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ロシア革命
I. プロローグ

第1次世界大戦を背景にして、ロシアで世界最初の社会主義にもとづく国家を樹立した革命。20世紀初めにロシア社会は3度の革命を経験した。まず日露戦争を背景とした1905年革命があった。第1次革命とよばれるこの革命は、国会(ドゥーマ)開設を実現させたものの、皇帝(ツァーリ)の専制政治を根本的にあらためることはできなかった。その皇帝支配は、次の17年の二月革命によって終わりをつげ、ロシアは共和制になった。

しかし、その新しい体制のもとでも戦争に依然として参加していることに労働者、農民、兵士の不満や怒りが高まり、マルクス主義政党であるロシア社会民主労働党の中の急進グループ、ボリシェビキ(ボリシェビズム)が政治の指導権をにぎるようになった。二月革命につづいて1917年におきた3度目の十月革命は、そうした社会の急進化の結果実現したが、この新しい国家体制の出発点としての十月革命は、指導勢力の名をとってボリシェビキ革命とよばれることも多い。

II. 二月革命

1917年のロシア十月革命は、同年の二月革命によって口火が切られた。

1. 戦争と危機

当初はボリシェビキなどのわずかなグループをのぞけば、すべての政党、政治グループが第1次世界大戦への参加を支持していた。しばらくは皇帝と臣民が一体となって戦争を遂行するのだという気分がロシア社会を支配したが、この戦争をになうには、当時のロシアにはあまりにも問題が多すぎた。工業生産も農業生産も、戦争遂行のための武器の生産や食料をささえるにはふじゅうぶんであり、輸送も思うようにならなかった。兵士たちは塹壕(ざんごう)で飢えにくるしみ、武器・弾薬にも事欠き、圧倒的なドイツ軍の前に信じられないほど多数の死傷者をだしていた。

都市でも品不足や物価高騰になやまされ、なによりも臣民の先頭にたって戦争を指導すべき皇帝ニコライ2世にはそのための能力、決断力が欠けていた。彼は皇后アレクサンドラの意向に左右されることが多く、しかもその皇后は、皇太子の血友病をなおしたいとねがう気持ちから、新興宗教の僧ラスプーチンの影響を強くうけ、彼の思うままに行動するようになっていた。

国力をあげての戦争をたたかいぬくために、工業家たちは労働者の代表もくわえた戦時工業委員会を組織した。また国会ではカデット、オクチャブリストなどのリベラル政党によって進歩ブロックがつくられた。これらの人々は、なんとしても戦争に勝利しなくてはならないと考えていただけに、皇帝に対する批判を強めていった。そして専制主義者の中にも危機感をいだく者があらわれ、彼らは1916年にラスプーチンを暗殺した。しかし、それは危機を打開する力とはなりえず、むしろロシア国家(帝国)の動揺と崩壊への過程をしめすものとなった。

2. 革命の展開

二月革命は、首都ペトログラード(現、サンクトペテルブルク)で開始された。1917年2月23日(以下ロシア暦)に婦人労働者がパンを要求するデモをおこない、これに男子労働者も合流した。翌24日、運動はペトログラードの労働者の約半数をまきこむまでに拡大し、スローガンも「戦争反対」「専制打倒」という政治色のこいものとなった。25日にはペトログラードのゼネストの様相をおび、鎮圧に出動した警察・軍隊との衝突で、双方に死者がでたが、鎮圧に動員されたコサックの部隊は任務に熱意をしめさなかった。

1917年2月26日、警察・軍隊がデモ隊に対して発砲し、多数の死傷者がでる事態となった。しかし一方では、労働者の呼びかけに応じて反乱をおこし、革命に合流する部隊もでてきた。27日になると、ペトログラードでは兵士たちが次々と革命の隊列に結集し、首都の革命の勝利を決定づけた。およそ15万人の兵士が民衆の側につき、労働者と兵士は首都を統制下においた。

3. ペトログラード・ソビエト

首都では、1905年革命当時の労働者ソビエトの組織化の経験にならって、17年2月27日、ペトログラード労働者・兵士代表ソビエトが組織された。このあとソビエトは臨時政府とならびたつ機関として位置づけられ、二月革命から十月革命にいたるロシアの状況は「二重権力」とよばれることになる。ペトログラード・ソビエトの指導部の多数を占めていたのは、社会民主労働党の中の穏健派のメンシェビキと、農民を主体とした社会主義の実現を構想するエス・エルだった。

ソビエトは1917年3月1日に、兵士に対して命令第1号をだした。その文書には、兵士たちはソビエトの指令と衝突しない場合のみ軍の命令にしたがう、兵士は軍務外では完全な市民的・政治的権利を保障される、軍務外での将校に対する敬礼は廃止するといった内容のことがしるされていた。

III. 臨時政府

正式に国の政権をうけついだのは、国会のリベラル勢力だった。1917年2月27日、国会は皇帝の休会命令を無視して、非公式会議で国会臨時委員会を選出した。国会臨時委員会は、政府省庁を管轄下におき、リベラル勢力のリボフを首班とする臨時政府を成立させ、ソビエトもこの政府を承認した。皇帝ニコライ2世は弟ミハイルへの譲位によって事態を乗り切ろうとしたが失敗し、3月3日、1613年以来のロマノフ朝は終わりをつげた。

臨時政府には、歴史家としても名高いミリュコーフが外相として、またモスクワの代表的な資本家コノバーロフが商工相としてそれぞれ入閣した。また、ペトログラード・ソビエトの副議長でエス・エルのケレンスキーが司法相となって入閣した。

1. 臨時政府と民衆との亀裂

臨時政府は、農民が熱望していた土地の再分配に関しては、憲法制定会議の開催まで待たなくてはならないと説明した。戦争の問題に関しては、臨時政府とペトログラード・ソビエトとの対立が表面化した。

1917年3月6日、臨時政府は、勝利をえるまで戦争を続行し、「わが同盟国との間でとりかわされた合意をゆるぎなく遂行する」ことを宣言した。その合意の中には、コンスタンティノープル(現イスタンブール)の獲得などロシアの領土併合に関係する秘密条約もふくまれていた。しかし、これはペトログラード・ソビエトには受け入れられないものだった。ソビエト指導部は、ドイツ帝国主義に対する祖国防衛の必要性はみとめていたが、臨時政府に対しては併合や賠償をともなわない講和条約の締結を期待していたのである。

民衆の気持ちは臨時政府からはなれていった。民衆は、経済状況の悪化、食糧危機、土地問題などのさしせまった問題になんら具体的に対処せず、戦争の継続のみにエネルギーをついやしている臨時政府に不信感をいだくようになった。そして、労働者、農民、兵士の間には、これらの緊急の問題はソビエトによってのみ解決されるという確信がひろがっていった。

しかし、ソビエト側に明確な方針を提示することのできる者は、当初はいなかった。当時首都のボリシェビキを指導していたカーメネフやスターリンは、臨時政府を条件付きで支持し、メンシェビキやエス・エルの穏健な勢力と社会主義ブロックを形成することをめざしていた。この段階では、ボリシェビキがソビエトの中で主導権をとり、そのソビエトが臨時政府を打倒して政権をにぎることは展望されていなかった。

2. ボリシェビキの影響力の増大

その状況は、レーニンが1917年4月に亡命先のスイスから帰国したことで一変した。レーニンはボリシェビキの活動家に対して、戦争継続と臨時政府に対して断固として反対しなくてはならないという立場をうちだした。レーニンの方針はボリシェビキの中でもすぐには賛同をえられなかった。

「四月テーゼ」とよばれるレーニンの方針は、臨時政府が遂行している戦争をやめさせるにはソビエトが政権をにぎらねばならず、また農民は土地を自らのものとし、労働者は工場生産に対する統制権を確立しなくてはならないというもので、「平和、土地、パン」「すべての権力をソビエトへ」というスローガンとしてあらわされた。1917年5月、それまでレーニンと対立していたトロツキーが帰国してボリシェビキの隊列にくわわり、大衆の中にボリシェビキの方針への支持者をふやしていった。

事態はボリシェビキにとって有利に展開していった。外相ミリュコーフは1917年4月に連合国各政府に、勝利の終結まで戦争を継続するとの覚書をおくったが、それは戦争を忌避する民衆の気分を逆なですることになり、はげしい抗議行動をよびおこした。戦争継続に対して広範な国民の支持をえるために臨時政府は、5月にメンシェビキとエス・エルの穏健な社会主義者を大幅にくわえる内閣改造をおこない、彼らに6つの大臣ポストを提供、ケレンスキーは陸海軍相に就任した。しかし、ケレンスキーが命じた夏季攻勢(6月攻撃)は失敗し、多数の犠牲者をだしたため民衆の臨時政府に対する反感はますます強くなった。

IV. ケレンスキー政権

臨時政府の戦争政策に対する民衆の反感は、1917年7月3日、首都の兵士を中心としたソビエト権力を要求する武装デモとなってあらわれた。これに対してボリシェビキ指導部も時期尚早をうったえたが、参加者の急進化した気分を前にして、デモを平和的なものにすることをはかりつつ、それにくわわった。デモに対して臨時政府ははげしい弾圧をくわえ(7月事件)、とくにボリシェビキの活動家がねらわれ、レーニンはフィンランドにのがれ、トロツキーは逮捕された。7月26日に指導者の何名かが欠席する状態で開催されたボリシェビキ党第6回大会では、はっきりと武装蜂起路線(ほうきろせん)がきめられた。

1917年7月24日、ケレンスキーを首相とする第2次連立政府が成立した。しかし、この政府は悪化していく経済状況を克服するために効果的な措置を講じることができなかった。都市でも農村でも不安は高まり、ボリシェビキの影響力はふたたび増大しはじめた。そうした中で新しく最高総司令官に任命されたコルニーロフや彼の周辺の軍人、さらに彼を支持する政党カデットの間から軍事独裁樹立のためのクーデタの構想が語られるようになった。彼らは、ケレンスキーでは事態に対処できないと判断したのである。

1917年8月25日、コルニーロフは首都への進撃を開始した。当初はコルニーロフと手をむすぶことも考えていたケレンスキーは、コルニーロフの攻撃がボリシェビキやソビエトばかりでなく、自分を追放することも予定されていると知ったときに、ソビエトにたよる以外に方法はなかった。

進撃してくるコルニーロフ軍に対して首都防衛をになったのは、ソビエトに組織された労働者・兵士であり、中心的な役割をはたしたのは、ボリシェビキだった。コルニーロフ軍の進撃は阻止され、彼は逮捕された。

コルニーロフの敗北後は、臨時政府の無力も明らかとなった。ボリシェビキの圧力のもとで、全ロシア・ソビエト執行委員会は、新しいソビエト大会のための選挙をおこなうことを決定した。労働者や兵士の動向からして、ボリシェビキがソビエトにおいて新しい多数派となることは明らかだった。首都ペトログラード・ソビエトは、1917年9月25日にトロツキーを議長にえらび、10月16日には、反革命から首都を防衛する目的で軍事革命委員会の創設をみとめた。メンシェビキとエス・エル主流派は委員会への参加を拒否した。

V. 十月革命

事態の成り行きを予想していたレーニンは、1917年9月の末ごろからボリシェビキ党の中央委員会に対して武装蜂起を組織して、政権を奪取するようにせまっていた。中央委員会は若干の抵抗のあとに、10月10日、レーニンの方針を承認した。蜂起は実際には、24日から25日にかけての夜半と翌日にトロツキー指揮下の軍事革命委員会によって遂行された。

武装した労働者、兵士、水兵は、臨時政府の拠点となっていた冬宮を襲撃し、これに何万人もが参加したが、無血だった。1917年10月25日(新暦11月7日)の正午、トロツキーは臨時政府の終結を宣言した。何名かの大臣たちが逮捕され、ケレンスキーはのがれたあと、コサック軍による反撃にも失敗し、翌年フランスに亡命した。

蜂起が進行中の1917年10月25日に、第2回全ロシア・ソビエト大会がはじまり、650名の代議員のうち、60%にあたる390名をボリシェビキが占めた。会議は、銃声によってしばしば中断された。メンシェビキとエス・エルの代議員の大半は、武力による政権奪取を非難して大会から退場し、左派エス・エルは大会にとどまり、このあと短い期間ではあったが、ボリシェビキとの連立政府に参加した。

VI. 第2回ソビエト大会

レーニンは大会で、「われわれは今や社会主義的秩序の建設にむけてすすんでいくだろう」と宣言した。大会は、平和、土地、政府の構成という3つの根本的な問題をとりあげた。大会は満場一致で「すべての交戦中の諸国民とその政府に対して公正で民主的な講和のために即刻交渉を開始する」よう呼びかけた宣言を採択した。その目的のために、宣言は最低限3カ月の即時休戦を提案した。

1. 土地についての布告

土地問題の決定は布告の形でなされた。「土地に関する私的所有は永遠に無効とされる。地主の土地所有は即刻にいかなる賠償もともなうことなく無効とされる」。修道院や教会の不動産や保有地は国有財産とされ、地方の土地委員会や農民ソビエトの管轄下におかれた。ただし、貧農やコサックの一般兵士の保有地は特別に没収をまぬがれた。

耕地に関する雇用労働は禁止され、すべての市民が自らの労働で耕地をたがやす権利が確認された。ソビエト大会は、「土地の使用は均等化されなくてはならない、すなわち土地は労働なり消費なりの基準にもとづき、地方の条件に応じて勤労者の間で分割されることになる」という原則をすえた。これらの諸原則の大半は、二月革命後の農村ですでに農民たちがエス・エルの農業政策のもとで実践していたことだった。

2. 新しい政府

ソビエト大会は、新しい政府機構として人民委員会議を創設した。各人民委員は政府の省に相当するコミサリアートの長であり、レーニンは人民委員会議議長にえらばれた。人民委員会議にはトロツキーやスターリンなどボリシェビキだけがえらばれたが、1カ月後には左派エス・エルもくわわった。新しい政府の樹立によってソビエト大会は休会となった。

平和と土地についてのソビエト大会の決定は、新しい政府に対する広範な支持をまきおこし、他の都市や地方での勝利をボリシェビキに保証するうえで決定的な役割をはたした。人民委員会議はすべての銀行を国有化し、生産に対する労働者統制を宣言した。1917年11月、二月革命以来懸案となっていた憲法制定会議選挙が実施され、翌18年の1月に第1回会議が開催された。しかし、憲法制定会議では、農民からの支持票を獲得したエス・エルが第1党となり、ボリシェビキは全議席の4分の1の第2党にとどまった。レーニンはこれによって革命の成果がうしなわれることをおそれ、憲法制定会議を武力で解散させた。

VII. 国内戦

ボリシェビキの統制のもとで、新政府は1918年3月3日に、ドイツをはじめ同盟国側とのブレスト・リトフスク条約に調印し、第1次世界大戦から離脱した。条約によってロシアはバルト諸国、フィンランド、ポーランド、ウクライナその他を手ばなさなくてはならなかった。この領土喪失に対する国民の憤激は、反ボリシェビキの運動に油をそそぐことになり、ロシア共産党と改称していたボリシェビキ党主導のソビエト政権に対する軍事行動が展開され、国内戦となってひろがった。国内戦は、18年から20年の後半までつづいた。

左派エス・エルはブレスト・リトフスク条約に反対して連立政権を離脱し、まもなく開始された農村からの穀物徴発をめぐって共産党と武力対決するにいたった。イギリス、フランス、アメリカ、日本による国際干渉軍と、デニキン、コルチャーク、ウランゲリ将軍たちが指揮する白衛軍の軍事行動がロシア全土で展開された。ソビエト政権はこれらすべての反対派を粉砕するために、チェーカー(のちのKGB)による「赤色テロル」をおこない、またトロツキーを最高司令官とする赤軍が創設されて3年間の国内戦をたたかった。

きびしい国内戦をたたかいぬくためにソビエト政権は農村からの苛酷(かこく)な穀物徴発を断行し、工場でも労働者自身による生産統制の理想を裏切るかのように厳格な労働規律が労働者に課せられた。こうした厳格な政策は戦時共産主義とよばれる。

この間、レーニンとロシア共産党は国を厳格に統制した。労働者のストライキ、穀物徴発に抵抗する農民の反乱、アナーキスト(アナーキズム)のマフノに指導された農民の反乱(マフノ運動)、ウクライナその他の分離独立運動、クロンシタット反乱とよばれた水兵の反乱などが粉砕された。

1921年3月、国内戦にようやく勝利した共産党は第10回党大会をひらき、それまでの厳格な戦時共産主義の政策をあらためて新経済政策(ネップ)を開始し、第1次世界大戦や革命の混乱で疲弊した国の立て直しに着手した。