| 検索ビュー | 移民 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
経済的、社会的、政治的、宗教的などの要因から、自分がすむ国から他国に移住することをいう。移民を出す国からするとemigrant(出移民)となり、移民をうけいれる国からするとimmigrant(入移民)となる。
| II. | 移民の世界史 |
| 1. | 「新世界」とヨーロッパを中心に |
近代移民は、アメリカ大陸(新世界)にコロンブスがはじめて到達したことからはじまるが、移民の歴史は人類史と同様に古いといえる。近代以前における移民、たとえば旧世界における移民や新旧両世界内部での移民も、今後研究がすすめばさらに明らかになるだろう。しかし、移民研究者が通常問題にする移民は、近代に入ってからのものである。
16世紀からスペイン人、ポルトガル人をはじめとするヨーロッパ人が新世界へ移住を開始した。しかし、そのテンポは最初はゆるやかなものだった。スペイン人の植民者の移住は、16~17世紀は数十万人であったが、17~18世紀になると、イギリスやドイツからの北アメリカへの移民の数がふえていった。大量の失業者、浮浪者、農民、毛織物業者などが、海をわたった。現在のアメリカ合衆国の地域に移住したヨーロッパ人は、18世紀末で180万人ほどである。しかし、16~18世紀に「正規」の移民とは別に、南北アメリカには膨大な数のアフリカ黒人が奴隷としてプランテーションや鉱山におくりこまれてきた(→ アフリカ系アメリカ人)。
| 2. | 移民の世紀、19世紀 |
新世界へのヨーロッパ移民が急速に増大するのは1830年代以降のことで、この時期、新世界への移民は年間10万人をこえ、第1次世界大戦前には年間150万人というピークに達した。これはヨーロッパ諸国の産業化による余剰人口の拡大と密接な関係がある。そして、第1次世界大戦までの100年間に新世界にわたったヨーロッパ人は6000万人前後に達するとみられている。
これらのヨーロッパ人は、最初はジャガイモ飢饉(ききん)によるアイルランド人などの北西ヨーロッパ人が多く、後半になるとロシアやオーストリア・ハンガリー二重帝国で政治的宗教的に迫害されたユダヤ人、スロバキア人などのマイノリティ、さらにイタリアやポルトガルからの移民がめだつようになった。この移民の大波は、ヨーロッパ諸国の雇用機会の増大、農地の適正化などをもたらし、本国の資本主義がスムーズに発展することに大いに貢献したことはうたがいえない。
| 3. | 移民制限の時代 |
19世紀に入ると欧米諸国はあいついで奴隷制度を廃止するにいたり、植民地でかつて奴隷労働に依存していた産業では、中国人やインド人、そして日本人をクーリー(苦力)として導入する動きが活発になった。しかし、それ以前のヨーロッパ人の移民とはことなるアジア系の移民の導入は移民制限の一因ともなった。
宗教をはじめとする文化的な相違にくわえ、衣食住などがまったくちがうアジア系移民は、無知や偏見からくる根深い人種差別の意識をもつヨーロッパ系市民の強い反発をまねいた。彼らは根本的には劣悪な労働条件下でも相対的な適応力をみせ、出生率も高く、そしてなによりもその低賃金と非熟練労働力が受け入れ国の労働市場の撹乱(かくらん)要因になるとみなされたからである。また、日清戦争、日露戦争による日本の勝利が、欧米諸国にひきおこした「黄禍論」による影響も大きい。
アメリカ合衆国は1882年に中国人を対象とした移民制限法を成立させて、非白人移民の門戸をせばめるにいたり、最後にのこった日本移民も数次にわたる制限の末に、1924年の排日移民法(割当移民法)で禁止された。もっとも両世界大戦間には、アメリカは白人移民も数量的に制限している。とくに29年にはじまる世界大恐慌(→ 恐慌)下では、ほとんどの国が移民をうけいれる経済的な余裕をうしなっていた。他方、ファシズム諸国であるドイツやイタリアは、労働力や兵力の基盤である人口の減少を阻止するために他国への移民を禁じた。しかし、両国からのユダヤ系移民は、イギリスそしてとくにアメリカに学問、芸術など、さまざまな分野で貴重な人材を提供することになった。
| 4. | 第2次世界大戦後 |
この時期の最大の移民は、戦争の結果国境が変更になり強制的に移住させられた、ドイツやポーランドなどの人々だった。また、これはヨーロッパにかぎらず、植民地から独立したものの宗教上の理由から分離国家となったインド、パキスタンなどにもみられた。ヨーロッパ諸国は、戦争直後の経済の疲弊からたちなおれない時期だったため、他国への移民を促進する政策を積極的にとった。移民の目的地は白人移民にも制限をもうけているアメリカではなく、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、そしてラテンアメリカ諸国であった。
1960年代に西ヨーロッパ諸国の経済成長がはじまると、旧西ドイツやフランス、イギリスなど北西ヨーロッパ諸国に、イタリア、スペイン、ポルトガルなどの南西ヨーロッパ諸国からの移民が増加する。イギリス、フランスなどの旧植民宗主国には独立した植民地から労働者が入ってくる。また、西ドイツにはトルコ人が下級労働者として大量に入りこみ、現在も大きな社会問題となっている。
| 5. | 人種差別と移民政策 |
1948年の「世界人権宣言」は、各国の移民政策にも大きな影響をもたらした。同宣言は移民の自由を基本的な人権としてとらえており、戦前のように移民に対する人種的差別を否定している。アメリカをはじめとする先進国は、有色人種に対する移民禁止政策を撤廃するとともに数量的制限も緩和した。この結果、旧植民地から旧宗主国への移民も増大した。また、発展途上国からの先進国への流れだけでなく、途上国からクウェートのような産油国、あるいは韓国、台湾のような中進国へのフィリピン人の移入のような流れもめだってきている。
第2次世界大戦前の先進国への移民が主として非熟練労働力であったのに対し、現在は資金や技術をもつ者を歓迎する傾向がある。
| III. | 移民の日本史 |
| 1. | 近代日本における移民 |
日本での移民は、室町時代から江戸時代初期までの倭寇や南蛮貿易がさかえた時代にひとつの興隆期があった。しかし、鎖国政策をとった江戸幕府では、移民は不可能であった。1866年(慶応2)に幕府が海外渡航禁止令を廃止して、ようやく海外への渡航がみとめられることになった。留学生や少数の芸人などが渡航し、明治時代になると婦女子の密航や売春婦である「からゆき」などが年々ふえていった。
長期間他国で労働に従事するという意味での移民は、1868年(明治元)のハワイへの契約移民が最初であった。ここから第2次世界大戦の敗戦までの約80年間が、日本における近代移民の全盛時代であった。敗戦前後の海外邦人は北米が41万人(日系アメリカ人)、中南米が24万人である。日本の植民地への移民は千島と樺太(サハリン)が28万人、中国東北部(旧「満州」)が27万人で、人口が稠密(ちゅうみつ)な台湾と朝鮮への移民が相対的に少ない。逆に、これらの地域からの日本本土や樺太への移民が生じている。
| 2. | 日本人移民の要因 |
戦前の日本の移民政策はしばしば棄民政策とよばれてきた。初期の移民の多くは移民会社にゆだねられて、さまざまな不利益をこうむる場合が多く、政府の保護もふじゅうぶんな場合が多かった。たとえば、南米移民の始まりであったペルー移民(1899)の場合は、第1団の風土病などにたおれた率は数十パーセントにおよんだ。移民会社の事前のあやまった情報に対して、直接の管轄権をもつ地方自治体はなんらのチェック機能もはたさなかった。ペルー移民の場合は、おそらくはハワイ移民の一部の成功を直接間接に聞いた移民志願者が、かなり主観的な願望をいだいたことにも若干の責任があるかもしれない。このことは、従来、移民の動機をもっぱら経済的なものにしぼってきたことに疑問をいだかせた。
現在、急増している中国から日本への密航者にしても、極貧地帯からではなく密航の資金を調達できる程度の生活水準をもつ地方、しかも成功者のモデルについて直接間接の情報を入手できる地方の人々が中心であるように思われる。さらには、その地域にある種の根深い神話あるいは伝説がある場合には、移民志願は促進されるように思われる。たとえば、柳田国男の「海上の道」やそれに類似した韓国のチェジュ(済州)島にある伝説などがそれである。海の向こうにある豊かな地は、人々を移民にかりたてる無意識的な動機かもしれない。
| 3. | 日本人移民の意識の変化 |
戦前の植民地以外の日本人移民は、中国人の華僑がしばしばそうであったように、出稼ぎ意識をいだいていた。彼らは多くの場合、入移民地の社会や文化に積極的に融和しようとはしなかったし、婚姻にしても日本から相手をよびよせることが多かった。
日本が第2次世界大戦に突入したため、南北アメリカ大陸の日本人移民は、人種差別により敵性国民としてあつかわれた。アメリカでは、日本人移民の多くがテキサスの捕虜収容所に収監されたし、いまだ日本に宣戦布告していないペルーに米国軍艦がやってきて、ペルー政府と協力して日本人移民リーダーを逮捕した。このこと自体明らかに国際法に違反していたうえ、逮捕された日本人はテキサスの捕虜収容所に収監された。
日本の敗戦により旧植民地にいた日本人移民が、強制的に帰国を余儀なくされたのは周知のとおりである。その他の地域の移民にしても、戦前のような出稼ぎスタイルの移民が通用しなくなったことは骨身にしみていた。彼らは従来のように日本国籍に執着することなく、現在いる国の国籍をとり、その国民となった。
| 4. | 沖縄移民 |
一方、敗戦後の日本では経済が成長を開始するまでは、ヨーロッパ諸国のように「口減らし」のために政府によって移民が奨励された。ブラジル、ドミニカ、ボリビアなどへの移民である。移民の出身地で、とくに考えなくてはならないのは沖縄である。戦前においても、沖縄出身の移民は多かった。たとえば、ペルーの日本人協会は、事実上沖縄とそれ以外の県の2つのグループに二分されていた。地上戦による荒廃、膨大な米軍基地用地としての農地接収、そして海外にいる親族のつてがあることなどが沖縄人の移民志願を増大させた。
| 5. | 外国人労働者問題 |
日本経済が高度成長期に入ると移民熱も沈静化し、海外の移民もわすれさられた。1960年代を中心に15年間ほどつづく高度経済成長により、日本は出移民国から入移民国に変化した。外国人労働者問題の出現である。85年(昭和60)のプラザ合意により、「円高ドル安」の事実上の容認により円高のメリットをもとめる国の人々が、「黄金の国ジパング」をめざすことになる。通貨レートが円の数十分の一であるこれらの国々の人は、1年日本ではたらけば故郷に豪邸をたてられる。さらに、日本企業の需要もある。3K産業などといわれる分野では、日本の若者はもはや働こうとはしない。いきおいこうした分野は外国人労働者を不可欠とするようになった。彼らは低賃金でも働くことをいとわない。かつての「出移民」時代の日本とは逆の状況が出現したのである。
この動きは、日系人の逆流をともなっていた。1989年(平成元)12月に出入国管理及び難民認定法(入管法)が改正され、在外日系人の就労が自由化されたが(施行は1990年6月)、それ以降の最大の移民は、中南米を中心とする日系人であった。これらの日系人は80年代後半から急速にふえていたが、同法改正によって勢いをまし、95年にはブラジル、ペルー人の就労者は90年の約3倍となり、20万人を突破した。合法的に就労がみとめられた外国人の約4分の1である。これらの人々は自分の祖父母、父母がはなれた故郷に再移民しているわけである。その後は、日本の経済的低迷で増加率が鈍化したが漸増(ぜんぞう)はつづき、2000年段階で約30万人に達した。
現在の日本の「入移民」は日系人にかぎらない。ビザやパスポート(→ パスポートとビザ)をもたない難民や、外国人労働者の「不法滞在」がしばしば社会問題になっている。