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元(中国史)
I. プロローグ

1260年にモンゴル人によってたてられ、1368年まで約100年間つづいた、異民族が中国全土を統一した初めての征服王朝。チンギス・ハーン(在位1206~27)を太祖とし、その孫フビライを初代皇帝とする。

II. 元の建国

モンゴル諸部族を統一したテムジンは、諸部族の有力者による合議の場であるクリルタイで大ハーン(君主)におされ即位した。ここにチンギス・ハーンが誕生、中国史では彼を元朝の太祖としている。チンギス・ハーンは強力な軍隊をひきいて次々と遠征をおこない、中央アジアから南ロシア、中国北辺にまたがるモンゴル帝国をきずきあげた。しかし、その東方には、定住生活をおくり、農業生産によって蓄積された富や高い文化をもつ金や南宋があり、チンギス・ハーンはこれを征服しようとしたが、その途上で病没した。

チンギスのあと、第3子のオゴタイが第2代の大ハーン位につき、カラコルムに首都をおいて、内政を整備し、駅伝制を制度化した。そして、父のはたせなかった金の征服をなしとげ、華北を支配下においた。ついで、1258年に第4代の大ハーン、モンケ・ハーンが中国方面の経営をまかされていた弟のフビライとともに南宋攻略を開始した。しかし、モンケが遠征中に病没したため、フビライが60年に大ハーンの位につき(在位1260~94)、大都(現、北京)を首都にさだめ、71年には国号を中国風に大元とさだめた。中国史ではこのフビライ・ハーンを元朝の世祖としている。79年には南宋をほろぼして中国全土を掌中におさめ、さらに朝鮮半島や東南アジア諸国へもせめこみ、高麗、アンナン(ベトナム)、ビルマなどを支配した。しかし、日本やジャワへの侵攻は失敗におわっている。

III. モンゴル帝国の分裂

モンゴル帝国の広大な領地を支配するため、チンギス・ハーンは領土の西部にひろがる草原地帯に諸子を、東部の大興安嶺付近には諸弟をそれぞれ分封しておさめさせていたが、その領地をついだ王族たちは、フビライのなかば強引な大ハーン即位をみとめず、元が成立するとそれぞれ独立し、ここに中国領をおさめる元と他の4つのハーン国という構図ができた。また、オゴタイ家のハイドゥを中心にフビライに反抗した乱(ハイドゥの乱)が約30年もつづき、モンゴル帝国の分裂は決定的なものとなった。結局、フビライは大ハーンを称してはいたが、実質的には中国の皇帝にすぎなくなっていった。

IV. 元の諸制度

元は、モンゴル人至上主義の国家で、モンゴル人を第1におき、ついで色目人(西域人)、漢人、南人(南宋の遺民)の順番で序列をつけ、差別した。中央の要職や地方長官などの重要なポストにはモンゴル人しかつけず、次の色目人は高級官僚となって財政面などで活躍し、両者で支配階級を形成した。漢人と南人は被支配者とされ、中央の政治には参加できなかった。官吏の登用試験である科挙は廃止され、朝廷と特別な関係がない者が官吏になるには、事務員から出世していくしかなかった。のちに士大夫層の要望をうけて仁宗が科挙を再開したが、その内容は、モンゴル人、色目人に有利で、漢人、南人の合格者は少数にとどまった。また、士大夫の中でもとくに儒者は冷遇された。

中央の統治体制には中国式の中央集権制が導入され、中書省(行政)、御史台(司法および監察)、枢密院(軍事)がおかれた。中書省は腹裏(現、山東、河北、山西省方面)を直轄し、腹裏以外の地方は9つに分け、それぞれ行中書省(略称行省)をおいて統治、行省はのちに皇帝に直属した。

V. 元の衰亡

1294年に世祖フビライが亡くなると、皇位継承をめぐって王族内の争いが激化し、政治は不安定となった。また、ラマ教(チベット仏教)を保護した歴代皇帝は莫大な費用をついやし、その赤字をうめるために交鈔とよばれる紙幣を乱発、経済を混乱におとしいれた。このような社会不安のなか、人種差別政策により抑圧されていた漢人が反乱をおこすようになり、なかでも白蓮教徒による紅巾の乱(1351~66)は最大の反乱となって江南を舞台に群雄が割拠し、指導権をとった朱元璋(のちに洪武帝)が明朝をたて、1368年には大都を陥落させ、元は滅亡した。ここに漢民族は1世紀ぶりに王朝をとりもどした。

VI. 元代の文化

元代には儒者が冷遇されて士大夫層の文化が停滞したのにともない、元曲とよばれる戯曲や小説をはじめとする庶民文化が発達した。対外的には、広大なモンゴル帝国のもとで東西交流が盛んになった結果、イスラムの暦法などが流入したほか、13世紀半ばには、カルピニ、ルブルクらフランシスコ会の宣教師がカラコルムをおとずれ、また元成立後の1294年には、モンテ・コルビノによってはじめてカトリックが中国に伝えられた。世祖につかえたマルコ・ポーロの「世界の記述」、いわゆる「東方見聞録」や、14世紀に中国、インド、北アフリカなどを旅したイブン・バットゥータの「三大陸周遊記」は、ヨーロッパ社会に元代の中国社会の繁栄を伝え、大きな反響をよんだ。