検索ビュー 発達心理学

この項目内で、特定の言葉で検索するには、[編集] メニューの [このページの検索] をクリックします。

入力した言葉とまったく同じ言葉で検索されます。見つからない場合は、別の言葉で検索してみてください。

発達心理学
I. プロローグ

英語ではDevelopmental PsychologyまたはLifespan Developmental Psychology(生涯発達心理学)という。誕生から死にいたるまでの人生の各時期をどのように人が生きているかについて、その能力的側面、対人関係的側面、人格的側面の時間的変容を明らかにしていく分野である。人間の体の形や機能の発達については、成長(ヒト)の項目でのべることにする。

II. 発達観と発達理論

「発達」といえば常識的には子供が大人になることである。これまでの発達心理学も最近まではそのような常識的な発達観の上にくみたてられてきた。それは要するに、誕生した子供が年齢とともに「何ができるようになるか」を問うことである。

1. 遺伝・成熟説

このような常識的な見方の背後には、時間とともに能力が向上する、よりよい状態にむかって変化するという、素朴な「うつくしく力強い」発達観が暗黙のうちにあったといってよい。身体の成長、運動能力の向上、認知能力の向上などはまさにこの発達イメージに合致する。この発達イメージを裏づける理論として登場してきたのがゲゼルらのとなえる遺伝・成熟説、つまり前もって遺伝子にプログラムされているものが時間経過の中で発現してくるという考え方である(前成説ともいわれる)。たしかに誕生した乳幼児の身体的、運動的な変化や新しい行動の型の出現は、平均的な個体をみるかぎり、この説でかなりのところまで説明できるようにみえる。

2. 経験説

これに対してピアジェは、すべての行動が新規にあらわれるわけではなく、ある行動がより高次の行動へと発達的に変化していくことに注目し、その際の主体の経験を重視した。彼は、子供が手持ちのシェムにあわせて世界を同化するいっぽう、逆に世界にあわせてシェムを変形・調節し、シェムの協応によって新しいシェムをかたちづくるというように、子供自らが世界にはたらきかけながら新しい行動を形成していく様子を克明に記述した。ピアジェのこの経験説は、子供の能動性を重視した発達の力動的な様相をとらえるうえで重要な意味をもち、教育界にも多大な影響をおよぼした。

3. 後成説

しかし発達理論としてみるとき、ピアジェの経験説とゲゼルの遺伝・成熟説はけっして矛盾するものではない。同じ能力向上的な発達イメージにもとづいているところにもうかがえるように、むしろ両方の説は相互に補完しあって個体の能力発達を説明しているとみるべきだろう。そのことは後のワディントンの遺伝・環境(経験)相互作用説(後成説ともいわれる)によくあらわれている。

ところで、年齢とともに「何ができるようになるか」ではなく、「どのような問題をかかえこむようになるか」と問うてみると、まったくことなる発達観があらわれてくる。誕生した子供は、周囲の他者(親やその社会)の願いや期待、賞賛や叱責(しっせき)、肯定や否定、優しさや厳しさに翻弄(ほんろう)されながら人生をおくっていかざるをえない。その過程は能力が向上して世界がひろがるという肯定的な表の面ばかりでなく、葛藤を増大させ困難をより多くかかえこむという否定的な裏の面をあわせもっている。それは前にあげた、うつくしく力強い発達のイメージとはかぎらず、むしろ、きびしくつらい発達のイメージをふくみ、しかもそれは生涯全体をおおっている。

4. 人格発達段階説

このようなペシミスティックともいえる発達観にたって人格発達の輪郭をえがいたのが、精神分析を創始したフロイトであった。エリクソンはそれを下敷きに、人の生涯を8つの段階(ライフ・サイクル)にわけ、それぞれのサイクルが固有の心理的危機をかかえるという人格発達段階説をとなえた。それは健康な発達のプロセスと病理的な発達のプロセスを同時に説明する理論であり、また今日の生涯発達論の先駆けとなるものであった。

ライフ・サイクルによって人生を区分する発達論は、各サイクルが個体の能力的節目を基盤にしながらも、そこに社会文化的要因(学校制度や慣習など)をふくむ点において、そのまま発達の社会文化理論でもある。そこにビゴツキーの「社会文化的なものが個人の意識を規定する」という発達理論を重ねると、今日、コールやワーチが主張する生涯発達の社会・文化・歴史的アプローチが生まれてくる。

5. 関係論的アプローチ

他方、エリクソンの説く各サイクルの心理的危機はなによりも周囲他者との関係に規定されるものである。そこに今日、R.N.エムデらの主張する関係論的アプローチが合流する理由がある。発達を間身体的、間情動的な関係論的視点からみる必要をはやくから説いていたのはワロンであったが、そのワロンの思想は一面ではこのエリクソンの人格発達段階説に、したがってエムデの関係論的アプローチに重なるところがある。そして、葛藤をかかえつつ生きる人の人格に注目することによって、自己性の発達論がスターンやコフートらによって主張されるようにもなった。

発達理論はこのように個体能力発達論と生涯人格発達論とに大別することができる。そしてその理論上の違いは、研究者がどのような発達イメージをえがくかの違いとむすびついている。

III. 能力発達と成熟

20世紀初頭にはじまる発達心理学は、おもに子供の能力発達を記述する児童心理学として出発した。研究者の素朴な目が子供のめざましい成長の姿にひきつけられ、その運動面や認知面にあらわれる能力発達の側面がまずとりあげられたのは自然な成り行きであった。このように発達を能力向上の点からみるという視点は、子供の成長過程を丹念にたどるプライヤー、シュテルン、ビューラーらの観察日誌研究にも、また就学前に知的障害児を判別する必要から生まれたビネの知能検査の、その中核をなす精神年齢という概念にもあらわれていた。

1. 知能検査

このような能力発達への位置づけは、新しい行動の発現時期、発現順序を明確に規定しようというシャーリーらの研究動向につながり、その後、多数の乳幼児のデータをもとにして作成されたゲゼルの「発達診断表」に集大成される。また、これと同じ研究動向に位置づけられるビネの知能検査は世界各国にうけいれられ、アメリカのターマンのスタンフォード・ビネ改訂版をはじめ、各種の知能検査・発達検査が開発される出発点となった。

この動向の背景にあるのは、「発達観」のところでのべた遺伝・成熟説である。すなわち、子供のそだつ環境にも、子供の得る経験にもかなり大きな個人差があるにもかかわらず、通常、首がすわる、座位がとれる、あるく、言葉をはなす、等々の乳幼児の行動の発現時期は、人という種ではほぼ一定している。このような行動の出現時期を規定しているのは、遺伝的要因(遺伝子プログラム)であり、その発現は一定の生物学的時間の経過、つまり成熟によっている。

2. 成熟という概念

成熟という概念は、ある行動の発現や巧緻(こうち)性の向上がもっぱら経験の結果によるものではないことをいうときに必要になってくる。たとえば一定の期間、特別な訓練をあたえたA群と、その訓練をしない統制群のB群とを、特定の行動に関して比較するとき、訓練終了直後にみられた2群の行動差が、通常の環境下で比較的短時間になくなり、B群がA群においつくという事実があるとすれば、その行動変化は経験によるものだけではないことになる。

3. 遺伝・経験相互説

このような成熟についての考えは、発達を規定するのは遺伝か学習(経験)か、ある行動の発現は生得的か後天的かという論争を生み、経験説の側からは経験剥奪(はくだつ)効果、経験付与効果などを明らかにする実験が対置された。実際、スピッツやボウルビーらの戦後孤児のホスピタリズム研究は、愛情あふれる母性的養育がうばわれれば子供の発達は大きく阻害されることを明らかにし、遺伝子プログラムでほぼ決まるかのようにみえる発達過程の背後に、重要な経験要因があることを示唆した。それらをふまえ、今日では、遺伝子プログラムと成熟要因がほぼ発達の可能性の輪郭をえがいているにしても、それを具現して実質化するうえに経験が必要であるという遺伝・経験相互作用説が支配的になっている。母子関係:愛着理論

4. 動物行動学的アプローチ

遺伝か経験かという議論は、ローレンツやティンバーゲンら、動物の本能行動を研究する比較行動学によってもとりあげられていく。ガンやカモなどの水陸両生の鳥類の雛(ひな)は、卵からかえるとすぐ親鳥を識別して、そのあとをついていくという「本能」行動をしめすことが昔から知られていたが、ローレンツらはこれが生得的解発機構(IRM)と解発刺激(RS)との組み合わせによって生じるものだとした。ただし、このIRMはこれらの鳥類の追従行動に関しては生まれてから一定の短い期間にしか機能しない。そこから臨界期(敏感期)という概念が生まれ、発達初期への関心をうながす契機のひとつになった。刷り込み

IV. 発達初期の位置づけ

発達は順序をおって展開するものであるだけに、発達の初期に特定の経験がうばわれて、ある行動が発現しなかったり、知的能力の定着がおくれたりすると、それによって次に予定されている行動の発現や能力定着がおくれ、それによりまた次の行動がおくれるというふうに、次々にマイナスが累積されていくことになる。このような発達的変化の固有の特徴から、初期経験の重要性が認識され、人間の幼児にとって臨界期はあるのかという問題をめぐる一群の研究があらわれる。臨界期を設定するのは遺伝子プログラムであるが、それを機能させて実質的な変化をひきおこすのは経験であるから、この議論そのものが遺伝・経験相互作用説の上にたっていることになる。

1. 早期教育

こうして、たとえば、母語の音韻体系の習得の臨界期、絶対音階の習得の臨界期などが考えられ、早期教育への引き金にもなっていった(就学前教育)。しかし人間の場合、能力獲得に関しては相当の可塑性をもっていることも事実で、多くの行動は時期をのがしても習得可能である。むしろこの臨界期と発達早期は、基本的信頼感のような乳幼児の心(自己性)の形成に関して重要な意味をもっているようである。言語発達

2. 乳児研究

発達初期の位置づけは、初期経験の問題とは別の関心からもでてきた。1960年以降、R.L.ファンツやバウアーらにはじまる乳児研究ラッシュである。それまでの乳児研究は、刺激への感受性や運動行動の発達にかぎられ、乳児の知覚や認知の働きはほとんど知られていなかった。「乳児は何もわからない」という先入観のせいもあったが、乳児を実験的に研究する技法がなかったからでもある。ファンツは偏好実験(どちらの刺激図形が乳児の黒目に長くとどまるか)によって、またバウアーはオペラント条件づけの技法をもちいて研究にとりくみ、次々に乳児の知覚や認知能力を明らかにしていった。

それにつづく一連の研究によって、「無力な乳児」というイメージは払拭(ふっしょく)され、乳児はきわめて有能な存在であることがわかってきた。その最たるものは、乳児の随伴性探知能力である。パポウチェックによれば、乳児がたまたま左足をキックすればその足の動きが光スイッチを作動させてスライドを点灯させ、スクリーン上に絵がうつるというように装置をセットしておくと、4、5カ月の乳児でさえ、短時間のうちに足のキックと絵がうつることとの随伴関係を探知し、その状況を「学習する」という。

3. 原初の自己への関心

発達初期における自己の位置づけはもうひとつ、自己の起源あるいは原初の自己への関心による。自己と他者という心理学的、哲学的な大きなテーマは、発達の見方からすればその起源を問うことである。これにとりくんだのはクラインをはじめとする精神分析の系譜に属する人たち、たとえばウィニコット、マーラー、カーンバーグらであった。最近では、スターンが乳児の直接観察と精神分析の解釈論との「対話」をめざし、発達早期の自己感の発達を理論化している。これはボウルビーの内的ワーキングモデルの概念とむすびついて、原初の自己を問う最近の発達研究を加速する役目をはたしている。

V. 認知能力の発達
1. 乳児期

乳児はかなりはやい時期に、人と物の区別ができるようになる。そして母親の顔、声、においも他の人と区別して認知することができる。つかまり立ちができ、対象物に手がのびるようになると、外界に旺盛な興味をしめし、物をつかんだりつまんだりしはじめる。そして、そのような手持ちの行動を外界の事物に適用して、それを「つかめるもの」「つまめるもの」というように認知していく。感覚運動的知能

また、泣けば母親があらわれるという随伴関係がわかって、うそ泣きがはじまる。そして誕生日前後には、みなれたものがみえなくなると、いつもある所をさがすことができるようになり、また目の前でおもちゃがポケットの中にかくされると、かくされた所をさがして、そのおもちゃをとりだすこともできるようになる(ピアジェはこれを対象永続性の成立とよぶ)。さらに対象の同一性の認知がすすむことによって、人見知りもはじまり、また分離不安もあらわれてくる。愛着理論

2. 幼児期

乳児期の最後ごろから幼児期にかけて、言葉が子供の世界にはいってくる。大人が身近な物の名をいうと、その人や事物を指さすことができるようになり、自分から事物の名前をいって、それを他者と共有しようとするようになる。表象はすでに乳児期から機能しはじめているが、この期になると言語シンボルが表象を喚起したり、表象が発語をうながしたりするようになる。これによって「見立て遊び」、「ごっこ遊び」がはじまり、絵本の読み聞かせをよろこぶなどファンタジーの世界がひろがる。そして就学直前ごろになると、子供自身が物語をつくることさえできるようになる。言葉によって観念の世界、虚構の世界が大きくふくらみ、現実と虚構の区別をみうしなうこともままあるが、しだいに実の世界と虚の世界の区別がつくように(意識できるように)なってくる。非言語的コミュニケーションの発達

就学前後から学童期になると、子供は「つけくわえる」「とりのぞく」「うつしかえる」「おきかえる」「回転させる」等々、外界の事物に具体的な操作をくわえることによって、見かけの変化があっても、そこに不変項(数、量、体積、密度など)を認識できるようになってくる。これをピアジェは「具体操作的知能」とよんだ。

3. 学童期

学童期になると、教育をとおして多方面の認知能力が向上するとともに、膨大な知識を習得するようになる。それによって、それまで獲得した個物名を概念によってくくることができたり、さまざまな経験を概念的に再編成することができるようになってくる。また、経験したことを文章につづるばかりでなく、空想を文章につづることもできるようになり、いったん獲得した言葉の一般的意味にもとづきながら、そこに自分の体験を重ねることによって、その言葉に独自の意味をこめることができるようになってくる。

4. 青年期

そして学童期の終わりごろから青年期にかけて、論理命題が理解できるようになり、不変項の認識は具体的な操作によってではなく、形式的な操作、たとえば数式における移項、結合などによって可能になってくる。これによって、仮説をたてて実験したり、計画をたててそれを実行したり、結果にもとづいてそれを変更したりというような高度の思考が可能になってくる。ピアジェはこれを形式操作的知能とよび、ここにいたって科学的思考を可能にする知能が完成段階に達するとした。

VI. 対人的世界の展開
1. 乳児期

人の乳児の発達には母性的養育が必要不可欠である。この母性的養育はたんに哺乳、清潔といった身体的ケアにとどまらず、養育者の子供へのじゅうぶんな愛情をもふくむものであり、それを欠けば乳児は元気にそだっていくことができない。この乳児の絶対的依存が養育者の母性的な傾倒的関与をもたらし、その傾倒的関与によってはじめて、乳児は養育者に基本的信頼をよせていくことができる。それは3カ月ごろに養育者があやしかけると喜色満面の笑顔をみせるようになるところに端的にあらわれている。その後、養育者とのおもちゃや事物を介した遊びをとおして、楽しい思いを共有することがふえ、それをばねにしてしだいに2者間に「やりとり」の構造ができあがってくる。養育者のすることをまねる動きもあらわれ、オツムテンテンなど、養育者といっしょになってたのしむようになる。母子関係

乳児にとって、このように信頼をよせる養育者がしだいに「重要な他者」となるにつれて人見知りがはじまり、養育者の後追いや分離への抵抗があらわれてくる。また、養育者の意図や表情がわかるようになって、その意図にしたがったり、事物への接近・回避の手掛かりにしたりするようになる。言葉はまだ話せないにもかかわらず、身振りや表情や多様なトーンをもった音声によって、養育者とのコミュニケーションがしだいに円滑になってくる。

2. 幼児期

諸能力の向上とともに行動世界がひろがり、赤ちゃんの世界を脱して家族の一員となっていく。そして、養育者と一緒に家の外にでる機会もふえてくる。こうして、それまでの養育者や家族とだけの対人関係からよりひろい対人関係へとしだいに移行していく。親が戸外につれだすことによって、あるいは早期保育の場の中で、同じ年頃の幼児とともに遊びの場を共有するようになり、少しずつかかわりあうようになっていく(安全基地を背景にした対人世界の拡大)。

3歳ごろになると、もはや養育者とだけのせまい世界には満足できなくなり、同じ年頃の友達をもとめるようになってくる。このころには、しつけもはじまって、信頼と自信を背景にした強い自己主張と、親のしつけへの従属とのむずかしい局面をしばしば経験し、自己主張と譲歩の両面を少しずつ身につけはじめていく。親の賞賛、叱責に関連して、喜び、満足、自信、意気消沈、不満などを経験し、さらに兄弟関係や友達関係の中で、羨望(せんぼう)、嫉妬(しっと)、みせびらかしなどの、複雑な情動を経験するようにもなる。また、友達関係の中では自分のこうしたいという思いが強いために、友達をもとめながらもおもちゃの取り合いが頻繁におこり、いっしょにあそんでいても、そのめざすところがかみあわないことがしばしば生じる(平行遊びとよばれている)。

それが5歳ごろになると、集団生活の中で少しずつ保育者のいうことにしたがうことができ、また友達の力関係も少しわかって、その場に応じた対人関係がかなりとれるようになってくる。気にいった友達ができるようになり、遊びに役割分担があらわれ、リーダー対フォロワーの関係もあらわれはじめる。他の子供の気持ちに共感したり、年下の子供にやさしくしたいという気持ちの動きもあらわれてくる。依存と自立

3. 学童期

秩序にしたがい、決まりをまもるという学校環境に適応する中で、一般的には「よくまなび、よくあそぶ」時期といわれてきた。しかし今日では、家庭でも学校でも大人たちが「できる子かどうか、よい子かどうか」と評価的なまなざしを強くむけてくるために、相当数の子供が強いストレスを感じるようになってきている(小児心身症の増加)。しかも、それが大人との関係ばかりでなく子供どうしの関係にまでおよび、グループの作り方、友達関係の持ち方に影響をおよぼし、不登校や「いじめ」などのむずかしい問題につながっている。その中で、教師の評価と友達の評価との板ばさみになるいわゆる「ぶりっ子」の悩みをもつ子供もあらわれ、子供どうしの世界の中で、仲間集団への参加と排除のきびしい力学が子供の心に影をおとすようになってきている。

VII. 発達と教育

発達と教育の関係の問題は、ある年齢の子供にどのような教育カリキュラムをあたえるかを考えるときにうかびあがってくる。一面では、それは子供のレディネス(それをうけいれる用意ができていること)にあわせたものでなければならない。さもなければ教育効果を期待することはできない。しかし他面では、教育がそのレディネスをつくりだすという考え方もなりたつ。ここに、子供にあわせた教育をめざすのか、子供の発達を促進する教育をめざすのかという、一見相反する視点があらわれており、それが早期教育の是非論へとつながってきた。

この二者択一的な視点をのりこえるのがビゴツキーの発達の最近接領域という考えである。ビゴツキーによれば、子供の発達を促進するには、子供の今の力を一歩こえたところ、しかし潜在的にはそれがあらわれてもおかしくないほど力の準備のととのったところに、はたらきかけなければならないという。

たしかに教育には子供を実際にかえていく大きな力がある。発達の遺伝・成熟説があるにもかかわらず、どのような教育をあたえるかによって、子供の能力発達の実態は変化する。レディネスにしても、ビゴツキーの考えにもとづけば、教育によってそれを形成するのだという形成レディネスの考えがなりたつ。そして、能力の向上・促進が一般には価値あることと考えられるために、「より多くの教育が、よりよい発達をもたらす」という暗黙の常識を生み、能力至上主義的な文化環境をつくりだすことにもなった。

1. 教育との葛藤

発達と教育の関係を能力促進という側面だけでみるのではなく、子供の人格の発達との関連でみてみると、上記とはちがった様相があらわれてくる。教育はある面では大人の社会が文化伝達を意図して用意した鋳型に子供をはめこむ行為でもある。それは「子供のかがやかしい未来のために」という幻想のベールをまとってはいるが、一面では強引に有無をいわせずそれにしたがわせてしまうひとつの力の装置でもある。この観点からみれば、より多くの教育は、より強い力の下により長く子供をとどめることを意味する。この教育の二面性は発達の二面性、つまり能力発達と葛藤増大の二面性に対応する。しかも、子供の評価が能力評価中心に展開されるとき、それが子供の自己性にどのようにはねかえるか、そしてそれが自己性の発達にどのように影響するかが大きな問題になってくる。

このような発達の問題と教育の問題が微妙にむすびつく中で、現行の不登校問題やいじめ問題があらわれてきている。ここにも発達を個体能力発達という一面だけで裁断できない理由がある。発達は機能完成にむかうよろこばしい過程であるだけでなく、大人の鋳型にはめられ大人の心理的な圧力を身にかぶって、その中で子供がしだいに自己をつくっていく過程でもある。それゆえ発達心理学はたんに子供の能力発達を外側からながめて記述するだけではじゅうぶんでなく、子供が発達によってどこにむかうのかを問い、その行く末をみつめなおす視点をもっていなければならないだろう。

VIII. 青年期の問題

純然たる子供から大人への過渡期にあたるこの時期は、思春期ともよばれ、子供的な大人と大人的な子供の同居した、むずかしい発達の一時期をつくっている。

1. 性の発現と体験

それはまず第2次性徴とよばれる身体生理的・性的な変化となってあらわれる。男子では急速な身長の伸びとともに、体毛の発毛、ペニスの勃起(ぼっき)、射精といったまったく新しい体験が生じ、女子ではメンスの開始、女性らしい体形への変化となってあらわれる。それらの変化とそれにともなう諸体験が青年にどのようにとりこまれ、自己に沈殿するかがこの期の発達の重要な問題となる。それは男性、女性という自らの性をどのように身にひきうけていくかにかかわるとともに、性への関心、自慰行為のはじまり、秘密の発生など、青年の心に微妙な襞(ひだ)をきざみこんでいく。

2. 自意識のめざめ

それに呼応して、この時期は自意識にめざめる時期でもある。それまで、もっぱら外側をみるだけであったものが、人からみられる自分に気づき、自分を意識し、そして自分で自分をみるという自己二重化が進行する。みる人とみられる人という二分法は、いわゆる私的自己と社会的自己に分裂していく契機ともなる。そこに、自分は他者にどのようにみられているのか、どのように思われているのかという「不幸な問い」も生まれる。そして人前でみせる顔(社会的仮面)をいまだ容易にはつくれないがゆえに、とっさの場面ではげしい羞恥(しゅうち)を経験することにもなり、それとともに、自己を対象化し、自己概念をかたちづくる地平がひらかれる。

3. 孤独と孤立

他方、身体的成長はもはや子供ではないという思いを強め、親への反抗や親といっしょの行動を回避するというかたちで、親からの自立をうながす。しかし親への潜在的な依存欲求が依然としてあり、それが表面的には友達への依存へとかたちをかえる。本来、友達関係には、仲間に連帯をもとめつつも自分は自分であるという孤独を経験し、それによって強い自我をかたちづくるという契機もふくまれている。しかし、今日の日本では、孤独が孤立と錯覚されてきらわれることもてつだって、仲間集団からの孤立と排除を極度におそれ、友達関係に過度に依存するという日本の青年に特有の心理をみちびく。そして、いじめられてもその集団に準拠せざるをえないため、そこからぬけだせないという二重拘束的な集団力学が生まれ、いじめ問題を複雑化していくことにもなっている。

4. アイデンティティ

さらに、自意識の芽生えと自己対象化の動きは、現実自己の評価と理想自己との乖離(かいり)をも意識させる。大人にむかって背伸びしたいにもかかわらず、現実の自分はいまだちっぽけで、理想には程遠く、通過しなければならない関門はあまりにも多い。この現実と理想の食い違いの大きさが、青年期に特有の自己不全感をもたらしている。いっぽう、理想の自己への漠然とした問いは、将来の自分らしい自分の生き方(アイデンティティ)を漠然と思いえがかせ、それがまた進学問題とからんで、現実の受験校選択の問題をめぐる葛藤をひきおこしていく。

エリクソンはこのような青年の悩み多き時期をみつめ、青年はそれをアイデンティティの達成によってのりこえていくと考えた。すべての青年がエリクソンのえがいた「物語」どおりにこの時期を生きるわけではないにしても、この時期が強い葛藤にさいなまれる時期であることは否定できないだろう。この時期、青年は自分でも訳のわからないモヤモヤした気分にとりつかれ、イライラすることが多い。自分というものに気づきはじめながら、それをはっきりととらえることができないところにその理由がある。モラトリアム

この時期は乳幼児期からの能力発達がほぼ完成をみる時期でもある。個体の能力がほぼ完成する時期が、自己性の発達にとってはひとつの大きな転機であるというのは興味深い。ここにも発達理論が個体能力発達論から生涯人格発達論へと転回していく必然性がある。

IX. ライフ・サイクル

エリクソンは生涯を8つの心理社会的発達段階、つまりライフ・サイクルにわけ、それぞれに固有の心理的危機、重要な対人関係および心理・社会的行動様式があるとする。たとえば、第1期の乳児期は、「信頼・不信」の心理的危機をいずれの側にのりこえるかという問題をはらみ、重要な対人関係としては母親あるいは母性的養育者との関係があり、心理・社会的行動様式としては「手にいれる・あたえる」という問題があるという。第4期の学童期でいえば、心理的危機としては「勤勉性・劣等感」、重要な対人関係としては学校内の人間や近所の人、心理・社会的行動様式としては「完成させる、くみたてる」があるという。

1. 乳児期

実際、第1期の乳児期(口唇期)は、一般に親の傾倒的関与を条件に、乳児は母性的養育をあたえてくれる人に愛着し信頼感をいだく。しかし、もしも愛情をふくむ母性的養育がじゅうぶんでなければ、愛着できずに不信感をつのらせる危険がある。ボウルビーの愛着理論にしたがえば、この信頼か不信かという心理的危機は、子供の内的ワーキングモデルに養育者との経験がどのように書きこまれるかにかかわる。そしてそれが将来の対人関係一般の枠組みとなるという。今問題になっている乳幼児虐待と、それによる乳児のひきこもりの事実を前にすれば、乳児期を単純にしあわせな時期というふうにはイメージできない。

2. 幼児期

第2期の幼児期(肛門期)は、いっぽうでの自己主張と他方での親のしつけの受容という相反するテーマを幼児がどのように生きぬくかにかかわり、強い自我をはぐくむか、自己を親にゆずりわたして、いい子を演じていくかの岐路が子供をまちうけている。

3. 成人期と老年期

このように、人生には次々にあらわれる心理的危機と葛藤があり、それを各ライフ・サイクルにおいてどのようにのりこえるかが、その人の発達である。この葛藤の人生史は生涯にわたってつづき、大人になってからでも、たとえば第6期の成人期前期には、パートナーの獲得をめぐる親密性と孤立の葛藤がまちうけ、第7期には出産と育児をめぐる葛藤が、そして第8期には老いの受容をめぐる葛藤がまちうけている。

ここには、かつては子供で、親から養育されていた者が、いつの間にか大人になり、次には親になって立場を逆転させ、今度は親として自分の子供をそだてる側にまわるという、人の生の営みの世代間リサイクルが理論化されている。1人の子供の誕生は種としてみれば種保存の世代間リサイクルの一契機であり、養育は「そだてる・そだてられる」の世代間リサイクル、教育は大人の文化伝達の世代間リサイクルにほかならない。誕生した子供は機能的には完成された大人をめざして発達しているようにみえるが、種保存と文化伝達のもっと大きな視点にたてば、子供は親になるべく発達するのだともいえる。

4. 生涯発達論

こうして、エリクソンのライフ・サイクル論は今日の生涯発達論にひきつがれてきた。それはたんに、それまでの能力発達論的な発達心理学に成人期以降をつぎたしたものではない。それはむしろ、誕生から死への生涯過程において、(1)個体能力の増大・減衰の次元、(2)対人関係の多様化・深化の次元、(3)社会・文化的な制度や慣習の影響の次元という3つの次元がからみあい、いくつかの節目をかたちづくりながら時間的に変容していくという視点を一貫してもつということである。

このようなライフ・サイクルを重視した生涯発達心理学の視点に関心がもたれるようになったのは、ひとつには通常の発達の裏側に、平均から逸脱した「つまずく」子供やその親の問題があることが発達臨床心理学的観点から強調されるようになってきたからであり、いまひとつは高齢化にともなう老年期と死の問題が人々の関心をあつめるようになってきたからである。エージング

X. 老年期と死の問題

生あるものはいつかは死をむかえねばならない。生涯発達の終末段階の課題は、老いと死をめぐる問題に各自がどのように対処するかである。これまで死はいむべきもの、さけるべきものとして、生の対極に位置づけられ、発達心理学の学問的関心からも遠ざけられてきた。しかし、いまや認知症(痴呆:ちほう)、介護、独居、孤独、尊厳死等々、老年期固有の問題が社会的関心をよび、研究者自身が「他人ごとではない」自分の問題としても考えねばならなくなっている。それは平均寿命の伸びとともに、病気をしないかぎりだれもが80歳過ぎまで生きる時代になったからであり、しかも、これまでにそのような高齢化社会を文化として経験してこなかった中で、高齢化を生きねばならない状況が生まれたからである。老年学:老年医学

1. 衰えと死との闘い

要するに、これまでは死の病とたたかい、それにやぶれて、人格としての尊厳をたもちながらも命をうばわれるというのが死のあり方であった。それに対して、認知症が悪化し自分がだれであるかもわからない、尊厳をうしなった状態で死をむかえるということに、われわれみながとまどい対処しかねているということである。

老いを支配するのも遺伝子プログラムである。だれもがいつまでもわかくと思いながら、老いは確実におとずれてくる。視覚がおとろえることによって、文字がよみにくくなり本がよめなくなる。聴覚がおとろえることによって人の話がききとりにくくなり、コミュニケーションがおっくうになる。平衡感覚がおとろえることによって、ちょっとバランスをうしなっても復元することができずにころび、骨折する。その経験がおそろしいので散歩ができず、さらに運動機能の衰えが加速する。要するに、老いは確実にかつての広大な世界を縮減してしまう。それはふせぎようのないひとつの宿命であるが、しかし、機能の不使用がさらに機能の衰弱を進行させるという悪循環をまねいてもいる。

2. 老人の介護

乳児期は子供の機能の未熟を養育者が補助することによって、あたかも乳児がその機能をもっているかのように事がはこび、それによって乳児は自らの力以上の世界にはやく参入することができた。老年期にもそれと似たようなことが生じる。つまり、単独では転倒がおそろしくて散歩にでられなくとも、だれかが手をさしのべて介助してくれることで散歩にでることができ、運動機能の過剰な衰えをふせぐことができる。この場合、介助のあり方が機能の衰えの進度をある範囲で緩和すると考えることができる。あるいは手すりがあることによって、または杖があることによって、老人の運動機能の衰えは相当にカバーすることができる。

3. 老いと死の受容

おとろえた機能の可能な補助や介助に関するこれらのノウハウを、われわれの文化は今ようやく手にいれかけたところである。いっぽうでは、そのような機能的衰えを緩和して、それまでの生活を可能なかぎり長く持続しようという「対策」がある。しかし他方では、そのような衰えに正面から対抗しようとするのではなく、むしろそれをも自然なこととして受容する心の持ち方が重要だとする見方もでてきている。それは死を敵視するのではなく、人生の終末に固有のものとして受容する精神である。

4. 老人の人格的尊厳

老年期の人格面についてはどうか。老人もかつては数多くの役割期待をにない、それにそうことによってアイデンティティを確認し、尊厳をもって生きていた時代があった。それが、いまや老いて当時の役割期待をひとつずつはずされ、かつてのアイデンティティを維持できなくなっている。そしてそれが、認知症を必要以上にはやくもたらしている可能性もある。何かうちこむ仕事をもっている人は90歳をすぎても生き生きしている事実にてらせば、老年期のアイデンティティの拡散と、気力の衰えや認知症の進行との関連が解明される必要があるだろう。それとともに、いむべき死ではなく、じゅうぶんに生きてむかえる悠々たる死という死生観を、各自が老年期を生きる中で身につけねばならないのである。

XI. 発達のつまずき
1. 障害によるつまずき

従来の能力発達の枠組みの下では、障害による発達のつまずきとは、平均的な能力発達のラインから逸脱することであり、したがってそれへの援助も、いかに「おくれた」能力をとりもどし、通常の発達ラインにもどるか、つまりいかに発達促進的な援助をあたえるかという発想の上にくみたてられてきた。多くの能力は時間連鎖の中であらわれてくるから、障害のためにある能力が欠落すると、それを必要条件としてあらわれる次の能力があらわれてこないという問題があり、それも発達促進的援助が強調される理由であった。

しかし、そのために発達促進的な訓練ばかりの生活になると、たとえそれが子供の将来のためにという善意からなされたものであっても、子供の人格には負担になることが多くなり、しだいに指示をうけいれるだけの受動的な構えを身につけてしまって、積極的に世界にでて、たのしく前向きに生きるという人間本来の姿が阻害される面があらわれてくる。しかも、家族との対人関係においてさえ、いっしょにたのしむという機会が少なくなり、そのことによって人格発達の面に問題をのこしがちであることが指摘されるようになってきた。

こうして、障害の援助をどのように考えるかがむずかしい問題になってくる。つまり今を否定して能力発達を促進しようという枠組みと、今を肯定してたのしい関係を数多くつくろうという枠組みとの対立である。そしてこの問題にどうとりくむかに、「なにが発達なのか」という親や教師の発達観が大きくかかわってくる。

障害児教育

2. 養育者との関係

身体的には健康に生まれても、たとえば乳幼児虐待、遺棄、養育放棄、過干渉など、養育者との関係に問題をかかえると、子供の発達そのものが阻害されてくる。つまり、人格面に問題をかかえこむことはもちろん、身体発育が阻害されたり、身体症状があらわれてきたりすることさえある。

この場合、つまずきへの援助は、子供のうっ積した情緒の解放もそのひとつであるが、本質的には、養育者をはじめ子供をとりまく人たちの前向きの姿勢をとりもどすことにもむけられる必要がある。実際、養育者もまたその周囲の人たちとの人間関係にきずつき、それによって子供との関係をむずかしくしていることがほとんどであるから、養育者の心理的な立ち直りがむしろ子供の問題解決にとって必要な場合が少なくない。養育者が精神的健康をとりもどして前向きに生きはじめると、子供は元気になっていくことが多い。

3. 自己疎外の度合い

青年期になって自意識にめざめると、自分を対象化してとらえることができ、きびしい自己評価をくだすことができるようになる。その分、自己疎外が生まれる可能性もでてくる。人の言動が気になり、それにふりまわされるばかりでなく、理想が高すぎるためにそれを実現できないことによって自己卑下が生まれ、「自分はだめだ」「どうせだれも自分をみとめてくれない」「自分は生きているに値しない」といった自己否定的な感じが強まり、自己不全感にとりつかれるようになる。

そこに幼少のころの障害や親の離婚など、なんらかのスティグマがからむと、他者がみな自分を変な目でみているというような被害者意識にかられ(それが現実にそうである場合にはなおさらである)、さらに自己疎外(疎外)の度合いが強まることがある。これらはある意味でコフートのいう自己愛がきずつけられることによるものである。これによって自己破壊衝動が強まると、自殺をこころみたり、非行などの反社会的行動につながったりすることがある。

成人期以降においてもこのテーマはあらわれてくる可能性がある。そもそも、人の生涯の発達は平坦な道のりではなく、つまずく可能性はだれもがもっているとみるべきであろう。

フロイトは人生は重い荷をせおって旅する旅人のようなものだといった。そのつらさにたえる強靭(きょうじん)な人格をはぐくむのが人の生涯の課題なのであり、発達心理学はそのような視点をもって、人の生涯をながめようとする。そのとき、発達のつまずきも、常識とはことなる人間的意味をもってたちあらわれてくる。