考古学
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考古学
II. 考古学の歴史
1. 近代的考古学の発展

考古学の歴史はヨーロッパにはじまる。ルネサンスから18世紀までつづいた古物収集家による古代ギリシャ・ローマを中心とした美術品などの収集がその源流である。ドイツのウィンケルマンは18世紀後半、このギリシャ・ローマ美術の様式(考古学では型式)的発展を説き、近代的考古学の先駆者となった。そして18世紀末~19世紀前半、3つの出来事がおこる。

1つは1799年に、のちにアメリカ大統領になるトマス・ジェファソンがバージニア州の所有地内の塚を発掘した報告文を発表したことである。2つ目はほぼ同じ時期、イギリスのフレールが前期旧石器時代(アシュール文化)のハンド・アックス(握斧:あくふ)を発見し、そこから人類の行動を解明しようとしたことである。3つ目の出来事がもっとも重要で、デンマークのトムセンによって石器時代・青銅器時代・鉄器時代という3時代区分法が生まれた。それまで混沌(こんとん)としていた先史時代の遺物をこの3時代によって整理し、人類は石器時代から青銅器時代そして鉄器時代とあゆんできたと提唱したのである。

このころフランスやイギリスでも考古学的研究がはじめられている。1822年にはフランスの古代エジプト学者シャンポリオンがロゼッタ・ストーンのヒエログリフ(古代エジプトの聖刻文字)を解読し、19世紀半ば、イギリスのローリンソンは3カ国語で書かれたビストゥン碑文の古代ペルシャの楔形文字を解読、聖書に関係する中東地域の古代研究が飛躍的に発展することになる。これらをはじめ考古学研究はイギリスのハットンやライエルら18世紀後半~19世紀前期の地質学者たちの業績におうところが大きい。またライエルの斉一説はダーウィンの進化論の出発点になった。

それにつづく新しい時代は1859年前後、ダーウィンとウォーレスが人類の文化的進化と関連する有機的進化論を発表したときにはじまった。そしてその後、旧石器時代の基礎的研究がモルティエの旧石器時代区分(いわゆるモルティエ編年)をもとにフランスではじまる。このころ、さまざまな発掘が中東やギリシャ・ローマでおこなわれたが、シュリーマンによる1870年からのトロイアの発掘はもっとも有名である。トロイアではシュリーマンの死後も発掘がつづけられた。

また、イタリア北部のポー川周辺やスイスのボーデン湖畔などの杭上住居跡の調査、デンマークでのバルト海地方の発掘調査、イギリスにおける古代の古墳や村の発掘など、ヨーロッパ各地の調査の結果、すぐれた考古学技術や方法も発達した。ヨーロッパの考古学者はアメリカへも関心をむけ、ミシシッピ文化(8~16世紀)の遺跡を研究するための調査団が派遣された。カホキア

2. 20世紀前期の発掘の成果

20世紀になると19世紀に確立された考古学方法によって、発掘調査が世界各地でおこなわれるようになる。

20世紀前期は、中東が最大の考古学の調査現場となった。1901年、フランスの調査隊によりイランのスーサでバビロン王ハンムラピの「ハンムラピ法典」が発掘されている。22~34年、イギリスのウーリーはウルを発掘、またエバンズは1900年にクレタ島で発掘をはじめてクノッソス宮殿を40年近く調査した。ブレステッドとシカゴ大学東洋研究所はイランを調査し、イギリスのカーターとカーナーボンはエジプトで王家の谷などを発掘した。19世紀からフランスとイギリスがアッシリアの首都ニネベの調査をはじめ、20世紀前半にはイギリスのトンプソンが本格的に発掘している。

1902年にはスペイン北部のアルタミラ洞窟など旧石器時代の調査がおこなわれ、中国・ビルマ(ミャンマー)・インド・ジャワ・中東・アフリカでは石器など旧石器時代の遺物が発掘された。前期旧石器時代の存在が各地で確認され、石器型式学が確立した。アメリカでは26年、ニューメキシコ州フォルサム遺跡から石器(尖頭器:せんとうき)とともに大型動物の骨が出土した。これは、のちアメリカ大陸最古の人類文化とされるパレオ・インディアン文化期のもので歴史的大発見といわれた。

古代ギリシャ・ローマ時代を対象とする古典考古学の分野でも、研究成果は膨大なものとなった。新石器・青銅器・鉄器時代の調査が多くの国でおこなわれ、なかでもデンマークとイギリスの考古学者らの活躍がめざましかった。また年間の沈泥量をもちいた泥炭層位研究法をはじめ、花粉分析法・微細遺物研究法・航空写真法などの新技術が開発されている。

3. ニュー・アーケオロジー(新考古学)

1950年代、アメリカの若い考古学者の中に文化的変化や年代決定をしるすだけでなく、それがなぜ、どのようにしておこったかを理解しようとする動きが出てくる。60年代になると、アメリカのテーラーらはこれまでの研究が年代学を重視しすぎていると非難し、現在の文化人類学的データから過去の文化を解釈しようとした。つまり、現代に生きている民族の生態モデルを発掘資料の解釈に応用しようとしたのである。彼らの見解では、考古学者は土器の型式をもとに年代を決定することで満足すべきではなく、データをあつめて仮説を出し、演繹的にアプローチすべきであるとした。彼らの目標は文化的変容の法則を科学的に確立することだった。ひとつの地域の考古学調査によって変化の過程を理解すると、ほかの地域にも適用できる概念が生まれると考えた。

この新しい動きの指導者がアメリカのビンフォードである。彼は1960年代にニュー・アーケオロジーとよばれる分野を開拓、文化人類学者と同じように伝統社会に生きる人々の生態を調査し、仮説をたてた。その基本的特徴は、(1)進化論を使用している、(2)分析にはさまざまな学問の調査方法をもちい、コンピューター技術なども駆使する、(3)システム論を使用している、などである。60年代の調査の成果がいかされ、70~80年代にニュー・アーケオロジーの科学的法則化がかなりすすんだ。ニュー・アーケオロジー学派の仕事は、現在の考古学に多くの影響をあたえている。

その一方で最近では、炭素14法を基盤としたヨーロッパ先史時代の年代観が、測定方法の欠陥のため不正確な部分があることが明白になってきた。それにともない他の年代観も修正をせまられ、今まで考えられていた以上に先史時代の文化は発達していたことが明らかになりつつある。たとえば、冶金技術は中東で発明され、各地に広がったと考えられていた。しかし、現在では世界のいくつかの遺跡で冶金がおこなわれたことがわかり、1カ所から世界に広まった発明ではなかったと考えられるようになった。

4. 日本の考古学

江戸時代までは好事家(こうずか)による「好古」学だったが、1877年(明治10)にアメリカ人のモースがおこなった東京の大森貝塚の発掘調査が日本の考古学の幕開けとなった。また84年、東京大学に隣接する本郷弥生町で1個の弥生土器が発見され、それまで知られていた縄文文化とことなる弥生文化の存在がはじめてわかった。

明治30年代後半には法隆寺の再建・非再建論争が考古学・文献学・美術史学の分野で活発となり、考古学者らによる1939年(昭和14)の発掘で若草伽藍跡が発見され、再建説が定説化する。31年には兵庫県の明石(あかし)西方の西八木海岸でみつかった化石人骨から、いわゆる明石原人(明石人骨)の存在をめぐって「原人論争」がおこり、日本における旧石器文化の存在もからんで問題となった。

敗戦後に科学的な実証主義にもとづく考古学が本格的にスタートし、1947年からはじまる静岡県の登呂遺跡の発掘、49年の群馬県岩宿遺跡での旧石器文化の発見などがあいつぐ。50年には文化財保護法の公布によって、埋蔵文化財も保護されるようになり、60年代に高度経済成長がはじまると開発にともなう発掘調査が多くなる。保存運動も各地でおこり、平城宮跡(平城京)、難波宮跡など貴重な遺跡がのこった。しかし破壊される遺跡のほうがはるかに多かった。東京都の宇津木遺跡で64年にはじめて発見された方形周溝墓といわれる墓の形態などは開発がすすむにつれ全国で発見されるようになった。

1972年に発見された奈良県高松塚古墳の彩色壁画、86年から本格的調査のはじまった佐賀県吉野ヶ里遺跡、92年(平成4)にはじまった青森県三内丸山遺跡、98年に和同開珎よりはやく鋳造されたという富本銭が出土して話題となった奈良県飛鳥池遺跡、あるいは2000年に弥生人の脳の一部がくさらずにみつかった青谷上寺地遺跡などは戦後の重大発見にかぞえられる代表的なものである。なお、青森県外ヶ浜町の大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)で出土した土器片が、最新の科学的年代測定法で1万6500年前のものとされ、土器の出現が数千年もさかのぼる可能性が指摘されるなど、科学技術の進歩や発掘法の改良によって今後、常識をくつがえす発見はますますふえるものと思われる。

2000年11月には、宮城県上高森遺跡の発掘調査現場で発掘責任者が石器をうめていたことが発覚、考古学会をゆるがす前代未聞のスキャンダルとなった。その結果、上高森遺跡のほか、座散乱木遺跡や馬場壇A遺跡など、彼がかかわった旧石器時代の遺跡すべてが否定された。また、教科書の旧石器時代に関する部分の削除や訂正がおこなわれるなど、日本の考古学者たちがきずいてきた国民の信頼は大きくぐらついた。