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ギリシャ
I. プロローグ

ヨーロッパ南東部の共和国で、バルカン半島最南部の地域と多数の島からなる。正式国名はギリシャ共和国。古代ギリシャ語ではヘラス、現代ギリシャ語ではエラスという。ギリシャという名称は、ラテン語のグラエキアに由来する。総面積は13万1957km²で、その5分の1をエーゲ海とイオニア海の島々が占める。人口は1070万6290人(2007年推計)。首都はアテネで、同国最大の都市。

ギリシャ本土は、北部のトラキアとマケドニア、中部のエピルスとテッサリア、中央部の中央エラス、南部のコリント地峡で本土とつながっているペロポネソス半島といった地域からなる。本土のほか、エボイア島、クレタ島、キクラデス諸島、スポラデス諸島、イオニア諸島、タソス島などの島もギリシャ領である。

II. 国土と資源

自然の景観で名高いギリシャの国土は山がちで起伏がはげしく、海岸線はいりくんでいて岬や入り江が多い。小国ながら地形は変化にとんでいる。山がちな中西部、乾燥し日当たりのよい平原と低い山々がつらなる北東部、古代ギリシャがさかえた中央部と本土の南東にある半島、南西部を占めるペロポネソス半島、そしてエーゲ海の島々などである。

中西部はピンドス山脈が南北にはしる山岳地帯で、国内でもっとも起伏にとむ隔絶された地域であり、人はほとんど居住していない。最高峰のオリンポス山(2917m)は古代には神々のすみかとされていた。アッティカとよばれる東南端は山々の稜線(りょうせん)により、渓谷と平地に分割されている。中部のテッサリアは山々にかこまれた肥沃(ひよく)な平野である。北部のマケドニアにも大きな平野が広がる。その東方のトラキアは、山、渓谷、沿岸部の平野など多彩な地形からなる。

本土の沿岸部は浅瀬で、海岸線が複雑だが良港にめぐまれず、サロニコス湾が最良の投錨地(とうびょうち)となる。とくにアテネ近郊のピレウスは天然の良港として知られる。エーゲ海の島々は一般に高度が高く起伏にとみ、岩だらけで乾燥しているため、経済活動は制限される。しかし、すぐれた景観と歴史的遺跡にめぐまれ、観光地として名高い。また戦略上、重要である。

1. 気候

おおむね地中海性気候に属し、低地では夏は暑く乾燥し、冬は雨が多い。山地は寒く、夏の間は雨が多い。低地で霜や雪はまれだが、山地は冬の間、雪におおわれる。降水量は地域差が大きい。アテネでの年平均気温は約18°Cで、もっとも寒い1月の平均気温は約10°C、もっとも暑い7月の平均気温は約28°Cである。

2. 植生と動物

植物の種類は多岐にわたっている。標高が約500mまでの地域ではオレンジ、オリーブ、ナツメヤシ、タバコなどが生育する。標高約100~500mの間の地域では、落葉樹と常緑樹の森林やチューリップ、ヒヤシンス、ゲッケイジュがみられる。アネモネなどの野生の花は約1200m以上の高地にそだち、標高約1500m以上になるとコケ植物や地衣類しかみられない。

野生動物ではイノシシ、ヨーロッパクロクマ、オオヤマネコ、ジャッカル、シャモアなどの哺乳類(ほにゅうるい)が95種類(2000年)生息している。鳥類ではタカ、ペリカン、シラサギ、キジ、ヤマウズラなど251種がいる。

3. 天然資源

耕地は国土の29.2%(2005年推計)にすぎない。残りの大半は不毛な山岳地域となる。ほとんどの地域の土壌は岩石質で、乾燥しているが、地中海性の肥沃な赤土など多様な土壌の小さな渓谷が散在する。石灰岩質の山からは良質な大理石を産出する。古代には豊富だったと思われる森林は、大部分が伐採されており、伐採による土地浸食が再緑化を困難にしている。

経済価値の高い天然資源にさほどめぐまれず、開発のすすんでいない鉱物資源も多いが、石油と天然ガスはエーゲ海のタソス島付近の海底に埋蔵され、ボーキサイト、褐炭、マグネサイト、鉄鉱石などは豊富である。周辺海域に多種の魚が生息するが、数が豊富な魚種はかぎられている。

III. 住民

住民の約98%はギリシャ人で、ほかに、トルコ人、アルバニア人、ブルガリア人、スラブ系、ルーマニアの方言を話すブラフ系などがすむ。

1. 人口

人口は1070万6290人(2007年推計)で、人口密度は82人/km²である。出生率はかつてヨーロッパでも高い国に分類されたが、最近では低下しており、2007年推計では年間の人口増加率は0.16%となった。

人口の61%(2005年推計)が都市部にあつまり、その大半はアテネ、中央マケドニアのテッサロニキの近郊やペロポネソス西部、ケルキラ島などの島に集中している。コリントスや、スパルタという古代に有名だった都市は、現在では小さな町にすぎない。

2. 行政区分と主要都市

1987年に導入された再編成計画にしたがって、行政的に13の地方に分割され、地方はさらに県に細分化される。75年の憲法により、ギリシャ正教の修道士たちが中世以来の伝統をまもりつづけているアトス山(1536人、1991年)は自治区と認定された。

最大の都市は首都アテネで、人口は74万5514人(2001年)。アテネ近郊のピレウスは国内最大の港湾都市で、テッサロニキは織物産業で有名である。ほかに、ペロポネソス半島北部にある港湾都市パートレ(パトラス)、イラクリオンなどがある。

3. 宗教と言語

ほとんどがギリシャ正教会(東方正教会)の信徒である。イスラム教徒は1%あまり、ほかに、カトリック教徒、プロテスタント、ユダヤ教徒など。

公用語は、近代ギリシャ語の日常口語である民衆語(ディモティキ)。近代ギリシャ語では、民衆語とは別に、古典ギリシャ語をもとにしてつくられた純正語(カサレブサ)とよばれる文語体がある。純正語は、ギリシャが国民国家となってまもない1834年から公式の言語としてもちいられてきた。民衆語は、19世紀末から詩や小説でも盛んに使用されるようになったが、純正語派からしばしば抑圧された。1976年、国会決議で民衆語が純正語にかわって公用語となり、現在は、政府、新聞、教育機関でも民衆語が使用されている。

IV. 教育と文化
1. 教育

義務教育は6~15歳。小学校(6年制)、中学校(3年制)の義務教育をおえると、大半の生徒が、一般高校、職業学校、その両者の機能をあわせもつ総合学校(いずれも3年制)に進学する。公立学校の授業料は、大学まで無料である。15歳以上の識字率は、1928年には約60%だったが、97.7%(2005年推計)まで上昇した。

総合大学は、国立カポディストリアス・アテネ大学(1837年創立)、サロニカ・アリストテレス大学(1925)、国立アテネ工科大学(1836)などがよく知られている。ほかの高等教育機関は、アテネ・アメリカ古典研究所(1881)、アテネにある高等美術研究所(1836)、テッサロニキ高等産業研究所(1957)など。2001-2002年の高等教育機関の入学者数は52万7959人である。

2. 生活様式

男性の伝統的衣装は、本土で着用されるフスタネラとよばれるスカートと、エーゲ海の島々やクレタ島で着用されるブラカというだぶだぶのズボンである。女性の伝統的衣装は、プゥカミソというシュミーズの上に金糸の絹製で厚手のカバディというドレスを着用し、体にぴったりしたベルベットの上着コンドグーニを着て、フェッシという房のついた帽子をかぶると、ととのう。今日では、こうした衣装は田園地帯でときおりみられる程度である。

一般的なギリシャ料理は、アブゴレモノという卵とレモンのスープ、ムサカというナスとひき肉の蒸し焼き、肉の串焼(くしや)きであるスブラキ、バクラバスとよばれるナッツの多いケーキなどである。ギリシャ人は、レツィーナというワインや、ブドウの茎からつくられアニスの実で味付けしたアルコール度の高い食前酒ウーゾをこのむ。

伝統的な家屋には、白い漆喰(しっくい)がほどこされた壁と長くて幅の狭い窓がある。都市部には高層のアパートもみられる。工芸では、陶芸、刺繍、宝飾、皮革製品などがある。近年、人気のあるスポーツは、サッカー、バスケットボール、陸上競技。

3. 文化

古代ギリシャ文化は西洋文明の発展に多大な影響をあたえた。演劇:ギリシャ美術:ギリシャ文学:ギリシャ音楽:ギリシャ哲学:ギリシャ神話:オリンピック

3.A. 図書館と博物館

有名な博物館の多くはギリシャ古来の遺物を展示しており、アテネにある、国立考古学博物館(1829年設立、74年現在地に移転)、ビザンティン博物館(1914)、アクロポリス博物館(1878)が代表的である。オリンピアの考古学博物館(1886)は、この地にあったゼウス神殿の破風(はふ)やアルカイク期のブロンズ像、プラクシテレスのヘルメス像を展示する。クレタ島のイラクリオンにある考古学博物館にはミノア期(ミノス文明)や古代ギリシャ初期の傑出したコレクションがある。アテネにある博物館で、より現代の美術作品を展示しているのは、国立美術館とアレクサンドロス・スーツォス博物館(1900)、ベナキ博物館(1930)である。アテネの国立図書館(1828)は200万冊近い蔵書をもつ。

V. 経済

ギリシャはもともと農業国で、今日でも経済の中で農業のはたす役割は大きい。第1次世界大戦後に発展しつつあった産業は第2次世界大戦とその後の内戦でほとんど崩壊し、それ以来、工業部門の発展は燃料不足などもあってすすまなかった。しかし1970年には、年間の総生産に占める工業の割合が農業をうわまわった。

ギリシャは世界有数の海運国と観光国で、ともに重要な収入源となっている。1950年代以降、公営部門が急速に成長し、現在ではエネルギー、造船、通信、運送、保険、銀行などで全経済の約60%を占めている。また、80年代初頭からエーゲ海北部の海底からの石油採掘がおこなわれている。2005年のGDP(国内総生産)は2252億米ドル、1人当たりでは2万281.50米ドルである。

1. 農林水産業

農業、林業、漁業などの第1次産業従事者は労働人口の12%(2005年)で、GDPに占める割合は5.2%(2005年)である。1970年代以降、工業やサービス業への雇用をもとめて都市部へ移動する者がふえたため、農業人口は大幅に減少した(128万5000人(2004年推計))。相続による農地分割で農場の規模は小さく、効率的な機械化が進展しにくい。さらに、土地の乾燥と表土の浸食により収穫は多くはなく、農業生産高はじゅうぶんとはいえない。タバコが代表的な商品作物で、輸出にも貢献してきた。ほかにテンサイ、コムギ、トウモロコシ、オリーブ、トマトなどを産する。

森林の3分の2は国有で、第2次世界大戦中にうしなわれた木々を再植樹してきた。漁業は小規模で、漁獲量の大半は国内で消費される。おもな輸出用の海産物はカイメンである。

2. 鉱工業とエネルギー

鉱業が経済に占める役割は小さいが、褐炭、原油、ボーキサイト、鉄鉱石などが採掘されている。労働人口の22%(2005年)が工業に従事しており、GDPの20.8%(2005年)を工業が占める。アテネを中心に、食品、金属加工品、繊維、機械、石油、化学関係の工業がおこなわれている。

電力の89%(2003年推計)は火力発電による。残りは、ピンドス山脈のアケロース川にある水力発電所から供給されている。

3. 通貨と外国貿易

通貨単位はドラクマであったが、2002年1月1日にEU(ヨーロッパ連合)の単一通貨ユーロの紙幣や通貨の流通がはじまり、2月末をもってドラクマは法的効力をうしなった。最大の商業銀行はギリシャ国立銀行とギリシャ農業銀行である。

毎年の大幅な輸入超過は観光収入と外国ではたらくギリシャ人からの送金によってある程度相殺されるが、外国債と外国の投資にも依存している。1980年代末の輸入総額は120億米ドル、輸出総額は59億米ドルであったが、EU諸国との貿易の拡大の結果、2004年には輸入総額は528億米ドル、輸出総額は152億米ドルに達した。おもな輸入品は機械、自動車・車両、石油・石油製品、化学製品、食料品。輸出品は農産物、タバコ、繊維製品、石油・石油製品など。おもな貿易相手国は、ドイツ、イタリア、イギリス、フランスなど。トルコ、キプロス、マケドニア、ブルガリアなど近隣諸国への輸出も盛んである。

4. 観光と交通

観光収入は30億4269万5400米ドル(2005年)で、国の重要な財源になっている。外国からの観光客は1428万人(2005年)で、ヨーロッパの他の国々、とくにイギリス、ドイツから多くおとずれている。人気のある観光地はアテネ、クレタ島など。

第2次世界大戦以後、交通機関は完全に復活し、大規模に拡大された。鉄道路線はほとんど国営である。商船は大半が個人所有で1455隻(2006年)、総トン数にして3205万総トン(2006年)になり、世界最大のレベルである。おもな港はピレウス、パートレ、テッサロニキ。コリントス湾とサロニコス湾をむすぶコリントス運河がある。国営の航空会社のオリンピック航空は、国際線と国内線を運航している。空港はアテネ、テッサロニキなどにある。

5. コミュニケーション

2000年の統計では、テレビが520万台、ラジオは502万台が保有され、1000人当たり568回線(2005年)の電話が普及している。1990年に民間のテレビ局が2局開設した。ラジオ・テレビ放送に関して、憲法で政府の監督権が保障されている。日刊新聞はアテネとテッサロニキなどで発行されている。

VI. 環境問題

1970年代における急速な工業化により大気汚染が発生し、社会問題となった。なかでもアテネは深刻で、82~89年の間に政府はアテネに19回も大気汚染の非常事態を宣言したほどである。スモッグは人体に呼吸器疾患をもたらすだけでなく、大理石などを浸食し、多数の古代彫刻や遺跡に染みをつけ変色させた。近年、暖房や工場による大気汚染は減少したが、ディーゼル排気粒子などは今も大気汚染源である。政府はとくに汚染レベルの高い日を中心に車の市内乗り入れを制限し、なるべく汚染作用の少ない乗り物をつかうよう奨励している。太陽熱をエネルギーにかえる太陽熱コレクター(→太陽エネルギーの「太陽熱の直接利用」)の導入も大気汚染防止に役だっている。

ギリシャのかかえるもう1つの問題は、水質汚濁である。アテネなど大都市の下水にくわえて、工場から出される廃棄物が、ほとんど未処理のまま、サロニコス湾やテルマイコス湾に流出している。ギリシャの水質汚濁は、そのまま地中海の汚染につながる。1970年代に国連環境計画が提案した地中海行動計画が功を奏して、ギリシャ近海の水質汚濁の速度は緩やかになった。またギリシャの多数の湿地帯も農業排水や生活排水で汚染されており、さらに状態が悪化する恐れがある。これらの中には保全計画で指定されている湿地帯もある。

VII. 政治

1968年9月に臨時軍事政権は、王の権利を大幅に削減しながら王家の世襲存続を承認する新憲法を公布した。しかし73年6月1日の閣僚会議で王制は廃止され、共和国となることを宣言した。74年7月に軍事政権は崩壊し、文民政権が復活。同年12月の国民投票で王制の復活は否認され、75年6月、共和制の新憲法が発効した。

1. 行政と立法

1975年の新憲法により、大統領が国家元首。軍の最高司令官でもある。大統領は議会で選出され、任期は5年。議会の最大政党から首相を指名し、その首相が選出した内閣を承認しなければならない。86年の憲法改正で大統領権限が縮小され、首相の罷免権、議会の解散権、戒厳令の発令権をうしなったが、法案の議会への差し戻し権、国民投票実施権はもつ。

国会は一院制で、議席数は300。4年ごとに国民の普通選挙で選出される。議会は、過半数の議決で大統領による法案差し戻しを無効にすることができ、3分の2以上の賛成をもって大統領を弾劾することができる。

2. 司法と政党

通常の民事および刑事事件はまず裁判所で審理され、そこから上訴のための裁判所、最後は最高裁判所にもちこまれる。1975年の憲法で憲法問題をあつかう特別最高法廷を設置した。最高裁判所と特別最高法廷をふくむ上級裁判所の判事は、下級裁判所から人員が昇進して終身その職務につき、有罪が確定したときにのみ解任される。

1975年の憲法は「政党を結成し、参加する自由」を保障している。中道右派の新民主主義党(ND)と中道左派の全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が2大政党で、ほかに、共産党(KEE)、左翼政党の連立である左翼進歩連合(SYN)などがある。政党は政策よりも強力な指導者を求心力としてきた。

3. 地方自治

行政上13の地方に分割され、さらに51の県にわかれる。県知事は直接選挙で選出される。自治区アトス山の場合は、20の修道院から選出された代表が交替で行政にあたり、修道院外の公共の規律を管轄する官吏は政府が任命する。市町村の首長と議会の議員は直接選挙で選出される。

4. 防衛

18歳の男子に兵役義務が課せられ、兵役拒否はみとめられていない。徴兵期間は兵種に応じて12~15カ月。2004年の兵力は陸軍が11万人、海軍は1万9250人、空軍は2万3000人。1978年以降、女性も、一部でうけいれられている。

5. 国際機関

ギリシャは国際連合、ヨーロッパ委員会、OECD(経済協力開発機構)の設立時からのメンバーである。1972年にはNATO(北大西洋条約機構)、75年には全欧安保協議会(現在のヨーロッパ安全保障協力機構)に加盟した。81年、EC(ヨーロッパ共同体。現EU)に加盟。92年にはEU(ヨーロッパ連合)の防衛組織であるWEU(西欧同盟)の10番目のメンバーとなった。

VIII. 歴史

ギリシャ本土は新石器時代以来、エーゲ海の諸島と小アジアの西岸部と文化的につながり、同質の海洋性文化を発展させたが、政治的統一にはいたらなかった。ギリシャ本土は山脈と渓谷によって政治的、経済的に独立した多数の地域に分断され、これらの各地域は都市より多少大きいくらいの規模でしかなかった。有名な都市のくわしい歴史については、アテネ:コリントス:スパルタ:テーベ参照。

1. 先史時代

考古学によると、前4000年以前の新石器時代に北アフリカとほぼ同族の民族がエーゲ海南部の地域に定住しており、ギリシャでの石器時代から青銅器時代への文化的発展は前3000年ごろにはじまったとされ、エーゲ文明に発展していった。この青銅器文明は2つに大別される。ひとつはクレタ島のミノス文明、もうひとつはギリシャ本土、とくにペロポネソス半島で開花したヘラディック文明(ミュケナイ文明はその最終段階のもの)で、前1500年を境にヘラディック文明が優勢となる。この文明の担い手は、ギリシャ人の祖先で、前3000年末ごろドナウ川流域から移住してきたアカイア人である。

2. 古代ギリシャ

前1400年までにアカイア人はクレタ島にも進出し、ミュケナイを中心に本土で有力になった。考古学上、最大の遺跡が発掘されたミュケナイのほかにも、ペロポネソスのピュロス、ティリュンスにも遺跡がある。彼らの社会はホメロスの叙事詩「イーリアス」にえがかれた社会に近く、王政であった。前1200年ごろのトロイア戦争などにより、この文明は衰退にむかった。

その後エペイロスの山地にすんでいたドリス人は、鉄の武器をもちいて先住民を征服しながらクレタやペロポネソスにすすみ、ペロポネソス半島に居住した。アカイア人たちはヘイロータイとよばれる隷属農民となった者もいたが、エーゲ海の島伝いに小アジアに移住した者もいた。ドリス人も小アジアまですすんだため、この地域はギリシャの政治的・文化的領域にくみこまれた。

数世紀後の前750~前550年になると大移民がはじまり、黒海の東岸からシチリアや南イタリア、現在のマルセイユにいたる広範域に植民市がつくられる。シチリアと南イタリアには多数のギリシャ人が居住したため、この地域はマグナ・グラエキア(ラテン語で「大ギリシャ」の意)とよばれるようになった。

3. アルカイク期および古典期

エーゲ海域への大規模な植民活動がおわると、ギリシャ人には誇り高い民族意識が芽生え、みずからをヘレネスとよぶようになる。ギリシャの小規模の国々はポリス(都市国家)とよばれ、自治権をもっていた。当初は部族長を王とする王政だったが、前800~前650年ごろに貴族の寡頭政へと移行し、前650年ごろ、富裕な平民による僭主政となった。

僭主の中にはコリントスのペリアンドロス、シュラクサイのゲロン、サモスのポリュクラテスなどの賢者がいて、その善政のもと貿易、経済が発展し、文化も開花する。この時代、政治的には分裂していたが、文化や言語、宗教などでギリシャ人の民族的一体感が生みだされた。神託で有名なデルフォイや最大の民族的祭典が開催されるオリュンピアには多くのギリシャ人がおとずれた。

3.A. 独裁政から民主政へ

前8~前6世紀に、ポリスではアテネとスパルタが強大になった。アテネでは、前683年に世襲制の王政が貴族政へ移行した。しかし前621年、立法家のドラコンが成文法を制定して貴族の力をおさえ、さらに前594年ソロンがそれを改革し、民衆に市民権をあたえた。前561~前528年に僭主ペイシストラトスによる善政がおこなわれ、民主政的様相は拡大する。その子の代で僭主政が打倒され、前509年ごろ、クレイステネスの指導で部族の再編や評議会、陶片追放(オストラキスモス)制の設置などがおこなわれ、民主政治の基礎がきずかれた。この民主政の始まりは、アテネの歴史において重要な出発点となった。

3.B. ペルシャ戦争

小アジアのギリシャ諸ポリスは、前6世紀にまずリュディアに侵略され、ついでリュディアを征服したペルシャの支配下に入った。前499年、イオニアではアテネに支援されてペルシャへの反乱をおこしたが、鎮圧され、その報復としてペルシャ王ダレイオス1世はギリシャ遠征にのりだした。ペルシャ軍は前490年、アテネ近郊のマラトンに上陸し、アテネ軍と会戦したが大敗する。前481年、ダレイオスの息子のクセルクセスは大規模な遠征をおこなったが、翌年、サロニカ湾内のサラミスの海戦でペルシャ艦隊が大敗し、さらに前479年にペルシャ陸軍がプラタイアイでギリシャ軍にやぶれ(プラタイアイの戦)、この遠征も失敗におわった。ペルシャ戦争

3.C. アテネの黄金期

サラミスの海戦で功績をあげたアテネは、スパルタにかわりギリシャで最強のポリスとなった。前478年、ペルシャ勢力を駆逐することを目的として多くのポリスが軍事同盟であるデロス同盟を結成し、アテネが盟主となる。やがてアテネは軍事以外にも権力を行使し、他のポリスを服属国のようにあつかい、貢租(こうそ)もとりたてるようになった。前5世紀のこの時代がアテネ支配の黄金期とみなされ、前460年に政権をえた民主派のペリクレスのもとで、アテネは絶頂期をむかえる。

政治面では民主化政策がすすめられ、芸術面では、今もアクロポリスにのこるような諸神殿が建立された。また、喜劇作家のアリストファネス、歴史家のヘロドトス、哲学者のソクラテスなども活躍した。

3.D. ペロポネソス戦争

アテネは国内では黄金時代をむかえていたが、対外的には破滅の道をあゆんでいた。デロス同盟の諸ポリスはアテネの支配に不満をしめし、スパルタを中心とするペロポネソス同盟はアテネに公然と敵対した。前431年、アテネとスパルタは衝突し、双方の同盟ポリスをまきこんでギリシャ全土が戦場と化す。これがペロポネソス戦争で、この二大同盟の戦争は前404年までつづき、その結果、スパルタがギリシャの覇権を確立した。

3.E. 変動する同盟関係

スパルタのきびしい統制に諸ポリスは不満をもち、前395年にアルゴス、コリントス、アテネ、テーベなどが旧来の敵ペルシャの援助をうけてスパルタとたたかった。これはコリントス戦争とよばれ、前387年にスパルタがペルシャと和平をむすんでようやく終結する。しかしこの協定を無視して、スパルタは前371年にテーベに侵攻してやぶれ、その支配はおわった。この後もポリス間の抗争はつづいた。

4. ヘレニズム時代

ギリシャの諸ポリスが争いをくりかえしている間に登場してきたのが、テッサリアの北方に位置するマケドニアである。前359年に即位したマケドニア王フィリッポス2世は、デモステネスら指導的政治家の反対にもかかわらず勢力を拡大した。フィリッポスは、前338年のカイロネイアの戦でアテネとテーベに勝利すると、ギリシャの諸ポリスを支配し、ギリシャ同盟軍とともにペルシャ遠征に着手する。しかし、前336年に暗殺され、その子アレクサンドロス(アレクサンドロス大王)は前334年ペルシャ侵攻をはじめた。10年におよぶ東征で、東は北インド、南と西はエジプトまでふくむマケドニア帝国が建設された。帝国の拡大とともに、文明や言語をふくむギリシャの影響力は東方世界に拡散し、固有の文化と融合してヘレニズム文化(ヘレニズム時代)が生まれた。

4.A. 学問、芸術の開花

ヘレニズム期は、アレクサンドロスのペルシャ征服からローマの支配下となる前146年までである。この時期、都市国家は政治的に衰退し、ギリシャ全体としても政治的独立が崩壊しはじめた。

前323年のアレクサンドロスの死後、マケドニアの部将たちの間で広大な帝国分割をめぐり抗争がつづいた。この結果シリアにセレウコス朝、エジプトにプトレマイオス王国が樹立される。プトレマイオス王国の首都アレクサンドリアはアレクサンドロスが建設したもので、アテネをしのぐほど学問の中心として発展した。各地でも芸術や学問が発展し、数学のユークリッドやアルキメデス、哲学者のエピクロスやゼノン(キプロスの)、詩人のテオクリトスなどが活躍した。

ギリシャにおいてはアイトリア、アカイアがそれぞれ同盟をつくって有力となった。前215年、ローマはカルタゴ(古代)と同盟をむすんだマケドニアに宣戦し、これに勝利するとギリシャへ進出をしはじめた(ローマ史)。前197年にマケドニアを支配下におき、前146年にはアカイアをやぶり同盟を解散させた。その後、ギリシャはローマによって直接支配されることとなる。

5. ローマ期と中世のギリシャ

ローマの支配下におかれた前146年後の60年間、ギリシャは政治、経済が衰退し、哲学や芸術の地として注目されたにすぎない。前22年ごろ、ローマの初代皇帝アウグストゥスはギリシャ諸市をマケドニアと分離し、ここをアカイアとよばれる属州とした。395年以降ローマ帝国は東西に分裂し、2人の皇帝によって、それぞれ西方ラテン世界と東方ギリシャ世界が統治された。6世紀までにローマ帝国の流れをうけつぐビザンティン帝国(東ローマ帝国)は、全ギリシャとエーゲ海域をふくむ地中海周辺の旧ローマ領を回復し、ヘレニズム文化、中東からのオリエントの影響、キリスト教の3つの要素を混合して発展した。ビザンティン帝国の中にあって、ギリシャ本土は辺地にある属州としてさびれていった。

6~8世紀にはスラブ人が北方からギリシャ本土に民族移動し、トラキアとイリュリアを占拠した。ビザンティン帝国は11世紀後半ころから衰退にむかい、1204年には第4回十字軍が首都コンスタンティノープルを占領、ラテン帝国を樹立する。ギリシャは十字軍の騎士たちによって分割され、アテネ公国などがおこった。ラテン帝国は61年に滅亡したが、その後の2世紀もの間、アテネ公国はフランス、スペイン、イタリアの諸侯に次々と支配された。

5.A. オスマン帝国

オスマン帝国のスルタンであるメフメト2世は、1453年にコンスタンティノープルを占領し、60年までにはペロポネソスやアッティカに進出した。その後、1669年にはクレタ島を占領して、ギリシャ全域をオスマン帝国内に編入した。19世紀までつづいたトルコの支配は、ギリシャ人にとっては負担の大きいものであった。

6. ナショナリズムの高揚と独立戦争

18世紀後半になると、ギリシャのナショナリズムは高揚し、1770年にギリシャはロシアに支援されてトルコ支配に対して蜂起(ほうき)した。これは失敗におわったが、ナショナリズムはフランス革命により、さらに促進された。この中心となったのが、1814年に結成された秘密結社エテリアである。21年、エテリアの指導者イプシランディスが当時トルコ領だったモルダビアの首都ヤーシに入り、ギリシャの独立を宣言したが、オスマン軍にやぶれた。しかしこの間、ギリシャ本土ではパートレの司教ゲルマノスの指揮による大規模な反乱が勃発(ぼっぱつ)し、本格的な独立戦争へと発展する。

ギリシャ独立軍は、1824年までは善戦したが、この年エジプトがトルコを支援したため劣勢を強いられた。しかし27年、指導者間の不和の解消などにより戦局は好転し、同年、国民議会は新たな共和国憲法を承認し、ロシア系ギリシャ人を初代大統領に選出した。

7. 列強の介入

ヨーロッパにとってギリシャは戦略的に重要な位置にあり、エジプトのさらなる地中海進出をおそれたヨーロッパ列強は、1827年にギリシャを支援して軍事介入した。29年にアドリアノープル協約が締結されてロシア・トルコ戦争が終結し、敗北したトルコは列強がギリシャのために要求する措置をすべて承認した。30年、フランス、イギリス、ロシアはロンドン議定書をかわし、ギリシャ憲法を無効とし、3国共同の保護下でギリシャを独立国とした。王国の領土はギリシャ人の期待に反し、国境の北限がコリントス湾のわずか北にすぎなかった。

8. 近代のギリシャ

独立戦争が終結しても、党派間の抗争はやまなかった。ギリシャは、復活したギリシャの国土の縮小に頑として抵抗した。内戦後の1832年、バイエルンのオソンがヨーロッパ列強の要請にしたがって王位をひきうけ、ギリシャ王オソン1世として即位する。しかし王が若く、実質的にはバイエルンから派遣された役人が憲法を拒否してきびしい中央集権的官僚政治を実施したため、ギリシャ人の怒りは43年の無血革命で頂点に達した。

この革命後オソンは憲法の承認を強いられた。しかし1862年、ギリシャ軍の一部がクーデタをおこし、列強の承認をえて国民議会はオソンを退位させた。王位をついだのはデンマーク王クリスティアン9世の2男で、63年にゲオルギオス1世として即位した。このときイギリスは、15年以来イギリス領だったイオニア諸島をギリシャに割譲している。翌年には、より民主的な新憲法が制定され、成年男子の普通選挙権がみとめられ、一院制議会がおかれた。

1890年代におけるギリシャの対外政策の主軸は、王国の領土拡大におかれた。紆余曲折(うよきょくせつ)をへながらも、トルコ、ギリシャ、ブルガリア、セルビア、モンテネグロ諸国が関与した戦争(バルカン戦争)によって、最終的には1912年と翌13年にトルコからクレタ島とマルマラ海以西の全領土(イスタンブールなどをのぞく)をえ、ブルガリアからはテッサロニキとカバラをふくむマケドニアの一部を領土に編入する。こうしてギリシャの領土と人口は、ほぼ2倍にふくれあがった。

9. 第1次世界大戦

1914年、第1次世界大戦が勃発するとギリシャは中立を宣言したが、厳格な中立をつらぬくのは不可能であった。親ドイツ派の王コンスタンティノス1世と、イギリス、フランスなどの連合国側への参加をのぞむ首相ベニゼーロスが対立した。17年、連合国側はコンスタンティノスを退位させて彼の2男アレクサンドロスを新王とし、ギリシャは連合国側で参戦する。戦後の領土処理において、ギリシャはブルガリアからトラキア西部を、トルコからトラキア東部を、そして多数のエーゲ海諸島を獲得したが、さらにスミュルナ(現イズミル)をも自国領と主張した。

1919年、ギリシャ軍はスミュルナに上陸し、トルコの住民および軍とたたかったが、イギリスやフランスの支持をえられず失敗におわった。23年のローザンヌ条約によりスミュルナはトルコに返還され、小アジアに居住する100万以上のギリシャ人がギリシャにひきあげ、同じくギリシャ居住のトルコ人はギリシャをさることとなった。

10. 共和制の時代

1922年にゲオルギオス2世が即位したが、ギリシャの経済はスミュルナでの敗戦により疲弊し、反王制主義者、トルコからの難民、軍部らは王制反対運動を展開した。23年、ゲオルギオス2世はギリシャをさり、翌24年、国民投票でギリシャは共和制となった。27年に共和国憲法が公布されたが、政治的には不安定な時期がつづく。大統領クンドゥリオティスに任命されて首相となったベニゼーロスは、国内外におけるギリシャの安定のために尽力した。28年にはイタリアと、翌年にはユーゴスラビアと友好協定を締結、30年にはトルコと条約を批准した。しかし、世界恐慌(恐慌)によってギリシャの輸出品の需要が低下したため、32年には深刻な経済危機におちいり、政情はますます悪化した。

11. 王制の復活

1935年、コンディリス将軍は政権を掌握すると、議会に王制の復活を決議させた。27年の共和国憲法は廃止され、11年の王制憲法が施行され、35年にゲオルギオス2世が復位する。しかし、その後6カ月の間にコンディリス、ベニゼーロスがあいついで死去したため、政情は混迷して社会不安が増大し、共産主義の労働運動が高まった。36年、軍の支持をえたメタクサス将軍がクーデタを決行し、戒厳令をしいた。この独裁制のもとでは、出版物に対する厳格な検閲や政党の解散がおこなわれ、労働運動はつぶされ、政府への抗議もみとめられなかった。

12. 第2次世界大戦

1939年に第2次世界大戦が勃発しイタリアはアルバニアを占領、翌年ギリシャへ侵攻したが、予想に反してギリシャ軍は反撃に成功する。12月までに侵攻軍を国外にしりぞけ、さらにはアルバニアの4分の1を占領した。しかし、41年4月にドイツ軍の攻略をうけ、ギリシャ軍は撃退された。ギリシャ政府は4月23日に停戦条約の締結を強いられ、4日後ドイツ軍はアテネに入城、ギリシャ政府はメタクサスの後継者が自殺して崩壊した。アテネに国民社会党の政府が樹立されたが、王は亡命してまずカイロで、ついでロンドンで亡命政府をうちたてた。

ドイツによる占領はギリシャに莫大(ばくだい)な被害をあたえ、1943年末まで飢餓と極度のインフレがつづいた。組織された多数のレジスタンス・グループは全土ではげしいゲリラ戦を展開したが、なかでも左翼のEAM(民族解放戦線)が最大のグループで、これは独自の軍隊であるELAS(民族解放国民軍)をもっていた。EAMより保守的な政治目的をかかげたEDES(民族民主ギリシャ同盟)は、さほど成果をあげなかった。43年末に連合軍がイタリアへ侵攻したことによりギリシャの解放が近づくと、EAMとEDESはギリシャの主導権をめぐり抗争をはじめる。当初イギリスは優勢だったEAMを支援したが、のちにこの組織の共産主義支配をおそれてEDESの支持にまわった。

13. 内戦

1944年10月、ドイツ軍はギリシャから撤退し、10月18日に新しい政府がアテネにうつった。首相ゲオルギオス・パパンドレウはELASに解散と武装解除を指示したが拒否され、12月にアテネで政府とELASとの間で内戦が勃発する。45年2月、ELASは休戦に合意し、軍を解散するかわりにEAMは政治活動の自由が約束された。しかし、北部では共産主義勢力の武装ゲリラがつづいた。

1945年10月、ギリシャは国際連合の創立委員となり、46年パリ平和委員会で作成された和平条約で、イタリアからドデカニソス諸島を割譲される。47年、経済難でギリシャへの援助ができなくなったイギリスは、ギリシャ政府の保護をアメリカにひきついだ。アメリカ大統領トルーマンは、トルーマン・ドクトリンとして知られる政策を開始し、政府軍支援のために軍事物資と顧問を、民間人には救援物資をおくった。49年、政府軍は反乱軍の大規模な要塞(ようさい)を占領し、内戦は一応の解決をみた。

14. 不安定な時代

内戦後、経済の復興は着実にすすめられ、1950年末までに工業生産高は39年の90%まで回復した。NATO(北大西洋条約機構)の委員会は、51年、ギリシャとトルコの加盟を承認する。52年には右派のパパゴス元帥が、55年にはコンスタンティノス・カラマンリスが政権を担当した。56年の総選挙では新たに結成された国民急進党が過半数を獲得し、カラマンリスがふたたび首相となった。

1950年代には、1878年以来イギリス領だったキプロス島併合の運動が復活し、1955年、イギリス、ギリシャ、トルコはキプロス問題をめぐって話し合いを開始する。59年に最終的な合意に達し、翌年キプロスは独立が承認された。60年代に入ると、カラマンリスひきいる右派の国民急進党とパパンドレウの中道左派である中央連合の対立が激化した。63年と64年の総選挙では、2度にわたり中央連合が勝利してパパンドレウが組閣する。

15. 軍事政権と民政復帰

1967年、不安定な政局の中でパパドプロスら軍の一部が政府をたおして権力をにぎり、左翼や共産主義者を中心に数千の政治家を逮捕した。軍事政権は国民の自由を制限し、報道機関の検閲や政治組織の解散、多数の組織を不法とする一連の決議をおこなった。国王のコンスタンティノス2世は軍事政権を打倒しようとこころみたが失敗し、イタリアに亡命する。

1970年代初頭に、政府は軍事政権樹立後に制限された国民の権利を復活させ、73年、王制を廃止して共和制とした。学生の政府に対する暴動、キプロス問題での失敗により74年に軍事政権はたおれ、亡命していたカラマンリスが帰国して、ND(新民主主義党)をひきいて政権を樹立。王制の復活は国民投票で否決され、75年、議会制民主主義をさだめた新憲法が公布された。

16. ギリシャ初の左派政権

1974年のキプロス危機ののち、ギリシャ軍はNATOから撤収していたが、80年に復帰する。同年にカラマンリスが大統領となり、後任の首相ラリスは81年にギリシャのEC(ヨーロッパ共同体。現EU)加盟を実現させた。

1981年の総選挙では、アンドレアス・パパンドレウ(ゲオルギオス・パパンドレウ元首相の子)ひきいるPASOK(全ギリシャ社会主義運動)が勝利し、初の社会主義政権が誕生した。89年および90年の総選挙ではNDが政権をにぎったが、93年の総選挙ではPASOKがNDをやぶり、パパンドレウが首相にかえりざいた。95年3月、コンスタンティノス・ステファノプロスが新大統領に就任した(2000年2月再選)。

1996年1月パパンドレウ首相が健康悪化により辞任(6月死去)、かわってコスタス・シミティスが後継首相に就任した。シミティス首相は9月、総選挙を1年くりあげて実施、PASOKの単独過半数獲得で政権の足場をかためた。2000年4月の総選挙でもPASOKが辛勝し、シミティスが首相に再任された。

ギリシャは、EU加盟国でありながら基準未達成のために単一通貨ユーロへの参加ができなかったが、行財政改革をすすめた結果インフレ率が下降し、2001年1月、ユーロ導入を実現した。

17. 保守政権の復活とアテネ・オリンピック

2004年3月の総選挙は、NDが過半数を制し、47歳のコスタス・カラマンリス(元首相・大統領コンスタンティノス・カラマンリスの甥(おい))が首相に就任した。10年半ぶりの保守政権復活は、ユーロ導入による物価の高騰、10%近い失業率にくわえて、PASOKの汚職が表面化し、国民が変化をのぞんだ結果とみられている。

2004年8月、アテネで108年ぶりにオリンピックが開催され、220の国・地域が参加した。準備の遅れやテロの不安をかかえながらも大会は成功裏に終了した。オリンピック開催は、公共投資や観光収入でギリシャ経済に活況をもたらしたが、インフラ整備もふくめた費用は当初予算の2倍の100億ユーロにふくれあがり、財政赤字も増大することになった。財政再建のため、政府は、国営企業の合理化・民営化の促進や社会保障制度の見直しをすすめ、これに反対するストライキがあいついだ。05年3月、ステファノプロス大統領の任期満了により、カロロス・パプリアスが新大統領に就任した。

18. 近隣諸国との関係

1991年のユーゴスラビアの解体により同国を構成していたマケドニア共和国が独立を宣言すると、ギリシャ政府は、ギリシャ名による国名やギリシャのシンボルをもちいた国旗に反対し、また、憲法にもギリシャのマケドニア地方への領土的主張がもりこまれているとして厳重に抗議した。マケドニア共和国は憲法を改正し、93年に国連はマケドニア旧ユーゴスラビア共和国を暫定的な国名として独立を承認した。しかし、この措置はギリシャに満足のゆくものではなく、94年にマケドニア共和国に対して経済封鎖をおこなう。翌95年には国連の仲介により経済封鎖を解除し、両国の関係正常化にむけて合意に達した。

一方、1990年代には、アルバニア領内のギリシャ系少数住民への不当な扱いをめぐり、アルバニアとの関係が緊張、97年にはアルバニアの内戦の激化で多数の難民が流入した。

長年対立をつづけているトルコとの関係は、1997年にキプロス共和国への地対空ミサイル配備問題で緊張が高まった。99年には、クルド労働者党のオジャラン議長逮捕に際して、ケニアのギリシャ大使館が関与していたため、両国関係はさらに悪化した。99年8月のトルコ北西部の地震の際、ギリシャが緊急救助隊を派遣したことから関係が改善され、9月のギリシャでの地震ではトルコからの救助隊が派遣された。ギリシャは、トルコのEU加盟に対して従来の反対の立場を変更した。2004年4月、南北キプロスで同時に実施された国民投票でギリシャ系住民は、再統一にむけた国連の和平案を拒否し、翌5月、ギリシャ系のキプロス共和国だけがEUに加盟した。トルコのEU加盟交渉は05年10月にはじまったものの、キプロス問題の解決が加盟の前提になっており、ギリシャはトルコに対して慎重な姿勢をとっている。

19. 日本との関係

日本との国交を開始したのは1899年(明治32)のことである。以来、両国は友好関係をたもち、政治、経済、文化の面において交流がつづいている。1982年(昭和57)、日本・ギリシャ文化協定がむすばれた。貿易全体に占める対日貿易の割合は低いが、輸入超過が恒常的になっている。輸入品が自動車、船舶などであるのに対し、輸出品が葉タバコや食料品などであることによる。