくずれたときにおこるとされる。漢代にはこの思想体系が医学書「黄帝内経」にまとめられた。
中国では、宗教的な理由で解剖は禁止されていたため、人体の構造や働きに関する知識はとぼしい。治療は薬をもちいる内科的療法を中心に、マッサージ、吸角法、鍼や灸(→ 鍼療法)などがおこなわれた。吸角法は、カップを皮膚に密着させて中を真空にし、血液を皮膚の表面近くまですいあげ血行をよくする方法である。鍼・灸療法はリウマチなどの治療に利用された。薬物の知識は豊富で、動物の組織や分泌物、鉱物、植物からさまざまな薬が調合された。おもな薬には大黄、トリカブト、硫黄、ヒ素、アヘン(→ ケシ)がある。後漢末期には、「傷寒論」という薬の処方集がまとめられた。→ 漢方治療:気功
| 6. | ギリシャ |
ギリシャでは、アポロン神が治療をつかさどるとされていた。前5世紀に、アポロンにかわってアスクレピオスが医神となった。ヨーロッパ各地にアスクレピオスの寺院がつくられ、聖職者が治療をおこなった。しかし、ホメロスの詩篇には宗教とは一線を画した医師が登場し、外科療法をおこなっており、内科と外科がはっきり区別されていたことがわかる。前6世紀には医学は宗教から完全にはなれ、臨床的な観察と経験を重視するようになった。また、ギリシャ医学の特徴として、哲学との結び付きが深い。哲学者エンペドクレスは、この世界は、空気、水、火、土の4つの基本元素でなりたっているとした。そして4元素に4つの体液(血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁)を対応させ、この調和がくずれたときに病気になると考えた。また、進化の基本的な論理をうちたてた。
ギリシャ医学でもっとも重要な人物は、「医学の父」といわれるヒッポクラテスである。その考え方はエンペドクレスの4体液説にもとづいており、患者の体全体を治療するのが基本的な態度である。外科的治療よりも自然の治癒力、理論よりも実際面を重視したヒッポクラテスの医の倫理は、人間愛にあふれていた。それは「ヒッポクラテスの誓い」として現在までつたわっている。
前3世紀には、ギリシャ医学の中心は、エジプトのアレクサンドリアにうつった。ヘロフィロスは人体の解剖を、エラシストラトスは脳、神経、動脈、静脈の解剖をおこない、すぐれた記録を書きのこしている。その後、経験主義派が生まれ、とくに、外科と薬理学は大きく発展した。
| 7. | ローマ |
ローマ独自の医学はほとんど発展せず、ギリシャ医学にたよらざるをえなかった。前1世紀、ローマでギリシャ医学を確立したのは、アスクレピアデスである。彼は体液理論には反対し、体は互いに連絡のない原子によってできていると考えた。そして、この原子の規則ただしい運動がさまたげられたとき、病気になるとした。薬物療法よりも、運動、入浴、食事療法を重視した。著述家ケルススは、外科、皮膚科の記述にすぐれた百科全書をあらわした。ディオスコリデスは、はじめて薬用植物を科学的に研究し、薬物学の父といわれている。ソラヌスは産科学と婦人科学に貢献した。
ヒッポクラテス以後、もっとも重要な人物はガレノスである。解剖学的な知識は、動物の解剖をもとにしているため完全なものではないが、筋肉と脊髄の仕組みと働きを明らかにした功績は大きい。生理学的な研究にもすぐれ、神経の働きなどをたしかめた。また、血液は肝臓からでた静脈と、心臓からでた動脈をとおって末梢へはこばれる。一部の血液は右心室から肺へいき、残りは右心室から左心室へながれると考えた。血液の流れに関するこの説は、誤りであるにもかかわらず、17世紀まで多くの学者に信じられていた。また、どんな傷も、なおる途中で化膿するという理論も19世紀まで否定されなかったため、消毒法の発達をさまたげた。
ローマ医学の最大の功績は、公衆衛生である。上下水道、公衆浴場、病院などの設備は、近代まで、ローマをこえるものはあらわれなかった。