| 検索ビュー | アフガニスタン | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
アジアの南西部にある共和国。正式国名はアフガニスタン・イスラム共和国。「アフガニスタン」の名は、「アフガン人の地」という意味である。パキスタンの北、イランの東にある内陸国で、北東から南西までの最長距離は約1450km、最長幅は約725km。面積は65万2225km²。人口は3273万8376人(2008年推計)。首都はカブールで、国内最大の都市。
| II. | 国土と資源 |
アフガニスタンは、北部の河谷と南部の砂漠をのぞき、国土の4分の3が山地である。その代表はヒンドゥークシュ山脈で、北東のパミール高原から西のイランとの国境まで1000kmのびている。そのアフガニスタン領内の最高地点はパキスタンとの国境沿いにあるノシャク山の7485mである。山には峠が多く、国内および隣国への交通に頻繁につかわれている。もっとも有名な峠は、北東の国境付近にあるカイバー峠で、スライマン山脈を横切り、パキスタンへの近道となっている。
おもな川は、タジキスタンとの国境付近をながれるアムダリヤ川で、古代にはオクソス川とよばれていた。そのほかインダス川へ合流するカブール川、南部をながれる最長のヘルマンド川、西部をながれるハリー川がある。
| 1. | 気候 |
山がちの地形のため、昼と夜の温度差は大きく、気候も季節によって大きくことなる。1日の気温は、夜明けは氷点下にまでさがり、日中は約38°Cにまであがる。北部の谷では、夏に最高気温49°Cを記録したことがあり、ヒンドゥークシュ山脈の標高1980mの地点では、真冬にしばしば-9.4°Cくらいにまでさがる。標高約1830mに位置する首都カブールは、冬は寒く、夏はすごしやすい。比較的乾燥しているこの国では、雨は10~4月にふり、年降水量は300mm。砂漠では砂嵐(すなあらし)がよくおこる。
| 2. | 植生と動物 |
植生は、ヒマラヤ山脈、あるいは中東の平原や砂漠とよく似ている。標高約1800~3600mの地点では、ヒマラヤスギやマツなどの針葉樹林帯がみられる。しかし、過度の伐採のため森林は国土の1.3%(2005年推計)しかない。これより標高の低い地点ではハシバミ、ピスタシオ、トネリコがあり、標高1000m以下になると灌木(かんぼく)が点在するだけになる。
森林からは樹脂、材木、薪の原料がとれ、アンズ、モモ、ナシ、リンゴなどの果樹も多い。南部ではナツメヤシ、カンダハールとジャララバード付近ではザクロや柑橘類(かんきつるい)がとれる。最高級品のブドウやメロンも有名である。
動物はインド、ヨーロッパ、中東と同じ動物群がみられる。従来からこの土地にいた野生動物には、ヒツジ、クマ、アイベックス、ガゼル、オオカミ、ジャッカルなどがいる。そのほかロバ、馬、狩猟犬のアフガン・ハウンドがよく知られる。
| III. | 住民 |
アフガニスタンではパシュトゥーン人(38%)、イラン系のタジク人(25%)、ハザーラ人(19%)、ウズベク人(6%)の4つの大きな民族グループがある。1950年代以来、社会は少しずつかわり、今は家父長制がくずれ、地域によっては女性の解放もすすんでいる。
| 1. | 人口 |
国内在住の人口は3273万8376人(2008年推計)で、208万人(2004年推計)が難民としてパキスタンやイランにいるとされる。アフガニスタン難民は1970年代末の内戦によって発生し、ソビエト連邦(ソ連)軍のアフガニスタン侵攻で一気に増大、90年には600万人をこえた。その後、内戦の若干の沈静化とともに帰還がすすみ、90年代半ばに260万人台に減少したが、アメリカ同時多発テロ事件を契機とするアメリカのアフガニスタン攻撃の際、新たに約100万人が主としてパキスタンにのがれた。
行政上、アフガニスタンは31の県にわけられる。首都はカブール(人口295万6000人(2003年推計))で、そのほかのおもな都市には、貿易都市のカンダハールや古代のモスク、宮殿、建造物で有名なヘラートがある。また北部にある古都マザーリシャリーフは巡礼地として知られている。
アフガニスタン人の99%以上がイスラム教徒で、そのうちスンナ派が多数を占め、残りはほとんどがハザーラ人のシーア派。そのほか少数ながらユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、パールシーがいる。公用語はイラン語派のパシュト語と、ペルシャ語方言のダリー語。パシュト語は文学などに、ダリー語は日常生活およびビジネスの場で使用される。多くの方言があり、国境付近ではウズベク語、トルクメン語、キルギス語が使用される。
| 2. | 教育と文化 |
初等教育は7~13歳の6年間で、そのあとに6年間の中等教育がつづく。以前、義務教育は初等教育だけだったが、2004年1月に制定された新憲法により中等教育も無償の義務教育となった。高等教育機関には首都のカブール大学(1932年創立)のほか、ジャララバードのナンガルハール・バヤジード・ロシャン大学(1962)、ヘラートのヘラート大学(1987)がある。タリバーン政権の支配地域では女性への教育も大きく制限されていたが、同政権崩壊後、暫定政府は女性の大学への入学をみとめた。15歳以上の成人の識字率は36.3%(2000年)である。
カブールには、初期の仏教遺跡の出土品約10万点を収蔵することで知られるカブール博物館があるが、内戦中に収蔵品の破壊や略奪がおこなわれた。現在の収蔵量は約3万点。また、古くから仏教遺跡として知られているバーミヤーン石窟は、有名な2体の大仏像が2001年3月、タリバーンにより爆破されたものの、03年7月にUNESCO(国連教育科学文化機関)の世界遺産に登録され、今後その修復と保存が検討されることになった。またそれに先だつ02年には、アフガニスタン中西部のゴール県ジャム村にあるミナレット(イスラム寺院の塔)が、アフガニスタンとしてははじめての世界遺産に指定されている。このミナレットはこの地域を拠点としたゴール朝の時代、12世紀末にたてられたもので、高さ65m、インドのデリーにあるクトゥブ・ミナール(72.5m)につぐ世界第2位の高さである。
アフガン文化の特徴は、伝統的な美術と娯楽にある。金銀細工、ペルシャ調の絨毯(じゅうたん)、皮革製品が家庭内手工業でつくられている。ゴサイとよばれるレスリングに似たスポーツや、ボールの代わりにヒツジや子牛などの死体をつかうブズカシという騎馬競技が盛んである。
| IV. | 経済 |
アフガニスタンは世界でもまずしい国のひとつである。経済は個人所有を基盤にしながらも、社会主義をとりいれていた。1962年に工業、農業、採鉱、交通、社会サービスにおける5カ年計画がスタートし、すべての鉱産物は国有となった。
1970年代後半から80年代にソ連軍に占領されたが、これに対してゲリラ闘争がはじまり内戦となったため、経済は完全に破綻(はたん)した。人口の70%(1990年)が牧畜や農業など第1次産業に従事している。ソ連軍の撤退後、93年に樹立した連合政権も政治的安定はえられず、政情不安がつづいたため、産業復興はすすまず高い失業率は解消されなかった。
1999年10月、国際連合(国連)でテロ行為の防止を目的とする経済制裁の安全保障理事会(安保理)決議1267が採択されたが、反政府勢力の支援者とされたタリバーン政権は決議にしたがう姿勢をみせず、2000年12月に追加制裁の安保理決議1333が採択された。アフガニスタンはアヘンの産地として知られていたが、この安保理決議ではアヘン精製にもつかわれる無水酢酸のタリバーン支配地域への輸出禁止がさだめられた。
タリバーン政権が崩壊した後は、戦場から兵士が帰還するようになり、求職者が増大している。政府は資金難のために対応がむずかしいが、国連安保理の制裁が解除され、さらに復興支援国際会議で合意した国々から資金支援をうけて、立て直しをはかっている。
| 1. | 農業 |
アフガニスタンのおもな収入源は農業で、通常は国内消費分をじゅうぶんまかない輸出にまわすだけの生産量がある。コムギ、米、オオムギ、トウモロコシ、ジャガイモ、ブドウ、ナッツ類などが栽培され、そのほかの農産物には、ヒマの実、染色用のアカネ、タバコ、綿、テンサイなどがある。農業人口は1576万1000人(2003年推計)。
畜産は活発でヒツジ(カラクール種)がもっとも多く飼育され、肉や脂肪、毛は国内消費に、毛と皮は輸出にあてられている。そのほかヤギ、牛、ロバ、ラクダ、馬、ニワトリも飼育されている。
| 2. | 鉱業 |
鉱物資源はとぼしいが、北部では、ソ連の援助によって1960年代に開発されたガス田で天然ガスの採掘がおこなわれている。内戦によって新たなガス田の掘削はうちきられたが、資金を投下すれば経済復興事業の核になるものと期待されている。そのほかの産物に石炭、銅、岩塩がある。石油はヒンドゥークシュ山脈の北側の地域にかなりの埋蔵量があるが、戦乱のせいでまだ採掘されていない。
| 3. | 工業と外国貿易 |
1960年代から70年代に、工業は大きく飛躍した。65年に西ドイツ資本の巨大な紡績工場がたつと、羊毛織物の生産量は倍以上にのびた。このほか、輸出品でもある靴の製造工場、国営のセメント工場、果物加工工場などがある。家庭内手工業では絨毯織りがある。
アフガニスタンの外国貿易は、ほとんど政府か政府系企業ににぎられている。2000年の年間輸出総額は1億2500万米ドル、輸入総額は5億2420万米ドルだった。輸出品目は果物、乾燥果物、絨毯、ヒツジの毛と皮、靴などで、インド、パキスタン、ロシアなどが輸出相手国である。輸入品目は機械、自動車・オートバイなど輸送機器、医薬品、衣料・雑貨、食料などで、おもな輸入相手国は中国、日本、パキスタン、インドなどである。
| 4. | 交通 |
1930年代前後から鉄道建設が構想されているが、いまだ実現せず、山が多いため国内の移動はかぎられている。道路の全長は3万4782km(2004年)だが、舗装されているのは24%(2004年)にすぎない。物資の運搬には、ラクダなどの動物が広くつかわれている。川は幅が狭く流れもはやいため、おもに木材をはこぶために利用されている。
カブールと各主要都市はハイウェーでむすばれており、パキスタンとは東部にあるカイバー峠で通じている。春にはしばしば洪水にみまわれるため、道路の補修はこの国の重要な課題となっている。また、戦乱で破壊されたトンネルや道路の修繕と、閉鎖されていた鉄道・航空路の再開通もすすめられている。
| V. | 環境問題 |
ソ連のアフガニスタン侵攻以来の内戦が、環境をはじめ生活のあらゆる側面に被害をおよぼしている。国連環境開発会議に提出された報告書によれば、アフガニスタンでは環境よりも貧困や健康などの社会・経済的な問題が第1の関心事となっている。
アフガニスタンは過剰放牧と土壌浸食(→ 浸食)という問題をかかえている。かつて耕地だった土地の3分の1は、利用がむずかしいとされ、さらに国土の大部分の砂漠化が進行している。長期の戦乱によって貧困がいっそう悪化した一方、不発弾や地雷原といった内戦の置きみやげが住宅地および田園地帯にのこされた。自然の保護区を設置するにも地雷処理が前提条件となっている。森林伐採は、調理や暖房用に家庭でつかわれる薪のため、急速にすすんでいる。また、食料不足を野生生物でおぎなうという現状であり、戦争と貧困によって、生物多様性にどんな影響が出ているかはまだ明らかではない。これまでの調査では、少なくとも100種の哺乳類(ほにゅうるい)が確認されているが、その中には絶滅危惧種のユキヒョウやコウジョウセンガゼル、シカの1種などがふくまれる。鳥類は380種が確認されており、そのうち、約200種は国内で繁殖する。
アフガニスタンの保護区システムは、まだ初歩的段階にある。現在のところ、昔からの禁猟区、野生生物の生息する3つの特別区域、国立公園の名残が1つある程度である。しかも、この国立公園は法的に規定されたものではない。これらの区域が設定された当初は、アフガニスタンは多くの保護区を設置する予定であり、イランの支援で人員の養成もおこなわれていた。1970年代には、国連や世界野生生物基金(現、世界自然保護基金)からの支援をうけ、環境アセスメントや自然保護区計画が実施された。91年時点では、野生生物の特別区域2カ所と国立公園が保護区として存在していたが、実質的にはほとんど保護活動がなされていないと思われる。
| VI. | 政治 |
1973年に国王が追放され、君主制にかわり共和制が誕生した。77年2月に公布された憲法では、1党支配でイスラム教を国教とし、立法権は上院と下院からなる国会にあるとされた。しかし、78年4月にクーデタで憲法は廃止され、革命評議会が政権をにぎった。
ソ連に支持された人民民主党(共産党)政権は、1987年に新憲法を公布して、大統領を間接選挙で選出し、その任期を7年とさだめた。国民評議会は上院と下院からなり、人民民主党が政権をにぎっていたが、234議席中の50議席は野党のために確保された。89年にソ連軍が撤退し、92年4月に人民民主党政権がたおれ、暫定政権が設立された。同年12月、大統領を選出する間接選挙がおこなわれ、イスラム協会のラバニが選出された。しかし、政権は不安定で93年に成立した連合政権も、同年末にはヘクチャル首相が辞任を表明するなど、旧ソ連占領軍とたたかった各派の間で内戦をふくむ権力闘争がつづき、96年9月にイスラム神学生を中心とする新興勢力タリバーンが暫定政権を設立した。
タリバーン政権は2001年10月、アメリカと北部同盟など反タリバーン勢力からの攻撃をうけ崩壊。反タリバーン勢力4派は国連など国際社会の協力をえて協議を重ね、12月に新暫定政権を樹立。カルザイ大統領が指揮をとる移行政権のもとで、04年1月に新憲法が制定された。新憲法では、イスラム教を国教とする共和制が採用され、国民の直接選挙によってえらばれる大統領と、上下両院からなる議会によって統治されることとなった。下院(国民議会)議員は国民の直接投票によって選出され、定数249。定数102の上院(長老議会)議員は3分の2が34の州議会によってえらばれ、残り3分の1は大統領が任命する。新憲法のもと04年10月におこなわれた大統領選挙でカルザイが選出され正式な政府が発足、05年9月には下院と州議会の選挙も実施され、それにともない上院議員も選出・指名された。
| VII. | 歴史 |
アフガニスタンが最初に歴史に登場したのは、アケメネス朝ペルシャに占領された前6世紀のことだった。前330年ごろにはアフガニスタンを支配していたペルシャ帝国ごとアレクサンドロス大王に征服され、前323年に大王が死ぬと、セレウコス1世にひきつがれ、その後、インドのマウリヤ朝の始祖、チャンドラグプタのものとなった。
北部に前256~前130年ごろに繁栄したギリシャ系のバクトリア王国がつくられた。ついでイラン系遊牧民のサカ族へ、そして仏教を導入したクシャーナ朝へとつづき、3~4世紀には、ササン朝ペルシャの西からの攻勢がつづいた。7世紀半ばにアラブ人が侵入してきたころには、エフタル族がアフガニスタンを支配していた。
| 1. | 初期のイスラム王朝 |
アラブはアフガニスタンに多大な影響をおよぼしたものの、この地には仏教やゾロアスター教の信徒が多く、イスラム教が優勢な宗教になるまでには数世紀かかった。10世紀後半から11世紀には、カブールの南、ガズナに建国されたトルコ系イスラムのガズナ朝によって支配され、さらにガズナ朝をたおしたイラン系のゴール朝(1148~1215)のもとでイスラム文化が繁栄した。
ゴール朝はインド北部に勢力を拡大したが、1220年ごろに南下してきたモンゴルのチンギス・ハーンによってほろぼされた。その結果、アフガニスタンのほぼ全域がモンゴル帝国の支配下におかれ、14世紀末にモンゴルのティムールがアフガニスタン北部を制圧した。ティムールの後継者のバーブルは、インドにムガル帝国を建国し、1504年ごろカブールを征服した。16世紀後半になると、イランからはサファビー朝が、北からはウズベク人が侵入した。
| 2. | アフガン国家の建国 |
17世紀に入ると、アフガン人も力をもつようになり、パシュトゥーン人の一派、ギルザイ系のアフガン人が1722年にイランの首都イスファハーンを占領した。しかし、支配は長続きせず、ナーディル・シャーひきいるイランの反撃にあい、38年にはアフガン全土はイランの支配下に入った。47年、ナーディルが暗殺され、アフガン族はアフマド・シャー・ドゥッラーニーをみずからの指導者にえらび、アフガンの国ドゥッラーニー朝を建国した。
アフマド・シャーは次々と領土を拡大していったが、彼の後継者の代になると徐々に国は衰退していき、1818年に崩壊した。その後しばらく無政府状態がつづいたが、26年にドースト・ムハンマドがアフガニスタン東部を支配し、35年にアミール(ペルシャ語、トルコ語ではエミール)の称号をえた。
| 3. | イギリスとの紛争 |
この間、ドースト・ムハンマドはパンジャブ地方におけるアフガンの権利をみとめるよう、インドのイギリス植民地行政府にもとめた。しかし直接支配をねらうイギリスに拒否されたため、南下して勢力を拡大するロシアに助けをもとめた。
| 3.A. | 第1次アフガン戦争 |
イギリスはロシアがインド国境にまでおよぶことをおそれ、カブールからロシアを撤退させるようムハンマドに最後通牒(つうちょう)を出した。しかし、これが拒否されたため、1838年にイギリス・インド軍がアフガニスタンに侵攻し、第1次アフガン戦争(1838~42)がはじまった。39年8月にカブールが陥落し、アフガニスタンはイギリスの手におち、ムハンマドの代わりにシャー・シュージャが王位についた。
しかし1841年11月に、ムハンマドの息子アクバル・カーンがシャー・シュージャとイギリスに対して反乱を成功させた。42年12月にはイギリスは完全に撤退し、ムハンマドは王位にかえりざいた。イギリス占領下のインドとアフガニスタンの間に緊張がつづいたが、55年にムハンマドはインド政府と和平協定をむすんだ。
| 3.B. | 第2次アフガン戦争 |
1863年にムハンマドが死ぬと、後継者争いで国内は10年ほど混乱におちいった。彼の3男のシェール・アリが後継者となったが、78年に親ロシア政策をとったためにイギリスの反感を買い、第2次アフガン戦争(1878~79)が勃発(ぼっぱつ)した。79年10月にカブールが陥落すると、同年3月にシェール・アリの跡をついでいたヤクブ・カーンは失脚し、80年にムハンマドの孫のアブドゥル・ラフマーンが王位をついだ。
| 3.C. | その後のイギリス・アフガン関係 |
ラフマーンは、イギリスとヤクブ・カーンが以前にとりきめていたとおり、カイバー峠やそのほかのアフガン領土をイギリスに割譲した。ラフマーンの跡をついだ息子のハビブラ・カーンの在位中、1907年にイギリスとロシアはアフガニスタン領土の相互保全を約束する協定をむすんだ。第1次世界大戦後の19年、ハビブラ・カーンの息子のアマーヌッラーはイギリスに宣戦布告しインドに侵攻した(第3次アフガン戦争)。大戦に疲弊し、インドの反乱に手をやいていたイギリスは、同年8月にアフガニスタンと和平協定をむすび、外交権を回復するなどアフガニスタンを独立国家として承認した。
| 3.D. | 近代化 |
イギリスとの交渉でアマーヌッラーが獲得した人気は、すぐにおとろえた。イランとトルコの近代化に感銘したアマーヌッラーは、政治的、社会的、宗教的な近代化をはかったが、保守派はこれに反対し、1929年に反乱をおこしたため、彼は亡命した。アマーヌッラーの叔父のナーディル・シャーが、反乱軍をおさえ、同年王位についた。
新しい王は国内の秩序を回復し、1932年に経済改革に重点をおいた政策を開始したが、翌年暗殺された。王位をついだ前王の息子のザーヒル・シャーは、まだ19歳だったため、その後30年間にわたり、親族の操り人形にすぎなかった。政府は、ナーディル・シャーによってはじめられた近代化をひきつぎ、ドイツ、イタリア、日本と親密な通商関係をむすんだ。
1939年に第2次世界大戦がはじまると、ザーヒル・シャーは中立を宣言したが、41年にイギリスとソ連の要望で、200人以上におよぶドイツとイタリアの政府関係者を国外へ追放した。42年にアメリカと国交を樹立し、46年11月にアフガニスタンは国際連合(国連)に加盟した。
| 4. | パキスタンとの紛争 |
1947年にインドとパキスタンが独立すると、アフガン政府はパキスタンとの国境で、パシュトゥーン人が多くすむ北西辺境州がパキスタンに編入されることに不満を表明した。アフガニスタンは、北西辺境州の住民に自治の意思を問う国民投票を要求したが、パキスタンはこれを無視した。その結果、パシュトゥーン人はアフガニスタンとパキスタンの両国にわかれてすむことになった。
1947年にパキスタンが国連に加盟するとき、アフガニスタンは反対票をいれるなど、両国の関係はその後数年間にわたり緊張がつづいた。49年以降、アフガニスタン政府に支援された北西辺境州のパシュトゥーン人は、独立国を建国しようとしてパキスタン政府としばしば衝突した(パシュトゥニスタン問題)。
1954年のアメリカ・パキスタン軍事援助協定に不満をもったアフガニスタン政府は、ソ連寄りの姿勢をとるようになった。50年代後半になると、パキスタンとの関係もかなり改善されたが、61年にパシュトゥニスタン問題が激化したため、67年になるまで完全に修復されることはなかった。
| 5. | ザーヒル国王による独裁 |
1963年にザーヒル国王は、53年以来首相をつとめてきたいとこのムハンマド・ダーウドを更迭(こうてつ)し、独裁政権をうちたてた。翌年彼は新憲法を公布し、政治に自由な風をふきこみ、65年9月に最初の国会議員選挙をおこなった。60年代後期には深刻な経済危機にみまわれ、3年間の干ばつで約8万人が死亡したとされている。73年までソ連、アメリカ、中国は援助物資をおくった。
| 6. | 共和国樹立とソ連軍の占領 |
1973年7月、ダーウドはザーヒル国王を追放して政権をにぎり、アフガニスタンを共和国と宣言した。77年初めに新憲法が公布され、大統領に就任したダーウドは官僚に民間人を登用した。しかし、78年4月、アフガニスタン人民民主党がクーデタをおこしてダーウドを殺害し、アフガニスタン民主共和国を樹立、党書記長のノール・ムハンマド・タラキーが革命評議会議長に就任した。親ソ連のタラキーは急激な社会主義改革をすすめ、宗教界を弾圧したために、イスラム教徒の反発をまねき、国内は混乱した。それとともに人民民主党政権内部の抗争もあらわになり、79年6月、タラキー議長のもとで首相をつとめていたハフィーズッラー・アミーンがタラキーを追放して革命評議会議長の座をうばい、実権をにぎった。
それまで社会主義政権を外からあやつってきたソ連は、アミーンがアメリカ寄りの姿勢をみせるとともに軍事介入にふみきり、1979年12月、アフガニスタン全土に大軍をおくりこんで主要都市を占拠した。ソ連はアミーンを処刑し、78年に亡命していた元副大統領のバブラク・カルマルを大統領に就任させた。しかし国内の混乱は以前にもましてはげしくなり、300万人以上の難民が隣国のパキスタンにのがれた。→ アフガニスタン侵攻
| 7. | ソ連軍の撤退 |
1980年代半ばには、政府軍と約11万8000人のソ連軍がおもな都市と道路を掌握したが、アメリカなど外国の支援をうけたムジャヒディン(イスラム聖戦士)などからなるゲリラ軍を駆逐することはできなかった。86年、カルマルにかわって、ムハンマド・ナジブラが大統領になった。国際的な非難にさらされ、ゲリラとの戦闘で大きな人的損失をこうむったソ連軍は、88年5月から89年2月にかけて撤退した。しかし内戦はその後もつづき、92年4月にナジブラ政権はたおされ、ゲリラ軍がカブールを占拠した。これにより、ブルハヌッディン・ラバニを大統領とする暫定政権が成立した。しかし、92年12月、ラバニを2年間の任期で大統領にする投票がおこなわれると、ゲリラ組織の統一がみだれて内戦状態となった。
1993年6月、シーア派の戦闘的イスラム原理主義グループであるヘズブ・イ・イスラーミーのリーダー、グルブッディン・ヘクマティアルが首相になった。94年1月、カブールでラバニ大統領派とヘクマティアル首相派の衝突がおこり、この争いはアフガニスタン各地へと広がり、2500人以上が殺された。94年半ばに、イスラムの神学生を中心とするイスラム原理主義派の新興勢力タリバーンが蜂起(ほうき)して、3カ月間で9県を制圧した。彼らはカブールにも侵攻したが失敗し、撤退した。
| 8. | タリバーンによる制圧 |
1994年11月、テヘランで20をこえる各派代表の和平会議が開かれたが、会議は成功しなかった。95年9月にはタリバーンがふたたび勢いをもりかえし、他の反大統領派とともに首都を包囲するなど内戦状態にあった。96年9月、タリバーンが首都カブールを制圧し、暫定政権の樹立を宣言した。10月、反タリバーンのラバニ派とドスタム将軍派らは軍事同盟をむすび、反攻を開始し、内戦は泥沼化した。
1999年3月、トルクメニスタンのアシガバートで、タリバーン政権と反政府勢力の中心であるマスード元国防相との和平交渉が国連の仲介でおこなわれた。連立政権の樹立で合意がなされたが、戦闘が再燃し合意は破棄された。
タリバーン政権は、1998年8月のケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件のあと、首謀者とされるウサマ・ビンラーディンを庇護(ひご)しているといわれ、99年10月、国連は安保理決議でビンラーディンの身柄引渡し要求と、経済制裁をつきつけたが、暫定政権はしたがわなかった。そのため国連は2000年12月に対タリバーン制裁の安保理決議を採択し、武器の禁輸、軍事関連の役務提供の禁止などをさだめ、タリバーンと国連の関係は悪化した。
2001年3月、偶像崇拝を禁じたイスラムの教えを忠実にまもるタリバーンは、最高指導者モハマド・オマール師の布告により、異教徒のきずいたバーミヤーン石窟の大仏を破壊した。仏教美術の貴重な文化遺産に対するこの野蛮な行為は世界じゅうの非難をあびた。
2001年9月にアメリカ同時多発テロ事件がおきたあと、アメリカはビンラーディンを容疑者とし、タリバーン政権に彼の引渡しを要求したが、タリバーンはこれを拒否。国連ではアメリカからの要請により集団的自衛権の行使をする決議を採択し、NATO(北大西洋条約機構)、ロシアをはじめ、タリバーンを後援してきた隣国パキスタンもアメリカ支援を表明した。
| 9. | タリバーン政権崩壊と新暫定政権樹立 |
アメリカはアフガニスタンへの攻撃を決意し、2001年10月7日から空爆を開始し、反タリバーン勢力の北部同盟は地上戦で各都市・拠点を制圧した。首都カブール、テロリストの養成施設があるとされるジャララバード、アフガニスタン南部へと攻撃目標が広げられると、タリバーンは拠点を次々と放棄した。南部の都市カンダハールをタリバーン勢力が放棄したことをうけてアメリカは、12月7日にタリバーン戦の勝利を宣言した。
国連は、11月27日からドイツのボンで暫定政権樹立に関する国際会議を開き、アフガニスタンの反タリバーン勢力のローマ・グループ、北部同盟、ペシャーワル・グループ、キプロス・グループが参加した。
暫定政権の閣僚ポスト配分の討議は難航したものの、2001年12月5日に4派は合意に達し、協定書に調印した。暫定政権の議長はパシュトゥーン人のハミド・カルザイ元外務次官(ローマ・グループ)に決定。暫定政権は12月22日に発足し、発足から6カ月以内にイタリア亡命中のザーヒル元国王が緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)を招集し、正式な移行政権を樹立することや、さらに憲法制定のために正式ロヤ・ジルガを開催して、緊急ロヤ・ジルガ召集から2年以内に自由で公正な選挙を実施することが合意された(ボン合意)。国連はこの協定を支持し、国際治安支援部隊(ISAF)の派遣を決定した。
| 10. | 移行政権の樹立 |
2002年6月にボン合意にもとづいて緊急ロヤ・ジルガが開催され、移行政権が誕生、大統領にはカルザイ暫定政府議長が就任。また、それに先だつ4月にザーヒル元国王が帰国し、国父として象徴的な地位につくことになった。
この移行政権の発足後も、各地でカルザイ大統領の意に反する抗争が頻発、その主役は州の権力者たちを中心とする軍閥である。ヘラート州知事イスマイル・ハーン(タジク人)とカンダハールを拠点とするパシュトゥーン人の軍隊が西部辺境のファラー州で軍事衝突をくりかえし、また北東部のバダフシャン州でも、北部同盟の核となったタジク人勢力の間で戦闘が発生した。
2003年7月、カルザイ大統領は03年10月に新憲法を制定するためのロヤ・ジルガを開催するとの大統領令を布告し、新憲法のもとで04年中に大統領選挙と議会の総選挙をおこなうことも発表した。しかし移行政権発足後も、国内の治安状態はいっこうに改善されなかった。二十数カ国からなる約5000人のISAFが首都カブールに駐留し、カンダハール近辺には約1万人のアメリカ軍が残留しているが、それら以外の地域では軍事衝突がおさまらず、またイラク戦争をきっかけに、カブールやカンダハールなどでのタリバーン残存勢力のテロ活動もふたたび活発化した。
新憲法制定のためのロヤ・ジルガは、予定より2カ月おくれて2003年の12月中旬からカブールで開催された。大統領の権限、イスラム教の扱い、公用語、男女平等条項のもりこみなどをめぐって議論が白熱したが、とくに会議終盤にいたって、カルザイ大統領も属する多数派のパシュトゥーン人と、それ以外のタジク人など少数派の対立が表面化した。国連やアメリカが仲介に入る一幕もあって、最終的には、イスラム教を国教とする共和制、信教の自由、男女平等、国民の直接選挙による大統領制、下院(国民議会。国民が直接選挙)と上院(長老議会。3分の2が州議会選出、3分の1は大統領が任命)の二院制、公用語としてパシュト語とダリー語の採用などを骨子とする憲法案が採択された。大統領は任期5年で、2期までつとめることができる。首相職をもうけず、国軍の統帥権や上院議員3分の1の任免権をもつなど、大統領の権限は大きい。
| 11. | カルザイが正式政権の大統領に |
新憲法にもとづき、2004年中に大統領選挙と議会の総選挙がおこなわれる予定だったが、有権者登録などの準備作業の遅れや、依然として改善されない治安状況のため、大統領選挙だけが04年10月9日に実施された。立候補したのはカルザイ暫定大統領ら18人。駐留アメリカ軍やアフガニスタン国軍などが厳戒態勢をしいたため、投開票は大きな妨害をうけることなくおこなわれた。選挙結果の確定までに3週間あまりを要したものの、カルザイが国内で最大の民族パシュトゥーン人の支持を背景に、有効投票の半数をこえる55.4%を獲得し、決選投票なしで正式政権の大統領にえらばれた。2位以下は、タジク人のカヌニ前教育相(得票率16%)、ハザーラ人軍閥のモハケク(12%)、ウズベク人軍閥のドスタム(10%)だった。新政権の組閣にあたってカルザイは、能力主義を強調し、軍閥や地方の有力者の寄せ集めだった移行政権からの決別を示唆した。
民主化の総仕上げとなるべき下院と34の州議会の選挙は、2005年9月18日におこなわれた。下院選挙は定数249に対し約2750人が立候補し、34の州議会選挙には定数420に対し約3000人が立候補した。当選した候補者のほとんどが無所属であるため議会勢力がどうなるか不明だが、カルザイ支持派が過半数を占めたと観測されている。ただし、上下院ともに国を内戦の泥沼におとしいれてきた軍閥とその関係者が過半数を占める。真の民主主義がはたしてもたらされるかどうか不安視される中、12月18日に両院の初議会が開催された。
| 12. | タリバーン復活と悪化する治安 |
2006年には、民主政権による統治が確立されると思われたが、タリバーンはふたたび勢力を拡大し、国土の南半分の支配権をにぎった。アメリカを中心とする駐留軍によるケシ栽培絶滅作戦の結果、農民たちは生活手段をうしなったが、カルザイ政権は有効な代替収入源をしめすことができないため、失望した人々がタリバーン支持にながれはじめているといわれる。
NATO軍は2006年6月以降、治安が極度に悪化している南部各州を中心に活動を展開。約1万8000人の兵力のうち、約8000人を南部に駐留させて掃討作戦にあたらせた。しかし、もりかえしたタリバーン勢力を前に苦戦を強いられている。7月には、南部の駐留軍の指揮権がアメリカからNATOへ移行。9月にワルシャワで開催されたNATO参謀長会議では、加盟各国に対してアフガニスタンへの増派が要請されたが、レバノン派兵も重なり、各国の対応はにぶい。