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陶磁器
I. プロローグ

窯(かま)などで焼成することによって、半永久的に硬質化した土製品。陶器と磁器。「焼き物」「セラミックス」ともよばれる。セラミックスの語源は、「陶工の土」を意味するギリシャ語の「ケラモス」である。陶磁器の種類や性質は、原料となる土の成分や調合方法、焼成する温度や方法、仕上げや装飾のための釉薬などによってさまざまに変化する。

II. 種類と製法

陶磁器には、大きくわけて、土器、陶器、炻器(せっき)、磁器の4種類がある。土器は素地(きじ)に空気を多くふくんだ多孔質の焼き物で、ふつう700~800°Cくらいの低火度で焼成される。吸水率が高く、衝撃に対してもろい。素地は、赤、褐、淡黄、黒などの色をし、一般に釉薬はかけられない。古代、中世の焼き物のほとんどは土器質で、これが日常生活の中心であった。

陶器は、900~1200°Cくらいの比較的高温で焼成され、釉薬がかけられる。土器にくらべると、耐水性が高く、丈夫である。釉薬には人工的にかけられたものと、窯の中で灰などがふりそそいでとけた自然釉とがある。炻器は土器や陶器よりもさらに硬質で、1200~1280°Cくらいの高温で焼きしめられる。素地は白、灰、淡黄、赤などの色をし、釉薬がほどこされることもある。炻器を最初につくったのは古代中国で、14世紀以降には北ヨーロッパでもつくられるようになった。

磁器は白陶土とよばれるカオリン、長石、珪石などを主原料にし、1280~1400°Cくらいの高火度で焼成される。素地は白く、わずかに透光性がある。ひじょうに硬質で、たたくと金属的な音がする。磁器質の焼き物を創始したのも中国で、磁器のことを英語で「チャイナ」という。

ヨーロッパでは中国の磁器を模倣しようという試みがくりかえされたが、本格的に磁器がつくられるようになったのは18世紀初頭であった。ドイツのマイセン窯(マイセン磁器)にはじまり、またたく間にひろまった近代ヨーロッパの磁器は、中国の磁器にくらべるとがいして硬質である。18世紀半ばには、イギリスでボーン・チャイナ(骨灰磁器)が開発された。これは、焼いて生石灰にした牛骨、つまり燐酸カルシウムを素地の土にまぜて、焼成時の安定性と白さ、半透明性を高めた新しい種類の磁器である。

1. 土の準備と成形

素地となる土を用意するには、まず、土にふくまれている小石などのあらい不純物をとりのぞかねばならない。さらに、水をくわえてかきまぜながらとかし、より細かな不純物をとりのぞき、精製する。このように、水をくわえて粒子の細かい土をつくることを水簸(すいひ)という。水簸は、必要に応じて数度にわたっておこなわれることがある。こうして精製された土をそのままつかう場合もあれば、数種類の土をねりあわせることもある。また、砂やきめの細かい石、すりつぶした貝殻、あるいは一度焼いた粘土を粉砕してつくった土などをまぜることもある。土をよくねることによって、土中から空気をぬき、焼成時の破裂をふせぐ。

陶磁器の成形には数多くの伝統的な方法がある。道具をつかわず土の塊(かたまり)から直接つくりだす手捻(てびねり)、紐(ひも)状にのばした土をまきあげたり輪状につんでつくる紐作り、板状にのばした土をつぎあわせる板作りや、回転台やろくろをもちいる方法がある。また、石や籠、土や石膏(せっこう)の型の内側や外側に土をおしつけてつくる型作り、液状にした土を型にながしこんでつくる方法もある。実際には、これらの方法をくみあわせる場合が多い。

ろくろは前4千年紀に発明され、陶工は自由自在に陶磁器を成形できるようになった。ろくろには、手でまわす手回しろくろのほか、棒でついてうごかすろくろ、ろくろの下方につけたはずみ車を足でけってまわす蹴(け)りろくろなどがある。陶工自身がまわすほか、助手がまわすものもある。20世紀には、モーターでまわす電動ろくろが開発され、回転速度が自在に調整できるようになった。

2. 乾燥と焼成

焼成中にひびがはいったり割れたりするのをふせぐため、陶磁器は焼成前に空気乾燥させなくてはならない。素地がじゅうぶんに乾燥し、通気性、柔軟性にとんでいれば、650~750°Cほどの低火度で焼成できる。これを素焼(すやき)という。簡単な土器は今でもこの方法でつくられる。窯が最初にもちいられたのは前6千年紀であった。窯には、炎が床の孔をとおって垂直にあがる簡単な構造の窖窯(あながま)から、山の斜面を利用した大規模な登窯、大量生産にむいたトンネル窯などいろいろな種類がある。燃料は長い間、薪(まき)が中心であったが、やがて石炭がもちいられるようになり、重油、ガス、電気も利用されている。

焼成方法には、大きくわけて酸化炎焼成と還元炎焼成がある。炎にじゅうぶんな空気をあたえた強い炎の酸化炎と、窯の通風孔を部分的にふさいで酸素をへらした還元炎をつかいわけることによって、同じ陶磁器の仕上がりにも違いがでる。たとえば、鉄分の多い土は酸化炎で特徴のある赤色に、反対に還元炎では灰色あるいは黒になる。還元炎焼成では土の中の酸素原子が炎にあたえられるため、赤い酸化鉄が黒い酸化鉄に変化する。

3. 素地の装飾

陶磁器は、焼成の前後に装飾ができる。素地が半乾燥して革のような固さのときには、貼付(はりつけ)やスタンプ、彫刻や線刻、透かし彫りなどの技法で文様がつけられる。器壁は、けずったり研磨することで滑らかに、かつうすくなる。研磨は焼成後にもおこなわれる。また、スリップ(泥漿:でいしょう)という、あらい粒子を漉(こ)してとりのぞいたクリーム状の土をもちいることもある。スリップには色がつけられることもある。スリップは完全に乾燥してかたくなった陶磁器にかけたり、刷毛(はけ)でぬったり、注口付きの容器やスポイトのような道具で流しがけされる。先端のとがった道具でスリップをかきおとし、素地をみせて文様をあらわす技法は、スグラッフィート(掻落し:かきおとし)として知られている。

4. 釉薬

釉薬は一種のガラスで、ガラスを組成している珪砂などの鉱物に、鉛、灰、ソーダ、錫(すず)などの融和剤をくわえてつくられる。釉(うわぐすり)ともいう。釉薬は焼成されると成分がとけてガラス化し、陶磁器は吸水性がなくなり、表面が平滑になり、そして装飾される。釉薬は焼成する前か、素焼をしたのちにかけられる。釉薬には多くの種類があり、素地の色を強めたり、素地をすっかりおおいかくしたりする。

中東地域でよくもちいられるアルカリ釉は光沢があり、しばしば半透明の状態になる。この釉は、主として珪土や硝石、硝酸カリウムのようなソーダでつくられている。鉛釉は透明で、硫化物あるいは鉛の酸化物で融和させた砂でつくられ、伝統的に多くの種類がある。鉛釉は古代ローマ、中国、それに中世ヨーロッパで盛んにもちいられ、現在も世界じゅうでつかわれている。錫釉は不透明で白色をし、中世イスラム世界の陶工たちによって開発され、スペインのラスター彩陶器、イタリアのマヨリカ陶器、それにヨーロッパのファイアンスやデルフト陶器などにもちいられた。

釉薬に色をつけるには、金属酸化物を呈色剤としてくわえる。銅は酸化炎で焼成されると、鉛釉を緑色、灰釉を青色、アルカリ釉をトルコ・ブルーにかえ、還元炎では赤くなる。鉄は、酸化炎で黄、褐、黄金色などになり、還元炎では青や灰緑の青磁釉となる。そのほか、アンチモンによる黄、コバルトによる青、マンガンによる紫など、さまざまな色釉がある。長石は高温でのみとけるため、炻器や磁器にもちいられる。素地となる土と釉薬の組成、その組み合わせ、窯の操作などによって、陶磁器の仕上がりは千差万別である。

5. 釉下彩と上絵付

陶磁器にほどこす絵付(えつけ)には、青花(染付)磁器のような透明釉の下にえがく釉下彩と、色絵磁器のような釉の上にえがく上絵付の2種類があり、両者を併用する場合もある。釉下彩では、釉下にえがくコバルト、銅、マンガンなどの金属酸化物の色を釉や素地に定着させるために、多少高い温度で焼成する必要がある。いったん焼成したあとの釉の上に精製されたエナメル顔料をもちいる上絵付では、エナメルと釉を融和させるために上絵窯で低温で焼きつけなくてはならない。

商業的に量産される陶磁器の絵付には、しばしば銅版転写などの印刷の手法がもちいられる。銅版転写は、紙に印刷された文様に酸化物をつけ、しめっているうちに陶磁器にうつしとる方法である。18世紀の印版は手作業による銅版だったが、現在ではリトグラフや写真版がもちいられている。

中国では15世紀以来、ヨーロッパでは18世紀から、製品の識別のためにさまざまな窯印やマークがもちいられてきた。また、古代ギリシャの陶工や陶画工、イスラム世界の陶工、それに20世紀の陶芸家たちの多くは、自らの作品に個人的に署名をのこしている。これらは、陶磁器のつくられた時代や生産地などを鑑定する際の重要な手掛かりとなる。しかし、著名で高価な陶磁器の場合は、しばしば窯印やマークが模倣、偽造されるため、慎重な調査研究が必要である。

III. 東アジア

東アジアにおいて、歴史的に陶磁器生産の中心となったのは、中国、朝鮮、日本である。

1. 中国

中国で最古の焼き物は、新石器時代の紅陶である。紅陶は紐作りで、酸化炎で焼成されたため、素地が赤みをおびている土器である。つづいて、還元炎で焼成され、素地が灰色の灰陶(かいとう)があらわれた。精製した土を黄褐色や赤茶色に焼き、その上に鉱物顔料を刷毛でぬって文様をほどこした彩陶(彩文土器の一種)は、中国のひろい範囲でつくられた。新石器時代後半(前2千年紀)には、山東省や江蘇省の竜山文化で、ろくろをもちい、器壁がうすく、黒色の化粧土をていねいにみがいた黒陶が出現した。また、精良な白い土をもちいた白陶がつくられたのもこのころである。初期の窯は簡単な窖窯が多かったが、すでに酸化炎と還元炎をつかいわけていた。

1.A. 殷代

殷(いん)代(前17世紀頃~前11世紀半ば)の焼き物には基本的に4つのタイプがあり、そのほとんどが首都であった殷墟(現在の河南省安陽市)で発見されている。そのひとつは、新石器時代からの実用品であった縄蓆文(じょうせきもん)や幾何学文をほどこしたあらい灰陶である。2つ目は、暗灰色の土で青銅器を模倣した焼き物。3つ目は、青銅器を思わせるようなうつくしい彫刻装飾のある白陶。そして最後は、原始瓷器(しき)とよばれる灰釉のかかった炻器である。これは、器に灰をぬり高温で焼成することによって釉を発生させたもので、のちの青磁の始まりとして注目される。殷代は、青銅器が独特の発達をとげたことで知られるが、青銅器を鋳造するためにもちいられた高品質の土製の型も発見されている。

1.B. 殷代から六朝時代

殷代の焼き物は、白陶以外、すべて周代(前1050?~前256)にひきつがれた。戦国時代(前453~前221)には鉛釉が開発され、銅を呈色剤とした褐釉がとりいれられた。とくに中国の南方では青みをおびた褐釉炻器が流行し、洗練された形のものがつくられた。

1974年、秦(前221~前206)の始皇陵から発見されたテラコッタ(素焼き)の兵馬俑(へいばよう)の数々は、古代中国の陶芸に関する認識を大きくかえた。ここには、6000体以上におよぶ等身大の兵士と馬による皇帝の軍団が、当時の軍隊の隊列そのままの形でうめられていた。兵士たちの像はうつくしく理想化され、それぞれが微妙にことなった衣装をつけている。全体にあらい灰色の土で成形されているが、頭部と両手は別に焼成され、つけられている。今では大半が剥落(はくらく)してしまっているが、像には鮮やかな鉱物顔料がぬられていた。こうした墓に副葬するためにつくられた人物や動物像、器物などを明器(めいき)といい、とくに人の形をしたものを俑とよぶ。

漢代(前202~後220)は明器が大流行し、大量に生産された時代であった。褐釉や緑釉をかけられた明器のほか、絵具をぬっただけの加彩という技法のものもあった。明器には俑や動物像のほか、高層の楼閣や豚や鳥のいる家畜小屋、ストーブのような道具までいろいろなものが再現されており、当時の人々の日常生活を知るうえで貴重である。また、磚(せん)とよばれる煉瓦(れんが)にも、人々の生活のようすがえがかれているものがある。そのほか、漢代の末に中国南部で、灰釉陶からはやくも原始的な青磁が生みだされたのが注目される。

青磁が完成したのは、六朝時代(220~589)であった。青磁は半透明の鉄顔料による釉を還元炎焼成して、灰、青白、あるいは緑や緑褐色に発色させた焼き物である。この時代、古越磁とよばれる越州窯(えっしゅうよう)青磁が人気を博した。越州窯は器形の種類も多く、壺(つぼ)、水注(すいちゅう)、皿などは輪郭線が繊細で、簡単な刻線や型押しの装飾がつけられている。それまでの焼き物にくらべると、青銅器や他の金属器の形の影響があまりみられない。やがて河北でも青磁が焼かれるようになり、6世紀ごろには初期的な白磁がつくられた。中国は、ヨーロッパにさきんじること1200年もはやく、磁器をつくりだした。

1.C. 唐代と宋代

唐代(618~907)には鉛釉の技術がいちだんと向上し、緑や褐色のほか、黄や白、藍(あい)などの釉薬がくわわった。明器の生産がますます盛んになり、これらの多彩な釉を精良な白色の素地にほどこした唐三彩はこの時代を代表する陶器である。国土の拡張を反映して、唐三彩の明器には中央アジアからの影響がみられる。唐代の後半には、窯業地が国内各地にひろまり、青磁、白磁、黒釉陶器が発達した。とくに青磁は、インド、東南アジア、それにイスラム世界に輸出され、各地の窯業に強い影響をあたえた。著名な窯業地としては、河北省の荊州窯、定窯(ていよう)、浙江省の越州窯、湖南省の長沙窯(ちょうさよう)などがある。

あらゆる芸術が開花した宋代(960~1279)は、中国陶磁史においてもっとも偉大な時代である。個性的な窯業地が国内にさらにひろがり、それぞれにすぐれた陶磁器を生みだした。唐代以来の釉薬や陶技は洗練をきわめた。器形は優美で、型押し、彫り、絵付などの技法で、竜や魚、ハス、ボタンなどの文様がほどこされた。これらの文様は宮廷画家たちのこのんだ主題で、それぞれに暗喩(あんゆ)があった。白磁を大量に生産したのは、河北省の定窯と江西省の景徳鎮窯であった。とくに定窯は、繊細で張りのある印刻文様をほどこした象牙(ぞうげ)のようなうつくしい白磁で知られた。定窯の白磁は当時の宮廷貴族たちに高く賞賛されたばかりか、今日にいたるまで世界でもっとも評価の高い焼き物のひとつである。

青磁では、河南省の汝窯(じょよう)、鈞窯(きんよう)、陝西省の耀州窯、浙江省の竜泉窯などがそれぞれ特色ある製品を生みだした。汝窯は明るい灰青色の釉がかかった炻器で、釉表面にはいった細かい貫入(かんにゅう:ひび)がうつくしい。鈞窯は、青からラベンダー色までの微妙な諧調のあつい青磁釉の上に、銅の赤や紫で斑点や流しがけがくわえられた。とくに、宮廷御用のための植木鉢や水盤は鈞窯の名品である。南宋の竜泉窯は、明るい青緑色の玉(ぎょく)のような青磁釉を生みだし、数多くの製品が輸出された。形は古代の青銅器にならったものから、中東の金属器やガラス器の影響をうけたものまで豊富である。

江西省の吉州窯は天目茶碗や黒釉陶で知られ、インドネシアや東南アジア、フィリピンなどに輸出された。福建省の建窯も黒褐釉陶で有名である。宋代後半に発達したのは河北の磁州窯で、白化粧の上に鉄絵具で大胆な筆致の絵付をほどこしたり、掻落し、彫文、線刻、印刻、型押しなどの技法を駆使して変化にとんだ製品を生みだした。磁州窯のやきものは幅ひろく人気をあつめ、あらゆる社会階層でもちいられた。

1.D. 元代と明代

13世紀中葉、中国はモンゴル(蒙古)族に征服されて、陶磁器にも新たな西方からの影響がおよんだ。元朝(1271~1368)では、拡大しつつある輸出市場にむけた生産がおこなわれ、がいして焼き物は大型化し、重くなった。

中国各地の窯業地の中でも景徳鎮窯が急速に繁栄し、他を圧していった。景徳鎮窯で完成された透明釉の下にコバルトの青で文様をえがく青花(染付)磁器は、以後長く内外で人気を博した。青花にもちいられる酸化コバルトは、中国国内で供給されるようになるまでイランから輸入された。元の青花磁器は、青の発色、線描ともに力強く、しかも図柄が自由奔放で溌剌(はつらつ)としており、今日もなお評価の高い焼き物である。同じく、釉下にほどこした銅の赤によって文様をえがく釉裏紅(ゆうりこう)も、この時代に開発された技法である。

青花は明代(1368~1644)の主要輸出品となった。16世紀のヨーロッパで愛好され、17世紀後半にはヨーロッパへの輸出が最高潮に達した。景徳鎮には宮廷用の陶磁器をつくる官窯が確立され、以後の各時代を代表するような高品質の製品が生みだされた。宮廷からは、渦巻や果実、花、人物のいる風景など、ひじょうにさまざまな新しい意匠が提供された。また、陶磁器には皇帝の治世をしめす銘款がいれられるようになり、すぐれた作品の銘款は後世しばしば模倣された。多彩色の磁器や単色釉磁器、白磁も、明代に発達した。とくに、青花による輪郭線の中に、赤、緑、黄色などのエナメルで上絵付した豆彩(闘彩)は、絵付が繊細できわめてうつくしい。この技法は五彩(赤絵)ともよばれ、明代末期に独特の作風を展開した。

1.E. 清代

明末清初の動乱期に一時衰退した景徳鎮は、清朝(1644~1912)になって復興し、数々の伝統的な技法を再現するとともに、新たな釉薬や技法を開発した。粉彩(琺瑯彩ともいう)とよばれるエナメル彩色技法は、五彩の一種で、七宝の上絵具をもちいた。これはヨーロッパで「ファミーユ・ローズ」ともてはやされた。中心となる色は繊細で不透明なピンク色で、その金属顔料はコロイド状の金からとられた。粉彩によって、陶磁器にも油絵のような陰影のある細密で精確な絵付が可能となった。そのほかの多彩色のエナメル絵付には、緑、黄色、それに茄子紺(ファミーユ・ベルト)や、それから派生した黒地(ファミーユ・ノワール)、黄地(ファミーユ・ジョーン)などがあった。

単色釉では、明代に人気があった銅の赤による牛血紅や桃花紅などが復活し、宋代の青磁もほぼ完全に再現された。中国南部の福建省の徳化窯や江蘇省の宜興窯(ぎこうよう)などでは、白磁の人形や赤色炻器の急須などの茶器が大量に生産され、ヨーロッパに輸出された。ひじょうに高い技術的水準に達した清代の陶磁器は、18世紀のヨーロッパで熱狂的に収集された。しかし、清代末期までには、古いモティーフや器形の繰り返しによっていきづまり、中国はもはやヨーロッパで大量に生産される陶磁器に対抗できなくなった。

2. 朝鮮

朝鮮の焼き物は、つねに中国からの強い影響をうけて発達したが、たんなる模倣を脱し、独自の世界をつくりあげている。朝鮮半島では、おそくとも前4000年ごろに土器がつくられはじめ、やがて櫛(くし)状の道具で平行刻線をつけた櫛目文土器があらわれた。その後、前1千年紀初頭には、中国の影響をうけた黒陶、紅陶がつくられた。紀元前後には、ろくろをもちい、高火度で焼成した灰陶の一種、金海式土器があらわれた。

高句麗、新羅、百済の3つの国が鼎立(ていりつ)した三国時代(4世紀から7世紀後半)には、それぞれの地方色があらわれ、とくに新羅でつくられた土偶のついた灰陶や、カモや騎馬人物などをかたどった土器はよく知られている。これらは、日本の須恵器の母体となった焼き物である。緑釉の始まりは中国にくらべておくれ、現在のところ、7世紀ごろとみられている。統一新羅王朝(668~935)を特徴づけるのは、骨壺として墓から出土する灰色硬質炻器で、これには黄褐、緑褐の鉛釉がかけられたものがあった。

中国の宋代の影響の強い高麗時代(918~1392)には、中国の越州窯の影響をうけて青磁がつくられはじめ、独自の発達をとげた。とくに品格の高いうつくしい青磁は、翡色(ひしょく)青磁とよばれ、高麗の貴族たちの間で賞賛された。青磁には、高麗独特の象嵌(ぞうがん)技法で文様がほどこされた象嵌青磁のほか、鉄絵、辰砂(しんしゃ)などの多彩な装飾技法を駆使して鳥や花などの上品な文様がほどこされた。

象嵌青磁の技法は、朝鮮(李氏朝鮮)時代(1392~1910)にはいって、粉青沙器(粉粧灰青沙器)という焼き物にひきつがれた。粉青沙器は日本では三島ともよばれ、白泥のスリップで化粧がけをほどこした炻器である。釉薬や技法は青磁とよく似ているが、象嵌や印刻などによって、より自由奔放で素朴な文様がほどこされている。日本の茶の湯で賞賛される井戸や粉引(こひき)などの高麗茶碗もこの仲間である。儒教が重んじられた李氏朝鮮時代には白がとうとばれ、白磁が大量に生産された。朝鮮の白磁は、中国の白磁にくらべると、釉調や器形に柔らかみがあり、簡素ながら品格が高い。また、青花や茶褐色の鉄絵、赤い辰砂による絵付にも、独特の伸びやかさがある。小品では、筆筒(ひっとう)や筆架(ひっか)、水滴(すいてき)など、文人好みのさまざまな文房具が白磁でつくられ、青花で風情のある意匠がえがかれた。

3. 日本

日本で最古の焼き物は、縄文時代(前1万1000頃~前400頃)につくられた縄文土器である。縄文土器は、器表面に縄や、縄をさらにむすんだりよじったりしたものをころがして文様をつけたところからこうよばれる。このほか、小枝をきざんだようなもの、爪(つめ)状のもの、貝殻などももちいられた。この方法によって、世界の新石器時代の土器の中でも、おどろくほど多種多様で独創的な文様が生みだされた。また、口縁部に火炎を思わせるような突起状の装飾や、ヘビや人形のような装飾をはりつけた土器も発達した。

特殊な器や呪術(じゅじゅつ)的な土偶にはていねいにみがいたり、ウルシや赤い酸化鉄をぬったものもある。一般に低火度で焼成され、色は赤褐色から黒っぽいものまでさまざまである。器形は圧倒的に深鉢が多いが、時代がくだるにつれて、浅鉢、注口土器、吊手(つりて)土器など、種類がふえる。1万年以上におよぶ縄文時代は、全国各地で特徴のある土器様式が次々と生まれ、土器編年をもとに草創期から晩期までの6期に区分されている。

弥生時代(前400頃~後250頃)には、縄文土器とは際だった対照をみせる弥生土器がつくられた。弥生土器にはろくろがもちいられ、器形は簡潔でバランスがとれている。滑らかな器表面には線刻や簡単な貼付文様のほかは、ほとんど装飾がほどこされない。低火度の酸化炎で焼成され、器表面は黄や淡褐色を呈し、ときに朱がぬられることもあった。弥生土器は朝鮮半島から九州にわたってきた渡来系の人々とその技術でつくられ、しだいに東日本にもひろまっていった。弥生土器の名前は、このタイプの土器が最初に発見された東京都文京区弥生町の名にもとづいている。

古墳時代(3世紀末~7世紀)には、2種類の焼き物が発達した。ひとつは弥生土器の系統をひく土師器(はじき)とよばれる無釉で赤焼きの焼き物である。現在も「かわらけ」とよばれている土器は、この仲間である。土師器は、日常の食器としてもちいられたほか、祭祀(さいし)などのためにもつくられた。古墳時代の後半以降、天皇や豪族たちの巨大な墳墓から発見される埴輪も土師器の一種である。もともとの埴輪は墳墓の周囲をかこむ土止めといわれ、単純な円筒形であったが、やがて、家、舟、動物、女性、狩人、楽人、戦士など、さまざまな形のものがつくられた。日本の埴輪は始皇陵の兵馬俑のような壮大さや力強さにはかけるが、素朴でユーモラスな味わいがある。

もうひとつの焼き物は高火度で還元炎焼成された灰色の炻器、須恵器である。焼成中に燃料の木からでた灰がかぶって、とけた自然灰釉がかかっているものがある。壺、瓶(へい)、皿、碗など製品の種類はひじょうに多く、彫像をつけたものもある。須恵器の技術も朝鮮半島からの帰化人によってもたらされ、帰化人が多くすんだ大阪の陶邑(すえむら)をはじめ、全国に数多くの窯跡がひろがっている。

3.A. 奈良時代から鎌倉時代

奈良時代(710~793)には唐の影響が顕著になり、日本ではじめての色をつけた鉛釉陶器が発達した。単色の緑釉や黄褐釉のほか、緑と白の釉をかけわけた二彩陶器がつくられた。とくに有名なのは、唐三彩を模倣して緑、褐、白の3色の釉を灰色がかったあらい素地にかけた奈良三彩とよばれる陶器である。釉はかけ流しや斑文風にほどこされており、唐三彩のようには洗練されておらず、明器もつくられていない。奈良の正倉院には、奈良三彩の遺品がきわめてよい状態で多数伝世しており、正倉院三彩として知られている。

平安時代(794~1179)前半には、三彩陶器への関心は急速にうすれ、ほとんど生産されなくなった。かわって、新たに中国からもたらされた越州窯青磁の影響をうけて、これを模倣した緑釉陶器が盛んにつくられるようになった。しかし、遣唐使の派遣などがとだえた平安時代後期には、緑釉陶器の生産も衰退した。いっぽう、須恵器の流れをひいた灰釉陶器が愛知県の猿投窯などを中心につくられ、各地にも窯業地が発達しはじめた。

鎌倉時代(1180~1332)にはいって、ふたたび中国の宋との接触が再開されると、猿投窯の系統をひいた窯が中部・東海地方にひろまり、常滑、渥美(あつみ)、瀬戸などの窯業地が発達した。瀬戸では、宋で人気のあった青磁を模倣して、黄瀬戸などの高級陶器で、各種製品や、仏花器、コマ犬などの特製品を生産した。常滑は、主として日常的につかわれる壺、甕(かめ)、擂鉢(すりばち)を中心に生産した。鎌倉時代の末には、北陸には越前、加賀、珠洲(すず)、西日本では丹波、備前、信楽、伊賀など、それぞれに特徴のある窯業地が発達し、これらの窯業地の多くは、今日にいたるまで製陶業がつづいている。がいして器の種類はかぎられ、壺や甕などが中心であった。

3.B. 室町時代から桃山時代

室町時代(1333~1573)の足利家の将軍たちはかならずしも陶芸を奨励したわけではなかったが、喫茶から発展した茶の湯がこの時代にはじまり、茶席でもちいられるうつくしい焼き物、いわゆる茶陶の生産が各地の窯業地に刺激をあたえ、新たな需要をひきおこした。従来の壺、甕、擂鉢を中心とした器種のほか、茶入、水指(みずさし)、茶碗、花生け、香合、向付(むこうづけ)などさまざまな器が生産されるようになった。評価が高く人気のあった茶碗のひとつに、中国の建窯でつくられた天目(てんもく)がある。天目は、黒紫褐色のあつい釉の上に油滴のような斑文や竜などの意匠がほどこされた高価な茶碗で、瀬戸ではこれを模倣して黒褐色の天目茶碗を大量に生産した。

桃山時代(1574~1599)は、日本の陶芸史上でもっとも茶陶が発達した時代である。茶の湯が武士階級や商人階級にもひろまるにつれ、各地の窯業地はいちだんと個性豊かな製品をつくるようになった。前代からの窯業地のほか、瀬戸に隣接する美濃、西日本では萩、唐津などが味わい深い茶道具を生みだした。

とくに有名なのは楽焼で、これは現在も楽家の一族によってつくられている。楽焼のほとんどは茶碗で、手捻(てびねり)でつくりだされた形は、左右非対称、不均衡の美学にもとづいている。釉は刷毛でいくつものうすい層にぬられ、低火度で焼成される。釉がとけたとき、茶碗は窯からはさみ道具でひきだされ、急冷され、その急激な温度変化によって釉にはひびが生じる。楽焼は、その簡潔な形とやわらかくくすんだ釉で、日本独特の焼き物と評価され、世界じゅうの陶工たちに賞賛されている。

もうひとつ、茶の湯の世界でこのまれたのは、古田織部の創出した織部焼(織部)であった。織部焼は、褐色の酸化鉄でえがいた染織文様のような大胆な意匠と、半透明の緑釉の不規則な流しがけとの組み合わせがきわめて斬新な焼き物である。また、李氏朝鮮の影響をうけた萩や唐津も、とくに愛好された茶陶である。絵唐津はのびのびとした草花や幾何学文様が簡素な筆致でえがかれている。備前焼も桃山時代に最高潮に達した。備前は基本的に無釉のかたい炻器で、煉瓦のような赤色をしているが、焼成時の酸化炎と還元炎の変化で色が不規則な変化をみせている。

3.C. 江戸時代以降

江戸時代の初めには、日本でも磁器が生産されるようになった。現在もなお磁器の主産地である九州北部の有田近郊でカオリンが発見され、有田一帯は急速に磁器の一大生産地に発展した。これには朝鮮系の陶工の技術の影響があった。有田焼は、製品が伊万里港から輸出されたことから伊万里焼ともよばれた。伊万里焼は、中国の明末清初の動乱期に、中国の磁器にかわって大量にヨーロッパにもたらされ、その明るい色彩と華やかな意匠が人気を博した。とくに酒井田柿右衛門が開発した上品な赤色をもちいた洗練された色絵磁器は、ヨーロッパの貴族たちの羨望(せんぼう)の的であった。

また、伊万里を領有していた鍋島藩(なべしまはん)では特別な御用のための藩窯をきずき、採算を度外視した精緻で気品のある鍋島焼をつくらせた。鍋島焼の多くは大小数種の皿類で、純白の器面に絹織物の意匠などを大胆にデザインしたものが多い。意匠ははじめ薄紙にえがかれ、染付でひかれ、華やかなエナメル彩色がくわえられている。生産量が少なかったため、色鍋島はとくに珍重されている焼き物のひとつである。同じころ、東日本には古九谷とよばれる重厚で力強い作振りの色絵磁器があった。九谷焼は北陸の石川県で焼かれたとみられていたが、古九谷と同様の意匠の破片が有田で出土し、有田でも生産されていたとされている。

京都もまた、江戸時代に花ひらいた窯業地であった。京都では前代からの楽焼のほか、野々村仁清、尾形乾山、奥田頴川(えいせん)、仁阿弥道八(にんなみどうはち)、青木木米らの個性的な作陶家が輩出した。彼らは、近代的な意味での陶芸家の先達で、それぞれに工房をもち、作品に署名をのこしたものもいる。江戸時代には、全国的にさまざまな窯業地が発達し、その製品は国内交通の整備とともに流通し、それぞれに影響をおよぼしながら、活発な生産がおこなわれた。なかでも大生産地であったのは瀬戸と唐津で、「せともの」「からつもの」という言葉は焼き物の代名詞としてのこっている。

明治期以降、ヨーロッパの万国博覧会などで紹介される日本の精緻な陶磁器は賞賛をうけたが、逆に日本ではヨーロッパの製陶業における近代的な機械技術をとりいれ、大量生産体制への基礎を確立して、従来の窯業地を中心に大規模な製陶工場がつくられていった。

いっぽう、そうした大量生産の風潮に対して、手仕事の美を追求する河井寛次郎、浜田庄司らのいわゆる民芸の陶芸家たちの作品も高く評価されるようになった。浜田庄司はその作品のみならず、民芸の復興をはたした力強い存在として注目されている。そのほか、板谷波山、荒川豊蔵、加藤唐九郎らは、桃山時代の古陶にまなびながら、独自の作風を加味した焼き物を数多くのこした。

また、第2次世界大戦後には、八木一夫らの前衛的な陶芸活動が展開され、陶芸の世界にオブジェとしての新生面をひらいた。現在、日本では、従来の製陶業地で高級品から日用品にいたるまで大量に生産する企業のほか、個性的な作品を工房から生みだす陶芸家、それに数多くのアマチュアが多種多様な作品を生みだしている。

IV. プレ・コロンビアン時代のアメリカ

古代アメリカの焼き物は、ヨーロッパの陶磁器とはまったく無関係に、独特の洗練された形と装飾スタイルを発達させ、高度な芸術的レベルに到達している。焼き物は紐の巻き上げや型作りの技法でつくられたが、ろくろは知られていない。絵付には、植物や鉱物顔料によって色づけされたスリップがもちいられた。

1. 南アメリカ

現在のところ、南アメリカでは、エクアドルのバルディビア文化の遺跡から発見された前3200年ごろの土器が最古とみられている。バルディビア文化はおそらく2000年ほどつづき、土器製作の伝統は、つづくマチャリージャ文化やチョレラ文化にひきつがれた。チョレラ文化では、ユニークな形の土偶が数多くつくられた。紀元前後ごろからは、黄金製品で有名なトリタなどの文化領域で、神と獣が一体となったような独特なモティーフのある土器が発達した。

しかし、南アメリカで土器がもっとも発達したのはペルーであった。古代ペルーは、形成期、地方発展期、地方王国期という大きく3つの時期にわけられ、16世紀初めにほろんだインカ帝国にいたる。この間、多種多様な文化が次々と生まれ、それぞれに個性的な土器を生みだした。共通する特徴といえば、釉薬をつかわずに彩色と研磨によって複雑なモティーフをえがき、器形の種類がきわめて豊富なことである。

最初に土器が発達したのは形成期の前1500年ごろにはじまるクピスニケ文化で、黒、灰、褐色などの器表面を研磨したすぐれた土器をのこした。興味深いのは、南アメリカ芸術における重要な装飾モティーフのジャガーがすでにあらわれたことである。この伝統は、地方発展期になり、北部海岸のモチェ文化の土器に継承された。やや黄色がかった素地に、赤、褐、白などの色で伝承的な物語の情景が生き生きとえがかれたモチェ文化の土器は、中南米でもっとも精良である。さまざまな浮彫像のついた壺のほか、人物の顔を肖像画のように精妙にかたどった壺もある。球形の壺の上に弧をえがくように中空の把手(とって)をつけ、その中央に垂直に注口をつけたいわゆる鐙(あぶみ)型壺は、南アメリカ独特の造形である。

同じころ、南部では、パラカス文化やその後をついだナスカ文化が、多彩色の装飾性豊かな土器を生みだした。とくにナスカ文化の土器は、複雑に様式化された動物文や首狩りのモティーフに特徴がある。器形も豊富で、大小さまざまな壺のほか、ラッパや笛などの土製品もつくられた。そのほか、北部山地のカハマルカ文化でつくられた素地にカオリンをふくむ白い彩色土器や、レクワイ文化のラマをかたどった洗練された造形の香炉、南部のティアワナコ文化の胴部がくびれたケーロ形の杯など、個性的な焼き物がある。1000年をすぎた地方王国期では、チムー文化の黒色磨研土器が注目される。インカ帝国は各地の個性的な文化を吸収したが、尖底のアリバロ(アルバレロ)形の壺が特徴的である。

そのほか、南アメリカのベネズエラやブラジルのアマゾン川流域でも、きわめてユニークな造形の土器や土偶がつくられたことが知られている。

2. 中央アメリカ

中央アメリカの古代文化も、大きく形成期、古典期、後古典期にわけられるが、その時代区分については諸説があり、かならずしも一致していない。メキシコでつくられたもっとも古い土器は、形成期、前1000年ごろのメキシコ湾岸低地にさかえたオルメカ文化の土器である。オルメカ文化では独特な風貌(ふうぼう)の土偶をつくった。古典期には、中央高原のテオティワカン文化で、円筒形の鉢に平たい板状の足を3つつけた多彩色土器がつくられた。下地には漆喰(しっくい)がぬられ、鮮やかな朱や緑、白などで神話や想像上の物語の場面がえがかれた。また、細口の花瓶のような形の土器、薄手のオレンジ色土器も特徴的である。オレンジ色土器は、テオティワカン文化の拡張をしめすように、中米各地の遺跡で発見されている。

東部のマヤ地域の土器は、メソアメリカの中でももっとも種類が豊富である。とくに古典期マヤの土器には、繊細な人物像、マヤの絵文書にみられるような独特なマヤ文字と物語とが一体となった図柄が、ていねいに多彩色でえがかれている。マヤ文字は円筒形容器の口縁部や皿の周縁部などにもみられる。頭蓋(ずがい)骨を変形させたマヤ独特の風貌の土偶や、土偶をかざりつけた土器には、鮮やかな青、マヤ・ブルーがほどこされているものもある。

後古典期にはいると、中央高原を支配したトルテカ人が、クリーム色の素地に赤、あるいは黄色がかった素地にオレンジ色で絵付をした土器を大量に生産している。これらの土器には型がもちいられ、スタンプ文や簡単な幾何学文などがほどこされた。その後をついだアステカ人は、当初、抽象的な装飾を多用していたが、やがて赤やオレンジ色の鉢に鳥など動物の図柄をえがくようになった。南部のオアハカ盆地に発達したサポテカ文化やミシュテカ文化では、型作りによる動物や人間像、神像のほか、ていねいにみがきあげられた多彩色の土器をつくり、これは後世のメキシコの陶器に影響をおよぼした。

3. 北アメリカ

広大な北アメリカの土器文化は、大きくみて東部ミシシッピ川流域の森林地帯と、南西部のアリゾナやニューメキシコ州を中心とする地域にわけられる。ミシシッピ川流域では、前1000年ごろにウッドランド文化がはじまり、盛んに土器が製作された。中期ウッドランド文化のひとつであるホープウェル文化では、刻線や縄目、連続文などで装飾した土器が発達したほか、赤、黒、白などの色を焼きつけた彩色土器や土偶もつくられた。1000年ごろからさかえたミシシッピ文化では、中央アメリカの諸文化との関係がうかがわれるような土器や、さまざまな動物形土器が注目される。

いっぽう、南西部にはモゴヨン、アナサジ、ホホカムの3文化が花ひらいた。モゴヨン文化は彩色土器で知られ、とくに11~12世紀に発達したミンブレ様式の土器は、白地に黒や褐色で幾何学文や鳥、コウモリ、カエル、儀式の場面などがえがかれて、すぐれたデザイン感覚がうかがわれる。ミンブレ様式の鉢の多くは墓に副葬されたもので、底部には故意に孔があけられている。

アナサジ文化もはじめは、ミンブレ様式と似た白地黒彩の土器をつくっていたが、やがて黄色の地に赤や黒で幾何学文や波形連続文をえがくようになった。ホホカム文化では、黄褐色の素地に赤で幾何学文や動物文をえがいた土器が特徴的で、ていねいにつくられた土偶もある。アナサジ文化を継承したプエブロ文化はいちだんと土器製作が発達したことで知られ、鋸歯状の連続文や精密な装飾文様が白地黒彩や多彩色でていねいにほどこされた。プエブロの祖先たちによってきずかれたすぐれた土器の伝統は、プエブロ陶器をつくる現代の陶芸家たちにもうけつがれている。そのひとり、マリア・マルティネスはうつくしくみがきあげた黒色陶器で幅ひろい人気を博した。

V. 西洋の陶磁器

西洋の陶磁史は、大きく、古代の中東地域、古代の地中海地域、中世のイスラム世界、中世~近代のヨーロッパにわけてみることができる。

1. 古代の中東地域

これまで中東で発見されたもっとも古い焼き物は、アナトリア(現在のトルコ)のチャタル・ヒュユク遺跡出土の土器で、前6500年ごろにさかのぼる。ここから発見された土器には素焼の宗教的な地母神とみられる女性像や母子像などの土偶にくわえ、素地にクリーム色のスリップをかけ、赤褐色の土で簡単な水平の線文や鋸歯文、格子文をえがいた彩文土器がある。また、黄色がかった土器や、灰色、ベージュ、あるいは煉瓦のような赤色の土器などもあり、紐作りで、叩(たた)きや研磨をほどこしている。パンを焼くような簡単な構造の窯か、いくつかの焼成室をもつ窯で焼かれたと思われる。

アナトリアでは前3千年紀にはいると、ていねいにみがきあげて光沢をだした黒色磨研土器や赤色磨研土器がつくられた。赤色磨研土器の伝統は長くつづき、前2千年紀にはより薄手で複雑な器形が発達した。そのほか、新石器時代の土器として注目されるのは、主としてシリア、レバノンを中心とする土器である。ここでも女性像のテラコッタのほか、暗色の磨研土器がひろい範囲でつくられた。土器の中には、爪形の刻文や貝殻の縁でつけた櫛描文のほどこされたものもある。

1.A. ペルシャとメソポタミア

メソポタミア北部で最古の彩文土器は、前5千年紀の少し前までさかのぼる。ティグリス川東岸のサーマッラーでは、壺、鉢、皿などの土器が大量につくられ、すでに様式化された人物や動物像が、黄色がかった素地に赤、茶、黒などの色でていねいにえがかれている。やがて、より高品質の多彩色土器がテル・ハラフ(現シリア領)でつくられた。ハラフ式とよばれる土器は、良質の粘土をもちい、焼成技術にすぐれ、表面はていねいに研磨され、またスリップがかけられていた。2、3色をつかった華やかな彩色で、幾何学文、人物文、牛などの動物文をえがいている。

同じころ、ペルシャ地方、つまり現在のイランでは、明るい色のスリップの上に幾何学文様をえがいた彩文土器がつくられた。前4千年紀までには、ろくろがつかわれるようになり、さらに北部からペルシャに移住してきた人々が、赤と灰色の単色の土器をもたらした。ウバイド期(ウバイド文化)(前4千年紀)の最盛期に、スーサ周辺では良質な土をつかって数多くの飲用の器や鉢を生産した。黄緑色のスリップをかけた土器には、自由な筆致で幾何学文や植物、鳥、ヘビ、大きい湾曲した角のヤギなどの動物、それに棒のような人間の姿が盛んにえがかれた。

施釉陶器は、前1500年ごろに生産されはじめたと考えられている。当時のメソポタミア北部にさかえたミタンニ王国の王宮があったヌジや、アッシリアの首都アッシュールからは、淡青や茶、白などの彩釉をほどこした陶器が出土している。また、イランのアゼルバイジャン地方ジビエからは、有名な金銀製品のほかに、数多くの大きな彩釉壺が発見され注目をあつめた。それらは黒紫、青、黄、白などの鮮やかな色彩で、肩部に蓮華文、胴部に有翼の雄牛やイラン独特のコブウシなどをえがいたもので、前8~前7世紀ごろと考えられている。

メソポタミアでもっともすぐれた施釉製品は、建築装飾にもちいられた煉瓦である。装飾煉瓦の伝統は前3千年紀のウルクにはじまる。ウルクでは、太い円柱の表面や壁面を幾何学的な彩色モザイクでおおっていた。モザイク装飾は、頭の部分に彩色をほどこした円錐形の鋲(びょう)のような土製品を壁にうちこんでつくられた。カッシート人の支配下にあったバビロニア(前2千年紀半ば)では、無釉のテラコッタによるタイルが神殿や宮殿の表面に化粧張りされた。

前8世紀を通じてアッシリアの王サルゴン2世の都であったコルサバードには、動物の行進がえがかれた型作りの彩釉煉瓦で入り口を装飾した神殿があった。彩釉煉瓦の伝統は前6世紀のバビロンで頂点に達し、ネブカドネザル2世の壮麗な宮殿や有名なイシュタル門、行列大路などの壁面が、青、青緑、黄、白、黒紫などの鮮やかな彩釉煉瓦でおおわれた。現在ベルリンにあるイシュタル門と行列大路には、700頭ほどの雄牛や竜、ライオンが肉厚の浮彫風につくられている。また、玉座のあった部屋の壁面にも、ライオンの行列と列柱があらわされ、周囲をパルメットやロータスの蕾(つぼみ)の装飾帯がかこんでいた。

1.B. エジプト

先王朝時代の前5千年紀、エジプトでは、ていねいにみがかれ、わずかに紐状装飾をほどこした薄手の土器があった。前4千年紀には、赤や褐色、あるいは黄色がかった素地に幾何学文や動物像をえがいた粗雑な彩文土器がつくられた。この時代に異彩をはなつのは、俗に「ブラック・トップ」あるいは黒頂土器などとよばれる、全体が赤く、口縁部だけが黒い磨研土器である。無文のものが多いが、線刻でシカなどをえがいたものもある。

3000年におよぶエジプト王朝時代には、おびただしい数の土器や彩文土器がつくられたが、とくにエジプトで発達したのはファイアンスである。ファイアンスというのは粉状の石英を多くふくんだ素地に暗緑色あるいは青色の釉をかけて焼きかためた土製品であるが、同名の、のちのヨーロッパの錫釉陶器とはまったく別の性質のもので、陶磁器というよりはむしろガラスに近い。ファイアンスの生産は、前2000年ごろの中王国時代に盛んになり、墓に副葬するためのカバやイヌ、ネコなどの動物像、ウシャブティ(死者とともに埋葬される小さな召使いの像)などのほか、ビーズや宝石などの装身具類、優雅なカップや鉢、タイル、さらにはスカラベ(聖甲虫)にもこの技法が多用された。

2. 古代地中海、ギリシャ、ローマ

青銅器時代後期(前1500~前1050)および鉄器時代初期(前1050~前750)の古代地中海域やエーゲ海域の島々、とくにクレタ島やキプロス島では、白色のスリップの上に黒褐色と赤褐色の2色で幾何学文や抽象文、タコやイルカなどの海の動物、人物像などをえがいた彩文土器がつくられた。あまり実用的とも思えないような奇抜な形のものがあるいっぽう、軟膏や化粧品をいれるための容器はきわめて繊細な形をしていた。そのほか、地母神と思われる女性像も数多くつくられた。

2.A. ギリシャ

陶器の製作は、古代ギリシャでは重要な芸術とみとめられていた。ギリシャ陶器はろくろを使用し、地元の土で成形された。日本では慣習的に陶器とよんでいるが、釉薬がもちいられておらず、厳密には土器の範疇(はんちゅう)にはいる。器形はひじょうに豊富で、それぞれの形にはすべて名称がつけられ、ギリシャの社会と儀式において特別の機能をもっていた。

たとえば、アンフォラは背の高い、2つの把手のある貯蔵容器で、ワインや穀物、油や蜂蜜などがいれられた。ヒュドリアは3つの把手のある水甕である。レキュトスは背が高く、首の細い香油をいれる瓶で、葬儀の際の供物としてもちいられた。キュリクスは、台と2重の把手がついた酒杯である。口縁部がつきでた水注はオイノコエで、ワインをつぐのにもちいられた。クラテルは、大型の鉢でワインと水をまぜる容器である。絵のついた陶器のほか、無装飾の黒色陶器がギリシャ・ヘレニズム時代を通じてつくられた。

青銅器時代には、ギリシャ人は窯中の炎の酸化と還元作用を利用して、クリーム色や褐色、黄褐色の素地に黒色の光沢のあるスリップを生みだした。はじめ抽象的であった装飾は、青銅器時代中期(前2000~前1500)までには、自然のモティーフをもとに様式化した意匠に変化した。青銅器時代後期までにはミュケナイ人によって、植物、海の生物、空想上の動物などが陶器にえがかれた。2輪戦車にのる戦士の意匠にすぐれたものがある。

前1000年ごろ、アテネの幾何学様式の陶器がミュケナイにとってかわり、ミュケナイ様式は前6世紀までに衰退した。ひじょうに緻密にえがかれた円や格子文、鋸歯文や連続鉤形文などの装飾帯や、戦士や行列する人々などを水平に配置した幾何学様式の大きなクラテルが、アテネのディピュロンの墓地で発見された。それらは、前750年ごろと年代づけられている。

前8~前7世紀にはロードス島やコリントスで、東方化様式とよばれる陶器が大量につくられ、地中海各地に輸出された。これは、有翼の動物などが器面をぐるりととりまいて連続する多彩色の陶器である。

前6世紀の初めになると、アッティカの陶工たちは黒絵式の陶器をとりいれた。黒絵式というのは、酸化炎と還元炎の使い分けによって、赤い素地の上に黒で図柄を表現する技法である。黒い図像の細部は細い錐(きり)のような道具でけずって線描し、肌や衣装の部分には白や赤紫の彩色がくわえられた。ギリシャ神話に題材をとった場面がえがかれたほか、行列や2輪馬車、動物文などの前時代からの意匠もみられ、幾何学文や植物のモティーフでかこまれている。

装飾はつねに器形とうまく調和している。装飾は動物よりもより人間の姿を強調するようになり、仕事や戦闘、宴会にのぞむ人々や神々、楽士、婚礼などの儀式、遊戯をしたり化粧をする女性などのテーマがこのまれた。神話や文学の情景がしだいにふえ、神々や英雄の姿には名前が書きそえられたものが多い。作品に名前をのこす陶工や陶画工があらわれ、エクセキアスや「アマシスの画家」などの名工の存在が知られている。今日では、たとえ署名がなくても、彼らの名前や様式が同定されるまでに研究がすすんでいる。

赤絵式のギリシャ陶器は前530年ごろに開発され、とくに前510~前430年の間に人気が高まった。黒絵式とは反対に、背景が黒くえがかれ、人物は赤褐色の土の色そのままにのこされる。人物の細部の描写は黒でえがかれ、この技法により画家はより自然で自由な表現が可能になった。絵付は、色を調合するためにうすくなり、赤や白の補助的な色はあまりもちいられず、金が細部にくわえられることもあった。人体の表現はより自然になり、前480年以降は、とくにしぐさや表情がうつくしく微妙に表現された。

白地レキュトスとよばれる死者とともに埋葬された香油瓶は、胴部の柔らかな白色の画面に、死者やその家族など、ゆかりの人々の悲愁の姿が、細い線描と赤や黄、青などの色彩で繊細にえがかれ、静謐(せいひつ)な雰囲気の優品が多い。古代ギリシャの絵画作品はほとんど現存しないが、こうしたギリシャ陶器によって、絵画芸術の高さをうかがい知ることができる。

「ペンテシレイアの画家」「アキレウスの画家」「フィアレーの画家」などすぐれた陶器画の名手が輩出し、ギリシャ陶器は最盛期をむかえた。赤絵式陶器の生産は、中心であったアテネやコリントスのみならず、ギリシャの島々にもひろまったが、前4世紀にはいるとしだいに衰退していった。そして、ヘレニズム時代には、黒くぬりつぶした器表面に簡単な貼付文や印刻文をほどこした黒色陶器が主流となった。

2.B. ローマ

ギリシャ陶器を大量に輸入していたエトルリアでは、「ブッケロ」とよばれる薄手の黒色磨研土器がつくられた。また、寝椅子(いす)によこたわる等身大の夫婦像をあらわしたテラコッタの陶棺はチェルベテリでつくられたといわれ、エトルリア独特のものである。

つづくローマ人は、ギリシャやエトルリアの黒色陶器にかわって、ていねいにみがきあげた赤色磨研陶器をこのんだ。赤色の光沢をだす技法はヘレニズム時代後期に東地中海域やカンパーニア地方で発達したものであった。「テラ・シギラタ」(「印を押された土」の意)とよばれるこの赤色磨研陶器は、土型をもちいて大量生産された日常食器であった。型には、あらかじめルーレット(点線をつける道具)などによる連続文や人物像が印刻されたり、細部には手彫りで文様がほどこされていた。成形後、半乾燥された陶器は珪土を精製したスリップにつけてから、酸化炎で高火度焼成される。装飾にはスリップをもりあげてつけるバルボティン技法や、貼付も併用される。意匠や器形の多くは、金属器やカット・グラスからとりいれられた。

アレティウム(現在のアレッツォ)がテラ・シギラタ生産の中心地で、なかでも前1世紀から後1世紀の間につくられた最良のものは、アレタイン陶器ともよばれている。ローマ帝国の拡大とともにテラ・シギラタは各地に輸出されたが、同時に、首都から遠くはなれたフランスやドイツ、スペイン、イギリスなどの地元の窯業地でもテラ・シギラタの模倣品がつくられ、現地での需要をみたした。1世紀以降に南フランスでつくられたテラ・シギラタにはすぐれたものが多い。

このほかローマ時代には、ギリシャ以来の黒色磨研陶器、緑や褐色の鉛釉陶器も生産された。これらの技術も広大なローマ帝国領にあまねくひろまり、各地の窯業地に影響をあたえた。イギリスではカストール陶器とよばれる焼き物が生まれた。カストール陶器は、ケルトの金属工芸をまねて、表面の土をつまんで突起をつくったり、白色スリップでかざった陶器である。ローマ時代の緑や褐色の鉛釉陶器の技術は、ビザンティン帝国にひきつがれた。

3. イスラム陶器

ウマイヤ朝(661~750)最初のイスラム世界の陶工たちは、さまざまな古代の陶芸の伝統をうけついでいた。それは、ローマ時代以降のエジプトで知られていた、石英をふくんだ素地に青釉と緑釉をかけたフリット・ウェア、アケメネス朝(前6~前4世紀)以来のシリア、メソポタミア、イランで知られていたアルカリ釉陶器、それにビザンティンの陶工たちにひきつがれていたローマの鉛釉陶器などである。また、中国からもたらされる白磁や青磁、青花は、つねにイスラム陶器に影響をおよぼし、変革をもたらした。古代からの長い伝統をもつ無釉土器は、スタンプや貼付による浮彫装飾をほどこされ、日常の雑器としてつくられつづけた。

3.A. 中世アラブの様式

9世紀、アッバース朝のカリフたちは、地元の陶工たちに土地の土と釉薬をつかって唐の陶磁器を模倣するよう奨励した。アラブの陶工たちは独自の技法でこれをこころみ、固有の様式を発達させていった。中国の唐・宋代の白磁はイスラム世界でもこのまれ、これを模倣して、鉛釉に錫酸化物をまぜた錫釉で素地を白くした陶器がつくられた。錫白釉陶器には、藍や緑彩でアラビア語の銘文や草花文などを自由奔放な筆致でえがいたり、緑、黄、褐色の三彩釉をかけて唐三彩風の陶器をつくり、掻落しや刻線で文様をほどこした。

イスラム世界の独自性がもっとも発揮されたのはラスター彩陶器であった。ラスター彩は、錫白釉をかけて焼成した素地の上に、銀、銅などの酸化物や硫化物をふくむ顔料で文様をえがき、低火度で還元炎焼成することによって、赤や青銅色、黄色などのうつくしい金属光沢を生みだす技法で、金属工芸をこのんだイスラム世界でことのほか愛好された。ラスター彩は白地のほか青や藍釉地にももちいられた。10世紀になって陶工がイラクからイスラム世界の西方に移住すると、ラスター彩の技法も伝播(でんぱ)した。錫白釉と同様、ラスター彩陶器はアラブ占領下のスペインを通じて、ヨーロッパに多大な影響をおよぼした。また、イランやファーティマ朝(909~1171)のエジプトでも人気を博した。

3.B. イランとトルコ

イラン、イラク、小アジア、それにシリアを11~12世紀に支配したセルジューク朝は、素地そのものに石英や白土をくわえ、磁器にかわる白釉陶器を開発した。イランのレイやカーシャーンといった町がこの白釉陶器の生産の中心地であった。白釉陶器の表面には、彫刻や型押しなどの技法で花文などがほどこされ、青や藍の鮮やかな釉がかけられた。

セルジューク朝のもうひとつのすぐれた焼き物はミナイ手陶器である。「ミナイ」というのは「エナメル」を意味するペルシャ語である。ミナイ手は、赤、黒、白、金など多彩な釉上エナメルをもちいて絵付をほどこした陶器で、ミニアチュールのような絵柄や物語の場面、アラベスク文様などが繊細かつ稠密(ちゅうみつ)にえがかれている。セルジューク朝では、ラスター彩陶器にもミナイ手に似た入念で華麗な絵付がほどこされた。また、青や緑などの単彩釉陶器や、青や白の地に黒彩で文様をえがいた陶器、黒色のスリップをかきおとして影絵のように図柄をうきたたせた陶器などが発達した。

イラン西北部では、大胆な鳥の絵で知られるアーモル手、多彩釉と線刻で動物文を描いたアグカンド手、掻落し技法に特徴のあるガッルース手など、さまざまな地方色のある陶器がつくられた。建築装飾としてのタイルも発達し、カーシャーンを中心に、ラスター彩や青釉で複雑なアラベスク文様やアラビア文字の銘文をあらわしたすぐれたタイルが生産された。

13世紀のモンゴルの侵入以後は、中国の青磁の影響をうけた緑釉陶器や、青地に金彩をほどこした豪華なラージュバルディーナ手、表面の白土の盛り上げ装飾に特徴のあるスルターナバード手などの陶器がつくられた。また、ティムール朝(1370~1507)では、ヨーロッパに輸出された中国の青花磁器を模倣して、コバルト青による青花風の陶器が生産された。

サファビー朝(1501~1736)でも、中国の青磁や青花の模倣品が大量に生産されるいっぽう、クバチ陶器とよばれる個性的な焼き物がつくられた。クバチ陶器に特徴的な製品は釉下に多彩色で人物や草花をえがいた大型の皿で、釉には貫入が多くはいっている。クバチというのは、この手の陶器が大量に発見されたダゲスタン地方の町の名だが、実際の生産地はイラン北西部と考えられている。

16~17世紀には、ひじょうに薄手の素地に彫り込み装飾のある陶器がペルシャ湾のゴンブルーン港からヨーロッパへ輸出され、ゴンブルーン陶器の名で知られた。ペルシャの銅赤色のラスター彩陶器も、多彩色陶器と同様、17世紀に人気を博した。

クバチ陶器と同時代、トルコの陶器生産の中心地はイズニクであった。イズニクでは、オスマン帝国の征服以前から、ペルシャやアフガニスタンの陶器に影響をうけたスリップ絵付の陶器がつくられていた。オスマン朝以後は、白色素地にコバルトによる青、鮮やかなトルコ・ブルー、緑、トマトのような赤などの色彩を駆使し、特徴のあるチューリップなどの草花、人物や動物、帆船などを装飾的にえがき、透明釉をうすくかけたうつくしい陶器やタイルを大量に生みだした。イズニクにややおくれて発達したキュタヒヤでも同様の製品がつくられ、18世紀には自由闊達な絵付陶器の産地として知られた。

4. ヨーロッパ(18世紀末まで)

イスラムの錫釉陶器やラスター彩陶器は、13世紀から15世紀にかけて、スペインの陶器にひきつがれ、イスパノ・モレスク陶器とよばれた。スペインのラスター彩には金もつかわれた。これらの生産の中心地は、マラガやバレンシア地方のパテルナやマニセスであった。イスパノ・モレスク陶器は当時のヨーロッパでもっとも高品質の焼き物で、ヨーロッパ各地の貴族からの注文によって紋章をつけたラスター彩の大型鉢や、俗に「アルハンブラの翼壺」の名で知られる大型壺などがある。

イスパノ・モレスク陶器はマリョルカ島から輸出され、その影響をうけてイタリアでも多彩色で絵付をほどこした錫釉陶器が大量につくられた。イタリア・ルネサンスでひじょうに人気を博したこの陶器は、マリョルカのイタリア語名から、マヨリカとして知られた。

4.A. マヨリカ、ファイアンス、デルフト陶器

15~16世紀にイタリア各地の町でつくられたマヨリカ陶器は絵付がいちだんと発達し、黄、オレンジ、緑、トルコ・ブルー、紫褐、黒などの鮮やかな色がつかわれた。スペインのイスパノ・モレスク陶器にみられたようなイスラム世界的要素がなくなり、ルネサンス絵画にも共通する神話や歴史に題材をとった物語画(イストリアートという)、肖像画などがふえた。マヨリカ陶器を産出したファエンツァ、フィレンツェ、カステル・デュランテ、カファジオーロなどの町には、著名な陶画工が輩出し、デルータやグッビオの町はラスター彩で知られた。器形の種類も豊富で、大小さまざまの皿、鉢、壺などのほか、把手付き水注、アルバレロとよばれる胴部がわずかに細くなった薬壺、タイルなどがある。

錫釉陶器の技法は、16世紀以降、陶工たちの移住にともなってアルプス以北のヨーロッパ各地にひろまった。フランスやドイツなどでは錫釉陶器をファイアンスとよぶが、これはイタリアのファエンツァに由来する。フランスではルーアンやヌベール、ムスティエ、マルセイユ、ドイツではフランクフルトやバイロイト、ニュルンベルクなどの町で、それぞれに特徴のある絵付のファイアンスが生産されはじめ、18世紀に全盛期をむかえ、19世紀まで高級陶器として人気をたもった。ファイアンスは、ノルウェーやスウェーデンなどの北欧でもつくられた。

ベルギーにつたわった錫釉陶器は、17世紀中葉、陶工たちとともにオランダのデルフトを中心とする町々へうつった。デルフト一帯では、当時高価な値段で取り引きされていた東洋の輸入陶磁を模倣し、中国の明代の青花や日本の伊万里焼の倣製品を錫釉陶器で大量に生産、17世紀を通じて大いに隆盛した。デルフト一帯の工場はそれぞれに個性的な窯印を採用し、それは中国でも模倣された。また、オランダの建築にかかせないタイルにもこの技法を応用し、当時の生活や風俗をえがいたタイルが大量に生産された。これらの錫釉陶器は、デルフト陶器の名でよばれている。

17世紀後半には、デルフト陶器はオランダからイギリスにもたらされ、ロンドンのランベスで生産がはじまった。やがて、リバプール、ブリストル、ダブリンなどに次々と窯がきずかれ、たのしい絵付の製品が大量につくられた。これらはイングリッシュ・デルフトとよばれ、1770年代にクリーム・ウェア(後述)が普及するまで、磁器につぐ人気商品であった。

4.B. 鉛釉陶器と炻器

中世ヨーロッパの焼き物の主流は、素地のあらい無装飾の土器で、各地で似たような壺、鉢、皿などの雑器類がつくられていた。やがて鉛釉陶器があらわれ、13~14世紀ごろには、緑や褐、黄褐などの釉をかけた把手付き水注(ジャグ)などが、ロンドンやパリなどの遺跡から出土している。とくにイギリスの中世陶器には、人面を装飾したような手のこんだものがあり、注目される。また、イギリスのスタッフォードシャーでは、17世紀後半から、スリップを筒描きして図柄をえがくスリップウェアが発達し、トマス・トフトらの名工が大皿などの個性的な作品をのこしている。イギリスでは長い間スリップと鉛釉でかざられた陶器がつくられ、その伝統は移民によって新大陸アメリカにももたらされた。

また、ドイツ、オーストリア、スイスなどの中央ヨーロッパでは、16~17世紀、ジャグや型作りのタイルに鉛釉をほどこしたいわゆるハフナー陶器が人気を博した。「ハフナー」とはストーブをつくる職人のことで、彼らは神話の物語をいきいきと浮彫でえがいたタイルで、大きなストーブをくみたてた。

ヨーロッパの炻器は、14世紀の末からドイツのラインラント地方のケルンやジークブルク、レーレンなどの町で発達した。この一帯は豊富な森林資源にめぐまれ、炻器のような高火度を必要とする焼き物には適していた。ラインラントの炻器には塩釉がかけられた。塩釉は、窯の温度が最高に達したときに塩をなげこんで一種のソーダ釉を発生させ、器表面を光沢のある被膜でおおったものである。ドイツの炻器には、ひげのある男の顔をほった器や、器面に精緻なレリーフ装飾をほどこしたジークブルクの白色炻器など、浮彫を多用した器が多い。また、青や紫釉、エナメル彩色などを併用したものもある。

17世紀後半以降、炻器はイギリスでも大量に生産され、1720~60年には、スタッフォードシャーですぐれた白色塩釉炻器がつくられた。スタッフォードシャーはまたクリーム・ウェアの中心地でもあった。クリーム・ウェアは、デボンシャーの白土と、焼いて生石灰にしたフリントをまぜた土をもちいた硬質の鉛釉陶器で、磁器の代用品として人気をあつめた。

スタッフォードシャーの製陶業者ウェッジウッドはクリーム・ウェアの改良実験を重ね、ついにはクリーム・ウェアに青みがかった釉をかけた、かがやくばかりにうつくしいパール・ウェアを開発し、磁器に対抗した。炻器では、ブラック・バザルトという無釉の黒色炻器や、白色炻器の素地に金属酸化物をくわえてあわい色をつけたジャスパー・ウェアなどを開発し、肖像付きのメダルやギリシャ神話に題材をとった新古典主義的な浮彫装飾の花瓶などをつくった。彼は、いちはやく銅版転写などの新技術をとりいれ、経験や勘にたよっていた製陶技術を化学的に分析し、近代的な設備の製陶工場をエトルリアにたてるなど、ヨーロッパの製陶業の近代化に大きな役割をはたした。

4.C. ヨーロッパの磁器

白い宝石としてヨーロッパで珍重された中国の磁器、とくに青花磁器を模倣する試みは、すでに16世紀のイタリアでおこなわれていた。メディチ磁器は、メディチ家の援助によってフィレンツェでつくられた。これは一種の軟質磁器で、磁器というよりは不透明ガラスに近く、たいへんにもろく、実用化にいたらなかった。

17世紀末には、各地の有力な王侯貴族が東洋の陶磁器を熱心に収集するいっぽう、有能な化学者らにその国内生産の可能性をさぐらせていた。1709年、ドイツのドレスデンで、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世の命をうけた錬金術師ベットガーらによって、ヨーロッパで最初の硬質磁器が完成した。翌年には、近郊のマイセンに王立磁器工場が設立され、程なく豪華ですぐれたマイセン磁器が生みだされるようになった。

マイセンは東洋磁器の模倣にはじまったが、すぐにヨーロッパ的な器形や装飾意匠を創案し、その後のヨーロッパ磁器のモデルとなった。すぐれた絵付師ヘロルトの芸術性の高いシノワズリー(中国趣味)や、偉大な彫刻家ケンドラーによる磁器彫刻の数々は、今日もなお、世界でもっとも評価の高い磁器のひとつである。とくにケンドラーは、彫刻のみならず、有名な「スワン・サービス」など膨大な数のディナー用食器類一式をデザインし、今日のテーブルウェアの基礎をつくった。

マイセンが秘匿した硬質磁器の製法は、程なくしてウィーンやベルリン、ニュンフェンブルクなどに漏洩(ろうえい)し、各地に次々と磁器窯がひらかれていった。しかしマイセンはそのつめたいまでにうつくしい白磁によって、ヨーロッパ最高峰の磁器として18世紀前半の陶芸をリードした。

七年戦争以後、衰退したマイセンの代わりに人気をあつめたのは、フランスのセーブル磁器であった。セーブルは、もともと1738年にバンセンヌにつくられた軟質磁器工場であったが、国王ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人の後援をえて、56年パリ郊外のセーブルにうつされ、フランス王立磁器工場となっていた。セーブル磁器は軟質磁器で、貴族的なロココ趣味(ロココ様式)の器形に、青、トルコ・ブルー、黄、緑、ローズ・ピンクなどの華やかな地色をぬる。さらに、金で縁どった白抜きの窓の中にエナメル彩色で花や鳥が優美にえがかれている。

また、彫刻家ファルコネらによるビスキュイとよばれる白色素焼の磁器彫像にもロココ趣味あふれる優品が多い。フランスでは、リモージュ近郊でカオリンが発見され、1771年にリモージュ工場で硬質磁器の生産がはじまるが、84年、セーブルの王立工場の傘下にはいった。

イギリスでつくられた最初の磁器は、1745年にチェルシー磁器工場でつくられた小さなクリーム入れであった。チェルシーではロココ風の高級磁器や磁器人形などを生産したが、69年、工場がダービーに売却されてからは、新古典主義的な様式が主流となった。

1748年には、ロンドンのボウ磁器工場のトマス・フライが、素地に牛骨の粉をまぜて純白にしたいわゆるボーン・チャイナ(骨灰磁器)の特許を取得したのが特筆される。ボーン・チャイナは、硬質磁器よりはやわらかいものの、軟質磁器よりは耐久性、価格などの点ですぐれ、たちまちにしてローストフト磁器工場やウースター磁器工場、スタッフォードシャーのスポードらによってとりいれられた。

5. 19世紀、20世紀

19世紀のヨーロッパでは、銅版転写で絵付をしたり、型をもちいて浮彫装飾をほどこした大量生産、大量販売のための廉価な陶磁器が人気を博した。これらはアメリカ合衆国にもひろまり、とくに19世紀初期にイギリスで発達した、マンガン紫をもちいたロッキンガム釉は、ニュージャージー州やオハイオ州の製陶地で人気があった。こうした廉価な陶磁器が、伝統的な塩釉炻器にかわり、徐々に日常用器の中心になっていった。

ヨーロッパでは、アール・ヌーボー様式、1900年のパリ万国博覧会、1920年代のバウハウスの運動などのさまざまな芸術活動が、工業的に生産される陶磁器の意匠にも影響をおよぼした。また、産業的な陶磁器のみならず、小規模な工房や陶芸家たちの活動が重要な要素となってきた。1860年代のイギリスの「アーツ・アンド・クラフツ運動」は、ウィリアム・ド・モーガンなどの陶芸家やランベスにあったドルトン陶磁器工場の塩釉炻器に影響をあたえた。

アメリカでは、19世紀末以降、シンシナティのルクウッドや、ボストンのグルービー・ファイアンス、それにデトロイトのピュワビックなどの小規模な工房が新鮮な感覚の陶磁器を生みだし、陶芸界に刺激をあたえつづけた。日本で修業し、日本やイギリスの民芸陶器を吸収したイギリスの陶芸家バーナード・リーチや、20世紀の陶器復興のリーダーともいえるマイケル・A.カーデューらの仕事は、陶器職人の伝統をいちだんと高めた仕事として、国際的な評価をうけた。

現在、陶磁器は従来からの食器や装飾品はもちろん、タイルや衛生陶器、人工歯骨などの医療品、さらには航空宇宙関係部品にいたるまで、幅ひろい産業分野のさまざまな目的のために生産されている。セラミック