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考古学
I. プロローグ

考古学とは文字どおり、人類の原始・古代の生活様式の研究である。過去の多くの考古学者は、考古学を「古代の人々が生活につかった遺物(遺構と遺物)の体系的な研究」と定義し、また「古代の人々の生活の再現」と定義していた。

20世紀前半以降、アメリカでは考古学は人類学の一部であるという見解が主流になり、人類学は人類の文化に焦点をおいて研究し、考古学はそれらの文化が生んだ物質的なもの、すなわち遺物の研究をおこなうと考えられるようになった。つまり考古学では、古代の土器などを文化年代決定の指標とし、またその物自体の美術的価値を研究することに主眼をおいていた。

日本の考古学は歴史学の一分野であり、記録文書による文献学的方法をおぎなうかたちで発掘資料をもとに歴史研究をおこなう学問ととらえられてきた。アメリカを中心に考古学は人類学の一部という考えが強いが、ヨーロッパでは先史時代を考古学的に研究する先史学という伝統的な学問分野があり、歴史学や人類学と関連をもちながらも統合された分野として独立している傾向が強い。

現代考古学は、関連する多くの分野と連携している。たとえば、年代を決定するときも、しばしば他の学問分野で開発された技術がつかわれる。物理化学者が開発した放射性炭素年代測定法(炭素14法)・フィッショントラック法は、原子物理学的手法によって現在から何年前の遺物かが数十年から数万年単位でわかる(絶対年代)。地質学者が開発した地質学的年代決定法では、火山灰や堆積(たいせき)土などの地層の上下関係によって年代を知ることができる。古生物学者による動物層の研究や堆積層にふくまれる生物化石から評価する花粉分析法・プラントオパール法などもある。さらに考古学者は、X線写真やファイバースコープなども調査に活用し、古代の生活様式を再現するため人類学・建築学・金属冶金学・社会学・人口統計学・地理学の分野で開発された技術や成果もつかう。年代測定法

II. 考古学の歴史
1. 近代的考古学の発展

考古学の歴史はヨーロッパにはじまる。ルネサンスから18世紀までつづいた古物収集家による古代ギリシャ・ローマを中心とした美術品などの収集がその源流である。ドイツのウィンケルマンは18世紀後半、このギリシャ・ローマ美術の様式(考古学では型式)的発展を説き、近代的考古学の先駆者となった。そして18世紀末~19世紀前半、3つの出来事がおこる。

1つは1799年に、のちにアメリカ大統領になるトマス・ジェファソンがバージニア州の所有地内の塚を発掘した報告文を発表したことである。2つ目はほぼ同じ時期、イギリスのフレールが前期旧石器時代(アシュール文化)のハンド・アックス(握斧:あくふ)を発見し、そこから人類の行動を解明しようとしたことである。3つ目の出来事がもっとも重要で、デンマークのトムセンによって石器時代・青銅器時代・鉄器時代という3時代区分法が生まれた。それまで混沌(こんとん)としていた先史時代の遺物をこの3時代によって整理し、人類は石器時代から青銅器時代そして鉄器時代とあゆんできたと提唱したのである。

このころフランスやイギリスでも考古学的研究がはじめられている。1822年にはフランスの古代エジプト学者シャンポリオンがロゼッタ・ストーンのヒエログリフ(古代エジプトの聖刻文字)を解読し、19世紀半ば、イギリスのローリンソンは3カ国語で書かれたビストゥン碑文の古代ペルシャの楔形文字を解読、聖書に関係する中東地域の古代研究が飛躍的に発展することになる。これらをはじめ考古学研究はイギリスのハットンやライエルら18世紀後半~19世紀前期の地質学者たちの業績におうところが大きい。またライエルの斉一説はダーウィンの進化論の出発点になった。

それにつづく新しい時代は1859年前後、ダーウィンとウォーレスが人類の文化的進化と関連する有機的進化論を発表したときにはじまった。そしてその後、旧石器時代の基礎的研究がモルティエの旧石器時代区分(いわゆるモルティエ編年)をもとにフランスではじまる。このころ、さまざまな発掘が中東やギリシャ・ローマでおこなわれたが、シュリーマンによる1870年からのトロイアの発掘はもっとも有名である。トロイアではシュリーマンの死後も発掘がつづけられた。

また、イタリア北部のポー川周辺やスイスのボーデン湖畔などの杭上住居跡の調査、デンマークでのバルト海地方の発掘調査、イギリスにおける古代の古墳や村の発掘など、ヨーロッパ各地の調査の結果、すぐれた考古学技術や方法も発達した。ヨーロッパの考古学者はアメリカへも関心をむけ、ミシシッピ文化(8~16世紀)の遺跡を研究するための調査団が派遣された。カホキア

2. 20世紀前期の発掘の成果

20世紀になると19世紀に確立された考古学方法によって、発掘調査が世界各地でおこなわれるようになる。

20世紀前期は、中東が最大の考古学の調査現場となった。1901年、フランスの調査隊によりイランのスーサでバビロン王ハンムラピの「ハンムラピ法典」が発掘されている。22~34年、イギリスのウーリーはウルを発掘、またエバンズは1900年にクレタ島で発掘をはじめてクノッソス宮殿を40年近く調査した。ブレステッドとシカゴ大学東洋研究所はイランを調査し、イギリスのカーターとカーナーボンはエジプトで王家の谷などを発掘した。19世紀からフランスとイギリスがアッシリアの首都ニネベの調査をはじめ、20世紀前半にはイギリスのトンプソンが本格的に発掘している。

1902年にはスペイン北部のアルタミラ洞窟など旧石器時代の調査がおこなわれ、中国・ビルマ(ミャンマー)・インド・ジャワ・中東・アフリカでは石器など旧石器時代の遺物が発掘された。前期旧石器時代の存在が各地で確認され、石器型式学が確立した。アメリカでは26年、ニューメキシコ州フォルサム遺跡から石器(尖頭器:せんとうき)とともに大型動物の骨が出土した。これは、のちアメリカ大陸最古の人類文化とされるパレオ・インディアン文化期のもので歴史的大発見といわれた。

古代ギリシャ・ローマ時代を対象とする古典考古学の分野でも、研究成果は膨大なものとなった。新石器・青銅器・鉄器時代の調査が多くの国でおこなわれ、なかでもデンマークとイギリスの考古学者らの活躍がめざましかった。また年間の沈泥量をもちいた泥炭層位研究法をはじめ、花粉分析法・微細遺物研究法・航空写真法などの新技術が開発されている。

3. ニュー・アーケオロジー(新考古学)

1950年代、アメリカの若い考古学者の中に文化的変化や年代決定をしるすだけでなく、それがなぜ、どのようにしておこったかを理解しようとする動きが出てくる。60年代になると、アメリカのテーラーらはこれまでの研究が年代学を重視しすぎていると非難し、現在の文化人類学的データから過去の文化を解釈しようとした。つまり、現代に生きている民族の生態モデルを発掘資料の解釈に応用しようとしたのである。彼らの見解では、考古学者は土器の型式をもとに年代を決定することで満足すべきではなく、データをあつめて仮説を出し、演繹的にアプローチすべきであるとした。彼らの目標は文化的変容の法則を科学的に確立することだった。ひとつの地域の考古学調査によって変化の過程を理解すると、ほかの地域にも適用できる概念が生まれると考えた。

この新しい動きの指導者がアメリカのビンフォードである。彼は1960年代にニュー・アーケオロジーとよばれる分野を開拓、文化人類学者と同じように伝統社会に生きる人々の生態を調査し、仮説をたてた。その基本的特徴は、(1)進化論を使用している、(2)分析にはさまざまな学問の調査方法をもちい、コンピューター技術なども駆使する、(3)システム論を使用している、などである。60年代の調査の成果がいかされ、70~80年代にニュー・アーケオロジーの科学的法則化がかなりすすんだ。ニュー・アーケオロジー学派の仕事は、現在の考古学に多くの影響をあたえている。

その一方で最近では、炭素14法を基盤としたヨーロッパ先史時代の年代観が、測定方法の欠陥のため不正確な部分があることが明白になってきた。それにともない他の年代観も修正をせまられ、今まで考えられていた以上に先史時代の文化は発達していたことが明らかになりつつある。たとえば、冶金技術は中東で発明され、各地に広がったと考えられていた。しかし、現在では世界のいくつかの遺跡で冶金がおこなわれたことがわかり、1カ所から世界に広まった発明ではなかったと考えられるようになった。

4. 日本の考古学

江戸時代までは好事家(こうずか)による「好古」学だったが、1877年(明治10)にアメリカ人のモースがおこなった東京の大森貝塚の発掘調査が日本の考古学の幕開けとなった。また84年、東京大学に隣接する本郷弥生町で1個の弥生土器が発見され、それまで知られていた縄文文化とことなる弥生文化の存在がはじめてわかった。

明治30年代後半には法隆寺の再建・非再建論争が考古学・文献学・美術史学の分野で活発となり、考古学者らによる1939年(昭和14)の発掘で若草伽藍跡が発見され、再建説が定説化する。31年には兵庫県の明石(あかし)西方の西八木海岸でみつかった化石人骨から、いわゆる明石原人(明石人骨)の存在をめぐって「原人論争」がおこり、日本における旧石器文化の存在もからんで問題となった。

敗戦後に科学的な実証主義にもとづく考古学が本格的にスタートし、1947年からはじまる静岡県の登呂遺跡の発掘、49年の群馬県岩宿遺跡での旧石器文化の発見などがあいつぐ。50年には文化財保護法の公布によって、埋蔵文化財も保護されるようになり、60年代に高度経済成長がはじまると開発にともなう発掘調査が多くなる。保存運動も各地でおこり、平城宮跡(平城京)、難波宮跡など貴重な遺跡がのこった。しかし破壊される遺跡のほうがはるかに多かった。東京都の宇津木遺跡で64年にはじめて発見された方形周溝墓といわれる墓の形態などは開発がすすむにつれ全国で発見されるようになった。

1972年に発見された奈良県高松塚古墳の彩色壁画、86年から本格的調査のはじまった佐賀県吉野ヶ里遺跡、92年(平成4)にはじまった青森県三内丸山遺跡、98年に和同開珎よりはやく鋳造されたという富本銭が出土して話題となった奈良県飛鳥池遺跡、あるいは2000年に弥生人の脳の一部がくさらずにみつかった青谷上寺地遺跡などは戦後の重大発見にかぞえられる代表的なものである。なお、青森県外ヶ浜町の大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)で出土した土器片が、最新の科学的年代測定法で1万6500年前のものとされ、土器の出現が数千年もさかのぼる可能性が指摘されるなど、科学技術の進歩や発掘法の改良によって今後、常識をくつがえす発見はますますふえるものと思われる。

2000年11月には、宮城県上高森遺跡の発掘調査現場で発掘責任者が石器をうめていたことが発覚、考古学会をゆるがす前代未聞のスキャンダルとなった。その結果、上高森遺跡のほか、座散乱木遺跡や馬場壇A遺跡など、彼がかかわった旧石器時代の遺跡すべてが否定された。また、教科書の旧石器時代に関する部分の削除や訂正がおこなわれるなど、日本の考古学者たちがきずいてきた国民の信頼は大きくぐらついた。

III. 手段と技術

考古学の作業は、次の段階にわけられる。

1. データ収集

遺跡現場での作業をはじめる前に現存する文献記録があれば、その検討が必要である。そしてさまざまな技術を駆使して遺跡の位置を測定し、確実なデータ収集をめざす。とりわけ20世紀中ごろには、航空写真が遺跡の現場設定に重要な方法となった。1970年代からは地中レーダー、地下センサー(センサー)、電気抵抗器などすぐれた新技術がつかわれるようになった。水中考古学の分野でも、水中音波探知機などが導入され、水中にしずんだ難破船や積荷などを発見する方法が大きく進歩した。

地中にうもれた遺跡の調査では、自然に堆積した地層から人工遺物をみつけるために発掘作業をおこなう。堆積する地層から遺物などのデータをえることによって、その遺跡の明確な年代を推定し、それぞれの時代の文化的体系の復元が可能となる。

発掘の目的は年代の決定と、説得力のある研究報告をおこなうためのデータ集めである。年代をきめるのにもっとも確実な方法は、きれいな層のある現場をほることだが、多くの学問分野の技術を駆使して年代決定データは収集される。こうしたデータは動物学・植物学・地質学的調査や土壌・気候の研究などの助力をうけて、しばしば生態系や環境の復元にも役だつ。

2. 年代を決定する

年代決定は考古学のもっとも重要な課題とされてきた。基本的には、あらされていない地層では下層のほうが古く、上層が新しいという層位学にもとづいて遺跡・遺物の新旧をきめる必要がある(相対年代の決定)。しかし、層位学だけが相対年代を決定する唯一の方法ではない。層の地質学的年代や同時期の動物化石や花粉・木材のような植物遺物の年代、石器や土器に代表される型式分類にもとづいて相対年代をきめるなどの方法もある。自然科学的年代決定法として炭素14法のほか、フィッショントラック法、熱ルミネセンス法などももちいられる。これらは相対比較によって年代をきめるのではなく、現在から何年前の遺物であるかを科学的にもとめるので絶対年代とよばれる。年代測定法

3. 文化的位置付けと総合的解釈

精細な発掘により、遺物や遺跡の文化的位置が決定される。その地域に、いつどのような文化がいとなまれたかという研究は、通常年代の決定にもとづいておこなわれるが、過程はより複雑である。この場合、それぞれの人工遺物は年代をきめる指標としてだけではなく、人類の活動した結果、あるいはその一部とみなされる。さまざまな学問分野の研究方法を活用して遺物の文化的位置、つまり、その時代に生きた人々の文化の内容や生態系との関係なども明らかになる。たとえばゴミ、武器などの道具類、動植物などの遺物や炉跡、住居跡から生活のようす、生態系、季節ごとの集落のパターン、交易の習慣などがわかる。墓から出る遺物や埋葬方法からは、古代のとくに親族関係、階級、身分、宗教的活動などを知ることができる。

これらのデータをもとに復元された遺跡の全体像は関連地域をふくめた全体的な文化や歴史事実、あるいは生態系と統合させるようこころみられる。これは文化的変容の原因を明確にするための有力な方法で、変化がどのようにおこなわれたかだけではなく、なぜおこったのかを明らかにする試みである。

IV. 考古学成果

これまで考古学とはどんな学問かについてふれてきた。次に考古学のこれまでの成果と、最近の1~2世紀に発掘された代表的な遺跡・遺物についてのべる。

1. 日本

2000年(平成12)11月に発覚した旧石器発掘捏造(ねつぞう)事件の結果、前期~中期旧石器時代のものとされてきた遺跡のほとんどが否定された。しかし、9万~8万年前の可能性のある岩手県遠野市の金取遺跡(かねどりいせき)の調査がおこなわれ、長野県飯田市で後期旧石器時代(約3万5000~1万数千年前)以前とされる竹佐中原遺跡が発見されるなど、旧石器文化の存在がすべて否定されたわけではない。今後は信頼のおける遺跡をもとに議論され、新しい旧石器研究の規準づくりがおこなわれることになる。岩宿遺跡

旧石器時代につづく縄文時代には、世界史的にみても最古といえる約1万数千年前に土器がつくられはじめた。最初の土器は、粘土をこねてつくった無文のものや、簡単な無文土器に粘土の小粒や紐(ひも)をはりつけて焼いたものだったが、その後、縄文中期(前3000~前2000)に土器は飛躍的に発展し、種類もふえて精巧さをきわめた。

縄文時代の人々は採集・狩猟・漁労を主とする生業をいとなみ、貝塚をもち、半地下式の竪穴住居が10~20軒ほどあつまって1集落とすることが多かった。各集団間の交流・交易は活発で、丸木舟などをつかって100~200kmもはなれた地域間を移動していたこともわかっている。しかし、鹿児島県の上野原遺跡のように、すでに定住していた早期の集落が発見され、青森県の三内丸山遺跡では、中期の大集落がみつかり、一時は500人にもなる集団が1000年以上も長期間居住していたことが判明。従来の縄文時代のイメージが大きくかわりつつある。亀ヶ岡遺跡

約2400年前、中国大陸・朝鮮半島から稲作農耕と金属器(青銅器・鉄器)をもつ集団が日本列島に移住したことにより、弥生時代がはじまった。縄文時代にも原始的な栽培農耕がおこなわれていた可能性は高いが、本格的な稲作は弥生時代にはじまった。集落単位で水田をつくった跡や、収穫後の稲を管理する倉庫など前代にはなかった建物をふくむ大規模な集落跡がこれまでにみつかっている。稲作は弥生中期に東北地方中部まで広がり定着する。

集団農耕を基盤とした弥生時代には階級的な身分制度も生まれ、弥生時代を代表する方形周溝墓や墳丘墓でも、墓の規模・内容・場所・遺物などに明らかな差がみえる。第2次世界大戦前や戦中に存在がわかり、戦後に発掘された福岡県の板付遺跡や静岡県の登呂遺跡は、この時代の遺跡として有名である。近年では、佐賀県の吉野ヶ里遺跡が弥生時代の大環濠集落遺跡として、鳥取県の妻木晩田遺跡が「クニ」形成期の大集落遺跡として知られるようになり、同じ鳥取県の青谷上寺地遺跡では3人分の頭蓋骨(とうがいこつ)から脳の一部がみつかり話題となった。

日本の古墳の代表である前方後円墳は、3世紀前半につくられはじめる。はじまりは奈良盆地の南と思われているが、邪馬台国の所在地の問題とからんでいまだ明確な答えは出ていない。しかし2001年、奈良県桜井市の纏向遺跡にある勝山古墳から出土したヒノキ材を年輪年代法で測定したところ、「紀元199年プラス12年以内」であることがわかり、古墳の出現時期を3世紀前半とする有力な資料となった。さらに、木材が伐採まもなく使用されたとすれば、3世紀初めの可能性さえあり、卑弥呼の時代にはすでに古墳がつくられていたことになる。邪馬台国大和説の有力な証拠ともいわれた。前期の前方後円墳は奈良盆地に多いが、ほとんどが陵墓に指定され発掘できないため、その実態は不明なことが多い(天皇陵)。

5世紀になると、応神天皇陵・仁徳天皇陵とつたえられる古墳など、全長400mをこえる大型の前方後円墳が河内平野などにあらわれ、全国にも大型前方後円墳が築造されはじめる。また1985年に未盗掘のまま発掘され話題になった奈良県の藤ノ木古墳は、6世紀後半の円墳である。7世紀後半になると宮都が建設される一方で古墳も小型となる。彩色壁画で有名な高松塚古墳がその代表とされる。

本格的な宮都は7世紀末につくられた藤原京にはじまり、平城京、長岡京、平安京と順次宮都の規模は拡大していく。最新の発掘調査で藤原京がかなり大規模だったことが判明するなど、宮都の発掘調査によって文献史学では不明な点が次々に明らかにされてきている。一方、8世紀以降各地に建立された国分寺や、国府などの発掘も全国的におこなわれている。さらに郡衙(ぐんが)などの地方官衙遺跡も近年発見例が増加している(官衙・国衙遺跡)。歴史考古学

2. 中国

中国の考古学は、19世紀末~20世紀初めの日本と欧米人の調査にはじまる。鳥居龍蔵は新石器時代と漢代の遺跡を調査し、浜田耕作は漢代の墓を発掘している。雲岡石窟の重要性を指摘し、その後の調査のきっかけをつくったのも日本人だった。

オーストリアの古生物学者ツダンスキーらは北京市南西郊外の周口店でシナントロプス(北京原人)の歯を発見、スウェーデンの地質学者アンダーソンが1926年に報告した。その後、動物の骨や石器、火をつかった炉とともに40体分以上が発見されている。

中国北部では、狩猟、採集生活をいとなんでいた旧石器時代の遺跡が山西省丁村(ていそん)などで発掘されている。旧石器時代の人々は水辺でキャンプ生活をし、石器を使用していた。のちには植物栽培や家畜飼育もはじまる。1970年代には前6000~前5000年にさかのぼる磁山文化や裴李崗文化という新石器時代早期の遺跡が黄河中流域でみつかった。中国の稲作の起源は諸説あるが、もっとも古いとされる栽培稲の籾殻(もみがら)が長江下流の上山遺跡(浙江省浦江県)から大量にみつかっている。これは前8000年ごろのものである。前7000年ごろの長江中流域の彭頭山遺跡(ほうとうざんいせき)からは籾痕(もみこん)のある土器、同じく長江中流域の遺跡から前6000年前の栽培稲1万2000粒、さらに長江下流域の河姆渡遺跡でも籾殻がみつかっている。長江下流域では前4000年ごろの水田遺構も発掘されており、前5000~前4000年ごろまでには本格的な農耕生産がはじまっていたと考えられ、農耕に基盤をおく長江文明の存在が明らかになった。三星堆遺跡

中国北西部の黄河中流域では、磁山・裴李崗文化につづいて前4800年ごろから仰韶文化をになった人々がいた。この文化には地域差があるが、1953年に発見された西安市の半坡遺跡の調査では、野生植物を採集し、アワやカラシナを栽培していたこと、集落が環濠でかこまれていることなどがわかっている。村の中心には集会場などの公的建物と思われる大きな建物がある。縄文陶や彩陶、織物もみつかった。

仰韶文化は、前2900年ごろ竜山文化にひきつがれていく。また山東省域でも卵の殻のようにかたい黒陶を特色とする竜山文化が発達した。

竜山文化の時代をへて、やがて青銅器時代に属する殷・周王朝が生まれた。殷王朝に関する資料は河南省鄭州市近郊の遺跡に多く、殷代には身分の差など社会面や政治面で大きな変化があり、中国最古の文字である甲骨文字があらわれた。殷代の中心地だった鄭州からは城壁や宮殿の跡もみつかり、青銅製のすぐれた作品を生んだ職人や農民はその外にすんでいた。

1928年から中央研究院歴史語言研究所が河南省安陽市で殷代後期の中心地だった殷墟の発掘を開始した。49年以降は中国科学院(現、中国社会科学院)が調査を継続し、ここでみつかった1万点以上の卜骨(ぼっこつ)は、殷の文化を解明するうえで貴重な資料となっている。墓からは殉葬の跡や豊富な副葬品も出て、王族の政治的・経済的な権力の大きさがよくわかる。

3. インド・パキスタン

インドとパキスタンはイギリス統治時代に考古学調査がはじまり、アジアでもっともはやく考古学が成立した。18世紀末~19世紀にイギリスの学者たちが、アショーカ王石柱、サーンチーなどのストゥーパ、エローラ石窟寺院など仏教遺跡を中心に調査・発掘している。

1920年代になってインド考古学に新領域がひらかれた。インダス文明の発掘である。インダス文明(ハラッパー文化)はパキスタンにあるモヘンジョ・ダロやハラッパー、インドのドーラビーラが代表的な遺跡で、モヘンジョ・ダロはイギリスのマーシャルが、ハラッパーはサハニがともに20年代に発掘した。この文明の中心都市からは共通して赤地黒色文の土器、宝石、石・青銅製の道具、独自の形をした未解読のインダス文字のついた印章などが出土する。都市遺跡では整然と配置された焼成煉瓦の建物や排水・下水設備なども明らかとなった。インド美術

4. メソポタミア

メソポタミアの考古学は、リッチによるバビロン(1812)とアッシリアの首都ニネベ(1820)の詳細な観察・調査からはじまった。1843~45年にはフランスのボッタがニネベとコルサバード(現在のイラク)近くの遺跡を発掘し、その後イギリスのレヤードはニネベとニムルド(古代名カルフ)の発掘をおこなった。ドイツのグローテフェントらが古代ペルシャの楔形文字解読の端緒をひらき、ローリンソン、ヒンクスらはアッシリア・バビロニアの楔形文字を解読し、ニネベの石彫や何万点もの粘土板に書かれていた内容がわかった。

1903~14年、ドイツの調査団は前14~前9世紀にアッシリアの首都だったアッシュールの本格的な層位的発掘をおこない、高度な技術で煉瓦をつみ重ねた前3000年~3世紀の神殿や宮殿を明らかにした。これらの建物の楔形文字の碑文の多くから初期アッシリア文化やアッシリアのバビロニアへの依存関係、歴史などが明らかになった。1899~1917年、これよりさらに南方でコルデワイらドイツの調査団が、ネブカドネザル2世の時代に最盛期をむかえたバビロンの都市遺跡を発掘。青い彩釉煉瓦と奇怪な動物のレリーフでおおわれたイシュタル門、守護神マルドゥクの神殿、王宮などが代表的な建物である。アッシリアの発掘は現在もつづき、1949~63年にはイギリス人考古学者マローワンらがアッシリアの首都だったイラクのニムルドの宮殿や神殿を精密に発掘調査し、良質の象牙細工(ぞうげざいく)が何百点も出土した。

1877年、フランスのサルゼックは前2130年ごろの古代都市ラガシュを調査し、シュメールのグデア王(ほぼ前2144~前2124)の彫像を発見した。この発見により、シュメールの研究がはじまる。1889年、アメリカの調査団はシュメールの都市ニップールの発掘をはじめ、数万点ものシュメール語の楔形文字粘土板をみつけた。

1922~34年のイギリスのウーリーによるウルの発掘で、シュメールの王墓(前2500頃)と住居(前1800頃)が明らかになった。フランスのパロは1935~38年、51~54年にユーフラテス川中流域にあるマリ(現在のシリアのテル・ハリリ)を発掘し、前1800年ごろの大宮殿をみつけ、そこの文書庫などから2万点以上の粘土板文書を発見した。1928年にはじまったドイツ人によるウルク(現在のワルカ)の発掘では、前3500年ごろの建築物や現存最古といわれる初期の粘土板文書がみつかった。神殿などの壁や柱は華麗に装飾され、出土遺物も芸術的にすぐれたものが多く、巧みな職工技術が明らかになった。メソポタミア美術

5. シリアとパレスティナ

シリアとパレスティナの発掘は、人類最初の定住生活の研究にとってとくに重要である。ヨルダン川のほとりの平野にあるエリコ遺跡は、1952~58年、キャサリン・ケニヨンが発掘し、前8000年にここで農耕生活がおこなわれていた可能性のあることが明らかとなった。前2500年ごろにはシリア北部のエブラの王がシリアを統一したが、同地にさかえた文明については、60年代以降にイタリアのマッティエが発掘した多くの粘土板文書によって知ることができる。

1929年以来、フランスの調査団がシリアの地中海沿岸でウガリトを発掘した。前1900~前1200年ごろに繁栄した都市で、キプロス、クレタ、ギリシャの陶器は西方との交易をしめし、エジプト語のパピルス文書や楔形文字の粘土板文書などもみつかり、バビロニアやエジプトとも交流があったことがわかった。粘土板文書の中には世界最古のアルファベットのひとつといわれる文字の書かれたものがある。

6. エジプト

古代エジプトの調査は、1798年のナポレオンの遠征の際、同行した学者たちによってはじまった。翌年にはヒエログリフ、デモティック(民衆文字:ヒエログリフ略書体)、古代ギリシャ文字のきざまれた石碑ロゼッタ・ストーン(大英博物館蔵)が発見され、1822年にフランスのシャンポリオンがヒエログリフの解読に成功した。58年にはカイロ博物館の前身である保存陳列館が設立され、その後散逸していた古代エジプトの文化遺産の多くが収集された。

ナイル川流域の人類の痕跡(こんせき)は旧石器時代からみられるが、1920年代から中部エジプトの調査がおこなわれ、新石器時代後期の人々が豊かなナイルの土壌で農業をはじめ、オオムギなどをうえたと思われる遺跡が発見された。これはバダーリ文化とよばれ、前4500年ごろには農業とヤギ、牛の飼育、土器や編物づくりがはじまり、石器と銅がつかわれていたことがわかった。

1894~95年にイギリスのピートリーがナカダを調査し、2000以上の墓を発見、エジプトの先王朝時代のおよそ前3800~前3000年の文化が注目されるようになる。石や象牙製の剣先や柄の彫刻がメソポタミアのものと関連するなど、西アジアとの活発な交流も明らかになっている。北部エジプトでも、ファイユームなど先王朝時代の遺跡が1920~30年代に発掘された。

ナカダやアビドスでは権力をもつ一族や統治者が生まれ、先王朝時代末ごろから豪華な墓がつくられた。サッカラの遺跡には初期王朝時代の重要な墓地群があり、ここの階段ピラミッドとよばれる最古のピラミッドから、やがて石の斜面をなめらかにしあげたギーザのクフ王の大ピラミッドへ進化したことがわかった。

エジプト考古学は、最近まで墓や神殿を中心に研究され、多くの彫刻・絵画・工芸品などが発見されている。なかでも新王国時代第18王朝の王で前14世紀に統治していたツタンカーメンの墓は豪華な副葬品や黄金のマスクなどで世界的に有名である。これらは1922年にイギリスのカーターによってルクソール近くの王家の谷で発見され、埋葬されていた宝の大半は現在、カイロ博物館に所蔵されている。

同じ第18王朝でツタンカーメン王の義父でもある宗教改革王イクナートンは、アケトアテン(現アマルナ)に新しい首都をおいた。同地で1887~91年、アッカド語(バビロニア方言)で書かれた約400点の粘土板文書(アマルナ文書)がみつかり注目された。これらは、前1375~前1330年の中東地域の列強がエジプト王にあてた手紙である。

エジプトの王墓から出土した前15~前13世紀のミュケナイ文明の陶器は、ギリシャの考古学研究にとってもきわめて重要な資料である。またアレクサンドロス大王による征服(前332)後数百年の間、エジプト語にかわってギリシャ語がつかわれるようになったが、その間にしるされた数千点のギリシャ語パピルス文書が、カイロ南西約100kmのファイユームで発見された。そのほか、オクシリンコス(現バフナサ)などからも何千点ものパピルス文書がみつかっている。これらは当時の生活を細かくしるし、なかにはギリシャのソフォクレスやエウリピデス、プラトンらの著作本や、新約聖書に関係するものなどがある。エジプト美術

7. ギリシャ

石器時代・青銅器時代・鉄器時代とつづく時代の名称は、ヨーロッパの歴史の進展にあわせて、それぞれの時代にもっとも特徴的につかわれた素材から名づけられた。石器時代と青銅器時代の間に過渡期として銅器時代(金石併用時代)をもちいることもある。

ギリシャの考古学は青銅器時代の研究からはじまる(エーゲ文明:ミノス文明)。青銅器時代につづく鉄器時代は前1200年ごろのミュケナイ文明の崩壊後に発達し、5つの考古学的時代に区分される。陶器にみられる様式から原幾何学様式期(ほぼ前1100~前900)、幾何学様式期(ほぼ前900~前650)とよばれる時代のあとにアルカイク期(ほぼ前650~前475)、古典期(ほぼ前475~前323)とつづく。そしてヘレニズム期(ほぼ前323~前31)はギリシャ文化が地中海中央部やオリエントの地域に広まった時期で、そのきっかけはアレクサンドロス大王の大遠征である。

原幾何学様式期と幾何学様式期の範囲はギリシャ本土と小アジアのイオニア(西)の沿岸地域だった。そして幾何学様式期の末期~アルカイク期には、交易活動の拡大と人口の過密を解消するため、ギリシャの都市国家はシチリア島とマグナ・グラエキア(偉大なギリシャの意)とよばれた南イタリアや黒海沿岸地域に植民地をきずいた。考古学者たちは発掘によってこれらの植民地の詳細な年代を明らかにした。古典期以降は文献資料もふえ、年代決定の有力な武器となる。

アルカイク期~古典期にギリシャ本土のアテネ、スパルタ、コリントスなどの都市国家(ポリス)が繁栄するが、ヘレニズム期になると、小アジア沿岸のエフェソス、エジプトのアレクサンドリアなどの都市がギリシャ人やマケドニア人の手でつくられ、ギリシャ文化はローマへもおよんだ。ヘレニズム時代

エーゲ海最大の島であるクレタ島の最近の発掘によって、暗黒時代とよばれる鉄器時代初期の遺物がみつかった。クレタ島など地中海地域の調査では、現在大がかりな地形調査、動植物化石の分析、コンピューター処理といった新しい方法が駆使されている。

アテネは1834年に現在のギリシャの首都となって以来、考古学調査がおこなわれてきた。はじめギリシャの考古学者たちが、のちにはアメリカの考古学者たちが発掘し、建物跡とともに膨大な量の彫像・陶器・装飾品などを発見した。アテネのアクロポリス美術館は、85~91年に発掘されたアルカイク期の彫像群が所蔵されていることで知られる。ほかにもコリントスとスパルタなどが調査され、オリュンピアやデルフォイなど聖地の本格的な発掘は、ドイツやフランスの調査団が19世紀後半からおこなっている。ギリシャ美術

8. ローマ

イタリアでは旧石器時代から人類がすみ、ポー川流域の青銅器文化や鉄器時代初期のビラノーバ文化はよく知られているが、ローマに人がすみはじめたのは鉄器時代初期である。

ローマおよびローマ帝国の考古学は、前1000ごろにおこった鉄器時代、王が支配していた王政期(伝説の時代)、共和政期、帝政期にわけられる。王政期は前510年までとされ、エトルリア人による君主政治から共和政にかわったときにおわった。共和政期の終わりは、前31年にのちのアウグストゥス皇帝、オクタウィアヌスがアクティウムの海戦で敵に勝って権力をにぎったとき、または前27年に彼がアウグストゥスの称号をえて新しい支配体制をうちたてたときとされる。

20世紀に入って、鉄器時代と共和政期についての考古学的成果があった。ローマ七丘のエスクイリヌスやパラティヌスの丘では、鉄器時代の前1000~前800ごろにはじまる集落がみつかっている。また前7~前6世紀はじめに、いくつかの集落が統合して都市を形成、のちに貴族たちがエトルリア人の王にかわって共和政をしき中部イタリアを統治してゆく中心都市に成長する過程が明らかになった(エトルリア文明)。

共和政期の前2世紀はじめにローマはイタリアとシチリア全土を征服し、地中海東部にまで軍をすすめ、帝政期のはじめには地中海世界全域を支配した。ローマの領土拡大の軌跡を知るうえで各地にたてられたローマ式記念物の調査は役だつ。各地で地方色を加味したローマ様式の建物跡もみつかっている。ローマ人は前3世紀ごろ原始的なコンクリートを発明した。これは、石や煉瓦を骨材として石灰とまぜたもので、それまでの直線的な工法以外に新しくパンテオン(128頃)のアーチ型天井のような曲線的な建物の建設も可能になった。

帝政期の重要な考古学的記録は、ナポリ南部の埋没した都市ポンペイとヘルクラネウムである。紀元後79年のベズビオ山の噴火によってうめつくされたこの2つの都市は、18世紀に発掘調査がはじまり、現在も科学的な方法を駆使しながら、精細な調査がつづいている。

帝政期のアウグストゥス以降の皇帝たちはローマ帝国を拡大し、2世紀ごろにその領土は、北はイギリス諸島、東はカスピ海まで達した。ローマ帝国は同じ都市計画のもと各地に植民都市を建設。東西南北にのびる道路を中央で交差させ、碁盤の目を基本とした典型的なローマの都市をつくり、中心に公共広場であるフォルムやバシリカとよばれる市民ホールのような長方形の多目的建物などをたてた。ほかにも、高所にテラスのついた神殿、浴場、円形劇場(闘技場)、大競技場(キルクス)、図書館、屋内外の市場などがあり、大規模な公共上下水道施設をともなう例も多い。ローマ史:ローマ美術

9. アメリカ大陸

アジア大陸からベーリング海峡をとおってアメリカ大陸に新人の移動がはじまった時期については、さまざまな説が出されており定説はない。3万~2万年前の可能性もあるが、そのころの明らかな人類文化はまだ発見されていない。現時点でもっとも確実なところは1万5000~1万4000年前とする説である。アメリカのニューメキシコ州フォルサムで1926年、槍(やり)先形尖頭器が発見された。これはアメリカ大陸の人類文化として最古といわれたパレオ・インディアン文化のはじめての発見で、1万年前ごろにはすでに狩猟を中心とする生活をしていたことがわかった。

その後、同じニューメキシコ州クロービスでさらに古いパレオ・インディアン文化期の尖頭器がマンモスなどの骨とともにみつかり、近年ではバージニア州のカクタス・ヒルやチリのモンテ・ベルデでそれ以前の石器文化が発見されたという報告がある。

メキシコのテワカン川上流域の調査では、前5000年ごろの食糧のうち10%を栽培植物が占めることがわかった。小規模な栽培段階をへて、前2000年ごろにはトウモロコシを中心にマメやカボチャを栽培する農耕文化が中部アメリカに広がっていった。同じころにはアンデス地方でも農耕がおこなわれていたが、この地方に特徴的なのはリャマなどの家畜化がすすんだことである。彼らはワタやヒョウタンを栽培して布をつくったり、漁猟に利用したりもした。最近、ペルーのリマの北約200kmにあるカラル遺跡(前2600頃~前2000頃)が、アメリカ大陸最古の都市遺跡であるとする報告が出され、話題となった。大きな広場や台形のマウンド(ピラミッド)が6つ確認され、アンデス文明の黎明期(れいめいき)とされてきた時代に、すでにかなり高度な技術をもつ社会があったことをものがたる遺跡である。

メキシコ、グァテマラの中央アメリカと、ペルー、ボリビア北部、エクアドル南部のアンデス地域は、農耕を中心とする定住村落をつくるようになり、やがて両地域は独自の都市国家文明をきずいた。代表的なものがメキシコのアステカ王国(14~16世紀)とペルーのインカ帝国(帝国を拡大したのは15~16世紀)である。

メキシコではアステカ王国以前にオルメカ(前15~前7世紀)・テオティワカン(1~6世紀)・トルテカ(7~13世紀)などの文化があった。同時期に中央アメリカにはマヤ文化(前15~16世紀)をきずいた人々がいた。ユカタン半島を中心にすむマヤはすぐれた暦法や建築技術をもつマヤ文化を発達させ、最盛期は3~9世紀である。神殿建築で有名なパレンケでは1952年に王墓が発見され、石碑には象形文字(ヒエログリフ)が書かれていた。ボリビアではティアワナコ(3~6世紀)が、ペルーではチャビン文化(前9~前3世紀)とチムー文化(14~15世紀)がインカ帝国以前に繁栄した(チャビン・デ・ワンタル)。

こうした帝国に共通する特徴は、都市国家であること、階級制度、複雑な交換経済、記念碑的な建物、数の概念、集約農業をもっていたことなどである。アステカ、インカの都市国家は、16世紀にやってきたスペイン人に征服された。アメリカ先住民:チチェン・イッツァ:マチュ・ピチュ:モンテ・アルバン:プレ・コロンビアン美術