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| III. | 両陣営の応酬 |
イランとトルコへのソ連の影響を警戒したアメリカは、1946年の、両体制間の戦争はさけられないとのスターリンの演説を、西側に対するイデオロギー上の宣戦布告だと解釈した。翌47年に、アメリカはトルーマン・ドクトリンを発表したが、これには2つの目的があった。ひとつはアメリカがギリシャとトルコの反共産主義勢力を支援すること、もうひとつは冷戦をたたかうための国民全体の同意をえることだった。同年、アメリカのジャーナリスト、リップマンが「冷戦」を出版し、この言葉が一般化した。
アメリカ議会では、親共産主義活動をあぶりだすための、悪名高い尋問がくりかえしおこなわれた。この反共の嵐は、赤狩りの先頭にたっていたマッカーシー上院議員の名をとって、「マッカーシズム」あるいは「マッカーシー旋風」とよばれている。
1947年、アメリカは西ヨーロッパと中央ヨーロッパの再建策として、130億ドル規模のマーシャル・プランを発表した。スターリンはこれに対抗して東ヨーロッパに対する支配を強化し、ドイツでの西側陣営の立場をおびやかし、トルーマンは軍事同盟(NATO北大西洋条約機構)の成立と西ドイツの独立に力をそそいだ。
冷戦は、ソ連の原爆所有が明らかとなり、中国共産党が中国本土を手中におさめた1949~50年にいっそう拡大した。中国共産党はスターリンと同盟をむすんだが、アメリカはこの新国家を承認しなかった。いっぽう、アメリカの支配下にあった日本では、急速に経済が発展した。50年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が大韓民国(韓国)に侵攻すると、トルーマンはアメリカ軍を朝鮮半島におくりこんだ(→ 朝鮮戦争)。この紛争は3年で終わりをつげ、協定によって戦争前の国境線が維持されることになった。
1953年にスターリンが死去し、トルーマンは大統領の座をさったが、両陣営の対立はヨーロッパを舞台としてさらにつづいた。ソ連は社会主義国家である東ドイツの人口流出をくいとめるため、61年にベルリンの壁をきずいた。当時、アジア、アフリカ、中東、ラテンアメリカでは、新しい独立国が次々と出現していたが、2つの超大国はそれらの国を支配下におこうとやっきになった。対立が最高潮に達したのは、ソ連が新しい社会主義国キューバにミサイルを配備した62年だった。アメリカのケネディ大統領が核爆弾による報復を示唆したため、ソ連は、アメリカがキューバに進出しないという約束をとりつけてミサイルを撤去した。
このキューバ危機で勢いをそがれたソ連は、中国の離反や東ヨーロッパ諸国の社会不安などでしだいに弱体化し、それとともに共産主義諸国ではナショナリズムが共産主義をしのぎだした。いっぽう、アメリカはベトナム戦争にかかわり、多くの兵士をうしなったにもかかわらず、南ベトナムをまもりきることができなかった。さらに、戦後のアメリカ経済の優位も、日本や西ドイツがおびやかしはじめていた。
足元のあやうくなった2つの超大国は、1973年までには、デタント(緊張緩和)の方針をとることで合意に達した。これは費用のかかる軍拡競争をてびかえ、第三世界での競争をゆるめるための措置だった。しかし、そのデタントも、79年末にソ連軍が社会主義体制をまもるためにおこなったアフガニスタン侵攻で崩壊した。そして、80年に大統領選挙にかったレーガンは積極的な軍備拡大政策をおしすすめ、ソ連寄り勢力の新興国に新たな脅威をあたえた。