| 第1次世界大戦 | 項目ビュー | ||||
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| III. | 大戦にいたる国際危機 |
1905~14年に、数回の国際危機と2度の局地戦争がおきたが、そのどれもがヨーロッパ戦争の危険を高めていった。最初の危機は北アフリカのモロッコでの権益をめぐりドイツとフランスがあらそった05年のタンジール事件(第1次モロッコ事件)である。翌年、事件解決のためスペインのアルヘシラスで国際会議が開かれ、フランスはイギリスに支援されてモロッコでの優先権をみとめられ、ドイツの野望は阻止された。
第2の危機は1908年にオーストリア・ハンガリーがスラブ民族の居住地でオスマン帝国の支配下にあったボスニア、ヘルツェゴビナ両州を併合したことから生じた。この併合は、大セルビア主義をかかげてボスニア南部の領有をめざすスラブ民族の新興国家セルビアの怒りをひきおこした。両国の戦争の危機は日露戦争後の国内混乱にくるしむパン・スラブ主義の盟主ロシアがセルビア支援をひかえたため、ひとまず回避された。
第3の危機は1911年のアガディール事件(第2次モロッコ事件)である。モロッコでの権益をめぐってドイツとフランスがふたたび対立したこの危機も、フランス優位のうちに解決された。この結果、ドイツは国際的に孤立し、状況打開のためにオーストリア・ハンガリーとの関係強化をいっそうもとめるようになった。
三国同盟の加盟国イタリアは、大国がモロッコ問題に忙殺されている間に北アフリカのトリポリを併合するため、1911年にオスマン帝国と開戦した。ドイツは東方進出(3B政策)のためにオスマン帝国との友好を必要としたので、イタリアの行動は三国同盟の利害に反するものとなった。イタリアはさらに南ティロルやトリエステの帰属をめぐってオーストリア・ハンガリーと利害対立をかかえており、大戦勃発(ぼっぱつ)後の15年5月23日にオーストリア・ハンガリーに宣戦布告して三国同盟を離脱、連合国陣営にくわわることになる。
1912~13年の2度にわたるバルカン戦争は、セルビアの勢力拡大と威信高揚をもたらし、バルカンでのオーストリア・ハンガリーとセルビアとの対立は激化した。この戦争でやぶれたオスマン帝国、ブルガリアはドイツへの依存を強めた。こうしてバルカンは「ヨーロッパの火薬庫」となった。