| 検索ビュー | 第1次世界大戦 | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
1914~18年に、32カ国が2大陣営にわかれてたたかった、人類史上初の世界大戦。イギリス、フランス、ロシアの三国協商を中心とする28カ国は連合国陣営を結成し、ドイツ、オーストリア・ハンガリー二重帝国、オスマン帝国(トルコ)、ブルガリアからなる同盟国陣営と対決した。主戦場はヨーロッパ大陸だったが、大西洋、太平洋、中東、アフリカでも戦闘はくりひろげられた。
| II. | 戦争の原因 |
戦争の原因には、19世紀末~20世紀初め、ヨーロッパ諸大国が三国協商(イギリス、フランス、ロシア)と三国同盟(ドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリア)の敵対する2大陣営に分裂し、この2大陣営間で植民地獲得をめぐる対立がおき、イギリス、ドイツ間の建艦競争に代表される軍備拡張競争が激化したこと、オスマン帝国の衰退にともなってパン・ゲルマン主義とパン・スラブ主義とのはげしい民族主義的対立がバルカン半島を舞台に出現し、それぞれの盟主であるドイツとロシアの衝突による2大陣営間の大紛争が生じる危険が高まっていたこと、などがあげられる。
軍縮と戦争回避の目的で1899年と1907年の2回にわたりオランダのハーグで開かれた国際平和会議(→ ハーグ平和会議)も、国益を優先する大国のエゴイズムを抑止することができず、国際対立の解消に役だたなかった。
| III. | 大戦にいたる国際危機 |
1905~14年に、数回の国際危機と2度の局地戦争がおきたが、そのどれもがヨーロッパ戦争の危険を高めていった。最初の危機は北アフリカのモロッコでの権益をめぐりドイツとフランスがあらそった05年のタンジール事件(第1次モロッコ事件)である。翌年、事件解決のためスペインのアルヘシラスで国際会議が開かれ、フランスはイギリスに支援されてモロッコでの優先権をみとめられ、ドイツの野望は阻止された。
第2の危機は1908年にオーストリア・ハンガリーがスラブ民族の居住地でオスマン帝国の支配下にあったボスニア、ヘルツェゴビナ両州を併合したことから生じた。この併合は、大セルビア主義をかかげてボスニア南部の領有をめざすスラブ民族の新興国家セルビアの怒りをひきおこした。両国の戦争の危機は日露戦争後の国内混乱にくるしむパン・スラブ主義の盟主ロシアがセルビア支援をひかえたため、ひとまず回避された。
第3の危機は1911年のアガディール事件(第2次モロッコ事件)である。モロッコでの権益をめぐってドイツとフランスがふたたび対立したこの危機も、フランス優位のうちに解決された。この結果、ドイツは国際的に孤立し、状況打開のためにオーストリア・ハンガリーとの関係強化をいっそうもとめるようになった。
三国同盟の加盟国イタリアは、大国がモロッコ問題に忙殺されている間に北アフリカのトリポリを併合するため、1911年にオスマン帝国と開戦した。ドイツは東方進出(3B政策)のためにオスマン帝国との友好を必要としたので、イタリアの行動は三国同盟の利害に反するものとなった。イタリアはさらに南ティロルやトリエステの帰属をめぐってオーストリア・ハンガリーと利害対立をかかえており、大戦勃発(ぼっぱつ)後の15年5月23日にオーストリア・ハンガリーに宣戦布告して三国同盟を離脱、連合国陣営にくわわることになる。
1912~13年の2度にわたるバルカン戦争は、セルビアの勢力拡大と威信高揚をもたらし、バルカンでのオーストリア・ハンガリーとセルビアとの対立は激化した。この戦争でやぶれたオスマン帝国、ブルガリアはドイツへの依存を強めた。こうしてバルカンは「ヨーロッパの火薬庫」となった。
| IV. | サラエボ事件と大戦の勃発 |
国際緊張が高まるなか、1914年6月28日にボスニアの首都サラエボでセルビア人青年プリンツィプがオーストリア・ハンガリー帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺するという、いわゆるサラエボ事件が突発した。オーストリア・ハンガリー政府は事件をセルビアの陰謀と断定し、自国をおびやかすセルビアをうちたおす決意をかため、ヨーロッパ戦争の危険が急浮上した。オーストリア・ハンガリーのセルビア攻撃はセルビアを支援するロシアの介入を、ロシアの介入はドイツのオーストリア・ハンガリー支援をまねき、その結果、ヨーロッパ諸国は2大陣営にわかれて対決する恐れが現実のものとなった。
1914年7月5日、ドイツはオーストリア・ハンガリーに無条件支持を約束し、勢いをえたオーストリア・ハンガリーは7月23日にとうていうけいれられない内容の最後通牒(つうちょう)を48時間の期限つきでセルビアに発した。ロシアはセルビアが攻撃されればオーストリア・ハンガリーに対して軍を動員することを通告し、破局は眼前にせまった。7月26日、イギリス外相グレーは、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、イタリアの5カ国大使会談による危機回避を提案したが、ドイツは拒否した。
1914年7月28日、オーストリア・ハンガリーはセルビアに宣戦を布告、両国は開戦した。ロシアは7月31日に軍を総動員し、フランスもドイツに対する開戦準備をととのえた。一方、ドイツは8月1日にロシアに対して、8月3日にフランスに対して宣戦布告した。態度を保留していたイギリスもドイツのヨーロッパでの覇権奪取を警戒し、8月3日にドイツがフランス攻撃のためにベルギーの中立を侵犯したことを口実として、翌日ドイツに宣戦布告した。こうして、大半のヨーロッパ大国が大戦に突入した。
さらに、1914年8月23日に日英同盟を口実として日本が参戦、中国山東省のドイツ植民地を攻撃した。10月29日にはオスマン帝国艦隊がドイツ海軍とともに黒海沿岸のロシアの海軍基地を攻撃したため、オスマン帝国政府の陳謝にもかかわらず、11月2日ロシアが、11月5日イギリスとフランスがオスマン帝国に宣戦布告した。
| V. | 地上戦 |
ヨーロッパでの戦闘は、西部(フランス、ベルギー)、東部(ロシア)、南部(セルビア)の3つの主要戦線で展開された。
| 1. | 西部戦線 |
西部戦線でのドイツ軍の作戦大綱は、1891~1906年に陸軍参謀総長だったシュリーフェンが起草したシュリーフェン計画にもとづいていた。これはフランスおよびロシアに対する二正面作戦を想定したもので、予想されるロシア軍の緩慢な動員と戦線への到着の遅れを計算にいれ、ドイツ陸軍はまず西部戦線に主力を結集して約6週間でフランス軍を打倒し、その後に東部戦線にひきかえしてロシア軍を撃破するというものだった。
したがって、ドイツ軍によるベルギー侵犯はこの計画の前提条件だった。ドイツ軍主力3個軍団は中立国ベルギーを侵犯して防備手薄なフランス北東部に進撃し、先鋒(せんぽう)のクルック将軍ひきいる第1軍はパリまで50kmにせまった。フランス・イギリス軍の主力は包囲をのがれるため、パリ前方のマルヌ川まで後退した。
1914年9月5日にはじまったマルヌ会戦で、ジョッフルひきいるフランス軍はクルック軍を猛攻し、ドイツ軍の進撃を阻止した。ドイツ軍の戦力は、作戦を指揮した参謀総長モルトケがシュリーフェン計画を修正し、ロシア軍の攻撃にそなえて2個軍団を東部戦線に急派したため、低下していたのである。ドイツ軍はマルヌ川からエーヌ川まで後退し、早期決戦にかけたドイツの勝利の機会はうしなわれた。9月14日、モルトケは引責辞任し、後任にプロイセン陸相ファルケンハインが任命された。
その後の戦闘はベルギーのイゼール川流域から北海海岸部にかけて続行されたが、戦線は膠着(こうちゃく)し、1914年末までに両軍はスイス国境からベルダンをへて北海にいたる約800kmの戦線で対峙した。翌年4月22日、ドイツ軍はベルギーのイーペルを攻撃して失敗したが、ドイツ軍はこの戦闘で史上初の毒ガスをもちい、戦争は無差別殺戮(さつりく)戦の様相をいっきょに強めた(→ 生物化学兵器)。このあと大戦終結まで両軍は鉄条網と機関銃座で堅固に防御された塹壕陣地(ざんごうじんち)をかまえ、西部戦線は泥沼の長期持久戦となった。
| 2. | 東部戦線 |
東部戦線では、予想に反してロシア軍の行動は迅速で、開戦とともに2個軍団が東プロイセンへ、4個軍団がオーストリア・ハンガリー領ガリチアへ侵攻した。東プロイセンに侵攻したサムソノフひきいるロシア軍は、1914年8月26~31日のタンネンベルクの戦で、ヒンデンブルクを司令官とし、ルーデンドルフを参謀長とする増援されたドイツ軍に包囲殲滅(せんめつ)された。
ガリチアに侵攻したロシア軍はプシェミシルとブコビナを占領し、翌1915年3月末にはハンガリー攻撃の準備を完了した。しかし、5月にはいると、ドイツ・オーストリア軍は中部ポーランドで大攻勢を開始し、9月までにポーランド、リトアニアなどからロシア軍を駆逐してロシア国境に進出したため、ガリチア侵攻のロシア軍もこの攻勢に対処する必要にせまられ、ガリチアから撤退した。
| 3. | 南部戦線 |
南部戦線では、オーストリア・ハンガリー軍とセルビア軍との間で戦闘がくりひろげられたが、1915年10月まで戦線は膠着状態におちいった。しかし、10月11日にブルガリアが同盟国に味方して参戦すると、同盟国軍はセルビアに進撃し、セルビア軍と来援のためギリシャから急派されたイギリス・フランス軍を撃破し、12月末までにセルビア全土を占領した。残りのセルビア軍はモンテネグロ、アルバニア、ギリシャのケルキラ島に、イギリス・フランス軍はギリシャのテッサロニキ(サロニカ)に撤退して抗戦をつづけた。
| 4. | トルコ戦線 |
トルコ戦線では、1914年12月にオスマン帝国軍がロシアのカフカス地方に侵攻したが、ロシア軍の反撃をうけ、翌年8月までに撃退された。イギリス・フランス軍はロシア救援のためハミルトン提督指揮下の海軍部隊を派遣、15年2月からダーダネルス海峡のオスマン帝国軍陣地を艦砲射撃し、4月以後ゲリボル(ガリポリ)半島に2回上陸した。しかし、指揮の乱れとオスマン帝国軍のはげしい抗戦にあって、上陸作戦は失敗し、5月26日にはその責任をおって海相チャーチルが解任された。連合軍は12月と翌年1月に撤退を余儀なくされた。
| VI. | ベルダンとソンムでの攻防 |
1916年にはいると、前年に東部戦線で勝利したドイツ軍は約50万人の部隊を東部戦線から西部戦線に移動し、西部戦線で決戦をこころみた。ファルケンハイン立案のドイツ軍作戦計画は、大兵力をもってフランス軍の拠点ベルダン要塞(ようさい)を攻撃し、フランス軍を撃滅するというものだった。一方、連合軍の作戦計画はソンム川流域で夏期大攻勢にでて、ドイツ軍戦線を突破することにおかれた。2月21日、ドイツ軍はベルダン攻撃(→ ベルダンの戦)を開始し、2月25日にはドゥオーモン堡塁(ほうるい)、6月2日にボー堡塁を奪取したが、「ベルダンの英雄」ペタンがまもる要塞そのものの占領には失敗した。
フランス軍はこの戦闘で消耗し、ソンム戦(→ ソンムの戦)には当初予定した40個師団ではなく16個師団しか派遣できず、ソンム戦の主攻撃はイギリス軍にゆだねられた。1916年7月1日~11月18日の第1次ソンム戦で、イギリス軍は史上初の戦車を投入してソンム川流域の約325km²を奪取したが、ドイツ軍戦線を突破できなかった。ベルダンでは10~12月にフランス軍が反撃し、ドゥオーモン堡塁とボー堡塁の奪還(11月2日)に成功した。
ベルダン戦ではフランス軍、ドイツ軍とも約40万人、第1次ソンム戦ではイギリス・フランス軍約70万人、ドイツ軍約50万人という、膨大な死傷者をだした。この間の8月、ドイツ軍ではヒンデンブルクがファルケンハインにかわり参謀総長に、フランス軍では12月にジョッフルにかわりニベルが北部・北東部軍の最高司令官に就任した。
| VII. | バルカンでの戦い |
東部戦線ではロシア軍が全戦線で攻勢を開始して一時的成功をおさめたが、約10万人の損害をうけて士気の低下と厭戦(えんせん)気分の増大をまねいた。1916年8月27日、ルーマニアはロシア軍の攻勢に触発され、連合国陣営に参加してオーストリア・ハンガリー領トランシルバニアに侵攻したが、ドイツおよびオーストリア・ハンガリー軍は即座に撃退し、翌年1月半ばまでにルーマニア全土を占領、貴重な小麦と石油を獲得した。この結果、18年5月7日にルーマニアは同盟国とブカレスト条約を締結、ドブルジャ地方をブルガリアに割譲した。
ギリシャは中立を宣言していたが、国王政府は同盟国寄りの姿勢を強めていた。そのため、1916年10月9日、連合国の介入によって、ベニゼーロスを首班とするギリシャ臨時政府が樹立され、11月26日に臨時政府はテッサロニキでドイツとブルガリアに宣戦布告した。12月19日、イギリスが臨時政府を正式に承認し、この間、再編されたセルビア軍がテッサロニキに派遣され、ドイツ・ブルガリア軍と交戦した。
| VIII. | 中東での戦い |
中東のアラビア半島では、1916年6月以降メッカの有力カリフでハーシム家のフサインが息子のアリー、ファイサルとともにオスマン帝国との闘争を再開し、イギリスに支援されヒジャーズ(現サウジアラビア領)の戦闘を指導した。これは、前年の10月24日にカイロで成立したイギリス高等弁務官マクマホンとのアラブ独立国家創建に関する基本的合意(フサイン・マクマホン書簡)にもとづいたものだった。10月29日、フサインはメッカでヒジャーズ王国の独立を宣言、イギリスもこれを承認した。さらに、イギリスは11月にアラビア半島での反抗支援の陽動作戦として、エジプト駐屯軍をシナイ半島とパレスティナに進撃させた。
こうしてオスマン帝国支配下のアラブ人の支援をとりつける一方で、イギリス外相バルフォアは、1917年11月2日、世界じゅうにひろがるユダヤ人社会の戦争協力をえるために、パレスティナの地にユダヤ人の国家(現イスラエル)建設をみとめる約束をおこなった(バルフォア宣言)。マクマホン書簡とバルフォア宣言という矛盾する約束は、今日にまでつづくパレスティナ問題を発生させることになる。
| IX. | 海上戦 |
開戦時、イギリスの主力艦隊はドレッドノート型戦艦20隻を有し、スコットランド北部のオークニー諸島のスカパ・フローを基地としていた。一方、ドイツの外洋艦隊は北海諸港を基地とし、ドレッドノート型戦艦13隻を中心に編成されていた。総合的戦力のおとるドイツ海軍は大西洋での艦隊決戦をさけ、イギリスによる海上封鎖に対抗するため、潜水艦戦に期待をよせた。1915年5月7日にイギリス客船ルシタニア号がドイツの潜水艦によって撃沈され、アメリカ人乗客128人が犠牲になるという事件がおきた。この時期アメリカは中立を宣言しており、直接の参戦はしなかったものの、この事件を契機に、反ドイツ的な姿勢をいっそう強めた。そこで、ドイツは潜水艦戦を一時緩和した。
1916年5月31日、初の艦隊決戦がデンマークのユトランド半島沖ではじまり(→ ユトランド沖海戦)、149隻からなるイギリス艦隊と110隻からなるドイツ艦隊が激突した。この戦いでイギリス海軍は戦艦2隻、巡洋艦4隻、駆逐艦8隻を、ドイツ海軍は戦艦1隻、巡洋艦5隻、駆逐艦5隻をうしなった。こうして海戦は数的劣勢のドイツ海軍の局地的勝利におわったが、イギリス海軍の優位はうごかず、その後ドイツ海軍は艦隊決戦をいどむことはなかった。このため、長期戦にともなう物資不足にくるしむドイツは、制海権を確保しイギリスの海上封鎖を打破するために、一時ひかえていた潜水艦戦を強化し、17年2月1日、ついに無制限潜水艦戦に突入、4月6日のアメリカの参戦をまねくことになる。
はじめ、ドイツの潜水艦戦は連合国の海運に大きな被害をあたえたが、イギリスは駆逐艦による護送船団方式と航空機による監視体制を強化し、ドイツ潜水艦の活動は大きく制約されるとともに、損害も増加した。さらに、アメリカの参戦により、アメリカを中心とする連合国の船舶建造量は飛躍的に増大し、ドイツの潜水艦による被害をじゅうぶんにおぎなうことができた。ここでも経済力が戦局を左右したのである。
| X. | 空中戦 |
大戦は航空機の飛躍的進歩とその軍事利用をもたらした。飛行船をふくむ航空機の利用目的は偵察と爆撃にあった。1914年8月30日にドイツによる初のパリ爆撃が、12月21日には初のイギリス爆撃がおこなわれた。15~16年には、ドイツのツェッペリン飛行船がイギリス東部とロンドンを60回も爆撃した。15年半ばからは、航空機どうしの空中戦が頻繁になり、17年7月以降になると、西部戦線での制空権はイギリスにうつった。さらに、アメリカの参戦は連合国の空の優位を不動のものとした。18年11月にはアメリカの航空戦力は、航空機800機と搭乗員1200人にまで増強されていた。
| XI. | アフリカと太平洋地域での戦い |
開戦時のドイツのアフリカ植民地はトーゴランド(現トーゴおよびガーナ)、カメルーン、南西アフリカ、東アフリカだったが、1914年8月から16年2月に、トーゴランド、カメルーン、南西アフリカがあいついで連合軍に占領された。ドイツが頑強に抵抗したのは東アフリカで、現地ドイツ軍は同地の大半を占領されても、大戦終結まで連合軍との間ではげしい攻防をくりひろげた。
太平洋地域では、1914年8~9月、ニュージーランド軍がドイツ領サモアを、オーストラリア軍がビスマーク諸島とドイツ領ニューギニアを占領した。11月7日には日本が中国山東省のドイツの拠点であるチンタオ(青島)を奪取、さらに11月末までにマーシャル諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島、カロリン諸島にひろがるドイツ領南洋諸島を占領した。大戦終結後、日本はこれら諸島の大半の委任統治を国際連盟から承認された。
| XII. | 戦時の国民生活 |
参戦した各国では、大戦が長期戦となるにしたがい、人的・物的資源の全面的動員が急務となった。イギリスでは1915年に軍需省が新設されて軍事物資生産が組織化されるとともに、16年1月に強制徴兵法が成立した。ドイツでも17年12月に電機コンツェルンのAEG社長ラーテナウが陸軍省に新設された戦時資源局の長官に就任し、原料確保と軍事物資生産の国家による統制が強化された。
こうして総力戦体制への移行とともに、各国では食糧をはじめ生活物資が配給制となり、国民生活は窮乏の一途をたどった。1916年11月のロシアの首都ペトログラード(現、サンクトペテルブルク)での大規模な民衆スト、17年4月のドイツでの食糧事情改善と反戦平和をもとめる大規模な民衆スト、5月のフランスでの兵士反乱、7~8月のドイツ艦隊での水兵暴動などにみられるように、民衆の厭戦気分は高まり、講和をもとめる運動が台頭した。また、男性が出征したことから生じた労働力不足の解消のため、女性の職場進出が促進された。こうして各国は、国民総動員のために国内体制の民主化などの社会変動が生じ、これが戦後に登場する大衆デモクラシーの一因となった。
| XIII. | アメリカの参戦とロシアの戦争離脱 |
1917年のアメリカの参戦と、革命のあらしにみまわれたロシアの戦争離脱は大戦中の最大の事件だった。アメリカが参戦した動機として、非人道的なドイツの無制限潜水艦戦に対する憤激、増大するイギリス・フランスへの借款を回収して自国資本を擁護する意図、中国への日本の進出に対する警戒などがあげられる。ウィルソン大統領はこうした諸問題を解決するには参戦して早期に大戦を終結させ、年来の理想である国際機構を設立し、恒久的な国際平和を実現することを急務とみなした。
こうして1917年4月6日、アメリカがドイツに対して宣戦布告すると、ペルー、ボリビア、ブラジルをふくむ大半の中南米諸国もこれにしたがった。アメリカはパーシング将軍ひきいる遠征軍をヨーロッパ戦線に派遣、6月には17万5000人ものアメリカ軍がフランスに到着、西部戦線に投入された。最終的にアメリカ軍の戦力は約200万人となり、連合国の優位は不動のものとなった。
一方、東部戦線では決定的な変化がおきた。ロシアで革命が勃発したためである(→ ロシア革命)。1917年3月8日、ロシアの民衆が蜂起(ほうき)し、3月15日には皇帝ニコライ2世が退位してロマノフ王朝は滅亡、臨時政府が設立された(ロシア暦による二月革命)。臨時政府は戦争を続行し、7月にブルシーロフひきいるロシア軍はガリチアで局地的勝利をおさめたものの、最後はドイツ軍にやぶれた。
ドイツ軍は1917年9月にリガを、10月にはラトビアの大半とバルト海の諸島を占領した。11月7日、レーニンの指導するボリシェビキはケレンスキーの臨時政府を武力で打倒(十月革命)、ソビエト政権を樹立した。ソビエト政権は12月3日にブレスト・リトフスク(現ベラルーシのブレスト)で同盟国陣営と休戦交渉を開始し、翌年3月3日に単独で講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を締結、戦争から離脱した。
| XIV. | 大戦の終結 |
アメリカの参戦とロシアの戦争離脱は、連合国陣営と同盟国陣営の双方に大きな影響をあたえ、1918年にはいると戦局は大きく転換した。ドイツはロシアとの講和により東部戦線から大兵力を移動させ、3月21日~6月にかけて西部戦線で最後の大攻勢を開始した。ルーデンドルフひきいるドイツ軍はフォッシュ指揮下のイギリス、フランス、ベルギー、アメリカ4カ国連合軍と激戦を重ね6月初めにマルヌ川に到達したが、7月半ばに戦力をつかいはたした。
1918年7月18日、フォッシュは反撃を命令した。連合軍はドイツ軍をマルヌ川から後退させ、8月8日にはドイツ軍の重要拠点アミアンを攻撃した。9月初めドイツ軍はソンム川背後の最終防衛陣地ヒンデンブルク線に撤退し、大攻勢は失敗に帰した。10月に入ると、イギリス軍はベルギー海岸沿いに進撃し、アメリカ・フランス軍は11月10日にスダンに達した。11月初めにヒンデンブルク線は完全に突破され、ドイツ軍は全西部戦線で退却を開始した。
ドイツ軍の敗北は、厭戦気分が高まり反戦平和をもとめていたドイツ国内で革命をよびおこした。1918年11月3日のキール軍港での水兵反乱を契機に革命の嵐はドイツ全土をおおい、11月9日に皇帝ウィルヘルム2世は退位してオランダに亡命、帝政は瞬時に崩壊した。この混乱の中で社会民主党の党首エーベルトを首班とする共和国政府が樹立された。戦争をおわらせ、国内秩序を回復するため、共和国政府は連合国との休戦をもとめ、休戦使節団を派遣した。11月11日、ドイツ使節団代表エルツベルガーはパリ北方のコンピエーニュの森で連合国との休戦協定に調印し、4年3カ月余りにわたった西部戦線での戦闘は終結した。
その他の戦線でも連合軍は攻勢に転じていた。バルカンでは1918年9月末に連合軍がブルガリア軍を壊滅させ、ブルガリアは休戦に応じていた。イタリアおよびオーストリア・ハンガリー戦線では、イタリア軍の攻勢がつづき、10月にはオーストリア・ハンガリー国内のチェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビアが独立を宣言した。11月3日、オーストリア・ハンガリーは単独で連合国と休戦し、11月11日には皇帝カール1世が退位して帝政が崩壊し、その翌日にオーストリア共和国が樹立された。
中東ではイギリス軍大佐ロレンス(アラビアのロレンス)のひきいるアラブ軍とイギリス軍が合流、1918年10月にはダマスカス、アレッポなどのオスマン帝国の要衝を奪取する間、フランス海軍部隊がベイルートを占領した。10月30日、オスマン帝国は休戦協定に調印し、同盟国陣営から脱落した。
| XV. | 大戦の総括 |
初の総力戦となった大戦は、戦勝国にも敗戦国にも膨大な損害をもたらした。全交戦国の戦費総額は1860億ドルにのぼり、地上戦での死傷者は3700万人余りに達した(付表、第1次世界大戦の死傷者数)。また、約1000万人の市民も死傷した。そのため、大戦後、恒久平和の実現に世界的な期待がよせられたが、この期待は実現されなかった。民族自決、無併合・無賠償、勝利なき平和などに集約される戦後処理の基本原則を提唱したアメリカ大統領ウィルソンの「14カ条の平和原則」の大半は、国際連盟の創設をのぞき、イギリス、フランスなどの戦勝国に無視された。
反対に、戦勝国はドイツに対する報復に燃えるフランスにうながされ、戦後処理のために開かれたパリ講和会議ではドイツを除外して審議をすすめ、ベルサイユ条約締結(1919年6月28日)をドイツに強要したのである。この条約は戦争責任をドイツとその同盟国のみに帰しただけでなく、ドイツの賠償支払い義務、全海外植民地の返還、一方的軍縮などの、ドイツにとってきわめて苛酷(かこく)な内容をふくんでいた。
また、戦勝国はオーストリアとサンジェルマン条約(1919年9月10日)、ブルガリアとヌイイー条約(1919年11月27日)、ハンガリーとトリアノン条約(1920年6月4日)、オスマン帝国とセーブル条約(1920年8月10日)を締結したが、それらの内容はすべて戦勝国に有利なものだった。この一連の講和条約にもとづく戦後ヨーロッパの国際秩序をベルサイユ体制とよぶ。その後、敗戦国には社会的混乱が続発し、多くの国では右翼政権が誕生した。
大戦後のヨーロッパの勢力図は激変した。ドイツ、オーストリア・ハンガリー、ロシアの3つの帝国は解体し、これら3帝国の旧領土から民族自決の原則にもとづいてフィンランド、エストニア、リトアニア、ラトビア、ポーランド、チェコスロバキア(現チェコ共和国、スロバキア共和国)、ハンガリー、ユーゴスラビア(現クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)の8カ国が新たに誕生し、今日の東欧の土台がきずかれた。敗戦国だけでなく、イギリス、フランスなどの戦勝国も長期持久戦の疲労から衰退し、アジア、アフリカでの反植民地主義運動を加速させることになった。
一方、新興国アメリカと史上初の社会主義国ソビエト連邦が台頭し、戦後の新たな国際関係の基軸がつくられることになった。その意味で、大戦はドイツの哲学者シュペングラーのとなえる「西洋の没落」をしめすものとなり、現代史の起点としての歴史的意義を有したのである。