検索ビュー ウクライナ

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ウクライナ
I. プロローグ

ヨーロッパの東部、黒海の北にある共和国。正式国名はウクライナ。国名のウクライナは「辺境の地」を意味するウクライナ語の「クライ」に由来する。かつてはソビエト連邦(ソ連)の中の1共和国だったが、ソ連解体にともない1991年12月に独立、同時にロシア連邦を中心に結成された独立国家共同体(CIS)の創設メンバーとなった。国内に、91年に州から昇格したクリミア自治共和国をふくむ。面積は60万3700km²で、ヨーロッパではロシア連邦についで2番目に大きい。人口は4599万4287人(2008年推計)。首都は最大の都市のキエフ。

II. 国土と資源

ウクライナのほぼ全域は平野で、標高は300m以下。例外は最西端にあるカルパティア山脈とクリミア半島南部のクリミア山脈である。最高峰はカルパティア山脈中のホベルラ山で、標高は2061m。主要河川は、中央部をながれるドニエプル川、西部のブーグ川(西ブーグ川)、南ブーグ川、ドニエストル川、東部のドネツ川、南部のドナウ川などで、ブーグ川をのぞき、いずれも南の黒海にながれこんでいる。西部のポーランドとの国境をながれるブーグ川は北流してビスワ川と合流し、バルト海にそそいでいる。

気候は穏やかな大陸性気候だが、クリミア半島は地中海性気候である。平均気温は冬で-8~2°C、夏で17~25°C。黒海沿岸は冬に凍結する。年降水量はもっとも多いカルパティア地方で1500mm以上、もっとも少ない黒海沿岸部で300mm以下である。

国土の約3分の2を占める中央部・南部地方は、肥沃(ひよく)なチェルノーゼム(黒土)におおわれている。植生からは、北から森林地帯、森林・ステップ地帯、ステップ地帯にわけられるが、現在では多くが耕作地となり、穀物が生産されている。特徴的な動物に、シカ、ビーバー、テンなどがいる。

III. 住民

人口は旧ソビエト連邦(ソ連)の中ではロシアについで2番目に多い。国外移住などにより人口は減少傾向にあり、2008年推計の人口増加率は-0.65%。民族構成(2001年調査)は、ウクライナ人が人口の78%、ロシア人が17%を占めており、そのほかベラルーシ人、モルドバ人、クリミア・タタール人(タタール人)、ブルガリア人、ハンガリー人などがいる。クリミア自治共和国ではロシア人が多数派である。公用語は、東スラブ語族のひとつであるウクライナ語だが、ロシア語も広くもちいられている。おもな宗教は東方正教会のウクライナ正教(ロシア正教会系のキエフ主教派、モスクワ主教派と、独立ウクライナ正教会)。西部にはウクライナ・カトリック(東方帰一教会:ユニエイト教会)教徒がおり、そのほかロシア正教古儀式派、イスラム教徒、ユダヤ教徒なども存在する。

人口の3分の2以上が都市部にすんでおり、首都キエフの人口は261万8000人(2003年推計)。他の主要都市としては、ハリキフ、ドニプロペトロフシク、ドネチク、オデッサ、リビフ、マリウポリなどがある。

IV. 経済

ウクライナは鉄工業や重化学工業が盛んな工業国で、鉱業、製造業、建設業をふくむ第2次産業がGDP(国内総生産)に占める割合は34.6%(2006年)、従事者は労働人口の24%(2005年)にのぼる。工業は、豊富な鉱物資源によっており、とくにドネツ炭田の石炭とクリビイリフ鉄山の鉄鉱石は、帝政ロシア時代から工業の発展に貢献してきた。

肥沃なチェルノーゼムにおおわれたウクライナは、かつて「ヨーロッパの穀倉」とよばれた農業国でもある。コムギ、オオムギ、ジャガイモ、テンサイなどを栽培し、穀物、砂糖、ヒマワリ油などの農産物を輸出している。

石炭、石油、天然ガスの生産量の減少でエネルギー資源にとぼしく、石油と天然ガスは、おもにロシアからの輸入にたよっている。ロシアはエネルギー資源を武器に強硬な外交を展開し、2006年1月には、ウクライナ向け天然ガスの供給を一時停止した。電力は、石炭を中心とする火力発電と原子力発電でまかなっており、総発電量の49%(2003年推計)を火力発電が、45%を原子力発電が占める。きびしいエネルギー事情のため原子力発電にたよらざるをえない状況で、1986年に大事故をおこしたチェルノブイリ原子力発電所も西側諸国の援助で2000年12月に閉鎖されるまで操業をつづけていた。

独立後のウクライナの経済改革はいちじるしく遅れをとったが、1993年1月から食料、交通、その他サービス業における価格の規制緩和がはじまった。政府は、一部で企業の民営化をはじめたが、官僚の抵抗が強く、思うように進展しなかった。そのため生産低下がつづいて、国内経済は急激なインフレになやまされた。経済立て直しのためには旧ソビエト連邦(ソ連)諸国との協力が必要であるとの認識から、93年9月、独立国家共同体(CIS)の経済同盟に参加した。

1994年に大統領となったクチマは、IMF(国際通貨基金)との協調のもとで、財政の改革、国営企業への補助金の削減と民営化、企業減税、農業改革、為替レートの一元化などの経済政策を実施した。また、チェルノブイリ原発の閉鎖を条件にEU(ヨーロッパ連合)との貿易協定にも調印した。その結果、急激なインフレは収束、デノミを実施したうえで96年9月に暫定通貨カルボバネツにかわる新通貨フリブニャが導入された。

V. 環境問題

豊富な天然資源と肥沃な農地にめぐまれたウクライナは、1991年にソビエト連邦(ソ連)が消滅したのちも、旧ソ連時代からの汚染という後遺症になやまされている。火力発電所や都市を発生源とする大気汚染が深刻であり、地方では地下資源の採掘による環境破壊がすすんでいる。河川や湖沼の水質汚濁もひどく、飲用可能な水の確保は容易でない。また86年にはチェルノブイリの原子力発電所で大事故が発生し、ウクライナは世界の注目をあつめた。

チェルノブイリ事故では、国土の10%が放射能汚染の被害をうけ、少なくとも2%がきわめて高レベルの放射能に汚染された。10万人以上の人々が移住を強いられ、農産物は汚染のため食用にできず、農業はほとんど放棄せざるをえなかった。放射能による健康への被害をじかにうけたのは、事故直後の処理にたずさわった数百人だけだったが、国民全体への長期的な被害がしだいに明らかになっている。たとえば、子供の甲状腺癌などである。今後も数十年間は危険な状態がつづくと考えられている。とくに高レベルの汚染地域は、ほとんどが現在も居住不能である。住民が退去した地域では、人間の活動がほぼ全面的に停止したため、皮肉にも多くの野生生物が繁茂、増殖している。

ウクライナは、国土の15.9%(2005年推計)が森林である。環境保護のため、国立公園数カ所のほか、多数の特別地域や狩猟地が設定されている。湿地保全を目的とするラムサール条約にもとづき、何カ所もの湿地帯が保護されている。さらに、ユネスコの「人間と生物圏計画」にもとづく生物圏保護地区が3カ所ある。これらを合計すると、国土の3.4%(2007年)がなんらかの保護指定をうけていることになる。

VI. 政治

国家元首は任期5年の大統領で、直接選挙によってえらばれ、2期までの再選が可能である。立法をになう議会は一院制の最高会議で、定数は450名。直接選挙によってえらばれ、任期は5年。

大統領と議会の権限をめぐっては変遷があったが、2004年12月の憲法改正(発効は2006年1月)により、首相と内閣を大統領が議会の承認をえて任命する方式から、首相と外相、国防相については、大統領の提案にもとづき議会が任命、その他の閣僚は、首相の提案で議会が任命することになった。州政府の長は、内閣の提案にもとづき大統領が任命する。この改正は、大統領は外交と安全保障に専念し内政は首相がになう、また議会と地方政府の役割を高めるという理念にもとづいていた。

議会には多くの政党が乱立しているが、2001年に当時のクチマ大統領に対抗する政党連合として結成された、ユシチェンコ(現大統領)を中心とする「われらのウクライナ」、04年の大統領選挙でユシチェンコにやぶれたヤヌコビッチがひきいる地域党、ユシチェンコとともにクチマ体制をたおしながら袂(たもと)をわかったティモシェンコがひきいるティモシェンコ連合が三大勢力。ほかに、1990年代に第1党だった共産党、さらに社会党などがある。

VII. 歴史
1. キエフ・ロシアの首都

初期のウクライナ史はロシア史の重要な一部でもある。キエフは11~12世紀にキエフ・ロシア(キエフスカヤ・ルーシ)の首都で、今なお「ルーシ諸都市の母」とされている。13世紀にウクライナの地はタタール・モンゴルの支配下に入ったが、西部のガリチアはその支配をまぬがれ、14世紀にポーランド領となった。同じころキエフおよびボルイニ地方は、のちにポーランド領となるリトアニアに併合された。

2. ウクライナ・コサック

ポーランドおよびリトアニアの支配に屈せず形成された集団が逃亡農民を中心としたウクライナ・コサックであり、彼らは17世紀にロシアと同盟をむすんだ。ドニエプル川以東の地がロシア領となったのは1667年のことであり、ガリチア地方をのぞくドニエプル川以西がロシア領となったのは1793年のポーランド分割(→ポーランドの「ポーランド分割」)時である。第1次世界大戦(1914~18年)中、1917年のロシア革命にひきつづき、ウクライナは独立を宣言したが、ソビエト軍によって粉砕された。

3. ソビエト連邦の一部に

この間、ガリチア、ブコビナ、カルパティア・ウクライナ地方のウクライナ人はオーストリアの支配下におかれるが、民族的アイデンティティをうしなうことなく、民族運動を活発にくり広げ、1918年には東ガリチアに独立国を建国した。しかし、パリ平和会議により東ガリチアはポーランドの保護領となり、ペトリューラひきいるウクライナ政府はポーランドと交戦するが敗北した。こうしてガリチアはポーランド領のままで、東のウクライナ本国地域にはソビエト政権が樹立された。20年には、ロシアのボリシェビキ政権(ボリシェビズム)の侵攻にあい、ウクライナ・ソビエト共和国は22年、ソビエト連邦(ソ連)の一部となった。

1922~39年は、ソ連がウクライナ・ナショナリズムを抑圧した時代だった。とくにスターリンによる「上からの革命」の打撃は大きく、強制的な農業集団化と穀物徴収は32~33年の大飢饉(ききん)をまねき、700万人以上もの死者を出した。

1939年9月、ソ連軍がポーランド領ガリチアを占領し、約6万2160km²の地がウクライナ・ソビエト共和国に併合された。第2次世界大戦中の41年、ドイツ軍がウクライナに侵攻すると、ウクライナ・ナショナリストはドイツの占領下でソ連からの独立を宣言したが、ドイツ軍はロシア領ウクライナとガリチア地方を分離させ、ウクライナ・ナショナリストと対立し、この独立をみとめなかった。ウクライナは44年にふたたびソ連邦にくみいれられた。45年にウクライナはソ連邦に属しながらも国連の創設メンバーとなり、54年にはクリミア半島がロシア領からウクライナ領に編入された。91年のソ連崩壊により、ウクライナは独立国となった。

4. 独立後のクリミア問題

独立後のウクライナがかかえる問題の多くはロシアとの関係に起因し、とくにロシア系住民が多数を占めるクリミアをめぐり政治的緊張が高まった。

ウクライナが独立した直後、クリミアではウクライナからの独立をもとめるロシア主導の運動がおこり、クリミアをウクライナの州から自治共和国に格上げすることに成功、独立を宣言したが、1992年5月にこの宣言は無効となった。しかし、同年ロシア議会が54年のウクライナへのクリミア移譲を無効とする決議を採択したため、ウクライナとロシアの論争となった。94年1月に独立派のメシコフがクリミアの大統領に当選すると、クリミアとウクライナ中央政府の対立が先鋭化した。95年にはクリミア側はクリミア独立、ロシアとの再統合をめざして住民投票を強行しようとし、中央政府側はクリミアの大統領解任、議会の解散を指令し、緊張がつづいた。

また、ウクライナ東部のドネチク、ルハンシクでもウクライナからの分離主義的運動が活発化した。ロシア系住民が多数を占めるこの両地方では、1994年3月にロシア語を公用語にする住民投票が可決され、独立国家共同体(CIS)への加盟が主張された。

ウクライナの独立後、ウクライナとロシアはクリミア半島のセバストポリ港を基地とする黒海艦隊の帰属をめぐっても対立した。1995年までは共同管轄とし、その後分割することで92年にいったん合意に達したが、その後も緊張はつづいた。この問題では黒海艦隊を分割して、ロシア黒海艦隊とウクライナ海軍を創設、ロシア黒海艦隊がひきつづきセバストポリ港を使用することで、95年6月に両国は合意した。また、クラフチュク大統領はウクライナに存在する核兵器をロシアに移送することにも合意した。94年2月、ウクライナは北大西洋条約機構(NATO)と東欧諸国などとの間に安全保障面での協力拡大をめざした「平和のためのパートナーシップ」に加盟することを決定した。

経済の面でも、独立後のウクライナはロシアとの関係でゆれうごいた。ソビエト連邦(ソ連)時代、石油や天然ガスなどは連邦に依存しながらも、石炭や鉄鉱石にめぐまれ工業も発展していたウクライナの国民には、その成果を連邦にすいあげられていたという意識が強かった。ソ連時代にウクライナ共産党の幹部で、独立後初代大統領となったクラフチェクは、独立後の混乱と経済危機の原因はロシアから生じており、ルーブル圏から離脱すれば経済危機は解決できると主張した。

しかし、ソ連時代の社会主義的分業からいきなり自立経済に切りかえることは容易でなかった。インフレは昂進(こうしん)し、またソ連時代には連邦内で安価に提供されていた石油が、ロシアになって国際価格に切りかえられたため債務が急増することになった。工業製品も国際競争にたえるまでにはきたえられていなかった。

5. クチマ政権

1994年7月におこなわれた大統領選挙は、クラフチェク大統領と、そのもとで首相であったクチマの争いとなり、52%の票を獲得してクチマが当選した。クチマ大統領は、ロシアとの経済的統合を再強化して安定をはかりつつ、経済改革を断行した。95年3月には、経済改革に反対するマソル首相を解任し、議会とも「憲法協定」をむすんで、より広範な大統領権限を獲得、経済改革を遂行する準備をととのえた。

そして、IMF(国際通貨基金)と協調して国営企業の民営化や減税による民間企業の育成、為替レートの一元化などの改革をおしすすめ、急激なインフレを収束させた。1996年6月に新憲法が導入され、大統領と議会の対立も収束し、政治的にも安定にむかった。また97年5月にはNATO(北大西洋条約機構)との間で、ロシアに準じるかたちで協力文書に調印、ついで、ロシアと友好協力条約を締結した。この友好協力条約により、ロシアはクリミア半島はウクライナ領であることを確認し、95年の黒海艦隊分割合意とあわせてクリミア問題は決着をみた。

1998年3月の最高会議選挙では共産党がひきつづき第1党となったが、99年10~11月におこなわれた大統領選挙では、クチマが共産党の候補を決選投票でやぶって再選された。クチマ大統領は、経済改革をさらにすすめるために中央銀行総裁であったユシチェンコを首相に指名、ユシチェンコはヨーロッパとの関係拡大による市場経済の推進をはかった。

2000年3月にプーチンがロシア大統領に就任すると、クチマ大統領は急速に親ロシアに傾斜し、国内においては強権的な政治運営がめだつようになっていった。国民からはクチマ大統領に対する批判が高まったが、親ロシア派が多い最高会議は、01年4月にEU(ヨーロッパ連合)との関係強化をはかるユシチェンコ内閣への不信任決議案を可決した。大統領は親ロシアのキナフ第1副首相を首相に指名、最高会議は与党の賛成多数で承認した。02年3月末の議会選挙では、独立後はじめて共産党が第3党へ後退、01年にクチマ大統領支持派が結成した「統一ウクライナのために」と、それに対抗してユシチェンコらが結成した「われらのウクライナ」が二大勢力となった。

6. オレンジ革命

2期目のクチマ大統領は、政府に批判的な報道機関や野党を弾圧して、いっそう強権的姿勢を強め、国民の批判もさらに高まった。クチマ大統領は批判そらしをねらって2002年11月にキナフ内閣を総辞職させてドネチカ州知事のヤヌコビッチを首相に任命した。

2004年10月におこなわれた大統領選挙は、こうした強権的で親ロシアのクチマ大統領をささえてきたヤヌコビッチ首相と、政治の民主化やEU(ヨーロッパ連合)、NATO(北大西洋条約機構)への接近を主張するユシチェンコの対決となった。この選挙では、クチマ政権がアメリカとの関係改善をもくろんでイラクに派遣した兵士の撤退も争点となり、ユシチェンコは即時撤退を主張した。

この選挙でユシチェンコはわずかの差でヤヌコビッチをおさえたが、当選に必要な投票の過半数にはおよばず、11月に決選投票がおこなわれた。決選投票では政権側が大規模な不正をおこない、11月21日の投票日から野党陣営は街頭抗議行動をおこした。以後、陣営が抗議拠点としたキエフの独立広場はユシチェンコ派のオレンジ色の旗でうめつくされることになったが、軍隊は介入しなかった。

中央選管は11月24日にヤヌコビッチを当選としたが、野党陣営はみとめず、「救国委員会」を創設して臨時政府樹立を宣言、大統領府や首相府を封鎖した。選挙結果に懸念を表明していた欧米諸国は、EUから代表を派遣して与野党代表による円卓会議を組織、そこで再選挙の流れがさだまり、最高会議も27日に決選投票の無効とやり直しを決議した。しかし、決選投票のやり直しか選挙そのもののやり直しかをめぐる対立はとけなかった。

膠着(こうちゃく)した事態の打開に決定的な役割をはたしたのは、12月3日の最高裁判所決定であった。最高裁決定は、決選投票で大規模な不正や捏造(ねつぞう)、法律違反があったと認定、中央選管の決定を無効として決選投票のやり直しを勧告した。これをうけて最高会議は、大統領権限を縮小する憲法の改正、また大統領選挙法の改正をおこなって、12月26日に決選投票の再投票がおこなわれた。

選挙結果は、ユシチェンコが得票率52%、ヤヌコビッチが44%で、ユシチェンコの当選が決定した。この間、ロシアのプーチン大統領は、欧米諸国の対応を政治介入として批判し、ヤヌコビッチを支援したが、親ロシア政権はくずれた。しかし、石炭など基幹産業のあるウクライナ東・南部はロシア系住民が多く、親ヨーロッパの首都キエフや西部住民との対立は深刻で、この間、東・南部諸州では独立をめざす動きもみられた。

ユシチェンコ政権には、経済的依存が強いロシアとの関係を修復しつつ、EUとの関係強化もはかって独自の経済基盤を強化するというむずかしい課題がかせられることになった。

7. 親ロシア派・親欧米派の大連立

2005年1月にユシチェンコが大統領に就任、2月には、ティモシェンコを首相とする新内閣が発足した。ティモシェンコは、オレンジ革命をユシチェンコとともにひきいた立役者で、「ウクライナのジャンヌ・ダルク」とも称され、国民の人気も高かった。ユシチェンコ政権への期待は大きかったが、クチマ前政権にくらべて経済成長率はおちこみ、物価も上昇、経済運営をめぐって政権内で亀裂が深まっていった。05年9月、ユシチェンコ大統領はティモシェンコ首相ら全閣僚を解任、自身に近いドニエプロペトロフスク州知事のエハヌロフを首相に任命した。

ロシアは、ウクライナに対して天然ガスを安価で供給していたが、他のヨーロッパ諸国に対する価格並みにあげることを通告した。約5倍となる価格にユシチェンコ政権は抵抗し、2006年1月、約2倍の価格とすることと、他のヨーロッパ諸国向けの輸出ルートでもあるウクライナ領内のガスパイプラインの管理を、両国共同の合弁会社にうつすことでおりあった。

こうした中でおこなわれた2006年3月26日の議会選挙では、ヤヌコビッチ元首相がひきいる親ロシアの地域党が第1党となり、ティモシェンコ前首相ひきいるティモシェンコ連合が第2党となった。ユシチェンコ大統領の「われらのウクライナ」は第3党にしずんだ。過半数を制する勢力はなく、各派いりみだれての連立合戦がはじまった。当初、オレンジ革命をともにたたかった「われらのウクライナ」とティモシェンコ連合に、中立的な社会党をくわえた連立が合意されたが、地域党と共産党のまきかえしで社会党をふくむ新多数派が形成され、事態は混迷した。

結局、4カ月余におよぶ混乱の末、2006年8月4日に、地域党と「われらのウクライナ」、社会党、共産党からなる連立政権が誕生、首相に地域党党首のヤヌコビッチ元首相が選出された。親ロシア派と親欧米派の大連立により、国政の基本方針は、EU(ヨーロッパ連合)加盟をめざす一方、ロシアなどとの統一経済圏にもくわわることになった。

8. 両派の決裂と政局の混乱

2006年10月、「われらのウクライナ」は、政権発足からわずか2カ月で連立内閣から自党の閣僚をひきあげて野党に転じた。大統領の管轄領域である外交にのりだしたヤヌコビッチ首相が9月にNATO(北大西洋条約機構)事務総長と会談し、連立合意の外交方針に反して「ウクライナのNATO加盟は時期尚早」との見解をしめしたことが引き金となった。連立離脱後も、ユシチェンコ大統領が指名した外相と国防相は閣内にとどまっていたが、12月、議会は、親欧米外交をすすめてきたタラシュク外相と、大統領派の内相の解任を可決した。ユシチェンコは、大統領が指名権をもつ外相の解任決議に反発してタラシュクを再指名したが、外相の閣議出席が拒否されるなど政局が混迷し、翌07年1月末にタラシュクは辞任した。

大統領権限の大幅な削減をねらう首相派が議会支配を強める中で、2007年4月、ユシチェンコ大統領は議会解散と選挙の早期実施を命じた。改憲を阻止したい大統領にとって、議会解散と再選挙は勢力バランスをたてなおすための切り札だったが、首相派は大統領令には法的根拠がないと主張して議会解散を拒否し、政局は混迷を深める。一時は内務省部隊の指揮権をめぐる争いまでおこったが、5月末、大統領の譲歩によって、繰り上げ議会選挙の時期を9月とする合意が成立し、泥沼化していた政治危機はようやく収束にむかった。

2007年9月末におこなわれた議会選挙では、前回選挙で第2党に躍進した野党のティモシェンコ連合がさらに勢いをのばした。政治混乱で威信を低下させたユシチェンコの「われらのウクライナ」は議席をへらしたが、両党あわせると過半数をわずかながらこえることから、親欧米派の勝利となった。10月に両党は、連立内閣をつくることで合意し、12月、ティモシェンコの首相復帰は過半数ぎりぎりで議会に承認された。しかし、与野党の勢力は伯仲しており、次期大統領の座をめぐるティモシェンコとユシチェンコのライバル意識もみえかくれしている。復活した親欧米政権の政局運営については困難も予想される。