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ルイ14世
I. プロローグ

1638~1715 フランス国王。在位1643~1715年。ブルボン朝第3代の王。フランス絶対王政最盛期の王で「太陽王」とよばれる。治世の特徴は、国内統治機構の整備、長期にわたる対外戦争、唯一の宗教をめざした宗教政策、ルイ14世様式ともいわれるベルサイユ宮殿での豪華な生活にみられる。しかし、彼がいったとされる「朕(ちん)は国家なり」に象徴される強引な政治も晩年には破綻(はたん)の兆しをみせた。

II. 幼い国王

サンジェルマンアンレーの王宮で、ルイ13世とスペイン国王フェリペ3世の娘、アンヌ・ドートリッシュとの間に生まれた。両親の結婚後23年目にできた子であった。その5年後に父王が死亡し、ルイは王位についたが、幼少のため、王国の政治は摂政となった母アンヌ・ドートリッシュがにない、宰相マザランが補佐した。

幼年期に、のちの人生に大きな影響をもったフロンドの乱に遭遇した。1648~49年、50~53年に2次にわたって全国にひろがったこの内乱で、ルイとマザランは一時パリをのがれなければならなかった。ルイにとって、内乱を主導した貴族の勢力を弱めることは生涯の課題となり、また、内乱を思いださせるパリにすむことをきらい、のちのベルサイユへの宮廷移転の動機ともなった。

ルイは13歳になった1651年、成人の宣言をおこなったが、政治指導はマザランにゆだねられたままだった。マザランはフロンドの乱を終結させたのち、地方監察官を全国に派遣して常時滞在させるようになり、地方支配の実権を各地の名門貴族の手からうばう措置をとった。また、三十年戦争終結後もつづいていたスペインとの抗争は、59年にフランスの優勢のうちに決着し、フランスの北部と南部でハプスブルク家の領地を獲得するとともに、ルイとスペイン王フェリペ4世の娘マリア・テレサとの結婚をとりきめた。婚儀は60年にとりおこなわれ、二人の間には6人の子供が生まれた。

III. 親政の開始

1661年にマザランが死亡すると、23歳のルイはみずから政務を担当することを宣言、宰相をおかず、数人の重臣からなる最高国務会議を主宰し、重要な事柄についてはみずから決定をくだした。また全国を30ほどの徴税管区に区分し、それぞれに派遣された地方総監は、国王の代理として行政を一手に掌握した。また、パリをはじめとする都市には警察奉行がおかれて、警察業務をはじめとする都市の行政が、王権のもとに一元化されるようになった。

最高国務会議には、財務、軍事などの最高責任者が出席したが、なかでも重要な位置を占めたのは財務総監のコルベールだった。コルベールは、地方行政、財務の責任者だったが、重商主義理論にもとづく経済政策を実施するために、商工業、海運、海軍、植民活動など広範な業務を担当し、実質的には宰相の役割をつとめた。彼のもとで貿易が拡大し、国家主導型の商工業が発展、フランスはイギリスにつぐヨーロッパ第2の経済大国となった。

ルイの人事政策の特徴は、コルベールのような平民、もしくは下級貴族を行政の責任者として登用したことにあり、これによって真に有能な者をえらぶとともに、貴族の影響力を低下させた。ルイの治世の数十年の間に実権をうばわれた名門貴族層は宮廷貴族となり、王のあたえる称号や俸給に期待して生活する存在になりさがっていく。

IV. 対外戦争

ルイの治世は、戦争の時代としても知られる。対外戦争のはじめは1667~68年のフランドル戦争だった。これは、65年に死亡したスペイン国王フェリペ4世の娘だった妻マリア・テレサの相続権を主張してスペイン領ネーデルラント(今日のベルギー)に侵攻したもので、獲得した領土は少なかったが、うばったフランドルの12の都市は、のちの戦争の際に軍事的拠点として利用された。72~79年にはオランダに軍をすすめてオランダ戦争をおこし、その結果スペインからフランス東部のフランシュ・コンテを、また北部の諸都市をうばった。

1688年には、男子相続者が絶えたファルツ公家の出身だった義理の妹エリザベート・シャルロットの相続権を口実にラインラントに出兵した。これが97年までつづいたファルツ戦争、もしくはアウグスブルク同盟戦争とよばれる戦いで、フランスはほぼ全ヨーロッパを敵とすることになり、なんの戦果をあげることもできなかった。

晩年には1701年にスペイン継承戦争をおこしている。スペインのハプスブルク朝の断絶にともなってルイ14世は孫のアンジュー公フィリップ(のちにフェリペ5世)をスペイン王にたてた。イギリス、オランダ、オーストリアなどがこれに反対し、戦争は14年までつづいた。最終的にスペイン王位はブルボン家のものとなったが、その代償にフランスは仏領アメリカ植民地の一部などイギリスに多くをゆずり、世界貿易でのイギリスの優位が確定した。

この間、フランスの軍隊組織は大きな変化をとげた。ルイの幼少時代の軍隊は、中世以来の伝統にしたがって、名門貴族がみずからあつめた兵員をひきいて参加するものだった。このため、フロンドの乱は王国軍どうしがあらそうかたちになった。陸軍卿ル・テリエは、名門貴族にあたえられた称号をしだいに名誉職化し、王の任命した士官に実権をもたせて、国王直属の軍隊としての性格を強め、また地域ごとに抽選で兵士を徴集する一種の徴兵制を導入した。さらにル・テリエの子ルーボワは、訓練の方式を統一するなど、近代軍制の基礎をかためた。

戦争の規模の拡大にともなって、フランス陸軍は1667年代の6万5000人から17世紀末の45万人にまで増強され、ヨーロッパ随一の陸軍国となった。

V. 文化政策

ルイの文化政策はベルサイユ宮殿に象徴される。1661年に親政を開始すると同時に父の狩場だったベルサイユに宮殿の建設を命じ、建築、造園、室内装飾などに、当時のフランスの最高の専門家を結集した。82年のベルサイユへの王室の移転とともに、政治・行政の首脳もうつりすみ、また多数の宮廷貴族も王と行動をともにした。ベルサイユでは連日、宴会、コンサート、演劇などが開催されたが、これらは単なる娯楽である以上に、芸術の様式などを全国的に統一するための規格整備という意味をもっていた。王宮での宴会で、礼儀作法や食文化、服飾文化などの基準がつくられ、貴族や富裕なブルジョワを通じて全国にひろめられた。

ベルサイユは、生活文化すべての発信基地となった。学術においても中央集権的な保護政策がとられ、科学アカデミーの創設(1666)、天文台の設立(1668)、植物園の整備(1671)などの基盤整備のほか、科学者に対する年金の給付などをさだめた。

宗教についても、ルイは国家の中に多元的な価値基準があることをこのまなかった。アンリ4世が、ユグノーにみとめた信仰上の権利はルイの統治下でしだいに弱められ、1685年には、フォンテーンブローの王令によって全面的にナントの王令は廃止され、ユグノーは弾圧されるようになった。正統カトリックからの逸脱は厳格に監視され、きびしく弾圧されたが、いっぽう、国内のカトリック教会に対しても王への忠誠を強要し、フランス教会をローマから自立させる気配さえしめした。

青年期から壮年期にかけてモンテスパン夫人、マントノン夫人など多くの愛妾をもったことでも知られるが、1683年に王妃マリア・テレサが死亡したあと、マントノン夫人とひそかに結婚した。長命だったルイは、1715年に没するまでに、スペイン王位についたフェリペ5世をのぞいて、子と孫のすべての死にたちあうことになった。ルイの死後、王位は曽孫(ひまご)のルイがルイ15世として継承した。