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| II. | 前漢王朝 |
前202年、劉邦(りゅうほう)は垓下(がいか)の戦で項羽をやぶり、皇帝に即位して漢王朝をひらいた。
高祖(劉邦)は秦の郡県制を継承するいっぽうで、建国の功臣に領土をあたえ、彼らをそれぞれの領域の王としてあつかった。郡県制と、半独立の封国が併存していたので、この統治形態を郡国制という。
しかし、高祖は功臣たちの謀反(むほん)をおそれ、いったん王とした彼らを、口実をつくって粛清、かわって皇室の劉家一族を王にすえていった。高祖の死後は、呂太后(りょたいこう)とその一族呂氏が国政をぎゅうじるようになったが、呂太后が前180年に死ぬと、功臣の生き残り周勃(しゅうぼつ)らのクーデタにより呂氏一族はほろぼされた。
呂氏の乱とよばれるこのクーデタののち、前漢王朝は安定にむかい、6代の景帝の治世中に呉楚七国の乱がおきたが、この反乱の鎮圧によって諸王の権限は削減され、中央集権体制が強化された。
儒教を国教とした7代武帝の統治期は、積極的な遠征軍の派遣や大規模な土木工事の実施などによって前漢王朝の絶頂期をもたらした。武帝は前119年には匈奴に勝利し、彼らをゴビ砂漠の北方においやり、前112年には南越国、前108年には衛氏朝鮮を征服(→ 楽浪郡)、さらに西域ではペルシャにまで遠征軍を派遣した。これが東西交易の象徴となるシルクロード開通にむすびついていく。しかしその反面、国家財政はくるしくなり、専売制の導入や増税などを実施せざるをえなくなった。とくに商人に対して容赦ない課税をおこなったため、彼らの多くが商人をきらって地主となった。これが漢をささえてきた独立自営農民を中心とする郷里制社会を内からつきくずす原因となり、このころから王朝の繁栄にかげりがみえるようになった。
11代の元帝以降は、外戚とよばれる皇后の一族や、宦官が国政に介入するようになった。そして後8年に、外戚の王莽が皇室の劉氏にかわって皇帝に即位し、国名を「新」とあらため、漢王朝は途絶した。