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トマス・ジェファソン
I. プロローグ

1743~1826 アメリカ独立革命の指導者で政治哲学者・独立宣言起草者・第3代アメリカ合衆国大統領。在任1801~09年。バージニアの貴族的上流階層の一員として教養をみがき、法律家・外交官として英仏の知識人とまじわった。独立革命では啓蒙主義哲学を実践した。

1743年、バージニアのアルブマール郡に生まれた。父はプランテーション経営者で、母はバージニアの名家、ランドルフ家の出身であった。植物学・地理学・地図作成法・北米探査に強くひかれたが、ウィリアム・アンド・メアリー大学に在学中、スコットランド啓蒙哲学に接して法学をまなんだのち弁護士となり、69年、バージニア植民地議会(1775年からバージニア革命協議会)議員に選出された。

II. アメリカ独立の理論家

1774年、ジェファソンは「イギリス領アメリカの諸権利についての意見の要約」を出版し、政治理論家の地位をかためた。この著作で、諸植民地への入植は英国政府の命令ではなく個人の意思によるもので、移住者は統治者に対する服従の条件をえらぶ自然権をもち、その権利の上に植民地政府が形成された、と主張した。76年7月4日、大陸会議での独立宣言は、この歴史観を論理的におしすすめ、イギリス政府の専制ゆえに植民者は母国との「政治的な結びつき」を断つ権利をもつ、と宣言した。

III. 立法議員活動

バージニア革命協議会の立法議員として、ジェファソンは啓蒙主義と共和主義の理念にそって社会を改革しようとした。英国国教会への公的支援をとりやめ、長子相続制・限嗣相続制を廃止する立法で、個人の財産使用を保障した。彼が指導したバージニア刑法典の改革は、じゅうぶんでないにしても、公衆の面前での鞭(むち)打ちや水攻め、私権剥奪(はくだつ)法(裁判なしで被告人に剥奪宣告をする)など、いちじるしく過酷な制度を撤廃した。立法議会は彼が提出した公立学校制度や図書館設立法案を否決したが、バージニア大学の設立(1825年開校)にこぎつけた。これは彼が墓碑銘にきざませた3つの業績のひとつで、あとは独立宣言の起草と、アメリカではじめて政教分離をさだめたバージニア信教自由法の起草である。

1779年から81年までバージニア知事をつとめたのち、ジェファソンは自宅のあるモンティセロにこもり「バージニア覚書」を執筆、18世紀の社会・政治・経済生活を描写した。妻の死後、ふたたび大陸会議代表になって84年にフランスにおもむき、85年から89年まで公使をつとめた。その間に学術に没頭し、フランス革命初期の推移に共感した。

IV. ワシントン政権とアダムズ政権

1790年からワシントン大統領のもとで初代国務長官をつとめたが、経済政策でハミルトン財務長官と対立、93年にやめた。96年、野党民主共和党(リパブリカン党)の大統領候補となり2位におわったが、翌年、当時の制度にしたがいフェデラリスト党のジョン・アダムズ大統領のもと副大統領に就任した。与党フェデラリスト党政権は反仏感情に乗じて常備軍を組織し、外人法を制定して野党よりとみなされる外国人の自由を制限。さらに治安法も制定し、政府批判をおさえようとした。ジェファソンとジェームズ・マディソンは、ケンタッキー、バージニア両州議会に起草した決議で、自由侵害にあたるとして、これらの法律の違憲性を非難した(ケンタッキー・バージニア決議)。

V. 大統領ジェファソン

1800年の大統領選挙で正副大統領候補の2名が同数票を獲得し、下院での決選投票をへてジェファソンが選出された(以後、憲法改正で正副大統領に別個の投票を規定)。彼はフェデラリスト派を排除せず官職にとどめ、新たな任命をし、フェデラリスト派が多い司法部の独立をそこなうことにもいっさい反対した。

彼の在任中の功績は、1803年のミズーリ川とミシシッピ川水系に属する広大な西部の土地、ルイジアナをフランスから購入し(ルイジアナ購入)、そこを探査するルイス=クラーク探検隊を派遣したことである。また、ナポレオン戦争中にアメリカの中立を侵害しつづけるイギリスやフランスに対し、通商を停止して圧力をかけるため出港禁止法(1807~09)を制定した。譲歩はえられず、経済が混乱し反発をまねいたが、国際紛争を平和的に解決する手段として評価されている。

VI. 引退

1809年に大統領を辞したジェファソンはモンティセロにひきこもり、26年7月4日、死去した。彼は財政上の理由から奴隷を解放せず、黒人も白人と平等であるとの意見をうけいれなかった。人間の尊厳を信奉するいっぽうで、人種間の優劣を信じていた逆説は、みずからつくりあげた国のジレンマを象徴している。