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| I. | プロローグ |
前202~後220年に中国を支配した王朝。後8~23年に新王朝による断絶があり、それ以前を前漢、以後を後漢とよぶ。前漢の首都は、現在の陝西省西安市付近の長安。後漢の首都は現在の河南省洛陽市。長安が西方、洛陽が東方に位置していることから、現在の中国では、前漢を西漢、後漢を東漢とよぶ。
| II. | 前漢王朝 |
前202年、劉邦(りゅうほう)は垓下(がいか)の戦で項羽をやぶり、皇帝に即位して漢王朝をひらいた。
高祖(劉邦)は秦の郡県制を継承するいっぽうで、建国の功臣に領土をあたえ、彼らをそれぞれの領域の王としてあつかった。郡県制と、半独立の封国が併存していたので、この統治形態を郡国制という。
しかし、高祖は功臣たちの謀反(むほん)をおそれ、いったん王とした彼らを、口実をつくって粛清、かわって皇室の劉家一族を王にすえていった。高祖の死後は、呂太后(りょたいこう)とその一族呂氏が国政をぎゅうじるようになったが、呂太后が前180年に死ぬと、功臣の生き残り周勃(しゅうぼつ)らのクーデタにより呂氏一族はほろぼされた。
呂氏の乱とよばれるこのクーデタののち、前漢王朝は安定にむかい、6代の景帝の治世中に呉楚七国の乱がおきたが、この反乱の鎮圧によって諸王の権限は削減され、中央集権体制が強化された。
儒教を国教とした7代武帝の統治期は、積極的な遠征軍の派遣や大規模な土木工事の実施などによって前漢王朝の絶頂期をもたらした。武帝は前119年には匈奴に勝利し、彼らをゴビ砂漠の北方においやり、前112年には南越国、前108年には衛氏朝鮮を征服(→ 楽浪郡)、さらに西域ではペルシャにまで遠征軍を派遣した。これが東西交易の象徴となるシルクロード開通にむすびついていく。しかしその反面、国家財政はくるしくなり、専売制の導入や増税などを実施せざるをえなくなった。とくに商人に対して容赦ない課税をおこなったため、彼らの多くが商人をきらって地主となった。これが漢をささえてきた独立自営農民を中心とする郷里制社会を内からつきくずす原因となり、このころから王朝の繁栄にかげりがみえるようになった。
11代の元帝以降は、外戚とよばれる皇后の一族や、宦官が国政に介入するようになった。そして後8年に、外戚の王莽が皇室の劉氏にかわって皇帝に即位し、国名を「新」とあらため、漢王朝は途絶した。
| III. | 後漢王朝 |
23年に王莽が反乱軍に殺されたあと、群雄割拠をへて、25~36年に光武帝(劉秀)が再統一をはたし、漢王朝を再興した。
後漢は前漢の諸制度をほぼそのまま継承し、2代明帝、3代章帝にかけて最盛期をむかえた。しかし、4代和帝の治世から、ふたたび外戚・宦官たちが国政に介入するようになった。その弊害は年をおうごとに大きくなり、彼らに反対する清流とよばれた官僚たち(宦官を濁流とよぶ)は、166年と169年の2度にわたる党錮の禁によって朝廷からおわれ、あるいは殺された。
彼らの専横によって後漢王朝は統治能力をうしない、184年に黄巾の乱とよばれる農民の大反乱がおこった時、もはや反乱鎮圧のためのじゅうぶんな軍事力はなくなっていた。乱の鎮圧にあたった地方豪族は、以後朝廷から独立して私兵で武装するようになり、力をたくわえて群雄化し中国はふたたび分裂時代へとむかっていく。
220年、14代献帝は、後漢末動乱期の群雄のひとり曹操の子で魏王の曹丕(そうひ)に帝位をうばわれ、漢王朝は滅亡、これより中国は魏・呉・蜀の三国時代にはいっていく。
| IV. | 漢代の文化 |
漢代は、各地で独自に発達した文化が統合にむかう時代であり、それまでの伝承・記録を総括する内容の書物が数多く編集された。「史記」をはじめ、漢代以前の漢字の意味を解説した「説文解字(せつもんかいじ)」、最初の百科事典ともいえる「淮南子(えなんじ)」、最初の図書目録とされる「七略」などがつたわっている。後漢には、儒教の浸透を反映して前漢の歴史を儒教主義に徹してつづった「漢書」が出版された。
近年は、漢代のさまざまな遺跡が発掘され、その時代の美術や科学技術を今につたえている。河北省の満城漢墓、湖南省の馬王堆漢墓、広東省の南越王墓(なんえつおうぼ)などが有名である。とくに馬王堆漢墓は、前2世紀の衣服・木製品・竹簡などがくさらずにのこっており、世界的に貴重な歴史資料となっている。