| ギリシャ | 項目ビュー | ||||
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| VIII. | 歴史 |
ギリシャ本土は新石器時代以来、エーゲ海の諸島と小アジアの西岸部と文化的につながり、同質の海洋性文化を発展させたが、政治的統一にはいたらなかった。ギリシャ本土は山脈と渓谷によって政治的、経済的に独立した多数の地域に分断され、これらの各地域は都市より多少大きいくらいの規模でしかなかった。有名な都市のくわしい歴史については、アテネ:コリントス:スパルタ:テーベ参照。
| 1. | 先史時代 |
考古学によると、前4000年以前の新石器時代に北アフリカとほぼ同族の民族がエーゲ海南部の地域に定住しており、ギリシャでの石器時代から青銅器時代への文化的発展は前3000年ごろにはじまったとされ、エーゲ文明に発展していった。この青銅器文明は2つに大別される。ひとつはクレタ島のミノス文明、もうひとつはギリシャ本土、とくにペロポネソス半島で開花したヘラディック文明(ミュケナイ文明はその最終段階のもの)で、前1500年を境にヘラディック文明が優勢となる。この文明の担い手は、ギリシャ人の祖先で、前3000年末ごろドナウ川流域から移住してきたアカイア人である。
| 2. | 古代ギリシャ |
前1400年までにアカイア人はクレタ島にも進出し、ミュケナイを中心に本土で有力になった。考古学上、最大の遺跡が発掘されたミュケナイのほかにも、ペロポネソスのピュロス、ティリュンスにも遺跡がある。彼らの社会はホメロスの叙事詩「イーリアス」にえがかれた社会に近く、王政であった。前1200年ごろのトロイア戦争などにより、この文明は衰退にむかった。
その後エペイロスの山地にすんでいたドリス人は、鉄の武器をもちいて先住民を征服しながらクレタやペロポネソスにすすみ、ペロポネソス半島に居住した。アカイア人たちはヘイロータイとよばれる隷属農民となった者もいたが、エーゲ海の島伝いに小アジアに移住した者もいた。ドリス人も小アジアまですすんだため、この地域はギリシャの政治的・文化的領域にくみこまれた。
数世紀後の前750~前550年になると大移民がはじまり、黒海の東岸からシチリアや南イタリア、現在のマルセイユにいたる広範域に植民市がつくられる。シチリアと南イタリアには多数のギリシャ人が居住したため、この地域はマグナ・グラエキア(ラテン語で「大ギリシャ」の意)とよばれるようになった。
| 3. | アルカイク期および古典期 |
エーゲ海域への大規模な植民活動がおわると、ギリシャ人には誇り高い民族意識が芽生え、みずからをヘレネスとよぶようになる。ギリシャの小規模の国々はポリス(→ 都市国家)とよばれ、自治権をもっていた。当初は部族長を王とする王政だったが、前800~前650年ごろに貴族の寡頭政へと移行し、前650年ごろ、富裕な平民による僭主政となった。
僭主の中にはコリントスのペリアンドロス、シュラクサイのゲロン、サモスのポリュクラテスなどの賢者がいて、その善政のもと貿易、経済が発展し、文化も開花する。この時代、政治的には分裂していたが、文化や言語、宗教などでギリシャ人の民族的一体感が生みだされた。神託で有名なデルフォイや最大の民族的祭典が開催されるオリュンピアには多くのギリシャ人がおとずれた。
| 3.A. | 独裁政から民主政へ |
前8~前6世紀に、ポリスではアテネとスパルタが強大になった。アテネでは、前683年に世襲制の王政が貴族政へ移行した。しかし前621年、立法家のドラコンが成文法を制定して貴族の力をおさえ、さらに前594年ソロンがそれを改革し、民衆に市民権をあたえた。前561~前528年に僭主ペイシストラトスによる善政がおこなわれ、民主政的様相は拡大する。その子の代で僭主政が打倒され、前509年ごろ、クレイステネスの指導で部族の再編や評議会、陶片追放(オストラキスモス)制の設置などがおこなわれ、民主政治の基礎がきずかれた。この民主政の始まりは、アテネの歴史において重要な出発点となった。
| 3.B. | ペルシャ戦争 |
小アジアのギリシャ諸ポリスは、前6世紀にまずリュディアに侵略され、ついでリュディアを征服したペルシャの支配下に入った。前499年、イオニアではアテネに支援されてペルシャへの反乱をおこしたが、鎮圧され、その報復としてペルシャ王ダレイオス1世はギリシャ遠征にのりだした。ペルシャ軍は前490年、アテネ近郊のマラトンに上陸し、アテネ軍と会戦したが大敗する。前481年、ダレイオスの息子のクセルクセスは大規模な遠征をおこなったが、翌年、サロニカ湾内のサラミスの海戦でペルシャ艦隊が大敗し、さらに前479年にペルシャ陸軍がプラタイアイでギリシャ軍にやぶれ(→ プラタイアイの戦)、この遠征も失敗におわった。→ ペルシャ戦争
| 3.C. | アテネの黄金期 |
サラミスの海戦で功績をあげたアテネは、スパルタにかわりギリシャで最強のポリスとなった。前478年、ペルシャ勢力を駆逐することを目的として多くのポリスが軍事同盟であるデロス同盟を結成し、アテネが盟主となる。やがてアテネは軍事以外にも権力を行使し、他のポリスを服属国のようにあつかい、貢租(こうそ)もとりたてるようになった。前5世紀のこの時代がアテネ支配の黄金期とみなされ、前460年に政権をえた民主派のペリクレスのもとで、アテネは絶頂期をむかえる。
政治面では民主化政策がすすめられ、芸術面では、今もアクロポリスにのこるような諸神殿が建立された。また、喜劇作家のアリストファネス、歴史家のヘロドトス、哲学者のソクラテスなども活躍した。
| 3.D. | ペロポネソス戦争 |
アテネは国内では黄金時代をむかえていたが、対外的には破滅の道をあゆんでいた。デロス同盟の諸ポリスはアテネの支配に不満をしめし、スパルタを中心とするペロポネソス同盟はアテネに公然と敵対した。前431年、アテネとスパルタは衝突し、双方の同盟ポリスをまきこんでギリシャ全土が戦場と化す。これがペロポネソス戦争で、この二大同盟の戦争は前404年までつづき、その結果、スパルタがギリシャの覇権を確立した。
| 3.E. | 変動する同盟関係 |
スパルタのきびしい統制に諸ポリスは不満をもち、前395年にアルゴス、コリントス、アテネ、テーベなどが旧来の敵ペルシャの援助をうけてスパルタとたたかった。これはコリントス戦争とよばれ、前387年にスパルタがペルシャと和平をむすんでようやく終結する。しかしこの協定を無視して、スパルタは前371年にテーベに侵攻してやぶれ、その支配はおわった。この後もポリス間の抗争はつづいた。
| 4. | ヘレニズム時代 |
ギリシャの諸ポリスが争いをくりかえしている間に登場してきたのが、テッサリアの北方に位置するマケドニアである。前359年に即位したマケドニア王フィリッポス2世は、デモステネスら指導的政治家の反対にもかかわらず勢力を拡大した。フィリッポスは、前338年のカイロネイアの戦でアテネとテーベに勝利すると、ギリシャの諸ポリスを支配し、ギリシャ同盟軍とともにペルシャ遠征に着手する。しかし、前336年に暗殺され、その子アレクサンドロス(→ アレクサンドロス大王)は前334年ペルシャ侵攻をはじめた。10年におよぶ東征で、東は北インド、南と西はエジプトまでふくむマケドニア帝国が建設された。帝国の拡大とともに、文明や言語をふくむギリシャの影響力は東方世界に拡散し、固有の文化と融合してヘレニズム文化(→ ヘレニズム時代)が生まれた。
| 4.A. | 学問、芸術の開花 |
ヘレニズム期は、アレクサンドロスのペルシャ征服からローマの支配下となる前146年までである。この時期、都市国家は政治的に衰退し、ギリシャ全体としても政治的独立が崩壊しはじめた。
前323年のアレクサンドロスの死後、マケドニアの部将たちの間で広大な帝国分割をめぐり抗争がつづいた。この結果シリアにセレウコス朝、エジプトにプトレマイオス王国が樹立される。プトレマイオス王国の首都アレクサンドリアはアレクサンドロスが建設したもので、アテネをしのぐほど学問の中心として発展した。各地でも芸術や学問が発展し、数学のユークリッドやアルキメデス、哲学者のエピクロスやゼノン(キプロスの)、詩人のテオクリトスなどが活躍した。
ギリシャにおいてはアイトリア、アカイアがそれぞれ同盟をつくって有力となった。前215年、ローマはカルタゴ(古代)と同盟をむすんだマケドニアに宣戦し、これに勝利するとギリシャへ進出をしはじめた(→ ローマ史)。前197年にマケドニアを支配下におき、前146年にはアカイアをやぶり同盟を解散させた。その後、ギリシャはローマによって直接支配されることとなる。
| 5. | ローマ期と中世のギリシャ |
ローマの支配下におかれた前146年後の60年間、ギリシャは政治、経済が衰退し、哲学や芸術の地として注目されたにすぎない。前22年ごろ、ローマの初代皇帝アウグストゥスはギリシャ諸市をマケドニアと分離し、ここをアカイアとよばれる属州とした。395年以降ローマ帝国は東西に分裂し、2人の皇帝によって、それぞれ西方ラテン世界と東方ギリシャ世界が統治された。6世紀までにローマ帝国の流れをうけつぐビザンティン帝国(東ローマ帝国)は、全ギリシャとエーゲ海域をふくむ地中海周辺の旧ローマ領を回復し、ヘレニズム文化、中東からのオリエントの影響、キリスト教の3つの要素を混合して発展した。ビザンティン帝国の中にあって、ギリシャ本土は辺地にある属州としてさびれていった。
6~8世紀にはスラブ人が北方からギリシャ本土に民族移動し、トラキアとイリュリアを占拠した。ビザンティン帝国は11世紀後半ころから衰退にむかい、1204年には第4回十字軍が首都コンスタンティノープルを占領、ラテン帝国を樹立する。ギリシャは十字軍の騎士たちによって分割され、アテネ公国などがおこった。ラテン帝国は61年に滅亡したが、その後の2世紀もの間、アテネ公国はフランス、スペイン、イタリアの諸侯に次々と支配された。
| 5.A. | オスマン帝国 |
オスマン帝国のスルタンであるメフメト2世は、1453年にコンスタンティノープルを占領し、60年までにはペロポネソスやアッティカに進出した。その後、1669年にはクレタ島を占領して、ギリシャ全域をオスマン帝国内に編入した。19世紀までつづいたトルコの支配は、ギリシャ人にとっては負担の大きいものであった。
| 6. | ナショナリズムの高揚と独立戦争 |
18世紀後半になると、ギリシャのナショナリズムは高揚し、1770年にギリシャはロシアに支援されてトルコ支配に対して蜂起(ほうき)した。これは失敗におわったが、ナショナリズムはフランス革命により、さらに促進された。この中心となったのが、1814年に結成された秘密結社エテリアである。21年、エテリアの指導者イプシランディスが当時トルコ領だったモルダビアの首都ヤーシに入り、ギリシャの独立を宣言したが、オスマン軍にやぶれた。しかしこの間、ギリシャ本土ではパートレの司教ゲルマノスの指揮による大規模な反乱が勃発(ぼっぱつ)し、本格的な独立戦争へと発展する。
ギリシャ独立軍は、1824年までは善戦したが、この年エジプトがトルコを支援したため劣勢を強いられた。しかし27年、指導者間の不和の解消などにより戦局は好転し、同年、国民議会は新たな共和国憲法を承認し、ロシア系ギリシャ人を初代大統領に選出した。
| 7. | 列強の介入 |
ヨーロッパにとってギリシャは戦略的に重要な位置にあり、エジプトのさらなる地中海進出をおそれたヨーロッパ列強は、1827年にギリシャを支援して軍事介入した。29年にアドリアノープル協約が締結されてロシア・トルコ戦争が終結し、敗北したトルコは列強がギリシャのために要求する措置をすべて承認した。30年、フランス、イギリス、ロシアはロンドン議定書をかわし、ギリシャ憲法を無効とし、3国共同の保護下でギリシャを独立国とした。王国の領土はギリシャ人の期待に反し、国境の北限がコリントス湾のわずか北にすぎなかった。
| 8. | 近代のギリシャ |
独立戦争が終結しても、党派間の抗争はやまなかった。ギリシャは、復活したギリシャの国土の縮小に頑として抵抗した。内戦後の1832年、バイエルンのオソンがヨーロッパ列強の要請にしたがって王位をひきうけ、ギリシャ王オソン1世として即位する。しかし王が若く、実質的にはバイエルンから派遣された役人が憲法を拒否してきびしい中央集権的官僚政治を実施したため、ギリシャ人の怒りは43年の無血革命で頂点に達した。
この革命後オソンは憲法の承認を強いられた。しかし1862年、ギリシャ軍の一部がクーデタをおこし、列強の承認をえて国民議会はオソンを退位させた。王位をついだのはデンマーク王クリスティアン9世の2男で、63年にゲオルギオス1世として即位した。このときイギリスは、15年以来イギリス領だったイオニア諸島をギリシャに割譲している。翌年には、より民主的な新憲法が制定され、成年男子の普通選挙権がみとめられ、一院制議会がおかれた。
1890年代におけるギリシャの対外政策の主軸は、王国の領土拡大におかれた。紆余曲折(うよきょくせつ)をへながらも、トルコ、ギリシャ、ブルガリア、セルビア、モンテネグロ諸国が関与した戦争(→ バルカン戦争)によって、最終的には1912年と翌13年にトルコからクレタ島とマルマラ海以西の全領土(イスタンブールなどをのぞく)をえ、ブルガリアからはテッサロニキとカバラをふくむマケドニアの一部を領土に編入する。こうしてギリシャの領土と人口は、ほぼ2倍にふくれあがった。
| 9. | 第1次世界大戦 |
1914年、第1次世界大戦が勃発するとギリシャは中立を宣言したが、厳格な中立をつらぬくのは不可能であった。親ドイツ派の王コンスタンティノス1世と、イギリス、フランスなどの連合国側への参加をのぞむ首相ベニゼーロスが対立した。17年、連合国側はコンスタンティノスを退位させて彼の2男アレクサンドロスを新王とし、ギリシャは連合国側で参戦する。戦後の領土処理において、ギリシャはブルガリアからトラキア西部を、トルコからトラキア東部を、そして多数のエーゲ海諸島を獲得したが、さらにスミュルナ(現イズミル)をも自国領と主張した。
1919年、ギリシャ軍はスミュルナに上陸し、トルコの住民および軍とたたかったが、イギリスやフランスの支持をえられず失敗におわった。23年のローザンヌ条約によりスミュルナはトルコに返還され、小アジアに居住する100万以上のギリシャ人がギリシャにひきあげ、同じくギリシャ居住のトルコ人はギリシャをさることとなった。
| 10. | 共和制の時代 |
1922年にゲオルギオス2世が即位したが、ギリシャの経済はスミュルナでの敗戦により疲弊し、反王制主義者、トルコからの難民、軍部らは王制反対運動を展開した。23年、ゲオルギオス2世はギリシャをさり、翌24年、国民投票でギリシャは共和制となった。27年に共和国憲法が公布されたが、政治的には不安定な時期がつづく。大統領クンドゥリオティスに任命されて首相となったベニゼーロスは、国内外におけるギリシャの安定のために尽力した。28年にはイタリアと、翌年にはユーゴスラビアと友好協定を締結、30年にはトルコと条約を批准した。しかし、世界恐慌(→ 恐慌)によってギリシャの輸出品の需要が低下したため、32年には深刻な経済危機におちいり、政情はますます悪化した。
| 11. | 王制の復活 |
1935年、コンディリス将軍は政権を掌握すると、議会に王制の復活を決議させた。27年の共和国憲法は廃止され、11年の王制憲法が施行され、35年にゲオルギオス2世が復位する。しかし、その後6カ月の間にコンディリス、ベニゼーロスがあいついで死去したため、政情は混迷して社会不安が増大し、共産主義の労働運動が高まった。36年、軍の支持をえたメタクサス将軍がクーデタを決行し、戒厳令をしいた。この独裁制のもとでは、出版物に対する厳格な検閲や政党の解散がおこなわれ、労働運動はつぶされ、政府への抗議もみとめられなかった。
| 12. | 第2次世界大戦 |
1939年に第2次世界大戦が勃発しイタリアはアルバニアを占領、翌年ギリシャへ侵攻したが、予想に反してギリシャ軍は反撃に成功する。12月までに侵攻軍を国外にしりぞけ、さらにはアルバニアの4分の1を占領した。しかし、41年4月にドイツ軍の攻略をうけ、ギリシャ軍は撃退された。ギリシャ政府は4月23日に停戦条約の締結を強いられ、4日後ドイツ軍はアテネに入城、ギリシャ政府はメタクサスの後継者が自殺して崩壊した。アテネに国民社会党の政府が樹立されたが、王は亡命してまずカイロで、ついでロンドンで亡命政府をうちたてた。
ドイツによる占領はギリシャに莫大(ばくだい)な被害をあたえ、1943年末まで飢餓と極度のインフレがつづいた。組織された多数のレジスタンス・グループは全土ではげしいゲリラ戦を展開したが、なかでも左翼のEAM(民族解放戦線)が最大のグループで、これは独自の軍隊であるELAS(民族解放国民軍)をもっていた。EAMより保守的な政治目的をかかげたEDES(民族民主ギリシャ同盟)は、さほど成果をあげなかった。43年末に連合軍がイタリアへ侵攻したことによりギリシャの解放が近づくと、EAMとEDESはギリシャの主導権をめぐり抗争をはじめる。当初イギリスは優勢だったEAMを支援したが、のちにこの組織の共産主義支配をおそれてEDESの支持にまわった。
| 13. | 内戦 |
1944年10月、ドイツ軍はギリシャから撤退し、10月18日に新しい政府がアテネにうつった。首相ゲオルギオス・パパンドレウはELASに解散と武装解除を指示したが拒否され、12月にアテネで政府とELASとの間で内戦が勃発する。45年2月、ELASは休戦に合意し、軍を解散するかわりにEAMは政治活動の自由が約束された。しかし、北部では共産主義勢力の武装ゲリラがつづいた。
1945年10月、ギリシャは国際連合の創立委員となり、46年パリ平和委員会で作成された和平条約で、イタリアからドデカニソス諸島を割譲される。47年、経済難でギリシャへの援助ができなくなったイギリスは、ギリシャ政府の保護をアメリカにひきついだ。アメリカ大統領トルーマンは、トルーマン・ドクトリンとして知られる政策を開始し、政府軍支援のために軍事物資と顧問を、民間人には救援物資をおくった。49年、政府軍は反乱軍の大規模な要塞(ようさい)を占領し、内戦は一応の解決をみた。
| 14. | 不安定な時代 |
内戦後、経済の復興は着実にすすめられ、1950年末までに工業生産高は39年の90%まで回復した。NATO(北大西洋条約機構)の委員会は、51年、ギリシャとトルコの加盟を承認する。52年には右派のパパゴス元帥が、55年にはコンスタンティノス・カラマンリスが政権を担当した。56年の総選挙では新たに結成された国民急進党が過半数を獲得し、カラマンリスがふたたび首相となった。
1950年代には、1878年以来イギリス領だったキプロス島併合の運動が復活し、1955年、イギリス、ギリシャ、トルコはキプロス問題をめぐって話し合いを開始する。59年に最終的な合意に達し、翌年キプロスは独立が承認された。60年代に入ると、カラマンリスひきいる右派の国民急進党とパパンドレウの中道左派である中央連合の対立が激化した。63年と64年の総選挙では、2度にわたり中央連合が勝利してパパンドレウが組閣する。
| 15. | 軍事政権と民政復帰 |
1967年、不安定な政局の中でパパドプロスら軍の一部が政府をたおして権力をにぎり、左翼や共産主義者を中心に数千の政治家を逮捕した。軍事政権は国民の自由を制限し、報道機関の検閲や政治組織の解散、多数の組織を不法とする一連の決議をおこなった。国王のコンスタンティノス2世は軍事政権を打倒しようとこころみたが失敗し、イタリアに亡命する。
1970年代初頭に、政府は軍事政権樹立後に制限された国民の権利を復活させ、73年、王制を廃止して共和制とした。学生の政府に対する暴動、キプロス問題での失敗により74年に軍事政権はたおれ、亡命していたカラマンリスが帰国して、ND(新民主主義党)をひきいて政権を樹立。王制の復活は国民投票で否決され、75年、議会制民主主義をさだめた新憲法が公布された。
| 16. | ギリシャ初の左派政権 |
1974年のキプロス危機ののち、ギリシャ軍はNATOから撤収していたが、80年に復帰する。同年にカラマンリスが大統領となり、後任の首相ラリスは81年にギリシャのEC(ヨーロッパ共同体。現EU)加盟を実現させた。
1981年の総選挙では、アンドレアス・パパンドレウ(ゲオルギオス・パパンドレウ元首相の子)ひきいるPASOK(全ギリシャ社会主義運動)が勝利し、初の社会主義政権が誕生した。89年および90年の総選挙ではNDが政権をにぎったが、93年の総選挙ではPASOKがNDをやぶり、パパンドレウが首相にかえりざいた。95年3月、コンスタンティノス・ステファノプロスが新大統領に就任した(2000年2月再選)。
1996年1月パパンドレウ首相が健康悪化により辞任(6月死去)、かわってコスタス・シミティスが後継首相に就任した。シミティス首相は9月、総選挙を1年くりあげて実施、PASOKの単独過半数獲得で政権の足場をかためた。2000年4月の総選挙でもPASOKが辛勝し、シミティスが首相に再任された。
ギリシャは、EU加盟国でありながら基準未達成のために単一通貨ユーロへの参加ができなかったが、行財政改革をすすめた結果インフレ率が下降し、2001年1月、ユーロ導入を実現した。
| 17. | 保守政権の復活とアテネ・オリンピック |
2004年3月の総選挙は、NDが過半数を制し、47歳のコスタス・カラマンリス(元首相・大統領コンスタンティノス・カラマンリスの甥(おい))が首相に就任した。10年半ぶりの保守政権復活は、ユーロ導入による物価の高騰、10%近い失業率にくわえて、PASOKの汚職が表面化し、国民が変化をのぞんだ結果とみられている。
2004年8月、アテネで108年ぶりにオリンピックが開催され、220の国・地域が参加した。準備の遅れやテロの不安をかかえながらも大会は成功裏に終了した。オリンピック開催は、公共投資や観光収入でギリシャ経済に活況をもたらしたが、インフラ整備もふくめた費用は当初予算の2倍の100億ユーロにふくれあがり、財政赤字も増大することになった。財政再建のため、政府は、国営企業の合理化・民営化の促進や社会保障制度の見直しをすすめ、これに反対するストライキがあいついだ。05年3月、ステファノプロス大統領の任期満了により、カロロス・パプリアスが新大統領に就任した。
| 18. | 近隣諸国との関係 |
1991年のユーゴスラビアの解体により同国を構成していたマケドニア共和国が独立を宣言すると、ギリシャ政府は、ギリシャ名による国名やギリシャのシンボルをもちいた国旗に反対し、また、憲法にもギリシャのマケドニア地方への領土的主張がもりこまれているとして厳重に抗議した。マケドニア共和国は憲法を改正し、93年に国連はマケドニア旧ユーゴスラビア共和国を暫定的な国名として独立を承認した。しかし、この措置はギリシャに満足のゆくものではなく、94年にマケドニア共和国に対して経済封鎖をおこなう。翌95年には国連の仲介により経済封鎖を解除し、両国の関係正常化にむけて合意に達した。
一方、1990年代には、アルバニア領内のギリシャ系少数住民への不当な扱いをめぐり、アルバニアとの関係が緊張、97年にはアルバニアの内戦の激化で多数の難民が流入した。
長年対立をつづけているトルコとの関係は、1997年にキプロス共和国への地対空ミサイル配備問題で緊張が高まった。99年には、クルド労働者党のオジャラン議長逮捕に際して、ケニアのギリシャ大使館が関与していたため、両国関係はさらに悪化した。99年8月のトルコ北西部の地震の際、ギリシャが緊急救助隊を派遣したことから関係が改善され、9月のギリシャでの地震ではトルコからの救助隊が派遣された。ギリシャは、トルコのEU加盟に対して従来の反対の立場を変更した。2004年4月、南北キプロスで同時に実施された国民投票でギリシャ系住民は、再統一にむけた国連の和平案を拒否し、翌5月、ギリシャ系のキプロス共和国だけがEUに加盟した。トルコのEU加盟交渉は05年10月にはじまったものの、キプロス問題の解決が加盟の前提になっており、ギリシャはトルコに対して慎重な姿勢をとっている。
| 19. | 日本との関係 |
日本との国交を開始したのは1899年(明治32)のことである。以来、両国は友好関係をたもち、政治、経済、文化の面において交流がつづいている。1982年(昭和57)、日本・ギリシャ文化協定がむすばれた。貿易全体に占める対日貿易の割合は低いが、輸入超過が恒常的になっている。輸入品が自動車、船舶などであるのに対し、輸出品が葉タバコや食料品などであることによる。