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アメリカ先住民
I. プロローグ

南北アメリカに昔からいた住民で、北アメリカではインディアン、ラテンアメリカではインディオとよばれてきた。北アメリカのイヌイットおよびアラスカ・エスキモー、アレウト(アリュート)もやはり先住民である。アメリカ合衆国ではハワイに先住していたポリネシア人もアメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)にふくめる。近年ラテンアメリカでは、インディオという言葉に侮蔑的(ぶべつてき)・差別的な響きがあることから、インディヘナ(スペイン語で「先住の」という意味)などとよぶことが多くなっている。

II. 人口と形質

15世紀末~16世紀、すなわちコロンブスがカリブ海に到着したころ、南北アメリカの陸地には9000万、あるいはそれ以上の人間がすんでいたと推定されている。そのうちおよそ1000万人は今日のアメリカ合衆国とカナダにすみ、3000万人がメキシコ、1100万人が中央アメリカ、44万5000人がカリブ海の島々、3000万人が南アメリカのアンデス地域、900万人が南アメリカのその他の地域にすんでいた。人によっては、これよりも少ない推定をすることもある。アメリカのどこでも同じだったが、ヨーロッパ人がやってくると、彼らとの戦争、飢餓、強制労働、新しい伝染病などのために、先住民の人口は激減した。

アメリカ先住民の体つきはモンゴロイド系の人々によく似ており、アジアの新人(ホモ・サピエンス)が氷河期のベーリング海峡をこえて北アメリカに移住し、アメリカ先住民となったことをしめしている。明るい褐色の皮膚、茶色の目、黒くまっすぐな毛髪などは、モンゴロイドの特徴である。その後、環境への適応などの過程で、先住民の体つきは細かい点では地域によってことなるようになった。たとえば北アメリカの大平原地域の先住民は、背が高くがっしりとした体をしており、南アメリカのアンデス地方の住民は高地に適応して、背は低いがぶあつい胸をしている。グアテマラの先住民が小柄なのは、タンパク質の少ない食事が原因であろう。

III. 最初の移住

シベリア北東部から最初の移住者たちがベーリング海峡をこえてアラスカにきたのは、現在のところ、1万5000~1万4000年前とする説がもっとも確実とされている。しかし、3万年以上前とする説や2万5000年前ごろとする説などもある。先住民らは第4氷河期の海退(海進と海退)によってできたベーリンジア(ベーリング陸橋)をわたってきたが、そのとき旧石器時代末期の骨角器や打製石器の製作技術をもっていた。おそらくは100人程度のバンドという集団をつくり、魚をとったりトナカイやマンモスの狩猟をしてくらしていた。ずっとのちのイヌイットやエスキモーのように、皮や毛皮でアノラックのような防寒服をつくることも知っていただろう。また、短い夏にはいくつものバンドがあつまって宗教的な儀式をおこない、物を交換したり、ゲームをして遊んだりもしたことだろう。獲物についての新しい情報が交換され、その情報を頼りにアラスカの奥へ、そしてついにはアメリカ大陸のもっと南へと進出してゆく狩猟民がいた。

南北アメリカ大陸でよく知られている最古の人類文化は、北アメリカの1万5000~1万4000年前ごろから8000年前ごろのパレオ・インディアン文化である。なかでもクロービス文化はもっとも古い文化のひとつで、現在のアメリカ南西部を中心にクロービス型尖頭器(せんとうき:ポイント)とよばれる石器をつかう人々が大型動物の狩猟をおこなっていた。それは約1万1500年前以降のことで、それから少しおくれて1万1000年前ころには同じような狩猟文化であるフォルサム文化があらわれた。

ベーリング海峡をこえた人々の子孫は急速に南方に広がり、数をふやし、南北アメリカの多様な自然環境と温暖化する後氷期の気候に適応し、さまざまな文化をつくりあげた。南アメリカでは、チリ南部のモンテ・ベルデ遺跡でマストドンの骨などとともに約1万2500年前にさかのぼるといわれる石器類がみつかり、すでにこの時点で南アメリカ南端近くまで彼らが到達していたと考えられる。

IV. おもな文化領域

広大な南北アメリカ大陸の各地に成立した文化の特徴を説明するために、人類学では「文化領域」という概念をもちいる。文化領域とはまず第一に特定の地理的範囲をもつ。そこには特有の気候、地形、動物相、植物相があり、人間はこの環境に適応した生活様式をつくりあげる必要がある。食料の入手や調理、保存の技術が開発され、それと関連した社会組織も発達する。

1. 北アメリカの文化領域

今日のアメリカ合衆国とカナダは、南西部、東部ウッドランド、南東部、大平原、カリフォルニアと大盆地、プラトー、亜極北、北西海岸、極北の9つの文化領域にわけることができる。

1.A. 南西部

この文化領域は、アリゾナ、ニューメキシコ、南部コロラド、メキシコ北部のソノラ州とチワワ州にまたがる地域である。北部には高原や谷間、豊かな松の森があり、南部はサボテンの多い砂漠、西部はコロラド川下流の乾燥地域になっている。

この地域の最初の住民はクロービス文化の狩猟民で、氷河期がおわりマンモスなどの大動物が絶滅すると、バイソンの狩猟や野生の植物採集をおこなうようになった。前8000~前300年ごろはアーケイック期とよばれ、シカなどの小動物や鳥の狩猟、野生植物の果実の採集で食料をえ、種子や堅果をすりつぶすために平石の石臼(いしうす)をもちいた。前300年ごろになると、トウモロコシなどの栽培をはじめた。もっと南のメキシコではすでにホホカム人が灌漑(かんがい)耕地でトウモロコシ、カボチャ、インゲンマメの栽培をおこなっており、彼らの移住とともにその影響が北アメリカ南西部に波及したのである。ホホカム人は、広場を中心にアドベ(日干し煉瓦)建築の集落をつくった。

一方、北部地域ではアナサジ文化が発展した。人々は農耕をおこない、のちに3~4階建てのテラス式住宅をつくった。13世紀になると北部地域は放棄されるが、アナサジ文化はリオグランデ流域に広がり、川の水を利用した灌漑農耕も発展した。1540年にアナサジ人とであったスペイン人は、彼らをプエブロという名前でよぶようになった。その後、プエブロ諸民族はスペインの植民地支配、メキシコの支配をへて、最後にアメリカ合衆国の行政下に入る。彼らは集落や建築、土器、宗教、儀礼などに、伝統的な文化をかなり保持している。ホピ:ズニ

15世紀に入ると、南西部にアサバスカン系の言葉をはなす狩猟民が姿をあらわした。大平原の西方からやってきた諸民族である。彼らはプエブロの村をおそって食料をうばい、またスペインの植民地ができてからは、人間をとらえ、奴隷としてスペイン人に売った。やがて彼らはプエブロから農業のやり方をおぼえ、スペイン人からヒツジやウマの飼育をならい、生活様式をかえて、今日のナバホやアパッチの諸民族となった。

西部地区にはユマ語系の人々が居住し、川の氾濫原を利用してトウモロコシ、カボチャ、インゲンマメの栽培をおこなっている。

1.B. 東部ウッドランド

アメリカ合衆国とカナダの東部に広がる温帯地域である。大西洋の沿岸部から、西はミネソタ州とオンタリオ州、南はノースカロライナ州までの地域で、もともとは広大な森林におおわれていた。最初はクロービス型尖頭器をもつ狩猟民がすんだが、前7000年ごろから気候が温暖になると、アーケイック期の文化が発展。シカの狩猟、どんぐりやヒッコリーなどの堅果と草の実の採集を積極的にすすめた。やがてカボチャ、ヒマワリ、アマランス、アカザなどが栽培されるようになり、ヒマワリ以外の種は粉にして食べた。漁労や貝の採取も盛んで、メーン州の沖合ではメカジキ漁などもみられた。五大湖の西側の地方では、銅を採取して槍(やり)、ナイフ、装身具などに加工した。うつくしい石の彫刻品は、東部森林地帯全域に広まっていた。

前1000年をすぎると、気候の寒冷化で大西洋沿岸部の人口は減少するが、内陸部では交易網が発達し、大きな土盛りのマウンド(塚)が建設され、リーダー的人物の埋葬や宗教的活動にもちいられた。こうしたマウンドを建設した文化はホープウェル文化とよばれ、後400年ごろまで繁栄した。

750年ごろ、中西部地方には新たにミシシッピ文化が発展する。人々は集約的なトウモロコシ農業をいとなみ、土盛りの大きな基壇やマウンドをきずいた。基壇には神殿や支配者の家がたち、集落は大きな町のようになった。今日のセントルイス市からミシシッピ川を東にわたったカホキアには、この時代の遺跡があり、カホキア・マウンズ州立公園として整備、保存されている。11~13世紀のカホキアにはおよそ5万人の住民がいたと推定されている。ヨーロッパ人の入植は17世紀から本格化したが、その少し前に伝染病が流行、先住民の人口は大幅に減少し、大きな町はすでに放棄されていた。東部ウッドランドの先住民としては、モヒガンやイロコイ諸族のオノンダガ、モホーク、オネイダ、アルゴンキン系のオジブワなどがよく知られている。

1.C. 南東部

南東部文化領域は、メキシコ湾岸から大西洋岸、さらに中西部にまたがる亜熱帯の地域で、西はテキサス州中部くらいまでをさす。森林の豊かな地域で、先住民は毎年、下草や灌木(かんぼく)をもやして、シカの餌(えさ)になる草をそだて、シカの数をふやす努力をしていた。

栽培は前3000年ごろのアーケイック期にはじまり、前1400年ごろには、ミシシッピ州のポバティ・ポイント遺跡のような人口の集中する大集落が建設された。そこには広場や、数多くの大きな土盛りの基壇があり、基壇は神殿あるいは墓地のためにつかわれた。前500年をすぎるとトウモロコシ栽培も普及し、やがてミシシッピ文化が繁栄する。16世紀中ごろ、スペイン人が内陸に入りりこんで間もなく、伝染病が猛威をふるい、人口が激減した。

南東部にいたのは都市国家のような政治機構をもったチェロキー、クリーク、セミノール、チョクトー、チカソーのいわゆる「文明5部族」をはじめ、ナチェス族などである。

1.D. 大平原

大平原文化領域は、ミシシッピ川からロッキー山脈に広がる大草原地帯で、北はカナダ中部から南はメキシコ北部にまで達する。この地域の先住民はみな、バイソンの狩猟を生業とした。ミズーリ川などいくつかの川の氾濫原では農耕もおこなわれた。ティピという皮のテント、儀礼用のタバコのパイプ、なめし革の衣服、踊りなど、大平原領域の習慣がアメリカ・インディアンのステレオタイプとなった。西に拡大するヨーロッパ人やアメリカ人との接触が19世紀に生じ、新聞や雑誌に大平原の先住民がしばしば登場したためである。もともとはブラックフット、マンダン、ヒダーツァなどがいたが、ヨーロッパ人の植民活動がはじまると、その影響で民族が移動しはじめ、スー、シャイアン、コマンチ、アラパホ、ショショニなどの民族が大平原に入ってきた。1630年以後はニューメキシコのスペイン人からウマが入り、またたく間に先住民の生活の中にとけこんだ。

1.E. カリフォルニアと大盆地

ユタ、ネバダ、カリフォルニアにまたがるこの文化領域は、山地と谷からなり、山には松の森、谷間には草地や湿地が多い。前8000年ごろからシカやビッグホーンの狩猟、川の魚とり、渡り鳥の網猟、松の実や草の種子の採集などをくみあわせた生業がいとなまれてきた。この生業形態は19世紀の中ごろまで、あまり大きな変化をせずに存続した。またカリフォルニアの太平洋沿岸部では、海の魚、アシカやイルカなどの海生哺乳類(ほにゅうるい)がおもな食料となった。民族としては大盆地のパイユート、ユート、ショショニが有名で、カリフォルニアにはクラマス、モドック、ユーロク、ポモ、マイドゥ、ミウォックその他がいた。

1.F. プラトー

この文化領域は、アイダホ州、オレゴン、ワシントン両州の東部、モンタナ州西部、その北のカナダの一部にまたがり、常緑の森林と草深い谷間の地域である。コロンビア、スネーク、フレイザーなどの大きな河川には、毎年おびただしい量のサケがのぼる。また、谷間の低地にはカマスというユリ科植物などの球根類が多く、人々はサケを燻製にしたり球根を乾燥させたりして冬場の食料とした。この領域の民族としては、ネズ・パース、ワラワラ、フラットヘッド、スポケイン、クテナイなどがいた。

1.G. 亜極北

この文化領域は、ほとんどが今日のカナダで、一部アメリカ合衆国に入りこんでいる。東半分は氷河のあったところで、土地の浸食がはなはだしい。夏が短すぎるので農耕は不可能であり、人々はムース(ヘラジカ)やカリブーの狩猟と、河川や湖での漁労で暮らしをたて、季節的な移動をくりかえす。家屋はテントが一般的で、西部では竪穴式(たてあなしき)の家もつくる。移動に際して、夏はカヌー、冬は橇(そり)をつかう。集団の規模は小さい。

この文化領域の東部の住民は、クリー、オジブワ(チッペワともいう)、モンタネー、ナスカピなどアルゴンキン系の言語をはなす民族で、西部にはアサバスカ系の言語をはなすチペワイアン、ビーバー、クチン、タナイナなどの民族がいる。現在は定住集落をかまえるが、生活の基本は、狩猟、わな猟、漁労である。

1.H. 北西海岸

アラスカ東南部からカリフォルニア北部にかけての太平洋沿岸部が、北西海岸文化領域である。東側には氷雪の山脈がはしり、海岸沿いの狭い土地にしか居住できない。また、気候が寒冷で夏が短く、農耕はできない。一方、海はきわめて豊かな資源を有し、海生哺乳類や魚、とくにサケ、オヒョウ、ユーラカン(キュウリウオ)が大切な食料資源となる。陸地ではビッグホーンやムースの狩猟、そして季節的に大量のベリー類の採集をおこなう。こうした食料にささえられて人口は比較的多く、人々は木造の家屋にすんで大きな集落を形成した。ふつう家屋には拡大家族がすむが、奴隷をすまわせる場合もあった。冬には大がかりな宴会や踊りがもよおされ、近隣の住民をポトラッチという宴会でもてなすこともあった。交易も盛んで、北アジアまで出かけて鉄を手にいれた。良質の木材がふんだんにあるので、彫刻がめざましい発達をとげた。なかでもトーテム・ポールとよばれる木彫柱は北西海岸文化の代表的な特徴である。この領域の民族としては、トリンギット、ハイダ、ツィムシャン、クワキウトル、ヌートカ、チヌーク、セイリッシュなどがある。

1.I. 極北

この領域はアラスカからカナダ、グリーンランドにまたがり、太平洋と北極海に面した海岸部が大部分である。漁労と狩猟をおもな生業とする。人口は少なく、分散して居住し、季節的な移動をおこなう。住民はイヌイットおよびアラスカ・エスキモーがもっとも多い。南西アラスカのユーイットもイヌイットとほとんど同じ民族だが、言語が少しちがう。アリューシャン列島にすむのはアレウトで、イヌイットやエスキモー、ユーイットとの関係はやや遠くなる。

2. メソアメリカ文化領域

この文化領域は、今日のメキシコ、グアテマラ、ベリーズ、エルサルバドル、ホンジュラス西部、ニカラグア西部をふくむ広大な地域である。古くからトウモロコシ、インゲンマメ、カボチャ、アマランスなど、多くの作物を開発。七面鳥を飼育し、定住農耕村落をかまえ、のちに大きな都市を建設し、活発な交易活動もおこなった。都市には工芸職人、商人、貴族階級、神官、知識人などがすんだ。農民は都市の外に広がる畑の耕作に従事した。暦、数学、文字が発達し、また建築、石彫、壁画、土器、織物などの工芸や美術の発達がいちじるしい。

栽培は前7000年をすぎるころから徐々にはじまり、前2000年をすぎるとトウモロコシ、トウガラシ、アボカドなど、作物の種類がふえ、また品種改良もすすんで、各地に安定した定住村落が生まれた。前1400年ごろ、メキシコ湾岸の低地にオルメカ文化が生まれ、巨石をつかった彫刻や大規模な土盛り基壇が建設された。また、オアハカ盆地のモンテ・アルバンやメキシコ中央高原、グアテマラ高地方面などとの間に交易網をはりめぐらした。オルメカの衰退後、テオティワカン文化が発展する。メキシコ盆地にきずかれたテオティワカンは、後1世紀から6世紀にかけて全盛期をむかえ、大都市に成長した。その南隣のオアハカではモンテ・アルバンがさかえ、さらに南の熱帯低地の森林地帯にはマヤ文明がさかえた。

700年ごろ、テオティワカンが滅亡し、900年ごろには南のマヤ文明の諸都市が放棄される。1000年ごろになると、メキシコ中央部には新しい勢力トルテカ族が台頭。トルテカ族は高原の覇者(はしゃ)となり、その影響は遠くユカタン半島までおよんだが、1168年に滅亡する。その後、メキシコ中央高原はいくつもの都市国家が同盟と分裂をくりかえしたが、やがて弱小民族だったメシーカ族が勢力をのばし、15世紀半ばには高原の支配者となった。1440年に即位したモクテスマ1世(モンテスマ1世)は征服戦争を開始し、テノチティトランを首都とするアステカ王国が生まれた。その繁栄は、スペイン人コルテスがメキシコを征服する1519年までつづいた。はげしい戦争と天然痘の流行で弱体化したアステカ王国は、1521年に滅亡した。

16世紀の初め、メソアメリカ文化領域にはこのアステカ王国のほかに、現プエブラ州のミシュテカ、ミチョアカン州のタラスカ、オアハカ州のサポテカなどの国家があり、そのほかトラスカラ、オトミ(イダルゴ州)、トトナカ(ベラクルス州)などの民族、さらにユカタン半島やチアパス・グアテマラ高地のマヤ系諸民族がいた。メキシコの北部にはヤキ、ウィチョル、タラウマラ、ニカラグアにはピピルなど、独立した民族がいた。

メソアメリカ

3. 南アメリカの文化領域

ここにいう南アメリカ文化領域には、中央アメリカ、カリブ海の島々、そして南アメリカ大陸のすべてがふくまれる。きわめて広大な地域なので、南アメリカ北部、中央アンデス、熱帯雨林地域、南アンデス・パンパ・パタゴニア地域の4つに大別することにする。

3.A. 南アメリカ北部

ホンジュラス東部、ニカラグア東部、コスタリカ、パナマ、コロンビア、エクアドル、ベネズエラ北部からカリブ海の島々をふくむ領域である。熱帯低地とジャングル、サバナの草原、アンデス山脈北部の山地など、多様な自然環境をもっている。北のメソアメリカ、南の中央アンデスという2つの文明にはさまれているが、陸路での交流はほとんどなく、もっぱら海上交通によって両者との接触がおこなわれた。ただし、それぞれの地域の文化の発達を大きく左右するほどの影響はなかった。この文化領域は中間領域とよぶこともある。

クロービス型尖頭器に似た石器をもつ狩猟民が広まったのち、この地域の人々は狩猟よりも採集と漁労を中心にした生業でくらしていくようになった。前3000年ごろには、コロンビア北部やエクアドルの太平洋沿岸部で土器が製作されはじめ、定住民も多くなった。エクアドルではトウモロコシを栽培していたという説もある。またコロンビアからベネズエラの熱帯低地では、マニオク(キャッサバ)というイモの栽培化がすすんでいたともいわれる。このマニオク農耕民の一部は、ベネズエラ北部やオリノコ川下流部からカリブ海の島々にわたっていった。

その後、人口は各地で増加し、それぞれ個性的な地域文化が発達した。とくにコロンビア、パナマ、コスタリカの人々は、黄金細工にすぐれた手腕を発揮した。16世紀初め、スペイン人による征服がはじまるが、コロンビア山地のチブチャ族の黄金は彼らをおどろかせ、またその首長の即位儀礼の伝説からエル・ドラド(黄金郷)という言葉も生まれた。カリブ海や中央アメリカには、ニカラグアのミスキート、パナマのクナ、カリブ海のアラワクやカリブなどの民族がいた。カリブ族はベネズエラの内陸部にも広がっていた。

3.B. 中央アンデス

ペルー、ボリビア、チリにまたがるアンデス山脈と、その西の太平洋沿岸部の地域である。前5000年をすぎるころからインゲンマメなどの栽培が普及しはじめ、前1000年ごろにはアンデス高地でリャマの飼育もはじまっていたらしい。テンジクネズミはそれ以前から食用に飼育されていた。また、このころにはトウモロコシ、ジャガイモ、キャッサバ、サツマイモ、ピーナッツ、トウガラシ、ワタなど、少なからぬ作物や果樹が栽培されるようになっていた。海岸地方では豊かな海産物資源が大いに活用されていた。

ペルーの北部と中部では、海岸地方と高地に石造あるいはアドベ(日干し煉瓦)の巨大な神殿が前1500年ごろからきずかれており、この神殿を中心に、灌漑農耕、土器、織物、そして金細工などがめざましい発達をとげた。北海岸のクピスニケ遺跡、北高地のワカロマ遺跡やクントゥル・ワシ遺跡、北高地南部のコトシュ遺跡などによって、そのような発展があとづけられる。前800年をすぎると、北高地の谷間にチャビン・デ・ワンタルの神殿があらわれる。そこにある多くの石彫には、ジャガー、ヘビ、ワシ、カイマンなどの熱帯に生息する動物が主要なシンボルとして登場している。

後1~7世紀は地方文化の発展期で、北海岸にモチェ、中央海岸にリマ、南海岸にナスカ、北高地にカハマルカ、北高地南部にレクワイ、南高地のティティカカ湖周囲にティアワナコなど、個性的な文化がさかえた。しかし7~9世紀には、ほとんどの地方文化がおとろえ、あるいは滅亡し、中央高地に生まれたワリ文化が南海岸や中央海岸地方に進出する。北部もワリ文化の影響をうけている。

その後、ワリ文化の拡大による混乱がおさまると、各地にふたたび地方文化が再建されるようになった。北高地にはシカン文化がさかえ、その南隣にはチムー文化が台頭し、やがて北海岸から中部海岸北部にまで達するチムー王国に成長する。中央海岸にはチャンカイ文化やパチャカマという都市がさかえ、南高地にはクスコの谷間にインカ族が地盤をかためていた。インカ族はやがて周辺の諸民族と抗争するようになり、15世紀中ごろには強力な国家を建設、征服戦争を拡大し、強大なインカ帝国をつくりあげた。インカ族の言語ケチュア語は公用語として、北はエクアドルから南はチリ、そしてアルゼンチン北西部まで普及した。この黄金帝国のうわさがパナマにきたスペイン人の耳に入り、1532~33年のフランシスコ・ピサロによるインカ帝国征服をまねいた。

3.C. 熱帯雨林

南アメリカの広大な熱帯雨林地帯では、主として川の岸辺に小さな集落や家屋をかまえ、 マニオク(キャッサバ)などを焼畑でつくり、川の魚をとる生活が基本となる。焼畑農耕民が熱帯雨林に広がっていくのは前3000年ごろからと考えられている。ジャングルではバク、シカ、サルなどが狩猟の対象になったが、いずれも数は少なく、食料としてはふじゅうぶんだった。人々はバツラやコカの葉など幻覚作用のある植物に精通していて、しばしば儀礼にもちいた。また、儀礼には、パイプですうタバコも多用された。タバコは葉を粉末にして石灰などとまぜてねり、噛(か)みタバコにする場合もあった。

人口は少なく、しかも分散して密度も低いので、大きな集落はなかった。焼畑をいとなむために移住をくりかえし、家屋は草ぶき屋根で木造だった。ワタを栽培し、綿布をおってはいたが、高温のため、ふだんは裸か簡素な衣服しか身につけない。赤や黒の顔料で体に模様をえがく、いわゆるボディ・ペインティングが発達している。

言語と民族の分化がいちじるしく、おもな民族としては、マキリタレ、ヤノマモ、ムンドゥルク、トゥピナンバ、トゥカノ、ヒバロ(シュアラ)、シピーボ、カンパ、カマユラ、カヤポ、シャバンテなどがあり、言語ではアラワク、トゥピ・グアラニー、トゥカノ、パノ、カリブなどの語族のほか、系統の不明な言語も少なくない。

3.D. 南アンデス・パンパ・パタゴニア

南アンデスのチリでは、マプチェ(アラウカノ)のような定住生活をする農耕民が、トウモロコシ、ジャガイモなどを耕作する。かつてはリャマを飼育していたが、スペイン人の侵略後は、牛、ヒツジ、豚、鶏、ウマをかうようになった。アルゼンチンの広大な草原地帯パンパでは、ラクダ科の野生動物グアナコや、ダチョウに似たレアの狩猟、大西洋沿岸では漁労や植物採集がおこなわれていた。1555年以降、ウマを手にいれたテウェルチェ族は、パンパの大草原で大がかりなグアナコ狩猟をするようになった。さらに南のマゼラン海峡周辺やフエゴ島には、セルクナム(オナ)、ヤーガン、アラカルフという移動性の高い民族がいた。この地域では、グアナコが少ないので、おもに魚や貝をとる生業が中心となり、アザラシなどの海獣も狩猟の対象になった。ヨーロッパ人との接触によって伝染病が流行し、人口は激減、今日生存している先住民はほとんどいなくなった。

V. ヨーロッパ人との出会い
1. 最初の出会い

西インド諸島であれ、ノースカロライナのローノーク島であれ、ヨーロッパ人が「新世界」と信じて最初に上陸した地点では、どの先住民も彼らを歓迎した。先住民はこの肌の白い人間たちを、衣服や装身具、大きな船だけでなく、鉄のナイフや剣、銃や大砲、銅や真鍮(しんちゅう:黄銅)の鍋(なべ)類等々、そのテクノロジーのゆえに、神秘的な存在とまで思ったのである。

しかし、先住民はまもなくヨーロッパ人もただの人間であることを知る。16~17世紀の記録によると、彼らはヨーロッパ人をさもしい人間と考えるようになっていた。自分の財産はなにひとつわけようとしないのに、ビーバーの毛皮やシカ皮ときけば、いくらでもほしがる貪欲(どんよく)な人間であると、非難もしている。また、ヨーロッパ人が先住民の宗教、性や結婚の慣習、食事などの習慣に理解をしめさず、否定的態度をとることにおどろいていた。ヨーロッパ人が恒久的な家屋や集落を建設することにも、先住民はとまどう。近くに獲物や魚がいなくなり、薪(まき)なども不足してくれば、集落や家をすてて新しい土地に移動するのがふつうだったからである。

先住民にいわせれば、ヨーロッパ人は自然のリズムと本性についてなにもわかっていなかった。ヨーロッパ人にとって自然とは障害物であり、敵でさえあるらしかった。また自然は経済的資源でしかなかった。森は大量の木材をきりだすところ、ビーバーの群は高価な毛皮の山、バイソンの群は膨大な量の皮革とタン料理の材料にしかみえなかった。ヨーロッパ人からみれば、先住民自身も資源だった。魂は改宗の対象であり、肉体は労働力とみなされた。要するに先住民にとって、ヨーロッパ人は機械的であり、精巧な道具や武器を上手につかいこなして目的を達成する生き物ではあるが、魂をもっていない生き物だった。

2. 植民地体制と先住民

「われわれは神につかえるために、そして金持ちになるためにここにやってきたのである」。スペインの征服者エルナン・コルテスはこういいきった。彼ら16世紀のスペイン人にとって、2つの目的、商業的目的と宗教的目的のためには、アメリカの先住民が必要だった。征服者は土地と先住民の労働力を手にいれようとし、キリスト教の聖職者や修道士たちは先住民の魂をほしがった。いずれも先住民には破滅的な結果しかもたらさなかった。第1の目的は先住民から自由を、そして多くの場合、生命をうばった。第2の目的は先住民からその文化をうばった。

ただし、16世紀のスペイン人の中には、征服の正当性について深くなやむ人も多くいた。名のある法律家や人文主義者たちは、アメリカ先住民の土地をうばい、先住民をスペインの権威に力ずくで服従させることは、ただしくないと主張した。しかし、スペインでのこうした倫理論争は、先住民にとってほとんどなんの役にもたたなかった。

カナダでは、いくぶん事情がことなった。この地に入ったフランス人の関心は、毛皮交易にあった。先住民はビーバー、ラッコ、マスクラット、ミンクなどの毛皮の供給者であり、役にたつビジネス・パートナーであり、上手につきあう必要があった。フランス人が提供する交易品は先住民にとっても魅力があり、彼らはすすんで毛皮をモントリオール、トロア・リビエール、そしてケベックまで運んだのである。またフランス人は、イギリス人との戦いのために先住民を味方につける必要があった。彼らは先住民を自分たちと平等な人間とみなし、先住民との結婚も当然なことと考えていた。

一方、イギリス人はまったく逆だった。彼らは土地をもとめたために、先住民を障害とみなしたのである。大西洋沿岸部にすみついた大勢のイギリス人は、先住民を力ずくでおいだした。こうして、今日のカナダとアメリカ合衆国とでは、ヨーロッパ人との出会い以後の先住民の歴史が大きくことなることになった。

3. 伝染病の猛威

1492年当時、メキシコ、中央アメリカ、南アメリカのアンデス地域は、南北アメリカ大陸の中でもっとも人口の多い地域だった。しかしヨーロッパ人との接触後、わずか数十年のうちに人口は半分以下、場所によっては10%にまで減少してしまった。その最大の原因は病原菌だった。天然痘、はしかや結核、風邪などの呼吸器疾患、チフス(腸チフス)や赤痢などの消化器疾患に対して、アメリカの先住民は抵抗力をもっていなかった。

伝染病はとくにラテンアメリカで猛威をふるった。アステカ王国の首都テノチティトランやインカ帝国の首都クスコなど、人口の集中した大小の都市や町があったからである。病気によるこの衝撃的な人口破壊も、スペインでの、征服の道徳性をめぐる議論の引き金になった。

カリブ海地域の先住民人口が減少するにつれて、スペイン人は労働力をおぎなうために、フロリダの先住民をさらってくることを思いついた。それでもふじゅうぶんとなると、今度は西アフリカから奴隷を輸入し、サトウキビ畑や銀の鉱山ではたらかせることにした。

運よく生きのこった先住民は、村ごと植民者や鉱山経営者に管理された。これがエンコミエンダという制度で、実際は奴隷制度とかわらなかった。先住民の力は精神的にも肉体的にも弱くなり、その結果、ヨーロッパ人のもたらした病気にかかりやすくなった。

深い森林の中で、人々が分散してすむことが一般的なカナダでは、はじめのうち病気の被害は少なかった。しかし、イエズス会が伝道所を設立するや、伝染病が流行し、深刻な人口減少をまねいた。

4. アメリカ合衆国との関係

独立をはたしたアメリカ合衆国は、その憲法の中で、「議会は外国、州、そしてインディアン部族との商業を調整する…権限を有する」とさだめた。以来200年以上もの間、先住民に関する法はこの憲法の規定に根拠をもつことになる。

18世紀の終わりごろ、「新しい」アメリカ人たちは土地をもとめて、アレゲニー山脈やブルーリッジ山脈(アパラチア山脈)をこえ、オハイオ川流域、ケンタッキー、テネシーなどに入りこんでいった。そこはまだ多くの先住民族が伝統的な生活をいとなむところであり、したがってこれらの移住者は先住民の土地を不法に占拠したわけである。結果は明らかで、戦争がおきた。1795年、グリーンビル条約がむすばれ、「インディアン・テリトリー」と白人の居住地とがはっきりと区画されることになった。しかし、人道的な考え方をもったワシントンの政治家とはちがって、オハイオやケンタッキーで直接先住民と接触し、利害をことにする白人たちは、先住民を邪魔者と考えた。白人の移住と開拓の前線では、紛争や衝突はたえることがなかった。

4.A. 強制移住法

1830年5月、強制移住法が施行された。この法律によれば、合衆国大統領は東部の先住民をミシシッピ川の西、今日のオクラホマ州にあった「インディアン・テリトリー」へ移住させる権限をもつ。移住は先住民の自由意志によるものとされてはいたが、実際には合衆国政府が必要と思えば、いつでも強制することができたのである。この強制移住の苦しみは、生きながらえた先住民たちの間で、けっして忘れることのできない歴史的経験としてかたりつがれた。

19世紀の半ばには、この西部の土地も安全ではなくなった。幌馬車隊がオレゴン、サンタフェ、モルモン、カリフォルニア街道をすすみ、大平原の資源に目をつけはじめると、合衆国の政策も移住から保留地への収容へとかわっていく。保留地以外の土地は先住民のものではなくなり、アメリカ人移住者たちの間で山分けされた。先住民が抵抗するのは当然で、大平原でくりかえされた戦争の本質もそこにあった。1890年12月29日のウーンデッド・ニーの虐殺は、この戦争の悲惨さをものがたっている。アメリカの第7騎兵隊は野営中のスー族、約350人に銃を乱射した。250人にのぼる死傷者の大半は、女性と子供だった。インディアン戦争

白人の西部進出はつづき、19世紀末にはついに太平洋岸にまで達した(西部開拓史)。先住民の土地はうばわれ、生きのこった者は保留地におしこめられた。そして1887年、ドーズ法とよばれる一般土地割当法が施行される。これは、インディアン・テリトリーとされていた先住民の共有地から、個人に160エーカー(約65ha)の土地をわりあて、のこりの土地は白人たちに売却するというものだった。その結果、先住民は共同の土地をうしない、やがて私有地もうしない、合衆国社会の極貧層におちこむことになってしまった。

5. 現代社会と先住民

その後、先住民は徐々に人口を回復し、アメリカ合衆国では1990年現在、イヌイットやアレウトもふくめて、およそ200万人となった。これは合衆国総人口の0.8%にあたる。うち約3分の1は保留地にすみ、半分が保留地に近い都市にすむ。合衆国政府は公式にみとめられた314部族のために、2300万haの土地を信託されている。最大の保留地はナバホの土地640万haで、14万あまりの人々がすむ。最小の土地はコネティカット州のゴールデン・ヒル保留地で、0.1ha、住民は6人である。

1934年、インディアン再組織法が制定され、ドーズ法の時代はおわった。この法律は、個人への土地割当制を廃し、部族による土地の共有と自治権をみとめるものだった。さらに、先住民の教育政策がうちだされ、ワシントンに本部をおくインディアン局も先住民を優先的に雇用するようになった。

第2次世界大戦後、先住民に対する特別な施策を不必要とする方向がうちだされた。連邦管理終結政策とよばれるもので、先住民側の不満は大きく、1970年にニクソン大統領は政策の中止を表明した。一方、70年のアルカトラズ島の占拠、72年のワシントンのインディアン局占拠、そして73年のウーンデッド・ニーの71日間におよぶ武装占拠などがあり、北アメリカ先住民に対する合衆国の政策がみなおされることになった。

先住民側もこれに対応して民族自決の方向を強め、合衆国の政策による健康、教育、福祉、住宅、行政などの計画をみずからの手で管理運営しようとしている。法的な手続きによって昔の土地や神聖な場所をとりもどす運動もおこなわれている。アラスカでは先住民の土地請求問題が1971年に解決し、9億6200万ドルが支払われ、1600万haの土地が返還された。

6. ラテンアメリカの先住民

ラテンアメリカの先住民の人口はおよそ2630万人と推定され、そのうちの2400万人がボリビア、エクアドル、グアテマラ、メキシコ、そしてペルーにすんでいる。彼らは一般にカンペシーノ(農民)とよばれ、へんぴな地方で農業をいとなみ、きわめてまずしい生活をおくっている。ボリビアやグアテマラでは、こうした先住民カンペシーノが国民の半分以上を占めている。ラテンアメリカで先住民のいない国はウルグアイだけである。言語や方言は少なくとも400以上あり、日常的にもちいられている。

部族生活をおくる人々はラテンアメリカ先住民のわずか1.5%ほどで、おもにブラジル、コロンビア、パナマ、パラグアイ、ベネズエラにすんでいる。大半はアマゾン川流域のジャングルの奥深くにすみ、マニオク(キャッサバ)、サツマイモ、トウモロコシ、バナナなどを焼畑で栽培し、それに採集、狩猟、漁労をくみあわせて生活する。現在、ブラジルではアマゾン地域の開発がすすみ、先住民の生存が身体的にも文化的にもあやぶまれている。外部からもちこまれる病気は彼らの命をおびやかし、鉱山開発やハイウェー建設は生活と文化の中心である森林を破壊しつつある。

ブラジルで伝統をまもりつづけている部族のうち、最大のものはヤノマモで、1万6000人をかぞえる。ブラジル政府は特別の公園地区をもうけ、この部族を保護する計画をうちだしている。しかし人類学者の見積もりでは、ヤノマモが伝統的な生活様式をつづけるためには、少なくとも640万haの森林が必要である。