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| II. | ヨーロッパの封建制 |
西洋史ではフューダリズムFeudalismといいあらわされ、中世の支配階層の間で、封の授受を媒介にしてむすばれた主従関係をさす。封とはおもに土地とそこに属する農民に対する支配権で、これを主君が家臣にあたえるかわりに、家臣は軍役をはじめとするさまざまな奉仕をおこなった。封建関係は、主君と家臣の間で託身と誠実誓約の儀式によりむすばれた。ただし主君や家臣といっても、ともに自由人で、社会的には同輩の場合もあって、その点で西洋史でいう封建制は、領主と農民の間にみられた領主制とはことなっている。
西洋史でいう封建制には2つの側面がある。1つは主君と家臣の間の保護と奉仕という人的な側面であり、もう1つは封の授受という物的な側面である。人的側面は家臣制とよばれ、もとはローマ時代のクリエンテラ制や、ゲルマン人の従士制にさかのぼる。物的側面は恩貸地制とよばれ、メロビング時代に従士に対しておこなわれた土地贈与などに起源がある。これら2つの慣行は8世紀中ごろには法的にむすびつき、そこから封建制が成立した。
7世紀末~8世紀前半、フランク王国は慢性的な戦争状態にあった。メロビング王家の宮宰だったピピンやカール・マルテルは、戦勝の報償として教会の土地をとりあげて、自分たちの家臣にあたえていった。家臣はこれをもとに武装して主君につかえ、教会には税をしはらった。家臣制と恩貸地制はこうして一つに結合し、カロリング朝のもとで封建制はさらに一般化していった。
こうした封建的主従関係は、ときに「カロリング朝封建制」ともよばれるが、9世紀後半にカロリング帝国が解体すると、地方の権力者たちも家臣との間に封建関係をむすぶようになった。また弱小の土地所有者は自分の土地を有力者にゆずり、家臣となってあらためて恩貸地としてゆずりうけることを余儀なくされた。
こうして封建制は社会の根幹をささえる制度に成長した。またそれとともに古い時代にはみられなかった特徴もあらわれてきた。たとえば11世紀には「恩貸地」という言葉にかわって「封」という言葉がもちいられるようになった。また家臣のおこなう託身の儀式は「オマージュ」とよばれるようになった。さらに重要なのは、この時代から家臣にあたえられる封が世襲とみなされるようになったことである。
11~13世紀中ごろが封建制の全盛期である。封建制はもともとライン川とロワール川の間で発達したが、11世紀後半になると、この地域の支配者たちは南イタリアやシチリア、イングランド、さらには第1回十字軍によって聖地を征服し、それぞれの土地に封建制を移入した。12世紀には南フランス、スペイン、北イタリア、ドイツなどでも封建制がある程度導入されている。第4回十字軍によりビザンティン帝国が封建化されたのちは、中部や東部ヨーロッパにも封建制がみられた。
ヨーロッパの封建制では、土地は究極的には国王に由来し、国王は土地を唯一神からえたという前提がある。国王はそこで土地を封として諸侯にあたえ、諸侯はオマージュと誠実誓約をたてて国王に奉仕することが要求された。また諸侯は封の一部を騎士にあたえることもあった。騎士は諸侯にオマージュをおこない、封に応じた奉仕をおこなった。さらに騎士がより下位の人間に対して封主となり、奉仕させることもあった。こうした再下封を通じて社会全体が封建化されてゆき、頂点には国王が、中間には大小のさまざまな領主が、そして底辺には騎士が位置する封建ピラミッドが形成された。
家臣は複数の主君と封建関係をむすぶこともあった。多重封臣制とよばれるもので、主君と家臣の関係を錯綜させ、だれに優先的に奉仕すべきか混乱することもあった。そこから優先オマージュという慣行が成立し、主君のひとりに優先してつかえることがきめられた。またフランスでは「わたしの家臣の家臣は、わたしの家臣ではない」という規則が確立され、家臣が自分の主君の主君に対してたたかっても反逆とはみなされなかった。ただしイングランドではウィリアム1世以降、国王が陪臣にも誠実宣誓することが要求された。
戦場における軍役は封建制の根本だが、家臣は主君に城があれば、その守備にもつかねばならなかった。イングランドでは、国王に対する家臣の義務はマグナ・カルタがさだめている。たとえば金銭的援助については、国王の長女の結婚、長男の騎士叙任、国王自身の身代金支払いに限定された。フランスでは、これにくわえて主君が十字軍にでかける際にも金銭的援助がおこなわれた。家臣は助言をあたえるという彼らの義務を盾に、家臣にかかわる事柄を決定する際には主君が家臣の同意をもとめるよう要求した。
13世紀になると封建制度は発達の頂点に達し、しだいに変質して衰退するようになる。再下封はすでに限界にまで達し、主君は家臣から軍事奉仕をえるのが困難なほどになっていた。家臣はまた軍役のかわりに軍務代納金や盾料とよばれる金銭での支払いをのぞむようになった。また主君も金銭をうけとって、かわりに訓練された専門の兵士をやとうことをのぞんだ。百年戦争で実際に勝利をもたらしたのは傭兵、とりわけ弓をあやつる歩兵だった。
封建制の軍事的意義は、中世末期にはうしなわれたが、封建的な法観念や慣行はその後も西ヨーロッパの伝統の中に生きつづけ、とくにイギリスで顕著だった。ヨーロッパ大陸では封建法はローマ法にとってかわられたが、イングランドではコモン・ローに封建法が生きつづけ、また主君と家臣による双務的契約という考え方は、近代の契約説にうけつがれた。こうして封建制はヨーロッパ政治の発展に重要な役割をはたしたといえる。