| 検索ビュー | オペラ | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
独唱・重唱・合唱などの歌唱と、楽器演奏で構成される音楽劇。歌劇。歌手でもある登場人物がせりふを歌詞としてうたうことで物語が展開する。オペラに近い音楽劇としてはミュージカルやオペレッタなどがある。
| II. | はじまり |
オペラは16世紀後半~17世紀初頭のイタリアにはじまる。それ以前には、せりふはあるが演技をともなわないマドリガルという世俗歌謡があり、ほかにも仮面劇、宮廷舞踊、インテルメッツォ(幕間劇)や、ルネサンスの宮廷でのさまざまな見世物があった。
オペラはカメラータと名のった音楽家と学者のグループによって発展した。彼らの目的は、後期ルネサンスに主流だった対位法的音楽の代わりに、古代ギリシャ劇の音楽スタイルを復活させることにあった。とくに、音楽の基盤として言葉を重視し、作曲家には音楽の一節一節を言葉の意味と対応させるようのぞんだ。
カメラータは、ギリシャ語で「独唱歌」を意味するモノディという声楽音楽を発展させた。モノディは、歌詞を話すときの抑揚とリズムを忠実に反映したシンプルなメロディからなり、ハープシコードなどの通奏低音を伴奏にしながら、低音楽器でメロディを演奏した。カメラータに所属したジューリオ・カッチーニとヤーコポ・ペーリのふたりは、舞台作品の独白や対話場面でモノディをつかうことを思いつき、1597年ペーリが初のオペラ「ダフネ」を作曲。1600年にはイタリアのフィレンツェで、ふたりが音楽を担当して、オペラ「エウリディーチェ」が上演された。
才能あるオペラの作曲家としてまず活躍したのは、モンテベルディであった。彼のオペラは、言葉を大事にするモノディのスタイルを生かしながら、独唱、二重唱、合唱、楽器演奏をじゅうぶんに活用したものであった。モノディをつかわない作品では、純粋に音楽的な統一をはかり、幅ひろい音楽的なスタイルによってオペラの劇的効果が高められることを明らかにした。
オペラはイタリアですぐにひろまり、17世紀半ばから末期まではベネツィアが中心地となったが、その後はローマでも盛んになった。ローマでは、感情を表現するためにうたわれるアリアと、場面描写や対話につかわれるレチタティーボの区別が生まれ、モノディはジャンルとしてはきえたが、機能はそのままのこされた。ローマを代表する作曲家には、ステファノ・ランディとルイジ・ロッシがいる。ベネツィアでは、嵐の場面や神が天から降臨する場面など、ぜいたくで視覚にうったえる効果を観客がこのんだ。同地の代表的な作曲家には、モンテベルディ、フランチェスコ・カバッリなどがいる。
| III. | ナポリのスタイル |
17世紀後半には、ナポリのアレッサンドロ・スカルラッティが新しいスタイルのオペラを考案した。ナポリの観客は独唱をこのみ、作曲家たちは歌唱の種類をさらに多くした。レチタティーボは通奏低音の伴奏によるレチタティーボ・セッコと、オーケストラの伴奏で緊張した場面にもちいられるレチタティーボ・アッコンパニャートの2つにわけられ、会話のリズムをもつレチタティーボの歌唱スタイルとともに、アリオーソとよばれるアリア的なメロディが導入された。
18世紀のはじめまでに、豊かなメロディをもつわかりやすいナポリ・スタイルのオペラがヨーロッパじゅうにひろまったが、フランスだけは例外だった。フランスでは、イタリア生まれの作曲家リュリがフランス・オペラの創始者になり、国王ルイ14世をパトロンとしていた。フランス宮廷の華麗さと豪華さは、大規模で動きの少ない合唱と挿入される楽器演奏の中に巧みに表現されている。台本にあたるリブレットはフランス古典悲劇にもとづくもので、旋律はフランス語の特徴ある抑揚とリズムを反映するものだった。リュリはまた、オペラではじめて標準的につかわれるようになるフランス風序曲の考案者としても知られる。
| IV. | オペラの人気 |
生まれたばかりのドイツ・オペラは、17世紀後半から18世紀初頭まではイタリア・オペラに圧倒されていた。1678年にオペラ劇場が開設されたハンブルクが中心地となり、ラインハルト・カイザーが100以上のオペラを残したが、彼の死後、ドイツのオペラ劇場はイタリア人の作曲家と歌手に支配されていった。
イタリア・オペラはイギリスでも人気があったが、1700年前後に書かれたイギリス人作曲家ジョン・ブローの「ビーナスとアドーニス」と、パーセルの「ダイドーとイニーアス」もしばしば上演された。この2つのオペラはイギリス宮廷で上演されていた仮面劇が発展したもので、フランスとイタリアのオペラの要素、すなわち、リュリの器楽合奏の手法と、感情表現のためのアリアやレチタティーボがとりいれられていた。ドイツ生まれの作曲家ヘンデルはイギリスで成功し、20年代~30年代には、40のオペラをイタリアのスタイルで作曲した。そののち彼はオペラを書かなくなり、オラトリオの作曲家に転じる。
18世紀になると、オペラはカメラータの時代とはまったくことなるものになり、さまざまな人工的な要素がとりいれられるようになった。たとえば、イタリアでは少年を去勢して声を高音域にたもつよう工夫し、成人後の肺活量を生かした、よくとおるするどい声が高い人気をよんだ。こうした歌手はカストラートとよばれ、演技のよしあしではなく、うつくしい声と名人芸的技術で評価された。その結果オペラは、華麗なアリアが次から次にうたわれるようになった。アリアはA—B—Aからなるダ・カーポ形式で、歌い手はAの部分をくりかえしたあと、即興でうたうことになっていた。
| V. | 前古典主義と古典主義の時代 |
18世紀の半ばに、当時のオペラのありかたに疑問をいだき、アリアにダ・カーポ以外の形式をもちいて、合唱と器楽演奏に重要な役割をもたせようとした作曲家が登場した。なかでも注目されるのはドイツ生まれのクリストフ・グルックである。
イギリスのバラッド・オペラ、フランスのオペラ・コミック、ドイツのジングシュピール、イタリアのオペラ・ブッファなど、ヨーロッパ諸国で発展した喜劇的なオペラも、新しいオペラの登場をうながした。これらはすべて伝統的なオペラ・セーリア(シリアスな題材をもとにしたオペラ)より軽い感覚のもので、会話は歌われずに話され、物語は神話の登場人物ではなく、ふつうの人々で構成されることが多かった。こうした特徴はイタリアのオペラ・ブッファの第一人者、ペルゴレーシの作品によくあらわれている。喜劇的なオペラは自然さと演技力を特徴としていたが、オペラ・セーリアの作曲家も、その長所を作品を写実的にする技法としてとりいれていった。
イタリアのオペラ・ブッファを芸術にまで高めたのは、12歳ではじめてオペラを書いたモーツァルトであった。イタリア語で書かれた3つの作品「フィガロの結婚」(1786)、「ドン・ジョバンニ」(1787)、「コシ・ファン・トゥッテ」(1790)には、彼の音楽的才能がみちあふれている。なかでも「ドン・ジョバンニ」はロマンティックな人物をはじめて登場させたことで有名である。モーツァルトのドイツ語で書かれたオペラにも、喜劇的な「後宮からの誘拐」(1782)から、象徴的な意味をもつ「魔笛」(1791)までさまざまなスタイルがある。
| VI. | ロマン派の時代 |
19世紀には、フランス、ドイツ、イタリアで同時代のロマン主義運動を反映するオペラが生まれた。
| 1. | フランス |
パリではフランスに移住した外国人を中心として、華麗な舞台装置、芝居、バレエ、音楽がみごとに融合したグランド・オペラが書かれた。初期の傑作に、イタリア人作曲家であったガスパーレ・スポンティーニの「ベスタの巫女」(1807)とルイジ・ケルビーニの「ロドイスカ」(1791)、フランス人作曲家ダニエル・フランソワ・エスプリ・オーベールの「ポルティチの唖娘」(1828)などがある。
グランド・オペラ全盛期の作品には、ベルリン生まれの作曲家ジャコモ・マイヤーベーアによる「悪魔のロベール」(1831)や、「ユグノー教徒」(1836)などの規模の大きな作品が生まれた。フランス人作曲家の作品には、ダイドーとイニーアスの物語に取材したベルリオーズの「トロイアの人々」(1856~59)があるが、フランスではほとんど評価されず、作曲家の生前に上演されることはなかった。ゲーテの作品を原作とするシャルル・グノーの「ファウスト」(1859)は、19世紀半ばのフランス・オペラでもっとも高い人気をえた作品のひとつであった。
| 2. | ドイツ |
19世紀ドイツ・オペラの筆頭としてあげられる作品はベートーベンの「フィデリオ」(1805年初演。06年、14年改訂)である。これは、4種類のことなる序曲をふくむ劇的なジングシュピールで、フランス革命期にひろまった「不当にとらえられた捕虜の救出」を主題としている。ウェーバーはドイツでのロマン主義オペラの創始者で、超自然現象をあつかった「魔弾の射手」(1821)のほか、「オイリアンテ」(1823)、「オベロン」(1826)などを作曲した。
ドイツ・オペラはワーグナーの登場で絶頂期をむかえた。彼は自分の手になる台本と、音楽、舞台が一体となった楽劇という新しいジャンルをつくったことで知られている。初期の「さまよえるオランダ人」(1843)、「タンホイザー」(1845)、「ローエングリン」(1850)は、アリアや合唱などの伝統的な要素をもっていたが、「トリスタンとイゾルデ」(1865)と中世の英雄叙事詩に取材した「ニーベルングの指環」(1869~76)では、音楽がとぎれることなくながれ、舞台の人物以上にオーケストラが主人公であるような新しいオペラをつくりあげた。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(1868)では中世のギルドがあつかわれ、「パルジファル」(1882)では宗教的神秘がえがかれている。
ワーグナーのほとんどすべての作品では、ライトモティーフ(示導動機)とよばれる旋律がくりかえしあらわれて特定の人物や感情を表現し、劇中の行動が心理的な側面から理解できるようにはたらきかける。ワーグナーが自作品を上演するために1876年に開設したドイツのバイロイト祝祭劇場は、現在でもワーグナーのファンにとって神聖な場所になっている。ワーグナーのオペラについての革新的な考えは、以後、世界中の音楽家たちに影響をあたえた。
| 3. | イタリア |
イタリア・オペラは歌手の声こそ重要な要素であるという考えをすてなかった。ロッシーニは「セビーリャの理髪師」(1816)、「チェネレントラ」(1817)などの喜劇的なオペラを作曲し、それらは現在、序曲しか上演されない「ウィリアム・テル」(1829)などのまじめな作品よりも、長い生命をたもっている。
また、なめらかで表情豊かな、ベル・カント唱法(うつくしい歌い方)は、しばしば驚異的なテクニックを要求しながら、ビンチェンツォ・ベリーニの「ノルマ」「夢遊病の女」(ともに1831)、「清教徒」(1835)などにみごとに生かされている。ベル・カント唱法が重要な役割をもつ作品には、ほかに有名な「狂乱の場」をふくむガエターノ・ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」(1835)や、喜劇「愛の妙薬」(1832)、「ドン・パスクアーレ」(1843)などがある。
イタリア・オペラを代表するベルディは、かつてない劇的な生命力と豊かな音楽性をオペラにあたえた。その創作の歴史は、荒々しい力がみなぎる初期の「ナブッコ」(1842)や「エルナニ」(1844)から、洗練された人物造型をほこる「リゴレット」(1851)、「イル・トロバトーレ」「ラ・トラビアータ(椿姫)」(ともに1853)、「仮面舞踏会」(1859)、「運命の力」(1862)、さらに、グランド・オペラの視覚的な華麗さと悲劇的なラブ・ストーリーをみごとに融合した「アイーダ」(1871)へとつづいた。
最後の2つのオペラ「オテロ」(1887)と「ファルスタッフ」(1893)は、シェークスピアの作品を原作として生まれ、それまでにくらべて演劇的・音楽的にとぎれることなく作品が展開している。批評家からはワーグナーのまねをしていると批判されたが、人間の声がもっとも重要な表現手段であり、情熱がオペラの本質的な主題であると考える点で、ベルディはあくまでもイタリアの作曲家といえる。
| 4. | ロシア |
ロシア・オペラは国民楽派とともに成長し、ミハイル・グリンカの「皇帝に捧げた命」(1836)、アレクサンドル・ボロディンの「イーゴリ公」(没後の1890年初演)、リムスキー・コルサコフの「金鶏」(1909)などを生んだ。なかでも、傑作とされるのはムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」(1874)である。チャイコフスキーも「エフゲーニー・オネーギン」(1879)、「スペードの女王」(1890)などの作品をのこしている。
| VII. | 19世紀後半~20世紀初頭まで |
| 1. | フランス |
フランスの作曲家ビゼーによる「カルメン」(1875)は、ドイツの哲学者ニーチェによれば、「ワーグナー的観念主義の霧」を地中海の光で晴らした作品とされる。19世紀にオペラ・コミックは、悲劇的・喜劇的を問わず、対話部分がうたわれずに話されるフランスのオペラをさすようになっていたが、その代表作として、この作品はカルメンという魅力的な人物を生みだし、オペラのジャンルに新しい写実的な感覚をあたえた。しかし、ビゼーは36歳の若さでなくなり、作曲家としての経歴をまっとうすることはなかった。
19世紀後半に活躍した作曲家ジュール・マスネーは、「マノン」(1884)(→ マノン・レスコー)、「ウェルテル」(1892)(→ 若きウェルテルの悩み)、「タイース」(1894)などの、センチメンタルだが舞台ばえのする作品をのこした。この時代を代表するほかの作品には、アンブロアズ・トーマの「ミニョン」(1866)、レオ・ドリーブの「ラクメ」(1883)、サン・サーンスの「サムソンとデリラ」(1877)、オペラ・ブッファの名手であったオッフェンバックの「ホフマン物語」(没後の1881年初演)などがある。
20世紀への移行期には、パリの労働者階級を写実的にあつかったギュスターブ・シャルパンティエの「ルイーズ」(1900)が登場し、また印象派のテクニックを音楽に応用し、フランス語の音の陰影をそのまま歌にうつしとったドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」(1902)が生まれた。
| 2. | イタリア |
イタリア・オペラにおける写実主義は、イタリア語で「真実」を意味するベリズモの名でよばれ、代表作にピエトロ・マスカーニの「カバレリア・ルスティカーナ」(1890)と、ルッジェロ・レオンカバロの「道化師」(1892)がある。前者は、陽光まぶしい南イタリアの村を舞台とする情熱と殺人のメロドラマである。
ベルディの後継者プッチーニは、豊かなメロディをほこり、感情がほとばしるような「マノン・レスコー」(1893)や、「ラ・ボエーム」(1896)、「トスカ」(1900)、「蝶々夫人」(1904)、未完の「トゥーランドット」(没後の1926年初演)などをのこした。ベルディ以降に成功したイタリア・オペラには、アミルカーレ・ポンキエリの「ラ・ジョコンダ」(1876)、ウンベルト・ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」(1896)、アルフレード・カタラーニの「ラ・ワリー」(1892)などがある。
| 3. | ドイツ |
ドイツでは、童話をオペラ化したエンゲルベルト・フンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」(1893)をはじめ、あらゆるオペラにワーグナーの影響が色こくのこった。代表的な作曲家リヒャルト・シュトラウスは、ワーグナー的な大編成のオーケストラと声楽のテクニックをもちいた「サロメ」(1905)、「エレクトラ」(1909)などのセンセーショナルな短い作品を書き、なかでも喜劇「ばらの騎士」(1911)が成功をおさめた。ほかにも「ナクソス島のアリアドネ」(1912)、「影のない女」(1919)、「アラベラ」(1933)などがある。
| 4. | その他のヨーロッパ諸国 |
中央ヨーロッパ出身の作曲家が生んだ民族色豊かな作品には、チェコのスメタナによる「売られた花嫁」(1866)、ドボルザークの「ルサルカ」(1901)、ヤナーチェクの「イェヌーファ」(1904)、「マクロプロス家の秘伝」(1926)、ハンガリーのコダーイによる「ハーリ・ヤーノシュ」(1926)、バルトークの「青ひげ公の城」(1918)などがある。
無調音楽と12音技法で知られるシェーンベルクには未完の「モーゼとアロン」(没後の1957年初演)があり、その弟子ベルクには「ウォツェック」(1925)と未完の「ルル」(没後の1937年初演、補筆による全曲の初演は79年)がある。そこではシュプレヒシュティンメ(語る声)、あるいはシュプレヒザング(語る歌)とよばれる歌と語りの中間の発声がもちいられている。一兵士の悪夢のような堕落をえがく「ウォツェック」は、ゲオルグ・ビュヒナーの同名の戯曲(1836)を原作としたもので、初演後まもなく近代を代表するオペラとされるようになった。
| VIII. | 近・現代のオペラ |
20世紀がすすむにつれ、オペラは民族主義的な色彩をのこすものと、より国際的な無調と12音技法をつかうものにわかれた。ロシアのプロコフィエフはアメリカの西部を旅行中に諧謔(かいぎゃく)的な「3つのオレンジへの恋」を作曲して、1921年シカゴで初演し、死の直前には、長大な「戦争と平和」(1946、55年改訂)を完成させた。ショスタコービチは「ムツェンスクのマクベス夫人」(1934)でソビエト政府から批判され、のちに改訂版が「カテリーナ・イズマイロワ」(1963)という題名で上演された。
近・現代の作曲家の多くは、管弦楽の技法だけでなく、民俗音楽や大衆音楽、ジャズなどの技法をオペラに応用している。その代表としてフランスでは「スペインの時間」(1911)や「子供の時間」(1925)のラベル、「ティレジアスの乳房」(1947)や「カルメン会修道女の対話」(1957)のフランシス・プーランクなどがあげられる。スペインでは「はかない人生」(1938)のファリャ、ドイツでは「画家マティス」(1938)のヒンデミット、劇作家ブレヒトが台本を担当した「三文オペラ」(1928)と「マハゴニー市の興亡」(1929)のワイルがあげられる。ロシアには、新古典主義の技法によって「道楽者のなりゆき」(1951)を作曲したストラビンスキーがいる。
イタリア・オペラでは、イータロ・モンテメッジやフェラーリなど、かなり保守的なメロディ中心の作曲家が活躍する一方で、「大聖堂での殺人」(1958)のイルデブランド・ピッツェッティ、「囚われ人」(1950)のルイジ・ダラピッコラ、「非寛容イントレランツァ」(1960)のルイジ・ノーノなどが過激な実験もおこなった。
第2次世界大戦後の主要なオペラ作曲家には、ドイツのボーリス・ブラッハー、ベルナー・エック、ハンス・ベルナー・ヘンツェ、オルフ、オーストリアのゴットフリート・フォン・アイネム、アルゼンチンのアナベルト・ヒナステーラがいる。イギリスではディリアスとボーン・ウィリアムズがすぐれた作品をのこしたほか、代表的な傑作として、ベンジャミン・ブリテンが作曲した漁師の物語「ピーター・グライムズ」(1945)があげられる。ブリテンはほかに、「アルバート・ヘリング」(1947)、「ねじの回転」(1954)、「真夏の夜の夢」(1960)、「ベニスに死す」(1973)などをのこした。
アメリカで最初のグランド・オペラはウィリアム・ヘンリー・フライの「レオノーラ」(1845)である。それにつづく、ウォルター・ダムロッシュの「緋文字」(1896)などの作品には、ヨーロッパのスタイルで書かれたものが多くみられる。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演された作品には、フレデリック・コンバースの「希望の笛」(1910)、ヘンリー・ハドリーの「クレオパトラの夜」(1920)、ディームズ・テイラーの「ピーター・イベトソン」(1931)などがある。
純粋にアメリカ的なオペラは20世紀になって登場する。アメリカ黒人音楽の影響は、ラグタイムの作曲家スコット・ジョプリンの「トゥリーモニシャ」(没後の1974年に初演)や、ガーシュウィンの「ポーギーとベス」(1935)などの作品にみられ、バージル・トムソンの「4人の聖者の3つの行為」(1934)と「われらすべての母」(1947)、マーク・ブリッツスタインの「レジーナ」(1949)には、アメリカの民俗音楽や大衆音楽がつかわれた。
アメリカ的なテーマをあつかったオペラにはダグラス・ムーアの「ベビー・ドー物語」(1956)、カーリスル・フロイドの「スザンナ」(1955)、ジャック・ビーソンの「リジー・ボーデン」(1965)などがある。もっともよく知られている現代アメリカのオペラにはイタリア生まれの作曲家ジャン・カルロ・メノッティの「霊媒」(1946)、「電話」(1947)、「領事」(1950)、「アマールと夜の訪問者」(1951)などの作品がある。近年のアメリカのオペラ界には、ミニマリストの作曲家フィリップ・グラスや、「中国のニクソン」(1987)で知られるジョン・アダムスなどがいる。
| IX. | オペラの上演 |
オペラの主役はいつも声であり、上演が成功するかどうかは伝統的にプリマドンナの出来に左右されてきた。しかし20世紀にはいると、指揮者、舞台装置家、演出家の全体的なアンサンブルが、歌手同様に重視されるようになった。イタリアのプロデューサーで演出家のフランコ・ゼッフィレリは、1960年代初期に新ロマン主義的なオペラを上演して名声を博した。ほかにも、イギリスのジョナサン・ミラー、アメリカのフランク・コルサーロ、サラ・コールドウェル、ピーター・セラーズなどの演出家が知られている。
上演の技術的進歩と歩調をあわせるように、現代の作曲家はシンセサイザーなどの電子楽器をつかってオペラを作曲するようになった。厳密にはオペラではないが、バーンスタインの「ミサ曲」(1971)は、ダンス、電子楽器による音楽、斬新な舞台技術をオペラの要素とくみあわせてつくった作品である。フレデリック・ディリアスの「村のロミオとジュリエット」(1907)と、エーリヒ・ウォルフガング・コルンゴルトの「死の街」(1920)では、スライド・プロジェクターによる映像が効果的につかわれた。ともにフランク・コルサーロ演出、ニューヨーク・シティ・オペラによる舞台である。
ミネアポリス・センター・オペラは、これまでに録音されたファウストもののさまざまなオペラとオリジナルの音楽をまぜあわせて「ファウスト対ファウスト」を生みだしたが、そこでもすばらしい照明と映像の技術がもちいられた。またロイド・ウェバーとティム・ライスによる「ジーザス・クライスト・スーパースター」(1971)のようなロック・オペラでも、マルチメディアを利用した舞台技術が活躍している。実験的な劇場であるなしにかかわらず、オペラは17世紀同様、舞台美術と上演技術の発展に寄与しているといえる。
LPレコードの開発によって全曲録音が可能になると、オペラは新しい観客をひきつけた。メトロポリタン歌劇場のラジオによる中継放送も、1931年の「ヘンゼルとグレーテル」の放送以来、週に1度のペースでつづけられている。はじめからテレビ放映用に書かれたオペラとしては、メノッティの「アマールと夜の訪問者」(1951)や、ブリテンの「オーウェン・ウィングレーブ」(1971)などがある。ベルイマン監督によるモーツァルトの「魔笛」の映画版は、映画によるオペラとして高い評価をえた。
現在、オペラは芸術的にも技術的にも絶頂期にあるが、財政的な問題をかかえているオペラ劇場もある。ヨーロッパの劇場ではほとんどが国家助成をうけているが、アメリカでは個人や企業からの寄付金が活動の基盤となっている。
| X. | 日本のオペラ |
日本ではじめてオペラが上演されたのは1894年(明治27)のことで、グノーの「ファウスト」を、オーストリア代理公使クーデンホフらが、東京音楽学校の奏楽堂で演じたものであった。日本人だけのオペラは、グルックの「オルフォイス」を、1903年に音楽学校の学生であった三浦環らが上演したことにはじまる。その後は、小松耕輔らが日本人の手になるオペラをつくろうと苦闘し、一方では、外国人の指導によるオペラが帝国劇場で上演されたが、いまだ一般に定着するには至らなかった。
大正時代にはいると、より大衆的な通俗オペラが、帝劇オペラや浅草オペラとよばれて人気を博したが、これらはオペラの本来的な姿からはほど遠いものであった。昭和になると山田耕筰らが日本楽劇協会を設立し、1929年(昭和4)本格的なオペラ「堕ちたる天女」を歌舞伎座で上演。34年には欧米で活躍していた藤原義江が藤原歌劇団を結成し、ようやく日本人による本格的なオペラが上演されるようになった。
第2次世界大戦後には、長門美保歌劇団、関西歌劇団、二期会なども発足して活動を開始し、とくに二期会と藤原歌劇団は着実に歩みをすすめながら、日本のオペラ界をリードする存在となっていく。その間、団伊玖磨の「夕鶴」、清水脩(おさむ)の「修善寺物語」、三木稔の「仇(あだ)」など、海外でも評価される優秀な創作オペラが生まれ、歌手では岡村喬生、東敦子、林康子、指揮者では若杉弘や小沢征爾らが、世界の歌劇場で活躍するようになった。とはいえ、国内の状況をふりかえってみれば、現在でも常設劇場をはじめ、じゅうぶんな条件が満たされているとは言えず、文化として成熟していくテンポは、いまだに遅々としていると言わざるをえない。