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ダーウィン,C.R.
I. プロローグ

1809~82 イギリスの博物学者。すべての生物は自然選択の作用によって時間をかけて進化するとの立場から、現代進化論の基礎をきずいた。ダーウィンの学説は、生命科学、地球科学、さらに現代思想にきわめて大きな影響をもたらした。

II. 生い立ち

イングランドのシュルーズベリーで、教養ある富裕な家庭の第5子として生まれる。母方の祖父は陶磁器製造で成功した企業家ジョサイア・ウェッジウッド、父方の祖父は18世紀の有名な医師で詩人エラズマス・ダーウィンであった。

1825年にシュルーズベリーのパブリック・スクールを卒業したのち、エディンバラ大学に入学し、医学を学ぶ。しかし27年に中途退学し、ケンブリッジ大学にうつって英国国教会の牧師になるための勉強をはじめた。

1. 博物学へのスタート

ケンブリッジ大学で、地質学者アダム・セジウィックと博物学者ジョン・ヘンズローという2人の重要な人物にであう。ヘンズローは、彼に自信をもたせるとともに、自然界の現象を細心の注意をはらって骨身をおしまず観察し、標本を収集するようおしえた。1831年にケンブリッジ大学を卒業すると、22歳のダーウィンは、ヘンズローの推薦をえてイギリスの測量船ビーグル号に乗船、無給の博物学者として科学の探検航海に旅だった。

III. ビーグル号の航海

ビーグル号に乗船したダーウィンは、航路上の大陸や島のいたるところで、さまざまな地質や、変化にとんだ化石や生物を観察する機会にめぐまれた。地質学の調査では、地球の表面を形づくる自然の力に深い感銘をおぼえた。

1. 天変地異説への疑い

この当時、多くの地質学者は、地球上では動植物の創造がつづいており、これらの創造物は地表の激変など突然の天変地異によってほろびるという、いわゆる天変地異説に固執していた(地質学)。この説にしたがえば、最後の天変地異はノアの洪水で、このときノアの箱舟にのった生物以外はすべて絶滅し、化石になったという。天変地異説の支持者は、種は個々に創造され、不変であると考えた。

2. ライエル説からの刺激

イギリスの地質学者チャールズ・ライエルは「地質学原理」(1830~33)で、種の不変性に関する部分をのぞく天変地異説の見解に異をとなえた。地球の表面は、自然の力が長期間にわたって均一に作用する結果、つねに一定の変化をこうむっていると主張した。

ダーウィンはビーグル号の船上で、自分の観察したものの多くがライエルの斉一説に適合していることに気づく。しかし化石や現生の動植物を観察することで、ライエルの支持する、種は個々に創造されたとする説に疑いをいだくようになった。

3. ガラパゴスでの観察

たとえば、絶滅種のものであると思われる化石が、同じ地域でみられる現生種とよく似ていることに注目する。エクアドルの沖合に位置するガラパゴス諸島では、ゾウガメ、マネシツグミ、フィンチなどの種が島ごとにちがっていることを観察した。

これらのさまざまな種はたがいに近縁関係にあったが、島によって体の構造や採食の習性がことなっていた。こうした観察をとおして、類似しているが異種の生物の間にどのようなつながりがあるのか、という問題にたちむかうことになる。

IV. 自然選択の理論

ダーウィンは、1836年にイギリスに帰国すると、種の問題に関する最初の覚え書きに、種の可変性についての見解を記述しはじめる。

1. マルサスの影響

生物の進化に関する彼の考えは、イギリスの経済学者マルサスの「人口論」を読んだことで焦点がしぼられた。マルサスは人口のバランスがいかにたもたれるかを論じ、人口は食糧の増産がまにあわないほど急速に増加するのが常であるため、飢饉、病気、戦争などによって人口の増加を抑制しなければならないと主張した。

2. 進化論の構想期間

ただちにマルサスの理論を動物と植物にあてはめ、1838年には、自然選択による進化論の概略ができあがった(種)。これにつぐ20年間は、進化論の構築と、そのほかの博物学の研究にもとりくんだ。彼は経済的に裕福であったため、これらの研究に収入をもとめる必要はなかった。39年には、いとこのエンマ・ウェッジウッドと結婚。まもなくロンドン郊外のダウン・ハウスにうつりすむ。そこで夫妻は10人の子をもうけるが、このうち3人はおさなくして命をおとした。

3. 「種の起原」の発表

1858年、ダーウィンは、はじめて自分の研究を発表する。彼とは別に自然選択の理論に到達していた後輩の博物学者ウォーレスの進化論とあわせた共同論文のかたちであった。完成させた理論を「種の起原」にまとめ、59年に出版。世界を震撼させた本と評されることの多い「種の起原」は出版当日に完売し、のちに6版を重ねた。

4. 自然選択説

ダーウィンの自然選択による進化論は、マルサスが論じた食糧供給問題をヒントにしており、いかなる種の子もはげしい生存競争にさらされるという考えが基本になっていた。

生きのこって次の世代をうむ子は、自然選択の過程で環境により適応した変異をもち、変異は遺伝によってうけつがれる。個々の世代は前の世代より適応性を高め、これらの漸進的で継続的な過程が種の進化の源である。

自然選択説はダーウィンの広大な概念体系の一部にすぎない。彼は、類縁関係にある生物はすべて共通する祖先から生まれるという概念もとりいれた。さらに、地球自体も不変ではなく進化しているとする古くからある概念を側面から支持した。

V. 進化論への反発

「種の起原」への反発は、すぐにあらわれた。生物学者の中には、ダーウィンはみずからたてた仮説を証明できないと主張するものがいた。また、ある者は、ダーウィンは変異の原因についても、変異がいかにして次の世代につたえられるのかも説明できないと主張して、変異の概念を批判した。

変異の伝達に関するこの異議については、20世紀初期に現代遺伝学が生まれるまで解答がみいだせなかった(遺伝学:メンデルの法則)。事実、「種の起原」が出版されてから50年、あるいは最近にいたるまで、科学者たちは疑問を表明しつづけたのである。

1. 宗教界の攻撃

しかし、もっともはげしい攻撃は、科学者によるものではなく、宗教界からのものであった。生物が自然の作用によって進化するという考えは、人類の創造を否定し、人類を動物と同じ水準におくことにつながり、正統派神学にまっこうから対立するものであった。天地創造

VI. 晩年期

ダーウィンはその余生で、「種の起原」の中で提起した問題の別の側面について、さらに詳細に記述した。後年の著作には、「家畜と栽培植物の変異」(1868)、「人間の由来」(1871)、「ヒトと動物の感情の表現」(1872)などがある。これらの中で、彼は「種の起原」では小さな項目に制限されていたテーマをくわしく説明している。

その業績の重要性は、同時代の人々にもじゅうぶん認識されていた。1839年にロイヤル・ソサエティ、78年にフランス科学アカデミーの会員にえらばれた。82年4月19日、ケントのダウンで死去したときは、ウェストミンスター寺院に埋葬されるという栄誉もうけた。

進化:進化論