フランス
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フランス
IX. 歴史
1. 古代のフランス
1.A. 先史時代の文化

現在のフランスで確認されている最古の文化は、旧石器時代の文化(→石器時代の「旧石器時代」)で、この文化は洞窟(どうくつ)壁画をのこしている。有名なものにフランス南西部のドルドーニュで発見されたラスコー洞窟の壁画があるが、1994年にアルデシュ渓谷でみつかったショベ洞窟壁画や2000年に発見されたキュサック洞窟の壁画などもある。キュサック洞窟の壁画は3万5000年前にさかのぼる可能性がある。

中石器時代(前8000~前4000)の遺跡は少ないが、新石器時代(前4000~前2000)は相当数の巨石記念物がのこっている。ブルターニュのカルナック列石やロワール渓谷のドルメン(机石)などがその例である。

青銅器時代(前2000~前800)および鉄器時代(前8世紀~前2世紀)になると、きわめて洗練された文化が登場する。前8世紀ごろからはじまるハルシュタット文化とよばれる鉄器文化は、アルプス方面から到来したケルト人のものだった。ケルトの最盛期は前5世紀ごろのラ・テーヌ文化の時代で、金工技術、陶器などに特徴がある。なお、前7世紀には、地中海沿岸にギリシャ人が植民都市を建設した。

1.B. ローマ支配下のガリア

古代ローマ人は、現在のフランス地域をガリアとよんでいた。前121年、現在のマルセイユ付近にいたギリシャ人は、ケルト系住民の圧力をうけたため、ローマ人に保護を要請し、救援にきたローマ人は、内陸部のナルボンヌに拠点をもうけた。この都市はガリア・ナルボネンシスの中心になる。ついで、前58~前15年にガリアを転戦したカエサルは、征服した土地を、ガリア・ルグドゥネンシス、ガリア・ベルギカ、アクイタニアの3属州に編成し、中心は今日のリヨンにおかれた。

ガリアはしだいにローマ帝国に同化され、その重要な一部となる。ガリアの住民にもローマの市民権があたえられ、有力者には元老院議員の資格があたえられた。そして、2世紀にガリアにもたらされたキリスト教はしだいにガリア社会に広まり、上層階層の出身者で教会の要職につく者も多かった。

5世紀になると、北方のゲルマン人が大挙してガリアに侵入した。412年に西ゴート族がイタリア方面から入って、ガリア南部にいすわり、440年ごろにはブルグント族がガリア東部を占領した。一方、ブリテン島にいたケルト人はテウトニ族(アングロ・サクソン人)におわれてガリア西部のブルターニュ半島に到来した。そして、476年に西ローマ帝国がほろびると、フランス全体をまとめる政治勢力はなくなった。

1.C. フランク人の登場

西ローマ帝国がほろびるころ、ガリアに新しい支配者が登場する。フランク族の一集団、サリ人である。もともとライン川の河口付近にいて、海の人とよばれたサリ人はしだいに南下し、今日のベルギーからフランス北部にあたる地域にすむようになった。サリ人の王クロービスは、ローマ・カトリックの信徒だったブルグントの王女と結婚してカトリックに改宗した。西ローマ帝国が滅亡して、たよるべき政治権力をうしなったローマ系ガリア人とガリアのカトリック教会にとってたのもしい存在となった。

1.D. メロビング朝

クロービスの家系、すなわちメロビング朝は、751年まで今日のオランダ、ベルギー、フランスからドイツ西部に相当する広い範囲をフランク王国として支配した。しかし、個々の地域で国王の代理をつとめた伯は地域の実力者からえらばれていたので、それぞれの地方には自立した勢力がそだち、国家としての一体性はうすかった。しかも、フランクの伝統として分割相続がおこなわれたため、メロビング家の内部で争いがたえず、王の力はしだいに弱くなった。

そして、王にかわって、フランス北東部からドイツ南西部の辺りに勢力をはっていたピピンの一族が力をもった。ピピン2世は、やがてフランク王国全体の貴族の長として宮宰になり、宮廷をとりしきった。その子カール・マルテルは732年にトゥール・ポワティエの戦でイスラム教徒を撃退してフランクの真の指導者になり、その子ピピン3世はメロビング朝の王を廃して、フランクの王になった。この王家の交代はローマの教皇によって承認された。実力のある王が社会の秩序と安定のために必要とされたのである。

1.E. カロリング朝

教皇はピピン3世とその2人の息子に「ローマ人の保護者」の称号をあたえ、ピピン3世はローマ周辺の土地を教皇に寄進したが、これが教皇領の基礎となった。カロリング朝はピピン3世の子カール大帝(シャルルマーニュ)の時代に最盛期をむかえる。

カールの治世の大半は遠征についやされた。北は今日のドイツから、南はイタリア半島とイベリア半島の北部、東は今日のハンガリーまでを征服し、征服した土地を約250の地方にわけて、王の代理とラテン語の公文書を理解できる聖職者をおいて統治した。800年にカールは教皇からローマ皇帝の称号をあたえられ、西ヨーロッパにローマ帝国が復活した。けれども新しいローマ帝国は以前より北方に移動し、このたびはゲルマン人が支配者だった。

カール大帝の死後、王国は分解する。息子ルイ(ルートウィヒ1世)による皇位継承と、その息子たちによるたび重なる廃位の企て、そして息子たちどうしの争いをへて、最終的に王国はルイの3人の息子が分割して支配することになった。長兄のロタールは帝国の中心であるライン川沿いの土地とイタリア、そして皇帝の称号を、ほかの2人のうちルイ(ルートウィヒ2世)はライン川の東、シャルル1世(カール2世)はライン川の西をえた。シャルルの領土がほぼ今日のフランスにあたる。

各地に配置された伯は、土地の実力者として力をたくわえていった。すでに8世紀以前から、西ヨーロッパにはノルマン人がときおり襲来していた。カール大帝の子孫には、外敵から王国全体をまもる力はなく、略奪をおこなう異民族から住民を保護したのは、地域の実力者たちだった。彼らのもとで小国家(領邦)群が生まれていき、やがて、地域の支配者たちは無能な王を廃して、自分たちの指導者をえらんだ。これがカペー家のユーグである。カペー家はパリ周辺の実力者で、ノルマン人と勇敢にたたかって一目おかれた家系だった。ノルマン人は10世紀の初め、フランク王の臣下となり、セーヌ川の河口に定住した。この土地がのちのノルマンディである。

2. 中世のフランス
2.A. カペー朝のフランス

987年、ユーグ・カペーが即位したときから固有のフランスの歴史がはじまる。すでに9世紀には、東フランクではゲルマン系の言葉が話されていたが、西フランクではゲルマンの影響をうけて変化したラテン語がつかわれた。これがフランス語の起源である。ただし、ローマ人がはやくからすみついていた南フランスでは、ゲルマンの影響は小さく、方言化したラテン語になっており、これは現在でもつかわれている。

ユーグが実際に支配していたのは、パリ周辺の自分の領地だけだったが、聖俗諸侯による選挙で王位をえ、しかもランス大司教の支持をえたことは、神の名においてフランス人を支配し保護する役割をあたえられたことを意味した。そして7代目のフィリップ2世のころになると、王は肩書を利用して、ほかの領主の土地を没収するようになり、王の領地はしだいに拡大していった。

2.B. 王領の拡大

結婚も領地の拡大の手段だった。ルイ7世(在位1137~80)は、アキテーヌ公国とガスコーニュ公国とポワトゥ伯領を相続したエレオノール(アリエノール)と結婚した。2人の間に生まれる子供はこれらの領地を相続するはずだった。しかし、2人は離婚し、エレオノールはフランス北西部でノルマンディ公国とアンジュー伯領を支配するアンリと再婚した。しかもアンリは、母がイングランド国王の娘だったので、1154年、イングランド国王ヘンリー2世となった。こうして、ヘンリーとエレオノールの間に生まれた子供は、イングランドとフランスにまたがる広大な領地の支配者となった。

カペー朝はこのような失敗もしたが、着実に領土を拡大し、統治の仕組みをととのえた。フィリップ2世(在位1180~1223)は、キリスト教の異端の撲滅を口実として、南フランスに領土を獲得し、その孫ルイ9世(在位1226~70)は行政機構を整備した。その孫フィリップ4世はローマ教皇との抗争に際して、聖職者と貴族、都市の代表者をあつめて、はじめて三部会を開催した。

2.C. 都市と商業の発達

領土の拡大は王の野心を満足させるためだけのものではなかった。この時代は西ヨーロッパ全体が繁栄の時代をむかえて、商業や工業が盛んになり、遠隔地をむすぶ交易が発達した。商工業の中心地として都市が発達したのも、この時代である。

王の領土が拡大し、支配が確実になることは、経済活動が安全になることを意味した。したがって、国王が実力をもつことは、商工業者の願いでもあり、国王の軍事活動を都市の商工業者や金融業者が応援したのは、自分たちの繁栄にむすびついたからである。カペー朝の王たちは十字軍の活動に熱心に参加したが、これも、宗教的な感情とともに、臣民の商魂にささえられていた。商工業者や金融業者の富は、都市の教会建築にも利用された。教会は物騒な世相に生きる人々にとって、心の支えであった。

2.D. バロワ朝の時代

1328年、カペーの本家に男子の後継者がいなかったので、フィリップ4世の甥(おい)、バロワ家のフィリップが王位についた。以後1589年までの260年間に、一家から13人の王が即位する。カペー朝では340年間に14人の王が、またブルボン朝の場合には1589年からフランス革命までの200年を5人の王がになったのにくらべ、バロワ朝国王の統治期間の短さはこの時代の統治の難しさを意味した。バロワ朝時代のフランスは、イングランドとの間の百年戦争とイタリア戦争、国内では、ブルゴーニュ公家との争い、そして16世紀には宗教改革にともなうユグノー戦争(ユグノー)を経験した。またこの時代は黒死病の時代でもあった。

2.E. 百年戦争

百年戦争は、バロワ家のフィリップ6世の即位に際して、フィリップ4世の娘の子であるイングランド王エドワード3世がフランス王位を要求し、フランスに侵入したことからはじまった。しかし、真のねらいは3つの領地の確保にあった。毛織物産地で、遠隔地貿易の中心を占めていたフランドル、赤ワインの産地で、天然の良港ボルドーをもつギュイエンヌ、穀物産地のガスコーニュである。百年戦争は商品生産や流通の発展にともなう経済戦争だったのである。

1348年から数年間にわたって、フランスで流行した黒死病も、国際的な交易活動の産物だった。西アジアの風土病だったペストは、東西貿易にともなって地中海を横切ってフランスに上陸した。農民の中から多数の死者が出て、人口が激減し、皮肉にも生きのこった農民の地位は向上し、農村の領主の立場は弱くなった。14世紀後半になると、自己の力を自覚した都市や農村の民衆は、社会的な主張をするようになる。ジャックリーの乱、パリでおきたエティエンヌ・マルセルの暴動はそのような性格のものだった。

2.F. ブルゴーニュ公国

バロワ朝第2代のジャン2世は、古くからの通商の要所で、ワインなどの農産物の重要な産地だったブルゴーニュを3番目の子フィリップにゆだねた。重要な地域だったので身内にゆだねたのだが、フィリップは結婚によって、フランドルを手にいれ、岩塩のとれるブルグント伯領も獲得し、本家よりも豊かなライバルに成長していく。15世紀の初め、ブルゴーニュ公国は、政治的な独立をもとめてフランスの敵イングランドと同盟をむすんだ。一方、王位をもつバロワ家を支持したのは、フランス南西部で独立した地位をもっていたアルマニャック伯と王族のオルレアン公家だったが、弱体であった。

2.G. ジャンヌ・ダルク

バロワ朝第4代のシャルル6世(在位1380~1422)が精神に異常をきたすと、フランスの混乱は最高潮に達した。イングランド軍は1415年にフランスに上陸し、アザンクールの戦に大勝したが、ブルゴーニュ派はイングランド王を支援した。そして、22年にシャルル6世が死去すると、イングランド王ヘンリー6世がフランス王位をかねることになる。シャルル6世の子は、フランス王シャルル7世としてアルマニャック派にはみとめられていたが、気の弱い人物だった。ジャンヌ・ダルクがあらわれたのは、そのようなときである。

ジャンヌは軍勢をひきつれて、イングランド軍をうちやぶり、シャルルに戴冠式(たいかんしき)を挙行させた。このあと、シャルル7世は自信をえて、ブルゴーニュ公と和をむすぶとともに、イングランド軍をフランスからおいだして百年戦争を有利に終結させ、フランスを再建した。

2.H. イタリア戦争(1494~1559)

シャルル7世の子ルイ11世(在位1461~83)は、ブルゴーニュ公をくだし、なかば独立していた諸侯の領地を併合した。そして、その子シャルル8世(在位1483~98)は、ナポリ国王の地位をもとめてイタリア半島に進出したが、ハプスブルク家の包囲に直面することになった。この当時のハプスブルク家は、本拠のオーストリア、ハンガリー、スペイン、南イタリア、さらにフランス北部のフランドル、ブルグント伯領などを支配しており、フランスをとりかこんでいた。

神聖ローマ皇帝の称号をあらそったフランソワ1世(在位1515~47)をへて、その子アンリ2世の代にイタリア戦争は終結する。だが、この時代から国王にとって、国内の統一と同時に、国際政治と国際経済での主導権確保が課題になり、すでにフランソワ1世は1530年代に、カルティエに命じてカナダの探検をおこなわせていた。

2.I. ルネサンスと宗教改革

フランソワ1世の治世になると、もはや国王に匹敵する権力をもつ領主はいなかった。王は、行政機構を中央集権化し、高等法院を再組織するなど法制度を整備し、公文書をフランス語で書くようにした。また、フランソワ1世は、フォンテンブローの王宮の改築のためにイタリアの芸術家をまねいて、ルネサンス様式をとりいれ、王国の第一人者として威厳を誇示した。レオナルド・ダ・ビンチも晩年、フランス王にまねかれて来訪し、フランスで死んだ。

王家に挑戦できるほどの大領主は存在しなかったが、16世紀の後半になると、王族たちが、王を味方につけて権力をにぎろうと抗争を重ね、それに信仰をめぐる対立が重なった。16世紀前半には、ローマ・カトリック教会を堕落しているとし、そもそも、人と神の間に巨大な教会組織は不要と考える人々、すなわちプロテスタントが登場していた。バロワ朝は、信仰の分裂が王国支配をゆるがすことを心配して、プロテスタントを弾圧した。しかし、やがて王族の何人かがプロテスタントの立場をとるにおよんで、カトリック支持者とプロテスタント支持者の対立は政治的な色彩をおび、ユグノー戦争(1562~98)に突入する。ユグノーとは、カルバン主義のプロテスタントを意味した。

バロワ朝第10代のアンリ2世の死後、3人の息子が次々に王位についたが、いずれも短い治世ののちに世をさり、1589年にバロワ朝は断絶した。王位継承権をもつ者はブルボン家のアンリだけだった。彼はユグノーの指導者だったが、フランス王国臣民の大半がカトリック教徒であることを理解しており、とんぼ返りと称してカトリックに改宗し、アンリ4世として王位を確保した。キリスト教は今や統治の手段でしかなかった。

3. 絶対王政の時代
3.A. ブルボン朝の始まり

アンリ4世は、プロテスタントに信仰の自由をみとめる「ナントの王令」を発して対立をやわらげ、戦乱で打撃をうけた農民のために、税の軽減や領主の権利の制限などの政策をとり、また、運河の建設、道路や橋の改修工事などで商工業者を応援した。一方、優秀な下級貴族からなる官僚に権限をあたえ、名門貴族を王国の中枢から遠ざけた。また、売官制をおしすすめて、平民にも行政上の官職を購入できるようにした。

王は、この制度を利用して、国庫の窮乏をすくい、民間の優秀な者を行政機構に吸収し、同時に名門貴族たちの権限を骨抜きにした。国王が圧倒的な強さで国内を支配する体制を絶対王政とよび、フランスは、アンリ4世の治世に絶対王政の時代に入った。

3.B. ルイ13世と枢機卿リシュリュー

アンリ4世は1610年、カトリックの聖職者に暗殺された。アンリの子がルイ13世として、9歳で即位した。16歳になるとルイは、摂政として政治をうごかしていた母を幽閉し、親政をはじめた。ルイをたすけたのはリシュリューだった。彼は、王の支配を邪魔する者をゆるさず、反乱をおこしたプロテスタントや反抗する貴族たちを冷酷に抹殺した。そして、中央に宰相をおき、地方には監察官をおく仕組みを法制化した。対外的な戦略は、ハプスブルク家の力を弱めることにおかれた。18年からの三十年戦争では、リシュリュー自身はカトリック教会の高位聖職者だったが、プロテスタント諸国と同盟をむすんで、ハプスブルク家から領地をうばった。

3.C. ルイ14世の世紀

1643年にルイ13世は41歳で死んだ。跡継ぎのルイ14世は、まだ5歳だったため、実際の政務はマザランがとった。三十年戦争をおえてヨーロッパの大国となったフランスをフロンドの乱(1648~53)がまっていた。既得権の侵害に憤慨する名門貴族たちのこの反乱には、パリの民衆や農民が参加した。マザランは反乱を鎮圧すると、名門貴族の地元に官僚をおくりこみ、容赦なく権限をうばった。

マザランが死去したとき、ルイ14世は23歳だったが、宰相をおかず、親政をはじめた。ルイは専門家をあつめて各種の国務会議を設置し、また数人の大臣をおいて中央政府を構成させた。大臣には、下級貴族出身の優秀な人材を登用したが、とくにコルベールは、国内産業を育成し、自国の海運力によって輸出する政策をとり、また海外進出の拠点となる植民地の確保に努力した。地方に派遣される監察官は、徴税や司法、警察、軍事、また公共事業を担当し、地方総監の役割をはたすようになった。

王国統治の中枢としてベルサイユ宮殿が建設されたが、この宮殿には、建築、造園など、当時の最高の技術がつかわれ、その後、世界の王宮の模範になった。また、完成後の王宮では、オペラ、バレエ、コンサート、晩餐会(ばんさんかい)などが開催され、フランス文化の基礎がきずかれた。

ルイ14世が親政をおこなった54年間に、計30年におよぶ4回の大戦争がおきた。戦争の目的は、国土を拡大し、世界経済の主導権をにぎることにあった。これらの戦いを通じて、長い間のライバル、ハプスブルク家とオランダの地位は低下した。しかし、イギリスだけは長い戦争をのりこえて、18世紀に世界の海を支配することになる。

3.D. 18世紀のフランス

1715年にルイ14世は77歳直前で死去した。すでに、王位を継承すべきルイの子と孫は死去していた。こうして5歳の曽孫(ひまご)がルイ15世として即位した。以後74年までの60年近い彼の治世は、フランスの歴史の中でもっとも豊かな時代であり、また国際社会におけるフランスの地位がもっとも高い時代だった。フランスの人口は、1700年の2100万人から90年には2800万人まで増加し、農業生産は同じ期間にほぼ60%増加した。また、約5000隻の船舶をもって、西インド諸島、アフリカ、インドとの間で海外貿易をいとなんだ。農業技術の改良や、金属、化学などの新しい産業が育成され、自然科学の研究が奨励された。また言論統制が緩和されて、啓蒙思想が普及した。しかし、見かけの華やかさの陰で、フランス社会は曲がり角にさしかかっていた。

フランスにとって大きな打撃となったのは、オーストリア継承戦争(1740~48)、七年戦争(1756~63)の2度の戦争でイギリスの海軍力の前に屈したことであった。2度の戦争の間、フランスとイギリスは植民地をめぐってたたかい、フランスは、インドと北アメリカ大陸のカナダをうばわれた。海外進出の二大拠点をうしなったことで、その後の国内における産業の発展においても、フランスはイギリスに大きく後れをとることになる。

経済の繁栄は国家の財政にほとんど寄与しなかった。全国の土地の10分の1をもつ聖職者と、10分の2をもつ貴族には免税の特権がみとめられていた。平民の場合にも、すむ場所や職業によって免税の特権を手にいれることができた。豊かな者ほど、税をはらわずにすんだのである。行政機構の充実、18世紀からの軍事や土木の専門家の養成機関の拡充、再三にわたる戦争、これらに要する出費は借金でまかなわれたが、18世紀の半ばをすぎると、国庫の赤字は、もはや手のほどこしようのないものとなっていた。

大事にされた王「ビアン・エメ」という愛称をもち、多数の愛人をめぐるエピソードだけをのこしたルイ15世も、その孫のルイ16世も、こうした事態に対処する能力はなかった。運のわるい貧困な者だけに負担がかかる税制ではなく、豊かな者が応分に税を負担する仕組みにかえればすむことだったが、これには特権をもつほとんどの者が反対した。事態は、国家の仕組みの核心をなす身分制そのものにふれざるをえなくなり、国家財政の危機とその解決方法をめぐって多様な議論が生まれ、社会の中で対立が表面化していった。

4. 19世紀のフランス社会
4.A. フランス革命

王国の財政事情はアメリカ独立戦争への介入でさらに悪化した。税制改革を実施するために、ルイ16世は、1789年5月5日、ベルサイユに三部会を招集した。しかし、第三身分選出議員は、6月17日に国民議会と名のることを決定し、憲法の制定まで散会しないことを宣言。ここに憲法制定国民議会が成立した。7月14日、政府が国民議会を武力で解散させようとすると、パリの民衆はバスティーユの要塞(ようさい)を崩壊させた。これがきっかけとなって、パリでは新しい市政が成立し、この動きは全国に広がった。各地でおきる蜂起(ほうき)に貴族層がおびえる中で、8月4日の夜、議会は封建的な特権の廃止を決定した。ついで、富裕な市民層を中心とした議会は、91年秋に憲法を制定した。フランスは憲法にもとづく王政(立憲王政)となり、三権分立の原則が確立された。アンシャン・レジーム:フランス革命

王は、革命政府に対するヨーロッパ列強の干渉戦争で革命政府がたおれることをのぞんだ。1792年4月に対外戦争がはじまったが、フランス軍は敗退を重ね、民衆のいらだちは王家にむけられていった。8月、パリの民衆は蜂起し、議会は王政を廃止した。フランス史上はじめて成人男子全員が参加する普通選挙が実施されて、国民公会が成立し、9月にはフランス共和国の成立が宣言された。そして、ルイ16世が93年1月に処刑されると、ヨーロッパじゅうがフランスとの戦争に突入した。国内では王政支持者の扇動で反乱がおき、食料不足やインフレで、民衆のいらだちがつのった。国民公会の中では急進的なジャコバン派の公安委員会が権力をにぎり、民衆の要求する生活必需品の価格の統制や、王妃マリー・アントワネットや貴族などの処刑を実行した。民衆はいさんで戦場へむかい、外国軍を打倒し、苦境を切りぬけた。

4.B. 総裁政府

1794年、フランス共和国軍が内外の敵をおいはらうと、公安委員会の独裁に対する反動がおきた。95年には新しい憲法が制定され、普通選挙は廃されて、豊かな者だけが選挙に参加する、二院制の議会と5人の総裁からなる政府がつくられた。総裁政府は以後5年間にわたって、政治を指導した。しかし、国内では王政の再建を画策する右派と、急進的な政治の継続をのぞむ左派がかわるがわる政府の転覆をはかり、国境ではイギリスなどの軍隊がフランスを包囲していた。総裁政府は人気がなく、富裕階層の中で、より強力な支配をのぞむ者が増加し、若い将軍ナポレオンをえらんだ。99年11月、ナポレオンのクーデタが実行され、ナポレオンをリーダーとする執政政府が生まれた。

4.C. ナポレオンの政策

ナポレオンの第1の課題は平和の確立にあった。ナポレオンはオーストリアをやぶって1801年に戦争を終結させ、イギリスとの戦争も02年におえた。国内では、革命以来の社会的対立の解消をはかり、経歴にかかわらず人材を登用し、またカトリック教会の復興をゆるして、教会を味方につけた。そして、フランス全土83の各県に知事をおく仕組みと、全国の市町村に広がる警察機構で治安は回復した。この方式は明治維新後の日本でも採用される。さらに、革命期から懸案となっていた各種の法律の整備を完成させたが、その中でとくに民法はナポレオン法典の名で知られている。ナポレオンは経済の仕組みをよく理解しており、フランス銀行の設立と安定した通貨の供給、また、産業の発展のために道路や運河の整備をおこなった。

4.D. 帝政とヨーロッパ支配

ナポレオンは1804年に共和政を廃して皇帝になった。05年にはふたたびヨーロッパの戦争がはじまった(ナポレオン戦争)。ナポレオンはオーストリア、プロイセン、ロシアをくだし、07年には、ヨーロッパ最強の君主になっていた。しかし、海上の支配権はイギリスからうばうことができなかった。このためナポレオンは、イギリスの船舶をしめだすために06年に大陸封鎖令を発し、これをまもらせるために、イベリア半島へ、ついでロシアに軍をすすめ、12年に50万近い軍隊をうしなった。

4.E. ナポレオン帝国の崩壊

ヨーロッパ諸国は、ふたたびフランスをせめた。1813年10月、ナポレオン軍がドイツで大敗すると、戦場はフランス国内にうつり、14年4月、ナポレオンは退位した。フランスの領土は1798年段階に縮小され、5月、ルイ16世の弟がルイ18世として王政復古をはたした。1815年3月、再起をはかったナポレオンは幽閉されていたエルバ島からフランスに帰還し、ふたたび皇帝の座についた。しかし、6月18日、ナポレオンの軍隊はベルギーのワーテルローで敗北し、「百日天下」はおわり、領土はさらに1792年段階にまで縮小された。ナポレオンは今度はアフリカの沖合のセントヘレナ島にながされ、そこで1821年に死去する。ルイ18世はあらためてフランス国王となった。

4.F. 復古王政

亡命生活から帰還した旧貴族たちは、かつての地位にもどることを希望して、王弟アルトワ伯の周囲に結集し、過激王党派を結成した。しかし、行政を担当する国王には、社会を革命以前にもどせないことがわかっていた。王国は「憲章」にもとづく立憲王政となり、議会制がとられた。行政機構や法体系もナポレオン時代のものが利用された。そして、王が重んじたのは、王の路線を理解する穏和な立憲王党派であった。

1824年にルイ18世が死去し、アルトワ伯がシャルル10世として即位した。過激王党派は、この機会にフランスを革命前の社会にもどそうと反撃を開始した。しかし、ナポレオン戦争後の不況がおわり、経済が回復するのにともない、金融業者や商工業者などの成長はめざましく、彼らはかつて貴族だった地主たちの言いなりになるつもりはなかった。30年7月、王は選挙法をかえて、議会を地主だけで独占しようとこころみたが、金融業者と商工業者は、学生や労働者とも手をたずさえて、政府を批判する側にまわった。パリでは蜂起がはじまり、「栄光の三日間」の戦いの後、パリの民衆は王宮を占拠した(七月革命)。

4.G. 七月王政

パリのまずしい民衆がブルボン朝をたおしたが、支配権は富裕階層がにぎった。彼らは新しい王としてオルレアン家のルイ・フィリップをかついだ。富裕階層が欲したのは、金融業者や商工業者に自由な活動を保障する政府だった。

ルイ・フィリップのもとで、フランス資本主義は大きく発展する。鉄道の建設は、重工業の発展を促進し、農村から都市への人口の移動がはじまり、農村型の社会から都市型の社会へ、農業主導から工業主導の国家へ、フランス社会はかわっていった。貧困階層が集中する都市では、労働者の運動や、資本主義経済の問題を指摘する社会主義運動が登場した。教育水準の向上や印刷技術の向上は活字文化を活発にし、大量生産の新聞や安価な出版物を普及させた。大衆小説が登場し、ロマン派の作家たちの活躍する時代でもあった。七月王政

4.H. 二月革命と第2共和政

1845年からの凶作は食料品の高騰をまねいた。農業の危機で工業生産が縮小し、膨大な数の失業者が発生した。零細な商工業にも倒産があいついだ。言論界や政界では社会改革の要求と、それを実現するための普通選挙導入の要求が盛んになり、47年からは普通選挙制を要求する集会が全国で開催されるようになった。48年2月、パリではふたたびバリケードがきずかれ、国王はパリを脱出した。パリの民衆は議会になだれこみ、共和政万歳の怒号の中で臨時政府が樹立された(48年革命)。

パリの民衆の監視下に成立した臨時政府には、社会主義者や労働者が参加し、1848年4月には普通選挙制による議会選挙がおこなわれた。しかし、国民の大半は景気の回復と社会の安定をのぞみ、約900人の当選者の過半数はブルジョワ共和主義者だった。6月、ふたたびパリでまずしい労働者の蜂起が発生した。この蜂起はまもなく鎮圧されたが、労働運動や社会主義運動に対する恐怖や嫌悪を、富裕層から農民にまでうえつけることになった。

1848年11月に制定されたフランス共和国憲法は、普通選挙制による大統領制をさだめていた。12月の大統領選挙に当選したのは、予想外の候補、ルイ・ナポレオン・ボナパルトだった。皇帝ナポレオンの甥にあたるルイ・ボナパルトは、有権者の4分の3に支持されて大統領に就任した。彼は51年にクーデタをおこして大統領の権限を強化し、任期を10年とした。さらに、翌52年12月には、皇帝ナポレオン3世として即位し、フランスの2回目の共和政、いわゆる第2共和政は4年間で崩壊した。

4.I. 第2帝政

皇帝になったナポレオン3世は、徹底的な言論の統制と、反対派の抑圧をおこなったため、今でも評判がわるい。しかし、のこした業績は大きかった。全国の幹線鉄道網を完成し、商品流通の近代化をはかり、また重工業の技術水準をひきあげた。そして、新しい金融の仕組みをもうけて産業の発展をささえた。さらにパリの改造をはじめとする都市開発をおこない、清潔で通行の容易な都市が各地に生まれた。叔父との違いは軍事的才能がないことであった。1870年7月、フランスはプロイセンに宣戦布告した(プロイセン・フランス戦争)。しかし、プロイセン首相ビスマルクは対フランス戦争の準備をととのえており、フランス軍はすぐに苦境にたたされた。9月にはナポレオン3世自身が、主力軍もろとも包囲され捕虜となってしまった。ここに第2帝政は崩壊した。

5. 20世紀のフランス
5.A. 第3共和政の確立

パリでは1870年9月4日、国防政府が樹立され、共和政が宣言された。国防政府のもとで戦争はつづき、プロイセン軍はフランス国内に深く侵入し、包囲されたパリでは食料が不足した。休戦期間がもうけられて議会選挙が実施されたが、戦争終結をのぞんだ新議会は、アルザスとロレーヌを割譲し、5億フランの賠償金をしはらうことで講和条約をむすんだ。しかし、パリの民衆はドイツに対する屈伏を不服として、71年3月に蜂起し、独立した自治政府パリ・コミューンを結成した。2カ月にわたる彼らのパリ支配は凄惨(せいさん)な戦いでおわった。

議会の多数派は王政への復帰を希望していたが、地主や教会への農民の忠誠心はうすれており、王政を支持する勢力は小さかった。1877年の総選挙で共和政支持者は大勝し、第3共和政が確立したが、80年代~90年代に、共和政は何度かの危機を経験した。80年代には、人気のあったブーランジェ将軍を擁立するクーデタ未遂事件がおき、事件の背後には、将軍の人気を利用しようとする王党派がいた。

1890年代におきたドレフュス事件は、スパイの疑いでドレフュス大尉を有罪とした冤罪(えんざい)事件である。無罪を信じた家族や知人は再審を要求したが、ドレフュスがユダヤ系だったことも重なって世論は二分し、一方の側は、軍事法廷でさばいた軍部の名誉をまもるために再審に反対し、他方は軍部にすくう貴族などの保守派を非難して再審を要求した。再審の可否をめぐるこの事件は、軍部や教会およびその周辺にいた旧支配層と、共和政を支持するグループとの対立になり、最終的にドレフュスの再審と復権におわった。

5.B. ベル・エポックの社会と文化

1870年代~90年代の不況を脱すると、フランス経済は繁栄をむかえた。エッフェル塔の建設された89年と、地下鉄が開通した1900年に開かれた2回の万国博覧会は、フランスの華やかさを世界に誇示した。貧富の格差の大きい社会ではあったが、労働者出身の議員や、貧困な世界から学界や政界に入る者も増加した。社会全体にゆとりが生まれ、20世紀の初めには「ベル・エポック」(美しい時代)という言葉がつかわれた。首都パリを多くの外国人が訪問するようになり、その中には日本人もいた。この時期のフランスは世界の芸術の中心でもあった。印象派の絵画はこの時代の産物であり、文学の世界にもゾラの自然主義やマラルメの象徴主義など、多くの作品が生まれた。

5.C. 対外政策

プロイセン・フランス戦争の後、フランスはドイツと衝突をさける政策をとる一方、19世紀末にはアフリカやインドシナ半島に侵出し、イギリスにつぐ世界第2の植民地帝国をきずいた。20世紀になると、イギリスも新興のドイツをおそれるようになり、フランス、イギリス、ロシアの連合が成立した。一方のドイツも、オーストリア・ハンガリー二重帝国と手をむすんで、ヨーロッパは二大陣営にわかれて対立するようになった。

1914年6月、オーストリアの皇太子がセルビアの青年に暗殺されると、オーストリア・ハンガリーはセルビアに宣戦布告した。ドイツはオーストリア側にたって戦争に参加し、セルビアはロシアの同盟国だったので、ロシアも戦争状態に入った。フランスとイギリスは、ロシアとの同盟によって、8月3日、ドイツに対して開戦した(第1次世界大戦)。

5.D. 第1次世界大戦

開戦と同時に、ドイツ軍はベルギーをとおってフランス北東部に侵入し、パリの近郊まですすんだが、抵抗にあって後退し、1914年の秋から4年間、敵も味方も塹壕(ざんごう)をほり、身をかくしながらたたかうことになった。17年になると、戦線では厭戦(えんせん)気分が広がり、国内では反戦運動が盛んになったが、ペタン将軍が戦線での規律を回復し、クレマンソーが首相となって、統制と処罰によって戦争をのりきろうとした。同年アメリカが参戦すると英仏連合側は有利になり、18年11月にはドイツ国内で革命がおきて、ようやく戦争は終結した。

フランスはアルザスとロレーヌを回復したが、4年間の戦争で140万人が死に、170万人が傷ついた。以後、フランスは人口の少なさになやむことになる。また、重要な工業および農業地帯のフランス北東部が戦場となったので、経済的損失も大きかった。

5.E. 両大戦間のフランス

第1次世界大戦後のフランスの最大の問題のひとつは、通貨の不安定にあった。大戦が終了し、戦時経済の統制が解かれると、フランの値打ちは8分の1にまで低落し、1928年に戦前の5分の1に切りさげられてやっと安定した。借金をしていた国家と、実業界はすくわれたが、国債購入や貯蓄をしていた一般国民は犠牲を強いられた。

1932年、世界恐慌がフランスに波及した。深刻な不況の中で、イタリアやドイツにならおうとするファシズムの運動が拡大したが、34年に誕生した急進社会党、社会党、共産党による人民戦線は、36年の選挙で勝利をおさめ、ブルムの左翼政権が成立した。ブルム政権は有給休暇制、週40時間労働制、労使間の団体協約制度などの画期的な政策を実施したが、不況を克服する有効な経済政策には失敗し、人民戦線は38年に崩壊した。

5.F. 第1次世界大戦後の対外政策

第1次世界大戦後のフランスは、東欧の新興諸国と同盟をむすび、ふたたび戦争がおきた場合には、ドイツを東西から挟み撃ちにしようとしていた。しかし、フランスには東欧の同盟諸国を防衛するだけの軍事力はなく、1933年にドイツでヒトラー政権が成立すると、東欧諸国との軍事同盟を維持することができず、しだいにイギリスに追随するようになった。

1938年にドイツがチェコスロバキアのズデーテン地方の併合を要求して、ミュンヘン会談が開かれると、フランスは、ヒトラーとの衝突をさけたかったイギリスにならって、同盟国のチェコスロバキアをヒトラーの手にわたした。また39年には、イギリスにしたがって、ポーランドへの援助を約束した。そして、39年9月にドイツがポーランドを攻撃するにおよんで、英仏は、ポーランドとの協定にもとづき、ドイツとの戦争をはじめた。ここに第2次世界大戦がはじまった。

6. 戦後のフランス
6.A. 第2次世界大戦

1940年5月10日、ドイツ軍はオランダ、ベルギー、そしてフランスに対して総攻撃を開始した。フランスは30年代に北部の国境にそって、マジノ線と称する長大な要塞を建設していたが、ドイツ軍は簡単にこれを突破した。そして猛烈な速度で南下し、6月10日には、パリ近郊にせまった。政府はパリを脱出し、6月14日にはドイツ軍がパリに入城するという事態に政治家たちは茫然(ぼうぜん)とし、第1次世界大戦の英雄ペタン元帥をひっぱりだして首相にした。6月17日、ペタンはドイツに対して休戦をもうしこみ、22日にむすばれた休戦協定で、フランスの国土の3分の2がドイツに占領されることになった。残りの3分の1には、フランスの小さな国家がつくられた。

1940年7月10日、フランス中部の温泉町ビシーに、上下両院の議員が招集され、ペタンに全権をゆだね、新憲法が起草されることになった。これによって、第3共和政はおわった。フランス共和国はフランス国と名をかえ、ペタンはその主席として独裁者の地位についた(ビシー政府)が、この政権は、ドイツの傀儡(かいらい)だった。42年の秋になると、ドイツ軍は非占領地帯にも進駐し、ペタンは名目的な存在にすぎなくなった。

6.B. ド・ゴールとレジスタンス

1940年6月18日、無名に近い若い将軍ド・ゴールがロンドンからBBC放送を通じて、フランス軍将兵にむけて、戦闘の続行をうったえた。彼は、イギリスの財政援助をうけて、連合軍の一翼をになう「自由フランス軍」を結成し、小規模の亡命政府を樹立した。そして、フランス本土に生まれたレジスタンス(対独抵抗)組織と連絡をとり、42年になると、彼の使者によってフランス全土の抵抗組織がまとめられ、全国抵抗評議会が設立された。

1944年6月、ド・ゴールは、フランス領アルジェリアにフランス共和国臨時政府を樹立した。同じ6月、連合軍はノルマンディ上陸作戦を決行し、8月にはパリに到着した。ド・ゴールは8月26日にパリに帰還し、臨時政府もパリで業務を開始した。ド・ゴールは46年1月まで、臨時政府首相の座にとどまるが、新憲法の起草に際して彼が主張した強力な行政権は承認されず、辞任した。

6.C. 第4共和政

1946年10月、新しい憲法が国民投票で可決され、第4共和政がはじまった。この時代の最大の成果は社会政策の充実だった。同年には、健康保険、老齢年金、失業保険などの社会保障制度が確立された。経済政策についても、アメリカのヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)の資金をもとに戦後復興が進展し、その過程で国有化と計画経済が導入され、戦前のおくれたイメージは一掃された。工業生産指数は48年から58年までに倍増し、農業についても零細農家が減少する中で、化学肥料や農業機械の導入がすすんだ。長く停滞していたフランスの人口も1950年の4183万人から、1965年の4876万人へと増加した。

1957年には、西ヨーロッパ5カ国とともにEEC(ヨーロッパ経済共同体)を結成(発足は1958年1月)し、域内関税の撤廃によって、1億6500万人の共同市場が生まれた。EECは、52年に成立したヨーロッパ石炭鉄鋼共同体、ヨーロッパ原子力共同体と統合されて、67年には、ヨーロッパ共同体(EC)とよばれるようになる。

フランス第4共和政の重荷は植民地問題だった。第2次世界大戦直後からのインドシナ戦争でフランスは9万2000人の兵士をうしない、1954年のジュネーブ協定でベトナムを放棄した。同54年にアルジェリアの独立戦争が勃発(ぼっぱつ)し、軍部は、この最後の巨大な植民地を死守しようとした。しかし、アルジェリアでの戦争には費用がかかり、軍の残酷な行動もつたえられて、本国での評判はわるかった。58年5月、アルジェリア駐屯軍とヨーロッパ系植民者は、本国政府がアルジェリア民族解放戦線に妥協することをおそれて、アルジェリア総督府を占拠し、ド・ゴールを首相とするよう要求した。これにこたえて本国議会は、ド・ゴールに6カ月の間、全権をゆだねることを議決した。

7. 現代のフランス
7.A. 第5共和政の始まり

1958年9月、ド・ゴールは新憲法を国民投票にかけ、有権者の85%が投票し、うち79%の賛成をえた。新憲法では、大統領の任期は7年で、その権限はきわめて強く、議会の権限は大きく制限された。さらに62年には、大統領は国民の直接選挙でえらばれることになり、その立場はいっそう強化された。58年末の総選挙ではド・ゴール派が第1党になり、また大統領選挙でもド・ゴールが圧勝した。

7.B. アルジェリア問題と対外政策

1959年9月、ド・ゴールはアルジェリアに自治をみとめる声明を発表した。軍部と植民者はふたたび反乱をおこし、大統領に対するテロが続発した。しかし、フランス政府とアルジェリア民族解放戦線の会談は進行し、62年7月、アルジェリアは独立した。さらに、50年代後半に独立を希望していたフランス支配下の多くのアフリカの植民地の独立をみとめ、ド・ゴールは、第三世界の理解者としてふるまうようになる。

ド・ゴールの政治目標のひとつは、世界政治におけるフランスの威信の回復におかれた。まず、対米従属からの自立をめざし、1966年にNATO(北大西洋条約機構)の軍事機構を脱退した。また、アメリカ、ソ連と対等の立場にたつために独自の核兵器開発を開始した。こうした政策をすすめるフランスにとって重要だったのが、EEC諸国との連帯であり、中国などの第三世界との友好関係であった。フランスを中心として西ヨーロッパ諸国と第三世界をむすびつけ、米・ソとならぶ第3の勢力をきずこうとしたのである。

7.C. フランス社会の革新

ド・ゴールは、フランス経済を原子力、宇宙・航空、化学、電子工業などを中心とする経済に転換しようとした。この政策は、核兵器を軸にして先端産業で武装した軍隊にしようとする軍事戦略ともむすびついていた。効率のわるい産業は切りすてられ、国家の指導のもとで輸出産業、先端産業を中心に大企業がそだてられた。この結果、1959年から70年までの工業生産指数は倍になり、穀物生産は50%増加し、この間の国民総生産の年平均成長率は日本につぐ5.8%であった。国民の購買力は上昇し、フランス人はかつて経験したことのない豊かさを享受した。

しかし、1960年代半ばから、陰りがあらわれはじめた。インフレは進行し、失業者が増大した。高等教育の大衆化で大学生は増加したが、施設の貧しさ、卒業後の就職の可能性の低さなどが、68年春の学生の反乱(五月革命)をひきおこし、学生につづいて、全国で労働者のストライキが発生した。ド・ゴールは、議会を解散して総選挙にうったえ、秩序の回復をのぞむ有権者は彼を支持した。しかし、翌年に提案した制度改革は支持されず、ド・ゴールは政界を引退し、70年に死去した。

7.D. ポンピドゥー政権

ド・ゴールの後任として大統領に就任したのは、長らく首相としてド・ゴールをたすけたポンピドゥーだった。新大統領は、議会の意向を尊重し、また、西ヨーロッパの結束を重視して、イギリスのEEC加盟を承認した。また、国家の威信のために経済を犠牲にしたド・ゴールとはちがって、経済合理性を重視した。しかし、ド・ゴール路線を修正しきらないうちに石油危機がおき、石油価格の高騰でフランス経済が大混乱となる中、これにたちむかおうとしたポンピドゥー自身が、1974年4月に急死する。

7.E. 石油ショック後のフランス

いそぎおこなわれた大統領選挙では48歳の財政の専門家ジスカール・デスタンが勝利した。彼は就任まもなく、有権者の年齢を従来の20歳から18歳にひきさげ、若者や女性から要望の出されていた妊娠中絶の禁止を撤廃して、新しい時代の到来を思わせた。経済については、国際競争力のない時代遅れの部門を整理して、フランス経済を若がえらせるために、過剰な国家の介入をさけて、経済の自主性にまかせようとした。しかし、この政策は多くの犠牲者を出した。1979年に2度目の石油ショックがおそうと、失業者は73年の60万人から81年の190万人へと3倍になり、81年の大統領選挙では落選した。

7.F. 社会党政権の時代

1981年の大統領選挙では社会党のミッテランが当選した。ミッテランは社会党、共産党などからなる内閣をつくり、主要な企業の国有化、社会保障給付金や最低賃金の引き上げなど、伝統的な社会主義的政策を実現した。しかし、インフレは悪化し、失業者はふえた。83年に方向を転換し、石炭、鉄鋼など、衰退産業の切り捨てをおこなったが、失業者は増大し、86年の総選挙で社会党は敗北した。

ミッテランは旧ド・ゴール派のシラクを首相に任命し、新首相は大掛かりな自由化を実施した。国有化された企業はふたたび民営化され、予算案では公務員の給与の凍結や補助金の削減など、緊縮財政がとられた。国家の保護のもとに生きてきた多くのフランス国民はふるえあがり、1988年の大統領選挙で、保守派を代表したシラクは、左派を代表したミッテランに敗北した。

ミッテランの最大の課題は、国際競争力をうしなったフランスの産業と、300万人をこえた失業者をどうするかにあった。産業を合理化すると失業者は増加し、失業者を保護すれば、フランス経済の健全さはそこなわれる。2期目のミッテランは、7年間の任期中、立場のことなる4人の首相を任命したが、結局、経済問題を解決することはできなかった。しかし、在任中パリには多くの記念建造物がつくられて各種のイベントが挙行され、フランス共和国大統領の偉大さを印象づけた。

また、ミッテランの対外政策も国民に評判がよかった。それは、核兵器を軸にして近代的な兵器をそろえ、米ソと肩をならべ、大国としての地位をまもる政策であり、ド・ゴールの路線にほかならなかった。フランスの威信を維持する姿勢も、大統領の威信を強調する姿勢も、ともにド・ゴールのスタイルであった。14年間大統領をつとめたミッテランは、1995年に引退し、翌96年死去した。

7.G. シラクの時代

1995年の大統領選挙ではシラクが当選した。ミッテラン政権の後半はフランス版バブルの時期と重なっていた。ミッテラン政権末期、各地で社会党関係者による汚職が明らかになり、また14年間におよぶ長期政権で社会党は輝きをうしなっていた。シラクは52%の得票で当選し、ポンピドゥーの死後21年ぶりにド・ゴール派出身の大統領が登場した。

大統領となったシラクは当初、「独自の核」政策によってド・ゴール派ぶりを発揮し、南太平洋のムルロア環礁で一連の核実験を強行した。国際世論の反発は大きく、フランス製品の不買による輸出の不振までがつたえられた。シラクは1996年1月、最後の実験を前に新しい国防政策を発表し、核実験の停止、軍事用の核物質の生産の中止、地上発射核ミサイルの撤廃などを言明し、同時に97年1月から6年間のうちに徴兵制を廃止して、フランス軍を志願兵だけで構成するプロの戦闘員集団とする計画を発表した。地域紛争などの多発する冷戦後の情勢に対応するとともに、国防予算の削減をねらい、さらに国際世論に対する配慮をしめすものであった。他方、シラクが内政において緊急の課題とした失業問題は、問題の根深さを前にして棚上げされ、96年には失業率が12%をこえるまでになった。

シラク政権に課せられた最大の課題は、1999年に予定されるEU(ヨーロッパ連合)の通貨統合の実現であった。この課題をはたすためには財政赤字の解消が前提条件とされ、96年秋に発表された次年度予算案は、大幅な公務員削減をふくむ緊縮予算案であった。失業を増加させかねない、こうした政府の姿勢に労働組合は硬化し、11月に入って鉄道、都市交通、電気、ガスなどで長期にわたるストがおこなわれた。

一方、景気の低迷と失業者の増加から、移民に対する暴行や人種差別の風潮が高まった。移民排斥を主張する極右の国民戦線はとくに南フランスで勢力を拡大し、1995、96年度中に4都市の首長選挙で勝利をおさめた。政府は、これに対して不法入国者に対する規制の強化で摩擦の増大をふせごうとした。97年2月には外国人の宿泊の届出の徹底や外国人の指紋押捺(おうなつ)などを内容とする法案が議会に上程された。これに対して文化人などの抗議デモがおこなわれたが、3月に両院で可決された。また、96年から97年にかけて爆弾テロがあいついで発生した。一連の事件はアルジェリア現政権に反対するイスラム過激派によるものとみられ、こうした事件も一部のフランス人の排外主義的な感情を強めている。

7.H. ジョスパン内閣とのコアビタシオン(保革共存)

1997年5月に成立2周年をむかえたシラク政権は、通貨統合をめざし、国民の信任をえるために、国民議会総選挙を5、6月にくりあげて実施した。しかし、高失業率や福祉切り捨てをふくむ財政削減政策に対する国民の不満は強く、6月1日の第2回投票の結果、左翼連合が過半数を制した。保守のシラク大統領のもとで、社会党のジョスパン第一書記を首班とする連立内閣が発足した。ジョスパン首相は、通貨統合のための強硬な財政削減政策に反対の姿勢をみせたが、98年度予算では、法人税の引き上げや国防予算の削減などにより、GDP比3%以内の財政赤字をめざすことを発表した。98年5月のEU首脳会議で、フランスの99年からの通貨統合参加が正式に決定した。

ジョスパン内閣は、1997年6月の発足以来、従来の緊縮財政にかわり、消費拡大による景気刺激策をとってきた。その効果があらわれ、98年の経済成長率は3.1%に達し、インフレ率は0.3%にとどまった。失業率も11.8%と十数年来はじめて下降した。しかし98年秋には国会運営や不法滞在者の処遇をめぐって、連立内閣の足並みがみだれ、それまで高い支持率をえていた首相の人気にも陰りがみられた。またさがったとはいえ依然として高い失業率、鈍化の傾向にある経済成長率にくわえ、豊かな社会からとりのこされた50万人といわれるホームレスの存在、未成年者による犯罪の激増と治安の悪化、人口の老齢化にともなう年金制度の破綻(はたん)など、多くの課題に直面した。99年1月、財政赤字3%以内という条件をみたし、ヨーロッパ通貨統合への参加を実現した。

ジョスパン内閣が失業率改善のためにとった方法は、労働時間を短縮して週35時間労働制を実現することだった。ワークシェアリングによって雇用を創出し、とりわけ若年層の失業者をへらして社会の安定をはかり、労働者の余暇をふやすことによって人々のライフスタイルを変革するねらいをもっていた。コスト増による競争力の低下をまねくとして経済界からの反発をうけ、実質的な給与ひきさげにつながるとして労働組合の批判をうけたが、1998年5月に大枠が法制化され、99年12月には細部も法制化されて、2000年から本格的に実施された。フランス経済の好調にもささえられて、1999年の失業率は改善した。

第2次世界大戦中のビシー政権下で、県総務局長としてユダヤ人の強制収容所移送にたずさわったモーリス・パポン元予算相が、1998年4月、ボルドー重罪院で「人道に反する罪」によって禁固10年の有罪判決をうけ、翌年確定した。ビシー政権の対独協力に関しては、95年、シラク大統領が国家としての責任をみとめたが、パポン判決については象徴的な裁判にすぎるとして歴史家からの批判があいついだ。

1999年3月、共和国裁判所は、薬害エイズで過失致死罪にとわれたエルベ元厚生担当閣外相に、有罪を評決した。10月、議会は、同性愛のカップルに相続などをみとめる連帯民事契約を可決した。

2001年3月の統一地方選挙では、保守の牙城(がじょう)だった首都パリに初の左派市長が誕生するなど大都市では左派が健闘したものの、全体としては保守・中道が大きく勝利した。

ブッシュ政権が提唱する「新たなミサイル防衛構想」に疑義をとなえ、地球温暖化防止のための京都議定書からアメリカが離脱したことを批判するなど、フランスの伝統ともいえる独自性を発揮して超大国アメリカとは距離をおいてきた。しかし、2001年9月、アメリカ同時多発テロがおこると、シラク大統領は早々に「最大限の協力」をブッシュ大統領に表明し、10月以降、対アフガニスタン軍事作戦にフランスの陸・海・空軍を投入。ただし、アメリカの攻撃がイラクなどアフガン以外に拡大されることには反対の意を明らかにした。

7.I. 第2期シラク時代

2002年の大統領選挙は現職シラクとジョスパン首相の右左対決になると目されていたが、4月21日の第1回投票は、ジョスパンのかわりに極右政党「国民戦線」のルペン党首が2位に進出するという予想外の結果となった。欧州統合反対、移民排斥を主張し、人種差別的発言をくりかえしてきたルペンの躍進は、EU諸国はじめ世界各国に衝撃をあたえた。フランス国内の左派、人権派は危機感をつのらせて、反ルペン包囲網を形成し、5月5日の決選投票は、82%という異例の高得票率でシラクが再選をはたした。しかしこの大統領選は、国家主権をうばうものとしてEUに批判の目をむけ、流入する移民を市民生活の安全と職をおびやかす元凶と断じる人々の存在を、あらためてうかびあがらせた。第1回投票で敗退したジョスパンは政界引退を表明して辞任し、新首相には中道、自由民主党のジャンピエール・ラファランが指名された。

つづく同年6月の国民議会選挙では、共和国連合に、フランス民主連合と自由党の一部が合同して「大統領多数派連合」を形成、この保守合同の大勝により、シラク大統領とラファラン首相による政権が本格的に始動することになり、1997年から5年間つづいたコアビタシオン(保革共存)時代はおわった。なお、2000年9月の国民投票にもとづく憲法改正で、大統領の任期が7年から5年に短縮されたため、第2期シラク時代は07年までとなる。

2003年に入っていっそう危機感が深まったイラクの大量破壊兵器問題では、先制攻撃を主張するアメリカ、アメリカに足並みをそろえるイギリスに対し、「武力行使以外に選択肢はある」と、国連の合法性にもとづいた査察の強化・続行を主張。国連安全保障理事会で査察継続派のリーダーシップをとり、アメリカ、イギリス、スペインが提案した武力行使を前提とする新決議案に対して、採決の際には拒否権を行使するつもりであることを明言した。結局、米英は国連決議をへることなく単独で3月20日(イラク現地時間)にイラク攻撃を開始し(イラク戦争)、ぎりぎりまで武力行使に反対したフランスは、対米関係だけでなく、イギリスとの間の亀裂も深めることになった。イラクの戦後復興についても、米英軍による占領統治を切りあげて、早期にイラク側に主権を委譲するよう主張した。イラク戦争をめぐるシラク政権の一連の対応は戦争に反対する多くの国民に評価され、この時期、シラクの支持率は高水準に達した。

7.J. 国内の諸問題

しかし、国内では、世界経済の減速にともなって2001年以降GDPの実質成長率がおちこみ、財政赤字は、02年につづいて03年、04年とも、EUの安定成長協定の規定枠であるGDP比3%を突破している。懸案の退職年金改革については、03年5月、公務員の保険料支払い期間(37.5年)を民間(40年)並みに延長する、などの改革法案が議会に提出された。この「痛みをともなう年金改革」に対して左派政党や労働団体が一斉にはげしく反発。5月から6月にかけて、公務員を中心にした大規模なデモやストライキが全国的に展開され、鉄道・航空・地下鉄・バスなどの運休、学校閉鎖、郵便局や公立病院の業務の一部停止などがあいついだが、法案は7月に下院で可決され、9月に成立した。

2003年7~8月にヨーロッパをおそった熱波は、各地で山火事をおこし、農作物や家畜に大きな打撃をあたえたが、なかでもフランスでは、1万5000人近い死者を出す最悪の事態となった。犠牲者の多くは高齢者で、一人暮らしの孤独死も相当数にのぼった。高齢者支援のための体制づくりが緊急課題として浮上したが、財政難の現状で高齢者対策費の捻出が困難とみた政府は、休日の1日を廃止して、余分にはたらくことでふえる税収を高齢者施設の建設などにあてるとする法案の実施を提案した。

2004年1月、旧政党「共和国連合(RPR)」の党資金不正疑惑をめぐる第一審で、シラクの側近で次期大統領候補と目されていた与党UMP党首で元首相のジュペに有罪判決がくだった(12月、控訴院判決で有罪が確定)。ジュペは7月に党首を辞任して政界の表舞台からはなれ、かわって、断行型の政治手腕で国民の人気をあつめるサルコジ財務相がUMPの新党首に選出された。一方、04年3月に実施された統一地方選挙で、与党UMPは社会党などの左派連合に大敗した。とくに地域圏議会選挙では、フランス本土の全22議会のうちUMPが第1党の座を確保できたのは1つだけという惨敗ぶりだった。国民のきびしい審判をうけたラファランは、第3次内閣をくんで再出発したが、UMPは、6月のヨーロッパ議会選挙でも社会党に大差をつけられ、9月の上院(元老院)の一部改選では単独過半数をうしなった。

2004年3月、公立学校でイスラム教徒の女生徒にヒジャーブ(髪をおおうスカーフ)の着用を禁止する法律が成立した。「公教育の場での非宗教性」を徹底するためシラク大統領が法制化をもとめたもので、ユダヤ教徒のキッパ(小さな丸帽子)や大きな十字架のアクセサリーの着用も同時に禁止された。しかし実質的には、国内で500万人にのぼるといわれるイスラム教徒の共同体主義に対する警戒とうけとめられ、その波紋は国外にまで広がった。8月には、イラクの武装組織がフランス人記者2人を人質にしてヒジャーブ禁止法の撤廃を要求する事件がおこったが、同法は9月に施行された(記者2人は12月に解放された)。

ジョスパン首相時代に導入された週35時間労働制は、生産性と国際競争力の低下につながるとして見直しがはかられ、2005年3月、先進諸国で最短の法定労働時間はそのままで、時間外労働の規制枠を拡大する緩和法が成立した。賃金積み増しの保障がない時間外労働の延長をみとめることに対して、社会党や労働組合、多くの国民は強く抵抗したが法案は成立した。一方、バカロレア試験の科目数を半減して平常点などの総合評価を合否の基準にくわえるという教育改革法案は、学校差別につながるとうけとめた全国の高校生が反対して2月に10万人デモをおこない、事実上の廃案となった。

7.K. EU憲法の否決とドビルパン内閣の発足

拡大EUの基本法となるEU憲法条約の批准は、シラクにとって第2期政権最大の課題だった。その批准手続きとして、シラクは、承認されることが確実な議会の議決ではなく、あえて国民に直接はかることをえらんだ。しかし、2005年5月29日に実施された国民投票の結果は、賛成票45%に対して反対票が55%と、予想以上の大差によって否決された。投票率は70%に達した。ヨーロッパ統合のリーダーを自任するフランスでEU憲法が国民に拒否された衝撃は大きかった。後に国民投票をひかえる各国にも影響して、6月1日に実施されたオランダの国民投票ではフランス以上の大差で否決された。その3日後にはイギリスが、06年前半に予定していた国民投票の凍結を発表。6月16~17日におこなわれたEU首脳会議は、06年11月としていたEU憲法発効の時期を無期延期することをきめた。

フランス国民の多数が投じた反対票は、拡大EUで雇用がうばわれる、英米流の競争原理に支配される、社会保障が削減される、といった生活にかかわる危機感や、痛みをともなう諸改革を強いる現政権への不満を反映したものと思われる。その背景には10%をこえる失業率をかかえたフランスの社会不安があり、雇用回復に失敗した首相ラファランは辞任した。シラクは、側近のドミニク・ドビルパンを後任首相に指名し、6月初めに新しい保保政権がスタートした。内相は、シラクの若きライバルとみられてきた与党党首サルコジである。ドビルパンは雇用創出を政府の最優先課題と位置づけ、「100日以内に国民の信頼を回復する」と公言。就任早々に「雇用のための緊急計画」を発表して行政命令のかたちで実行にうつしたが、試用期間の延長や採用・解雇手続きの簡略化などに労働組合が反発し、雇用の安定をうったえる大規模なデモやストライキが全国でおこった。

7.L. 移民系若者の暴動

2005年10月27日、パリ郊外の移民地区で、警官の職務質問からのがれようと変電所ににげこんだ北アフリカ出身の少年2人が感電死した。この事件が発端となって、警察に反発する地元の移民系若者の暴動がはじまった。これに対して内相のサルコジは徹底的な取り締まりを主張。とくに、暴徒を「社会のクズ」とよんだことが移民系若者の怒りを買い、11月に入って暴動は一気に各地に飛び火する。暴力行為も、商店、学校、市役所などを火炎瓶で襲撃するまでにエスカレートしていった。もはや通常の手段では事態を収拾できないと判断した政府は、暴動頻発地に緊急事態法を適用して、非常事態宣言と16歳未満の少年少女に対し夜間外出禁止令を出す権限を県知事に付与することを決定。11月9日から、アミアン、オルレアン、リヨンなど、25県の約30市町村で次々に夜間外出禁止令が発令された。その後、各地の暴動は徐々に鎮静化し、緊急事態法の適用を06年2月まで延長することが議会で承認された16日には、ほぼ平常の状態に回復。緊急事態法は年明け早々に繰り上げ解除された。暴徒になぐられた市民1人が死亡したが、鎮圧による死者は出ていない。

3週間にわたりフランスをゆるがせた一連の暴動の中心となったのは、都市郊外の移民コミュニティにすむ若者たちだった。彼らの多くは、移民の2世、3世としてフランスで生まれそだったフランス人だが、移民系として差別され、就職難や貧困によって鬱積(うっせき)した社会への不満が暴動のかたちで連鎖的に噴出したとみられている。この暴動は、現代フランス社会における移民系住民の存在をクローズアップすることになった。ドビルパンは移民系若者の就職支援策などとともに移民の増加を規制する方針をうちだしているが、均質・平等を原則とする従来のフランス型社会モデル自体の見直しをせまる声もあがっている。

7.M. CPEの撤回とクリアストリーム事件

2006年3月、ドビルパン政府は雇用対策としてCPE(初回雇用契約)制度を中心とする機会均等法を議会で成立させた。このCPEは、26歳未満の若年層にかぎり、雇用契約をむすんでから2年以内は雇用者が自由に解雇できるとした制度で、いったん雇用契約をむすぶと解雇がむずかしい従来の雇用制度が雇用の硬直化をまねき、若年層の失業率を高める要因となっていることに対する反省から導入されたものだった。しかし、法律が成立するやいなや、学生を中心とする若年層の猛反発をまねき、フランス全土でデモやストライキが多発。あまりの反発の大きさに、政府はいったんは可決されたCPE関連法の導入を撤回。導入を推進したドビルパン首相の権威は失墜した。デモやストライキにはCPEの対象とはならない労働者や労働団体も多数参加していたとみられ、雇用問題をはじめとする、フランスの社会改革の難しさを露呈した。

さらにおいうちをかけるように、ドビルパンにとって不利な疑惑が発覚した。1991年に台湾に駆逐艦を売却した際、フランスの政治家や実業家へ不透明な資金の流れがあり、それらがルクセンブルクのクリアストリーム銀行の隠し口座にしはらわれていたという疑いがもちあがったのである。そして2004年6月に、この隠し口座の持ち主のリストが匿名の告発状といっしょに政府にとどけられ、リストの中にサルコジ財務相(当時)の名があったことから騒ぎが大きくなった。さらには告発状にしたがい、ドビルパン外相(当時)がシラク大統領の指示のもとにサルコジの近辺を捜査するよう命じた疑いがもたれた。ところが告発状は偽物であることが発覚し、この1件は、シラクとドビルパンがサルコジの追い落としをねらってしくんだものではないかと噂(うわさ)されるようになった。サルコジはドビルパンを告訴し、真実を明らかにするようにせまったが、シラクもドビルパンも、噂を否定した。

このクリアストリーム事件により、ドビルパンやシラクの信頼は大きくそこなわれ、2007年大統領選挙レースから完全に脱落した。しかし、ドビルパン政権が誕生した05年6月以降、経済は徐々にもちなおし、財政赤字、失業率ともに大きく改善された。

7.N. サルコジ大統領誕生

2007年4月の大統領選挙は、フランスの社会改革が争点となった。1995年から2期12年大統領をつとめたシラクが引退を表明し、はじめて現職の大統領も首相も立候補しない選挙には12人が立候補。前回2002年の選挙では極右のルペンが決選投票にすすんで世界をおどろかせたが、07年は与党UMPから立候補したサルコジが、極右顔負けの強硬な移民、治安対策をうったえて、ルペン票をとりこみ、決選投票で社会党の女性候補ロワイヤルをやぶって第5共和政6人目の大統領に就任した。

サルコジは英米的な新自由主義経済を標榜(ひょうぼう)し、高福祉高負担にあえぐフランス社会を根本から改革して、英米と比較しておとるフランスの国際競争力の向上をめざしている。彼を大統領にえらんだフランス国民はグローバリズムに対応した変化をのぞんだといえるが、今後、サルコジが大なたをふるう国営企業の民営化や公務員の削減、週35時間労働制の見直しや規制緩和といった緊縮財政政策に、国の保護になれきった国民がどこまでついていくことができるか、成否は未知数である。失業対策や治安対策に少しでも失敗すれば、左右両方から不満が噴出する恐れもある。

親米路線をかかげるサルコジが大統領になったことで、2003年のイラク戦争開戦以来しこりののこる仏米関係の完全修復が期待される。また、彼は就任直後にドイツのメルケル首相を訪問してEUの牽引役(けんいんやく)としての仏独協力を確認しあった。今後、05年のフランスの国民投票で否決されて宙にういたままになっているEU憲法批准にむけた動きが、加速されることが期待されている。