| 検索ビュー | 化学 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
化学とは物を構成している物質の組成、構造、性質、物質間の相互作用、さまざまな形態のエネルギーを物質にくわえたり、物質からとりさったりしたときの影響などについて研究する学問。有史以来人間は化学変化を観察し、その原因がなんであるのかをつきとめようと考えをめぐらしてきた。これらの観察と原因追究の歴史をふりかえることによって、化学を近代科学へとみちびいた発想や概念、しだいに発達してきた道筋をたどることができる。
| II. | 古代の技術と哲学 |
これまでにわかっているところでは、化学的操作はメソポタミア、エジプト、および中国の職工たちによってはじめておこなわれた。これらの国々の鍛冶(かじ)屋は、ときどき純粋な形で天然に産出する金や銅などの天然金属を利用して仕事をしていたが、彼らはやがて、金属の鉱石(おもに金属の酸化物や硫化物)を木材や石炭で加熱してとかし、これらの鉱石から金属をとりだす方法を発見した。
銅、青銅、そして鉄の利用が盛んになってくると、これらの金属に名前がつけられた。その名称は、考古学者たちによって、それぞれその金属がつかわれた時代をあらわす名称にも利用されてきた。原始的な化学技術は、さまざまな種類の布に染料を定着させる方法を発見した染色工たち、あるいは、うわぐすりをかける方法や、のちにはガラスの製法を発見した陶工(→ 陶磁器)たちの文化の中にもあらわれた。
これらの職工たちの多くは、寺院や宮殿にやとわれ、僧侶や貴族たちのためにぜいたく品を製作していた。寺院では僧侶たちが、身近な世界で目にした変化の原因をつきとめようとした。彼らの理論には魔法がふくまれていることも多かったが、しかし彼らはまた、天文学的、数学的、宇宙論的な考えをも発展させ、これによって、現在では化学変化と考えられるある種の変化の原因を説明しようとした。
| III. | ギリシャの自然哲学 |
これらの考えを科学的に検討しようとした最初の文化は、ギリシャ文化であった。前約600年のタレスの時代から、ギリシャの哲学者たちは、物理的な世界の現象を神話によって説明しようとはせず、論理的に追究しようとしてきた。
タレス自身は、すべての物質の根源は水であるとし、水がかたまれば土になり、気化すれば空気になると考えた。彼の後継者たちは、この理論を発展させ、土、水、空気、火の4つの元素が世界を構成していると考えた。
デモクリトスは、これらの元素は、真空中を運動するひじょうに小さな原子からなっていると考えた。ほかの人々、とくにアリストテレスは、元素は連続した物体を形成し、真空は存在しないと信じた。ギリシャ人の間では原子論は、急速にその基盤をうしなうことになったが、しかし完全にわすれさられてしまったわけではなかった。それはルネサンスの時代に復活し、近代原子論の基礎になった(→ 原子)。
| 1. | アリストテレス |
アリストテレスは、ギリシャの哲学者で最大の影響力をもち、彼の考えは、前323年の彼の死後2000年近くも科学の世界を支配した。彼は自然界には熱、冷、湿、乾の4つの性質が存在すると信じた。
4つの元素は、これらの性質が2つずつくみあわさって形成されると考えた。たとえば、火は熱く乾燥したもの、水は冷たくしめったもの、空気は熱くしめったもの、そして土は冷たく乾燥したものであった。このように、これらの性質がいろいろな割合でむすびついてできた元素によって地球上の物質が形成されているのである。元素にふくまれるそれぞれの性質の量を変化させることができるので、ある元素を別の元素にかえることができる。したがって、元素でできている物質を変化させること、たとえば鉛を金にかえることもできると考えられた。
| IV. | 錬金術の出現と衰退 |
アリストテレスの理論は、実践にたずさわっていた職工たち、とくに、前300年以後古代世界の知的文化の中心となった、エジプトのアレクサンドリアの職工たちにうけいれられた。彼らは、土の中の金属は、より完全なものになろうとして、徐々に変化し、最終的には金になるものと考えた。
彼らは、これと同じ過程を仕事場で人工的により急速におこなえば、ありふれた金属を金にかえることができると、考えた。100年ごろには、この考えは、金属工だけでなく哲学者の心をもとらえ、この変質の方法について多くの著作が書かれた。そしてこの変化の術は、錬金術といわれるようになった。だれも金をつくりだすことには成功しなかったが、金属をより完全なものにしようとする研究の中で、多くの化学反応が発見された。
ほぼこれと同じころ、おそらくはこれとは独立に、中国にも似たような錬金術が出現した。中国の錬金術の目的もやはり金をつくりだすことであったが、しかしそれは、金の金銭的な価値のためではなかった。中国人たちにとって金は、これを飲む人の寿命をのばし、あるいは不死をもたらしてくれる薬であった。エジプト人と同じように、中国人もまたまちがった理論から実践的な化学知識を獲得したのである。
| 1. | ギリシャ思想の伝播 |
ローマ帝国の衰退後、ギリシャの著作は、西ヨーロッパでは公然と研究されることは少なくなり、東地中海地域でさえも、ほとんど無視された。しかし6世紀になると、ネストリウス派というシリア語をつかうキリスト教の一派が、小アジア地域全体に影響力をもつようになった。彼らは、メソポタミアのエデッサに大学を設立し、ギリシャの哲学や医学に関する多くの著作をシリア語に翻訳し、学者の間で利用された。
7世紀および8世紀には、アラビアの征服者たちが、小アジア、北アフリカ、スペインの多くの地域にイスラム文化を普及させた。バグダッドのカリフたちは、科学や学問の積極的な後援者となった。シリア語に翻訳されたギリシャの著作が、ふたたびアラビア語に翻訳された。こうして、ギリシャの学問が紹介されるようになると、錬金術の思想や実践がふたたび盛んになった。→ アラビア科学
| 1.A. | アラビアの錬金術師 |
アラビアの錬金術師たちは、東の中国とも接触し、完全な金属としてのギリシャの金の概念とともに、医薬としての金の概念をもうけいれた。特別の試薬である「賢者の石」が変化を促進すると考えられ、これをみつけだすことが錬金術師たちの目的となった。
富だけでなく健康をも手にいれることができるかもしれないということで、錬金術師たちの化学過程についての研究意欲は、さらに刺激されることになった。錬金術師が活動した結果、化学薬品や化学装置の研究は、着実に進展した。苛性アルカリ(→ アルカリ金属)やアンモニウム塩(→ アンモニア)などの重要な薬品が発見され、蒸留の装置が着実に進歩した。より定量的な方法が必要だということの認識も、いくつかのアラビア語の処方箋(しょほうせん)にあらわれており、そこには、使用すべき薬品の量についての特別な指示があたえられていた。
| 2. | 中世後期 |
大きな知的復興が11世紀の西ヨーロッパではじまった。これは、ひとつにはシチリアおよびスペインにおけるアラビアの学者と西洋の学者との文化交流によって、刺激されたものであった。翻訳者のための学校が設立され、彼らの翻訳によってアラビアの哲学・科学思想がヨーロッパの学者にもたらされた。シリア語およびアラビア語を経由してつたえられたギリシャ化学の知識が、こうしてラテン語でヨーロッパの全域にひろめられていったのである。もっとも熱心によまれた写本は、錬金術に関するものであった。
| 2.A. | ヨーロッパの錬金術 |
これらの写本には2つのタイプがある。そのひとつは、ほとんど純粋に実践に関するもので、もうひとつは、物質の性質に関する理論を錬金術の問題に応用しようとするものである。実践的な問題としてもっとも議論されたのは蒸留であった。
ガラスの製法が、ベネツィアを中心にひじょうに発展したことで、アラビア人たちよりもすぐれた蒸留装置ができるようになり、これをつかってより揮発性の高い蒸留生成物を濃縮できるようになった。このようにしてえられた重要な生成物には、アルコールや、硝酸、王水、硫酸、塩酸などの鉱酸がある。これらの強力な薬品をつかって、多くの新しい反応をおこさせることが可能となった。
中国での硝酸塩の発見や火薬の製造もアラビア人を通じてヨーロッパにつたえられた。はじめ中国人は、火薬を花火に使用していたが、ヨーロッパでは、たちまち戦争の主要手段となった。
アラビア人によってつたえられた2番目のタイプの錬金術の写本は、理論に関するものであった。これらの著作の多くは、神秘的な性質をもったもので、化学の発展にはほとんど寄与していないが、中には、変化を自然科学的なことばで説明しようとしたものもあった。
アラビア人の物質理論はアリストテレスの考えにもとづいていたが、より特殊化されたものであった。このことは、とくに金属の組成に関する彼らの考え方に顕著にあらわれている。彼らは、金属は硫黄と水銀でできていると信じていた。ただしこの2つの要素は、彼らがよく知っている物質としての硫黄や水銀ではなく、金属に流動性をあたえる水銀の「原理」と、物質を燃焼させまた金属を腐食させる硫黄の「原理」であった。化学反応は、物質にふくまれるこれらの原理の量の変化として説明された。
| 3. | ルネサンス |
13世紀から14世紀にかけて、あらゆる分野の科学思想に対するアリストテレスの影響力が弱くなった。物質のふるまいを実際に観察することによって、アリストテレスの比較的単純な説明に疑問がなげかけられた。このような疑問は、1450年ごろ活字による印刷術が発明されてから急速にひろがった。1500年以降、技術に関する著作と同様、印刷による錬金術の著作の数がますます増大した。この増大した知識の成果は、16世紀にはっきりとあらわれる。
| 3.A. | 定量的方法の出現 |
この時代にあらわれた書物で大きな影響力をもっていたのが、採鉱および冶金の実践書であった。これらの著作では、有用金属の含有量をしらべるための鉱石の試金(→ 分析試験)に多くのページがあたえられた。この作業には、天秤(てんびん)の利用と、定量的な方法を開発することが必要であった(→ 化学分析)。他の分野、とくに医学の研究者たちは、より高度な精密さの必要性に気づきはじめていた。医師(彼らのうちのある者は錬金術師でもあった)は、投与する薬の正確な重量や体積を知る必要があった。彼らは薬を調合する際に天秤をつかった計量法を利用したのである。
| 3.B. | 医化学の基礎 |
この方法は、風変わりなスイス生まれの医師ホーエンハイム(→ パラケルスス)によって開拓され、精力的にひろめられた。彼は鉱山地域にそだち、金属とその化合物の性質についての知識を修得し、これらの物質が、当時の医師たちが利用していた薬草よりもすぐれていると信じた。彼はその人生の大半を、当時の医学の権威たちとのはげしい闘いについやし、その過程で、薬理学のさきがけとしての医化学の基礎をきずいた。彼とその後継者たちは、多くの新しい化合物や化学反応を発見した。
彼は、金属の組成についての従来の「硫黄-水銀説」を修正し、第3の成分として、すべての物質の基礎となる要素である「塩」をくわえた。木がもえるとき「もえるのは硫黄であり、気化するのは水銀であり、灰になるのは塩である」ととなえた。「硫黄-水銀説」についていえば、これらは「原理」であり物質ではなかった。
彼の可燃性硫黄についての主張は、のちの化学の発展にとって重要なものであった。パラケルススの跡をついだ医化学者たちは、彼のあらけずりな考えのいくつかを修正し、彼および彼らの化学治療薬の調合に関する処方を集大成した。そして16世紀末にアンドレアス・リバビウスが「アルケミア」を出版した。これは、医化学の知識を体系化したもので、最初の化学教科書であるとされている。
| 3.C. | 気体の存在 |
17世紀の前半には、わずかな人々が、化学反応の実験的研究をはじめたが、これは、化学反応がほかの分野の役にたつということからではなく、あくまでも自分たちのためにおこなったものであった。化学の研究に専念するために医師としての実践活動から身をひいたジャン・バプティスタ・ファン・ヘルモントは、ある一定の量の砂を過剰のアルカリとともに融解すると水ガラスが生成され、この水ガラスを酸で処理すると、もとと同じ量の砂(二酸化ケイ素)が生じることをしめすための重要な実験をおこない、そのときに天秤を使用した。こうして質量保存の法則の基礎がきずかれたのである。
ヘルモントはまた、多くの反応で空気のような流体が放出されることをしめし、これを気体と名づけた。特有の物理的性質をそなえた、新たな種類に属する物質が存在することがしめされたのである。
| 3.D. | 原子論の復活 |
アリストテレスによって存在しえないとされていた真空をつくりだす方法が、16世紀に実験科学者たちによって発見された。これは、原子が「空虚」の中を運動すると仮定したデモクリトスの古代理論への関心をよびおこした。
フランスの哲学者であり数学者であったルネ・デカルトとその弟子たちは、観測される現象は微粒子の大きさ、形、および運動によって、すべて説明されるとする機械的物質観を発展させた。この時代の自然哲学者や医化学者のほとんどは、気体は化学的性質をもたないと考えていたので、彼らの関心は気体の物理的ふるまいに集中した。
ここに気体分子運動論の発展がはじまった。この分野で特筆されるのが、「空気の弾性」を研究し、気体の圧力と体積との間の反比例の関係を一般化して、のちにボイルの法則として知られるようになる式をみちびきだしたイギリスの物理学者で化学者のロバート・ボイルの実験であった(→ 気体)。
| V. | フロギストン説と実験 |
自然哲学者たちが、数学的法則についての思索をおこなういっぽうで、実験室で研究していた初期の化学者たちは、化学の理論を化学反応を説明するために利用しようとつとめていた。
医化学者たちは、硫黄とパラケルススの理論に、特別の関心をよせた。17世紀の後半になると、ドイツの医者、経済学者、化学者であったヨハン・ベアキム・ベッヒャーが、この原理に関する化学体系をうちたてた。彼は、有機物が燃えると燃焼物質から揮発性の物質が放出されるようだとしるしている。彼の弟子であったゲオルク・エルンスト・シュタールが、これを、その後ほぼ1世紀にわたって化学界に生きのこる理論の中核にまでしあげた。
| 1. | 物質の循環 |
シュタールは、物質がもえると可燃性の要素が空気中にでていくと仮定した。この要素はギリシャ語の炎にちなんでフロギストンとよばれた。金属がさびるのも、燃焼と似た現象で、やはりフロギストンがうしなわれる。植物は、空気中からフロギストンを吸収するため、フロギストンにとんでいる。金属灰(金属酸化物)を木炭とともに加熱すると金属灰がフロギストンをとりもどす。このことから、金属灰は元素であり、金属は、化合物であると考えられた。
この理論は、現代の酸化・還元(→ 化学反応)の概念とほとんど正反対の関係になっている。しかしこの理論には、向きが逆ではあるものの、物質の循環という考えがふくまれており、観測された現象のうちのあるものは、この理論で説明することができる。しかし、当時の化学文献についての最近の研究によると、18世紀末にフランスの裕福なアマチュア化学者アントワーヌ・ローラン・ラボワジェによって批判されるまで、フロギストン説の化学者に対する影響は、ほんのわずかなものでしかなかったようである。
| 2. | 18世紀 |
これとほぼ同じころおこなわれたもうひとつの観測が、化学の理解に進展をもたらした。化学薬品の研究がすすむにともなって、化学者たちは、ある物質がほかの物質とくらべて、ある化学薬品とよりたやすく結合する、つまりより大きな親和力をもっているということに気づいた。さまざまな化学薬品に対する、相対的な親和力について、詳細な表が作成された。この表を利用することによって、実験室で実験をおこなう前に、多くの化学反応についての予測ができるようになった。
これらの発展によって、18世紀には新しい金属や化合物、化学反応が発見された。定性分析法および定量分析法の開発がはじまり、分析化学が誕生した。それでもなお、気体が物理的性質しかもっていないと考えられているかぎり、化学の全体像を認識することはできなかった。
| 2.A. | 気体の化学的研究 |
イギリスの生理学者ステファン・ヘールズが、さまざまな固体をとじた系の中で熱したときに、発生する気体をあつめ、その体積を測定するための水上捕集法を開発して以来、気体の化学的研究は、重要になった。この水上捕集装置は、空気のまじっていない気体をあつめて研究するのにかかせないものとなった。気体の研究は急速に進展し、さまざまな気体の理解は新しい段階をむかえた。
化学における気体の役割を最初に理解したのはイギリスのジョセフ・ブラックで、彼は炭酸マグネシウムおよび炭酸カルシウムの反応に関する研究を、1756年にエディンバラで出版した。これらの化合物を熱すると気体が放出され、あとに苦土(酸化マグネシウム)や生石灰(炭酸マグネシウム)がのこる。あとにのこった物質は、アルカリ(炭酸ナトリウム。→ 酸と塩基)と反応してもとの塩が生成される。
こうして気体の炭酸ガス(ブラックはこの気体を「固定空気」とよんだ)が化学反応に関与している(彼は「固定された」と表現した)ことが発見された。気体は、化学反応に関与しないという考え方はうちすてられ、その後、新しく発見された多くの気体はそれぞれ別個の物質であると認識されるようになった。
| 2.B. | 脱フロギストン空気 |
この10年後、イギリスの物理学者ヘンリー・キャベンディシュが「可燃性気体」(水素)を単離した。また彼は、気体を捕集するための液体として、水のかわりに水銀を利用し、水にとける気体をあつめることを可能にした。イギリスの化学者で神学者のジョセフ・プリーストリーはこの方法を改良して1ダースに近い新たな気体を発見し、その研究をおこなった。
プリーストリーのもっとも重要な発見は酸素の発見であった。彼はすぐ、この気体が空気にふくまれる成分であり、これが燃焼をおこし、また動物の呼吸を可能にしているものであると気づいた。
しかし彼は、この気体中で可燃性物質がよりはげしくもえ、金属がより容易に金属灰になるのは、この気体がフロギストンをもっていないからだと説明した。つまり、この気体は、すでに部分的にフロギストンによってみたされている通常の空気よりも容易に、可燃性物質や金属中にふくまれているフロギストンをうけとることができると考えた。彼は、この新しい気体を、「脱フロギストン空気」と名づけ、その生涯をとじるまでフロギストン説を擁護した。
| 2.C. | 酸素 |
この時期に化学は、フランス、とくにラボワジェの研究室で急速に発展していた。彼は、金属を空気中で熱するとフロギストンがうしなわれるのだとすると、なぜこのときに重量がふえるのかという問題になやまされていた。
1774年、プリーストリーはフランスをおとずれ、彼が脱フロギストン空気を発見したことをラボワジェにはなした。ラボワジェは、ただちにこの物質の重要性をみぬき、近代化学の確立につながる化学革命への道がひらかれたのである。彼は、この気体に対して酸を形成するものという意味で酸素という名称をもちいた。
| 3. | 近代化学の誕生 |
ラボワジェは一連のすぐれた実験によって、空気には20%の酸素がふくまれており、燃焼とは、可燃性物質が酸素と結合することによっておこる現象であることをしめした。炭素をもやすと固定空気(二酸化炭素)が生成される。したがってフロギストンは存在しない。
フロギストン説はまもなく、空気中の酸素が可燃性物質の成分と結合してその成分元素の酸化物を形成するという考え方にとってかわられた。ラボワジェは、彼の研究に定量的な裏付けをあたえるために天秤を使用した。彼は、元素を化学的な方法によって分解することができない物質と定義し、質量保存の法則を確立した。
彼は、古い化学の命名体系(いぜんとして錬金術的な慣用がおこなわれていた)を、今日もちいられている合理的な化学命名法にかえた。彼はまた、最初の化学雑誌の創刊に力をつくした。フランス革命の際1794年に、彼が元徴税請負人であったことから、ギロチンで処刑されたのち、同僚たちが彼の研究をひきつぎ近代化学を確立した。そのわずかのち、スウェーデンの化学者ヤコブ・ベルセリウスが、元素名の頭文字あるいは元素名中の文字の組み合わせによる原子の記号化を提案した。
| VI. | 19世紀および20世紀 |
19世紀の初頭までには、分析化学の精度が向上し、化学者たちは、簡単な化合物には、一定不変の量の成分元素がふくまれていることを明らかにできるまでになった。しかし、場合によっては、これと同じ元素の間でも2種類以上の化合物が生成されることがある。
フランスの化学者、物理学者ジョセフ・ゲイ・リュサックは、たがいに反応する気体の体積は、小さな整数比をなすということをしめした(このことは、のちに原子であることが証明される不連続な粒子の相互作用の存在を暗示している)。これらの事実の説明にもっとも貢献したのが、イギリスの科学者ジョン・ドルトンが1803年に発表した化学原子論であった。
ドルトンは、2種類の元素が結合してできる化合物には、それぞれの元素の原子が1個ずつふくまれていると仮定した。彼の体系にしたがえば、水の化学式はHOとあらわされた。彼は、水素の原子量を恣意的に1とし、酸素の相対的な原子量を計算した。この原理をほかの化合物にも適用して、ほかの元素の原子量を計算し、当時すでに知られていたすべての元素の相対的な原子量表を作成した。
彼の理論には多くの誤りがふくまれていたが、その考え方はただしく、各原子の質量に定量的な値をあたえることができた。
| 1. | 分子理論 |
ドルトンの理論の最大の弱点は、倍数比例の法則を説明できず、原子と分子を区別することができなかったことである。そのため、彼は、水の化学式として可能なHOとH2O2のちがいを説明できなかっただけでなく、彼が仮定したHOの化学式であらわされる水の蒸気密度が、化学式Oであらわされる酸素の密度よりも小さいのはなぜかということを説明できなかった。
この問題に対する解答は、1811年、イタリアの物理学者アメデオ・アボガドロによってみいだされた。彼は、同一温度、同一圧力のもとで、同じ体積をもつ気体には同じ数の粒子がふくまれ、分子と原子とはことなる、という考えを提示した。酸素が水素と結合するとき、酸素原子2個(現代のわれわれの言葉でいえば「分子」)がわかれ、それぞれの酸素原子が2つの水素原子と結合するのであり、水の分子式はH2O、酸素および水素の分子式はそれぞれO2、H2であらわされる、としたのである。
| 1.A. | アボガドロの再評価 |
残念なことに、アボガドロの考えは、約50年間無視され、この間、化学者たちの計算に大きな混乱が生じたのである。アボガドロの仮説がイタリアの化学者スタニスラオ・カニッツァーロによって再評価されたのは1860年になってからのことであった。
この時代にはすでに、元素の原子量を比較するための基準として、ドルトンのように水素の原子量1を採用するよりも、酸素の原子量16を採用したほうが都合がよいことに、化学者たちは気づいていた。当時、酸素の分子量32が一般に使用されており、これにグラムをつけて酸素のグラム分子量、あるいは単に酸素1モルとよんでいた。化学計算はこれによって標準化され、化学式の書き方が確定したのである。
| 1.B. | ベルセリウスの理論 |
古くからあった化学親和力の性質についての問題は、いぜんとして未解決のままであった。一時は、新しくおこった電気化学の分野で解決されるのではないかと思われた。1800年に考案されたボルタ電池は、最初の本格的な電池であり、化学者たちはこの新しい道具を利用してナトリウムやカリウムといった金属を発見した。
ベルセリウスには、正と負の電気力が元素をむすびつけているのではないか、と思われた。はじめのうちは、彼の理論は、化学者たちにうけいれられた。しかし、さらに多くの新しい化合物が合成され、その反応の研究がすすむにつれて、電気力は反応に関与していないのではないか、と考えられるようになり(非極性化合物)、化学親和力の問題はしばらく棚上げされた。
| 2. | 化学の新分野 |
19世紀の化学におけるもっともいちじるしい発展は、有機化学の分野にみられた。原子が実際にどのように結合しているのかということについて、概念をあたえてくれる構造理論は、非数学的な独特な論理にもとづいていた。これによって、とくにドイツの化学工業の発端となった数多くの重要な染料、医薬、爆薬(→ 爆発物)をはじめとする多くの新しい化合物の性質の予測とその製造が可能になった。
これと同時に、このほかの化学の新しい分野も出現していた。当時の物理学の発展に刺激されて、ある化学者たちは、数学的な手法を化学に応用する道をさぐった。反応速度の研究は、工業にとっても純粋科学にとっても、重要な分子運動論の発展をもたらした。
| 2.A. | 物理化学の形成 |
熱が原子レベルでの運動によるものであるということが認識された結果、熱が特定の物質(「カロリック(熱素)」とよばれた)であるという従来の考えが放棄され、化学熱力学がはじまった(→ 熱力学)。電気化学の研究もつづけられ、スウェーデンの化学者スバンテ・アウグスト・アレニウスは、塩が溶液中で電離して電荷をはこぶイオンを生成する(→ イオン化)、という説を提唱した。
元素や化合物の発光スペクトルと吸収スペクトルの研究は、化学者、物理学者のどちらにも、重要なものとなった(→ 分光学:スペクトル)。さらに、コロイド化学(コロイド)や光化学の基礎的な研究もはじまった。19世紀末までには、これらの研究がむすびつけられ物理化学として知られる分野が形成された。
| 2.B. | 周期律の発見 |
無機化学も組織化することが必要であった。新発見元素の数がふえてきたが、その反応を秩序だてて整理する分類方法が開発されていなかった。ロシアの化学者ディミトリー・イワノビッチ・メンデレーエフが1869年に、ドイツの化学者ユリウス・ロタール・マイヤーが70年に、それぞれ独立に発見した周期律によって、この混乱はとりのぞかれ、周期表のどの位置にくる元素が新しく発見されるか、あるいはその元素の性質がどんなものであるか、ということを予測することができるようになった(→ 元素:周期律)。
| 2.C. | 核化学の形成 |
19世紀末には、物理学と同様、化学にももはや新しく開拓すべき分野はのこされていないといえる状態にまで到達したと思われた。しかしこの考えは、放射能の発見によって完全にくつがえされた。ラジウムなどの新元素の単離や、同位体とよばれる新しい範疇(はんちゅう)に属する物質の分離、超ウラン元素の合成や単離に、化学的な方法がもちいられた。物理学者によってみちびきだされた原子構造に関する理論によって、古くからの化学親和力の問題が解決され、極性化合物と非極性化合物の関係が説明された。→ 核化学:キュリー夫妻
| 2.D. | 生化学の基礎 |
このほかに、20世紀の化学のおもな発展としては、生化学の基礎がきずかれたことがあげられる。これは、体液の簡単な分析からはじまったが、その後、もっとも複雑な細胞成分の性質や機能を決定する方法が急速に発展した。
20世紀半ばには、生化学者は遺伝子暗号を解読し、あらゆる生命の根源である遺伝子の機能を説明した。この分野は巨大な分野に成長し、その研究は、分子生物学という新しい科学の1分野を生みだした。→ 遺伝学:核酸
| 3. | 化学の最近の研究 |
現在の化学研究の最先端は、バイオテクノロジーと材料科学における最近の発展によって特徴づけられている。バイオテクノロジーの分野では、精緻な分析機器が利用できるようになり、ヒトのゲノムの配列についての国際的な研究がはじまった。この計画が成功すれば、分子生物学や医学の分野は、これまでとはまったくちがった性格のものとなるであろう。
物理学、化学、工学が学際的にむすびついた材料科学の分野では、先端材料や素子の設計ができるようになってきている。最近の例としては、77K(-196°C)で電気抵抗がなくなるセラミック化合物の高温超伝導体の発見がある。試料表面の像を原子レベルの解像度でとらえる走査型トンネル電子顕微鏡(→ 電子顕微鏡)が発明されたことにより、材料表面特性の研究がすすんでいる。→ 顕微鏡:超伝導
在来分野の化学的な研究に関しても、新しいより強力な分析手段の登場により、化学物質や反応についてのこれまでにはなかった詳細なデータがえられるようになった。たとえば、レーザー技術のおかげで、フェムト秒(10-15秒、つまり10億分の1のさらに100万分の1秒)のレベルで気相化学反応の瞬間的な状況を把握できるようになった。
また、グラファイト(黒鉛)電極をつかってつくられたすす(煤)から、フラーレンとよぶサッカーボールのような形をしたC60の化学式をもつ、まったく新しい形態の炭素が単離された。この物質の構造や化学的性質は、現在利用できる各種の分析技術を駆使して驚異的な早さで解明された。この物質のアルカリ金属塩のあるものは、超伝導性(→ 超伝導)をもっているということさえわかっている。
| 4. | 化学工業 |
化学工業の成長と専門化学者の養成の関係については、興味深い歴史がある。約150年前までは、化学者は専門的な訓練をうけていなかった。化学は、ある問題に興味をいだいた人々の研究によって、発展してきたのであるが、これらの人々は、新たな研究者をそだてようという組織だった努力はいっさいしなかった。医者や裕福なアマチュアが助手をやとって研究することもよくあったが、このうちのほんのわずかな人が雇主の研究をひきついだにすぎなかった。
| 4.A. | 化学教育 |
しかし19世紀初頭に、このような無計画な化学教育体制に、変化がおこった。研究活動について長い伝統をもつドイツで、多くの地方大学が設立されたのである。ドイツの化学者ユストゥス・リービッヒがギーセン大学に創設した化学教室は、実験を通じて教育をおこなう、はじめての研究室として、ひじょうに成功をおさめ、世界じゅうから生徒をあつめた。まもなくドイツのほかの大学もこれにならうようになった。
化学工業が新しい発見を活用しはじめたまさにその時代に、わかい化学者の大きな一団がこのような訓練をうけていた。この新発見の活用は、産業革命の時代にはじまった。たとえば、炭酸ナトリウムの製造法であるルブラン法は、最初の大規模生産プロセスのひとつであるが、1791年にフランスで開発され、1823年初めにイギリスで商業化されたものである。そのような成長産業の研究室では、訓練された化学の学生を雇用し、また大学の教授を顧問にすることができた。
この大学と化学工業との関係は、両者に利益をもたらした。また、19世紀末にかけての有機化学工業の急速な発展は、ドイツの染料・医薬トラストを生み、これによってドイツは第1次世界大戦にいたるまで、これらの分野で科学的優位性を保持した。第1次世界大戦後、ドイツの体制は、世界じゅうの工業国に導入され、化学と化学工業はさらにいっそう急速に発展した。
より最近のいくつかの工業開発のうちでは、酵素反応プロセスの利用が増大している(→ 酵素)。これは、おもに低コストで高い生産性をあげることができるからである。現在の産業界では、遺伝子を変換した微生物を利用した工業的製造法の研究がおこなわれている(→ 遺伝子工学)。
| 5. | 化学と社会 |
化学は、人間の生活に対して、ひじょうに大きな影響力をもっている。初期のころは、化学技術は、自然界に存在する有用な物質を単離し、その新しい利用法をみつけだすために活用された。19世紀になると、天然に産出するものよりもすぐれた性質をもつ、まったく新しい物質を合成したり、あるいは天然のものよりも安価に製造するための技術が開発されるようになった。合成化合物がより複雑なものになるとともに、貴重な用途をもつまったく新しい物質があらわれた。プラスチックや新繊維が開発され、また新しい医薬によって多くの病気が克服された。同時に、これまではまったく別の科学であったものが、たがいに連結しはじめている。これまで物理学者、生物学者、地質学者はそれぞれの独自の技術をそれぞれの手法で開発してきたが、各科学ともそれぞれの手法にしたがって、物質とその変化を研究しているのだということが明らかとなった。化学は、これらの各科学の基礎となっている。これらの科学の間に誕生した地球科学や生化学といった分野は、その生みの親であるそれぞれの個別科学に刺激をあたえた。
| 5.A. | 環境問題への取り組み |
近年の科学の発展はめざましい。しかし、責任がともなわなければ、この発展からえられるものはない。放射線の被曝をうけた人に癌を発生させ、その子孫に突然変異をおこす可能性がある放射性物質は、その危険性がもっとも明白な例である。また、かつては無害であると考えられた殺虫剤や、製造工程における副産物の、植物や動物の細胞中への蓄積がしばしば有害な作用をもつことが明らかとなった。これらの危険な物質は大量に生産され、ひろくまきちらされており、これらの物質を無害化する手段を開発することは、今や化学者に課せられた務めとなっている。これは、科学者が解決しなければならないもっとも重要な課題のひとつである。→ 環境問題