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スペイン
I. プロローグ

ヨーロッパ南西部、イベリア半島の約85%を占める立憲君主国。スペインは英語名で、スペイン語ではエスパニャ。原名の「ヒスパニア」はフェニキア語の「ウサギの島」を意味している。地中海のバレアレス諸島、大西洋アフリカ沖のカナリア諸島も、それぞれスペインの自治州のひとつ。そのほか、モロッコ北部に、スペイン領の小さな飛び地セウタとメリリャがある。海外の領土と島々をふくめた面積は50万5990km²。人口は4049万1051人(2008年推計)。首都は最大都市のマドリード。

II. 国土と資源

国土の外縁部の約88%を海にかこまれており、海岸線の長さは4964kmにおよぶ。北部のピレネー山脈はフランスおよびアンドラ公国との国境をなし、ビスケー湾から地中海まで約435kmにわたってつらなる。南端は、ジブラルタル海峡がアフリカと間をへだてているが、最短距離は13kmにみたない。

地形的には、メセタとよばれる広大でほとんど樹木のない中央高原が国土の大部分を占める。メセタは北から南、また東から西にむかってしだいに低くなり、平均標高は610mで、グアダラマ山脈、グレドス山脈、トレド山地などの不規則な形状の山脈を境に南北2つにわかれる。山あいの狭い谷からは急流がいくつもながれでている。

海岸平野は狭く、幅30kmもない所が多い。各所で山が海にむかってせりだし、岩質の岬をつくって海岸平野を寸断する。大西洋に面する北西部の海岸、とくにガリシアの海岸は、良港にめぐまれている。地中海にのぞむ随一の良港はバルセロナである。大きな山脈が6つはしり、ピレネー山脈のアネト山(3404m)、シエラネバダ山脈のムラセン山(3477m)など、それぞれ標高3300mをこえる山がある。海外の領土と島々をふくめた全スペインでの最高峰は、カナリア諸島テネリフェ島のテイデ山(3715m)。

ドゥエロ川(ポルトガルではドウロ川)、ミーニョ川、タホ川(テージョ川)、グアディアナ川はスペインに源を発し、西流してポルトガルをへて大西洋にそそぐ。南部の肥沃(ひよく)な平原をながれるグアダルキビル川は水深が深く、かつては中南米貿易の船がセビーリャまで遡航(そこう)していた。北東部をながれ地中海にそそぐエブロ川では、一部の区間で小船舶が航行できる。河川の多くは川幅が狭くて船舶の航行にはむかず、地平面よりもかなり低い所をながれるため灌漑(かんがい)にも利用しにくいが、電力の供給源として役だっている。

1. 気候

スペインの気候は気温の変化がはげしいことを特徴とする。北部の山地をのぞいて一般に降水量が少なく、年降水量は610mmほどである。変化にとむ地形のため、気候の地域差も大きい。ビスケー湾および大西洋岸沿いは気候がほぼ一定で、湿潤、冷涼である。中央高原の夏は乾燥がいちじるしく、ほとんどの小河川がひあがり、土地はかわききって、しばしば干ばつにみまわれる。

マドリードでは冬の寒さがきびしく、周辺の小河川が凍結する。セビーリャでは夏の気温が50°Cにもなる。南部の地中海沿岸は亜熱帯気候をしめし、南端のマラガの冬の平均気温は14°Cである。

2. 植生と動物

森林におおわれているのは国土の35.4%(2005年推計)で、とくに北西部に多い。常緑のオークが各地に自生する。コルクガシが多く、コルクの採取のため10年ごとに皮をはぐ作業がおこなわれる。オリーブの栽培が盛んで、乾燥した土壌ではブドウが栽培される。アフリカハネガヤも豊富で、製紙や繊維産業に利用されている。地中海沿岸では、オレンジ、レモン、イチジク、アーモンドなどがみられる。

野生動物は、オオカミ、オオヤマネコ、キツネ、イノシシなどの哺乳類が82種(2000年)生息する。鳥類(278種)や昆虫類も種類が多く、山あいの川や湖にはマスやコイがすむ。

3. 天然資源と土壌

スペインでもっとも価値のある天然資源は土壌で、耕作可能の土地が国土の37%(2005年)を占める。中央高原はなかば乾燥の赤褐色土壌で、南部や北東の沿岸部は赤色の地中海土壌でおおわれている。南東部では灰色の砂漠状の土壌となる。北部の森林は灰褐色の森林土でおおわれており、カンタブリア山脈では、分解されにくい落ち葉などが堆積(たいせき)してできる有機物層の土壌ポドゾルがみられる。

鉱物資源も豊かで、無煙炭、褐炭、鉄鉱石、ウラン、水銀、亜鉛などのほか、石油、天然ガスも埋蔵されている。炭田は北西部のオビエド周辺に、鉄鉱床はサンタンデル、ビルバオ付近にある。

III. 住民

スペイン人は、イベリア半島の先住民と、半島を征服、支配したさまざまな民族とが混血して形成された。あとから侵入した民族には、地中海人であるローマ人をはじめ、スエビ族、バンダル族、西ゴート族(ゴート族)、テウトニ族などがいる。セム族の影響もみられる。

スペインには、文化的、言語的に独自性を維持してきた民族集団がある。北東部および地中海の島々にすむカタルニャ人、北西部にすむガリシア人、ビスケー湾沿岸にすむバスク人、ロム(ジプシー)などである。

人口は、4049万1051人(2008年推計)。人口密度は81人/km²(2008年推計)である。都市化がすすみ、人口の77%(2005年)が都市部にすんでいる。

現在のスペインはヨーロッパ最大の移民受け入れ国のひとつで、住民登録をしている外国人居住者だけで全人口の1割近くにのぼり、そのほかに不法滞在者が相当数いるとされる。移民の出身国はモロッコ、ルーマニアのほか、南アメリカのエクアドル、コロンビア、アルゼンチンなど。

1. 行政区分と主要都市

カタルニャ、バスク、ガリシア、アンダルシア、アストゥリアス、カンタブリア、ムルシア、ラリオハ、バレンシア、ナバーラ、カナリア諸島、アラゴン、カスティリャラマンチャ、カスティリャレオン、エストレマドゥーラ、バレアレス諸島、マドリードの17の自治州からなり、自治州の下には全国で50の県がある。ほかに、アフリカ大陸北海岸にセウタ、メリリャの2自治都市がある。

首都マドリードはマドリード自治州の州都でもある。第2の都市バルセロナは代表的な港湾都市、スペイン屈指の商工業都市である。バルセロナには、バルセロナ県の県都とカタルニャ自治州の州都がおかれている。そのほか、宗教都市、文化都市である南東部の港湾都市バレンシア、スペイン唯一の河港都市で観光都市でもあるセビーリャ、エブロ川中流の工業都市サラゴサ、バスク地方の工業および港湾都市ビルバオなどがある。

2. 宗教と言語

以前はカトリックを国教としていたが、1978年憲法により、社会における教会の役割をみとめながらも、国教をもたないことをさだめた。現在もカトリック教徒が大半を占めるが、毎週教会にかよう信者は少数派である。ほかにイスラム教徒、少数のプロテスタント、ユダヤ教徒がいる。

主要言語は、カスティリャ語(スペイン語)である。このほか、北東部でカタルニャ語、北西部でガリシア語、北部ではバスク語が使用されている。バスク語は系統不明の言語で、バスク民族主義を抑圧したフランコ体制下では使用が禁じられていたが、その後の復権運動によって話せる人が増加している。

IV. 教育と文化

中世にイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒によって、コルドバ、グラナダ、トレドに宗教相互の交流をおこなう高等教育機関が創立された。サラマンカ大学は16世紀以降、ラテンアメリカの大学のモデルとなり、本国でおこなわれていた教育を広めた。1508年にアルカラデエナレスに創立されたアルカラ大学は、多国語対訳聖書の編纂(へんさん)で有名になったが、1836年にマドリードに移転し、マドリード大学と改称している。

スペインの教育に大きく貢献した人物として16世紀にイエズス会を設立したイグナティウス・デ・ロヨラがいる。20世紀のスペインを代表する哲学者オルテガ・イ・ガセットがあらわした「大学の使命」は数カ国語に翻訳された。スペイン王立アカデミー(1713年創立)、王立歴史アカデミー(1738年)は学術書の刊行で名高い。

1. 教育

義務教育は6~16歳で、無償。小学校は6年制、中学校は4年制である。義務教育修了後は、1~2年制の職業訓練校、またはバチリェラトとよばれる2年制の高等学校にすすむことができる。大学は通常5年制で、マドリード大学、マドリード工科大学(1971年創立)、バルセロナ大学(1450年)、グラナダ大学(1526年)、サラマンカ大学(1218年)、セビーリャ大学(1502年)、バレンシア大学(1510年)などがある。

2. 文化

スペイン文化におけるカトリック教会の影響は大きく、美術、文学における強烈な神秘主義的要素や、数多くの聖人や信徒会、修道会などにその影響をみることができる。

スペイン人の生活を特徴づけるものに祭りがある。多くの祭りは民衆のざわめきとともにはじまり、その中を厳粛な雰囲気につつまれた行列が、参加者の肩にかつがれた聖像とともにすすむ。音楽、踊り、歌が色彩豊かな祭りに活気をそえる。

代表的な祭りには、バレンシアの火祭り、セビーリャの春祭り、パンプロナのサン・フェルミン祭(牛追い祭り)がある。これらとは対照的に、トレドやグラナダの聖体節、バリャドリードやサモラ、クエンカの聖週間はおごそかな雰囲気の祭りである。

闘牛は、世界に名高いスペインの伝統的な催しで、たんなる見世物の域をはるかにこえている。闘牛ファンたちは、闘牛士の勇ましさのみならず、巧妙な技と芸術性に対して拍手喝采(かっさい)をおくる。

3. 図書館と博物館

1712年に王立図書館として設立されたマドリードの国立図書館はスペイン最大で、400万冊をこす蔵書をもつ。稀覯本(きこうぼん)、地図、定期刊行物のコレクションや、「ドン・キホーテ」で知られるスペインの作家セルバンテスの著作をおさめた「セルバンテスの間」などは、とくに注目に値する。このほか、稀覯本、古文書、手写本などを多数あつめた図書館として、王宮付属図書館、マドリード大学図書館、エル・エスコリアル修道院付属図書館、トレド大聖堂参事会文書館などがあげられる。

マドリードのプラド美術館は、世界最大級のコレクションをほこる美術館である。エル・グレコ、ベラスケス、ムリーリョ、ゴヤといったスペインの画家や、イタリアのボッティチェリ、ティツィアーノ、オランダのレンブラントらの作品が多数展示されている。マドリードの国立考古学博物館では、スペインの陶器やタピスリー、象牙彫刻(ぞうげちょうこく)などをみることができる。

4. 文学

スペイン文学

5. 美術と音楽

スペインは多くの偉大な画家を生んでいる。高名な画家には、16世紀末の作品「オルガス伯爵の埋葬」などで知られるエル・グレコ、17世紀スペインの宮廷画家で「宮廷の侍女たち(ラス・メニーナス)」などの傑作をのこしたベラスケス、18世紀末から19世紀初めに活躍し、近代絵画の発展に大きな影響をあたえたゴヤ、20世紀では奇抜な言動でも注目をあびたシュルレアリスムのダリ、そして20世紀を代表する画家ピカソなどがいる。

スペイン音楽は、キリスト教文化とイスラム教文化の影響が混在し、力強くリズム感にとむ。17世紀にはじまったサルスエラはオペラの一種である。ソレは18世紀の代表的作曲家であり、20世紀にはトゥリナやファリャが前衛的な作風で注目をあつめた。20世紀の有名なスペイン人演奏家としては、ギタリストのセゴビア、チェリストのカザルスなどがあげられる。スペイン舞踊には、ボレロ、フラメンコ、ホタ、ファンダンゴなどがあり、独特の音楽にあわせて演じられる。1978年に創立されたスペイン国立バレエ団は、フラメンコを中心とするスペイン舞踊の華麗な舞台で世界的に人気が高い。スペイン舞踊

V. 経済

伝統的な農業国だったが、1950年代半ばから工業が急速に成長をとげ、64年からの開発計画により経済成長が促進された。86年1月1日、スペインはEC(ヨーロッパ共同体。現EU:ヨーロッパ連合)に正式に加盟。これを機に外国投資が急増して、経済成長期に入った。90年代前半は景気が低迷したが、96年以降は回復。99年1月にヨーロッパ通貨統合の第1陣参加国としてユーロを導入した。90年代後半からスペイン経済は順調に高成長をつづけてきたが、住宅ブームが終息して建設部門がおちこんだ2007年後半から減速し、失業率も高くなった。

1. 農業

労働人口に占める農林漁業の就労者は5%(2005年)で、その割合は減少傾向にある。生産高の大きい農産物は、ブドウと製油用のオリーブである。そのほかの農産物には、ジャガイモ、オオムギ、コムギ、アーモンド、トマト、オレンジなどがあり、柑橘類と野菜は輸出されて貿易収入に貢献している。ヒツジ、ヤギ、牛などの家畜も飼育される。

大部分の地域では、気候や地理的条件のために乾地農法がおこなわれている。地中海沿岸地域とくにバレンシア県では、長年の努力の結果、灌漑システムが整備されており、国内有数の生産性の高い農業地帯となった。井戸水による小規模な灌漑は各地にみられる。

2. 林業、漁業

主要な林産資源としてコルクガシがあり、世界有数のコルク産出国となっている。しかし、林業生産はパルプや木材の国内需要をみたしてはいない。

漁業は重要な産業で、2005年の年間漁獲量は107万tである。イワシ、ムール貝、マグロ、メルルーサ、イカなどがとれる。

3. 工業とエネルギー

工業では、自動車、化学、食品加工、繊維、鉄鋼、石油精製、セメントなどが盛ん。世界屈指のワイン生産国でもある。製鉄や製鋼はビルバオ、サンタンデル、オビエド、アビレスに集中している。

エネルギーでは、電力の53%(2003年推計)が石炭や石油を利用した火力発電で、水力が16%、原子力が24%を占める。1990年代後半から大型の風力発電設備の建設がすすみ、風力発電容量は世界トップクラスになっている。

4. 通貨と銀行

1999年にヨーロッパ通貨統合に参加し、2002年1月からユーロの流通がはじまって、従来の通貨ペセタは同年2月末をもって法的効力をうしなった。中央銀行のスペイン銀行(1829年設立)のほか、国内には数多くの市中銀行があり、おもな証券取引所はマドリード、バルセロナ、ビルバオ、バレンシアにある。

5. 外国貿易

2003年の貿易額は、輸入2109億米ドル、輸出1582億米ドルで、貿易赤字がつづいている。おもな貿易品は、機械・機器、化学品・化学製品、石油・石油製品、食料品、鉄鋼など。貿易相手国は、フランス、ドイツ、イタリア、イギリスなどEU(ヨーロッパ連合)諸国が主で、ほかには中国、アメリカ合衆国、中南米諸国である。

6. 観光と交通

気候、海岸、歴史的都市などの観光資源にめぐまれているスペインには、年間5819万人(2006年)の観光客がおとずれ、世界有数の観光国となっている。観光収入は貿易赤字の一部をうめあわせるなど、スペイン経済にはたす役割は大きい。

鉄道には公営と民営の両方がある。スペイン高速鉄道(AVE)は、1992年にマドリード~セビーリャ間の運行を開始し、その後も主要都市への路線が建設されている。国内線、国際線を運航するイベリア航空は90年代半ばに経営状態が悪化、政府の国有企業民営化の方針にそって2001年、完全に民営化された。イギリスの航空大手ブリティッシュ・エアウェイズとの連携を深めている。

7. コミュニケーション

テレビ放送は、国営RTVE、民放のTVE1、アンテナ3など。日刊の新聞は全国で151紙発行(2004年)されている。有力紙として、マドリードで発行されている全国紙のエル・パイス、ABC、エル・ムンド、バルセロナで発行されている地方紙のラ・バングアルディアなどがあげられる。

8. 労働

2006年の労働人口は2113万人で、製造業に30%、農林水産業に5%、サービス業に65%が従事している。2004年の失業率は11%であった。労働組合の組織率は10%台におちこんだが、労働組合の発言力は伝統的に強い。おもな労働組合は、スペイン労働総同盟(UGT)と労働者委員会(CCOO)。

VI. 環境問題

スペインの自然環境は数々の危機に直面している。森林伐採、浸食、それらが原因となってひきおこされる河川の水質汚濁がおもなものである。ほかにも、保護地域内への農地の拡大、農地管理のずさんさによる砂漠化、灌漑による塩害なども大きな問題となっている。近年、農業の生産性は向上しているが、その背景には窒素肥料の使用量がふえているという実情があり、窒素化合物による河川の汚染も無視できない。スペインの外貨収入に大きな比重を占める観光業も、環境悪化と無縁ではない。さまざまな観光施設の建設が計画され、それによって自然保護地域の環境が破壊されることも多い。また下水の不備や汚水処理施設の不足が汚染拡大につながり、とくに夏季の地中海沿岸部は汚染がひどい。

1998年4月、スペイン南部の鉄鉱山で貯水場があふれ、有害な廃棄物が大量に流出するという事故があった。野生動物や渡り鳥に重要な地帯として世界遺産に登録されているドニャーナ国立公園、あるいは大西洋にそそぐグアダルキビル川に汚染物質が流入するのをふせごうと懸命の努力がなされた。この事故で、無数の鳥類をはじめとする野生生物が有害な汚泥にまみれた。黒い汚泥は、さらに畑、草原、果樹園などをもおそい、農民は大きな経済的損失をこうむった。2002年11月には、スペイン北西部沖の大西洋上で重油タンカーが沈没。流出した1万t以上の重油がガリシア地方の海岸300kmにわたり漂着し、深刻な海洋汚染をひきおこした。

VII. 政治

1936~75年はフランコの独裁体制下にあったが、70年代後半、議会が実質的な権限をもつ立憲君主制に移行した。78年には新しいスペイン憲法が制定された。

1. 行政と立法

国家元首である国王は世襲で、軍の最高司令官をかねる。行政権は内閣にある。首相は、国王の推薦をうけた多数党の党首が、下院での信任投票をへて就任する。内閣の諮問機関として国務評議会がおかれている。

1977年、国会は従来の一院制から上下両院からなる二院制の議会にかわった。下院は定数350で、普通選挙によってえらばれる。上院(定数264)は、直接選挙によってえらばれる208議席と各自治州議会で選出される56議席からなる。いずれも任期は4年である。

2. 司法と政党

司法組織は司法権総評議会によって統括されている。マドリードにある最高裁判所を頂点に、各自治州に高等裁判所があり、その下に県管区裁判所や、労使関係、未成年者の犯罪などをあつかう下級裁判所がおかれている。最高裁長官は、司法権総評議会の議長をかねる。違憲立法審査は、憲法裁判所によっておこなわれる。

民主的な総選挙が復活した1977年以来、右派の国民党(PP)と穏健左派の社会労働党(PSOE)がスペインの二大政党となっている。統一左翼(IU)は、スペイン共産党、緑の党など左派政党の連合会派。そのほか、カタルニャ、バスクそれぞれの民族主義政党であるカタルニャ同盟(CiU)とバスク国民党(PNV)などがある。

3. 地方自治

1978年の新憲法によりカタルニャの自治がみとめられ自治政府が発足して以来、83年までにあわせて17の自治州とよばれる新たな地方自治体が全国に設置された。各自治州は、それぞれ直接選挙によってえらばれる州議会をもつ。州議会は州議会議員の中から州首相を選出し、州首相は州の行政にあたる州政府を主宰する。

自治州の下には全国で50の県があり、それぞれ県議会がおかれる。県議は県内の市議が兼任し、県議の互選により知事が選出される。全国に約8000ある市は、それぞれ直接選挙によってえらばれる市議会をもち、市議の中から市長が選出される。

4. 防衛

近代兵器を装備した軍隊があり、国王が最高司令官である。21~35歳の男子を対象とした徴兵制は、1990年代後半に着手された軍部の改革・再編の一環として廃止がすすめられ、2002年12月をもって完全に廃止、職業軍人制に移行した。女子志願者の受け入れは1988年にはじまり、増加の一途をたどっている。2004年の兵力は、陸軍9万5600人、海軍1万9455人、空軍2万2750人である。ほかに治安警備隊とよばれる準軍隊があり、7万5000の人員をかかえている。

アメリカとの防衛協力協定により、アメリカ軍に海軍、空軍基地を提供していたが、1980年代末からアメリカ軍基地の撤収および再編成がすすんでいる。82年、NATO(北大西洋条約機構)に加盟した。NATO加盟への反対論も強かったが、86年の国民投票により残留が確認された。

VIII. 歴史

旧石器時代の先住民がのこした表現力豊かな洞窟壁画(どうくつへきが)が、ビスケー湾沿岸やピレネー山脈中で発見されている(旧石器時代美術)。新石器時代には、南東部で北アフリカ文化と類縁関係にあるとみられるアルメリア文化がさかえた。

北アフリカに起源をもつイベロ人は南部に侵入し、前1000年ごろにはもっとも有力な民族集団となった。イベリア半島の名前は、このイベロ人に由来する。他方、北部から中部にかけてはフランスからケルト人が侵入し、これがイベロ人と混血してケルト・イベロ人が形成された。

1. 古代スペイン

前11世紀ごろ東地中海からフェニキア人が渡来し、ロードス島やギリシャの商人がこれにつづき、地中海沿岸に植民した。前3世紀には北アフリカのカルタゴが侵入し、ハミルカル・バルカ将軍によって半島の大部分が征服され、現在のバルセロナやカルタヘナの町の原型がつくられた。

カルタゴの勢力拡大はローマとの抗争をひきおこし、ポエニ戦争でローマにやぶれたカルタゴは、前206年、半島から追放される。イベリア半島はローマによる支配が確立し、ヒスパニアと命名されて3つの州に分割された。その後、5世紀の西ローマ帝国崩壊まで、ヒスパニアは穀倉として、また金属の産地として、ローマ支配地の中でも豊かな地域となった。

2. 西ゴート族の支配

5世紀には、チュートン族をはじめとしてアラン族、バンダル族、スエビ族などが次々に侵入し、ローマによるヒスパニア統一はくずれた。412年、ローマとむすんだ西ゴート族が軍をひきいて半島にせめいり、418年、南フランスのトゥールーズを都とする西ゴート王国を建国。最盛期には、ジブラルタル海峡からロワール川までを支配下におさめた。その後3世紀にわたる西ゴート王の支配のもと、ローマ文化とキリスト教がイベリア半島に定着し、ローマ法典をもとに西ゴート法典が編纂された。

3. イスラム教徒支配下のスペイン

711年、ターリクの指揮するイスラム軍が北アフリカから侵入し、西ゴート軍をやぶって半島のほぼ全域を支配下におさめる。イスラム教徒による支配がはじまった当初、半島はダマスカスのウマイヤ朝支配下のアミール(総督)領にすぎなかったが、756年には、アッバース朝との権力闘争にやぶれたウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン1世がダマスカスから亡命し、新アミールとなって独立を宣言した(後ウマイヤ朝)。

929年、アブド・アッラフマーン3世はみずからカリフを称し、後ウマイヤ朝は最盛期をむかえる。首都コルドバはイスラム・スペインの文明がさかえ、ヨーロッパ屈指の華麗な都市となった。イスラム美術や建築が開花し、大学では医学、数学、哲学、文学が発展した。商業と農業の発展も促進され、南部全域にすぐれた灌漑システムがつくられた。

4. キリスト教徒による国土回復

イスラム教徒が支配を確立する一方、北方からはキリスト教徒が徐々に勢力を拡大し、914年、ガリシア地方、レオン地方にレオン王国を創建した。レオン王国東部の辺境は、イスラム教徒の攻撃にそなえて「カスティリョ」(スペイン語で「城」)を多くきずいたことから、「カスティリャ」とよばれるようになる。カスティリャとレオンは統一と分裂をくりかえしたのち、1230年にカスティリャとして統一された。

一方、北東部のカタルニャ地方はフランク王国によってイスラム教徒から奪回され、分立と統合ののち、1137年にはアラゴン連合王国を成立させた。このように、半島の北部に広がるキリスト教徒の支配地域では、西半分のカスティリャ王国と東半分のアラゴン連合王国という二大勢力が併存し、それぞれ独自の言語や政治制度を維持しながら、イスラム教徒からの国土回復戦争をすすめていった。

1036年、後ウマイヤ朝最後の王ヒシャーム3世が没すると、コルドバのカリフ国は小国に分裂する。イスラム権力の解体により北部のキリスト教諸国は勢力を強め、一部のイスラム教国を服従させるにいたった。11世紀末には北アフリカのムラービト朝のベルベル人が半島にせめいり支配したが、長続きせず、同じ北アフリカ起源のムワッヒド朝にほろぼされた。ムワッヒド朝も1212年にはキリスト教軍にやぶれて半島から追放され、イスラム勢力は南東部のグラナダ王国のみとなった。

5. 近代初期のスペイン

1469年、カスティリャのイサベルとアラゴンのフェルナンド(フェルナンド5世)の結婚によって、スペインは大国への道をあゆみはじめる。74年にイサベルがカスティリャ女王イサベル1世として、79年にはフェルナンドがアラゴン王フェルナンド2世として即位し、2人はローマ教皇から「カトリック両王」の称号をうけた。

イサベルは、王権を強化するためコルテス(身分制議会)の再編成や司法制度改革をおこない、貴族の力を弱めた。また、10年間にわたる戦いの末、1492年にイスラム教徒の最後の砦(とりで)グラナダ王国を降伏させ、スペインの領土上の統一が達成された。さらに宗教的にも統一を徹底させるために、異端審問によって異端者への過酷な処罰もおこなった。スペイン統一をはたしたイサベルは海外にも目をむけて、イタリア人探検家コロンブスの航海を援助し、コロンブスはアメリカ大陸に到達した。

フェルナンドは、巧みな外交戦術と軍事力を活用してヨーロッパにおけるスペインの地位を高め、最大の敵フランスとの交戦で領土を広げた。また、娘フアナを神聖ローマ皇帝マクシミリアンの息子フィリップと結婚させた。1516年にフェルナンドが没すると、孫のカルロスがカスティリャとアラゴンの両王位を継承し、スペイン王カルロス1世として即位する。

6. 世界帝国の成立

神聖ローマ皇帝の孫であるカルロス1世の即位により、スペインにハプスブルク朝(ハプスブルク家)の時代がはじまった。カルロス1世は、スペイン、イタリア、アメリカ大陸の領土にくわえて、父フィリップからネーデルラントとブルゴーニュを継承し、1519年、カール5世として神聖ローマ皇帝にえらばれた。

カルロス1世の治世は、スペインがヨーロッパの一大勢力にのしあがるとともに、植民地帝国をきずきあげていった時代でもある。1519~21年、コルテスがメキシコのアステカ帝国をほろぼし、31~33年にはピサロがペルーのインカ帝国を征服した。50年代には、スペインは南アメリカ大陸の大部分と、中央アメリカ、フロリダ半島、キューバ、フィリピンを支配するようになっていた。植民地帝国の建設とともにキリスト教がアメリカ大陸に広まり、アメリカ大陸からは豊富な金銀がもたらされた。

7. フェリペ2世

1556年、カルロス1世は息子のフェリペ2世に王位をゆずる。このころになると、アメリカ大陸におけるスペインの支配が確立し、莫大(ばくだい)な金銀が流入、スペインの黄金時代がはじまった。71年、スペインは神聖同盟の先頭にたってレパントの海戦でオスマン帝国艦隊をやぶり、地中海におけるイスラムの脅威をしりぞけた。80年、フェリペ2世はポルトガル王位を継承し、アジア、アフリカ、ブラジルのポルトガル領をも支配下におさめ、文字どおり世界最大の帝国をきずきあげた。

しかし、16世紀末には帝国の繁栄に陰りがみえはじめた。熱心なカトリック教徒のフェリペ2世は、ネーデルラントのプロテスタントに弾圧をくわえたため、1568年、ネーデルラント北部諸州を中心とする反乱がおこった(→オランダの「独立のための闘争」)。イングランドのエリザベス1世がこれを支持したため、88年、スペインは無敵艦隊をさしむけたが、イギリス艦隊に撃破される。戦乱のたびに莫大な出費を重ね、伝染病の流行による人口減少もくわわり、スペイン経済はしだいに衰退していった。

8. 衰退と危機

1609年、フェリペ3世はオランダと休戦条約をむすんだが、次のフェリペ4世の時代は、オランダとの戦争を再開するとともに三十年戦争(1618~48年)に介入し、フランスと交戦した。海外遠征のために徴税や徴兵の負担を重くしたため、40年にはカタルニャで、ついでポルトガルでも反乱がおきた。ポルトガルは、ヨーロッパ列強の支援をうけて68年に独立を達成する。オランダやフランスとの戦争でも敗退を重ねたスペインは、48年にオランダの独立を承認し、59年にはフランスに2地方を返還した。

病弱なカルロス2世の治下では政治が麻痺(まひ)し、貴族間の勢力争いがつづいた。1700年、カルロス2世が死去してスペインのハプスブルク朝が断絶すると、フランスブルボン朝のルイ14世の孫アンジュー公が、フェリペ5世としてスペイン王に即位した。しかし、ブルボン家に脅威を感じるオーストリアのハプスブルク家はスペイン王位の継承権を主張し、イギリス、オランダと同盟して01年、フランスとスペインに宣戦布告した。スペイン継承戦争の始まりである。13年のユトレヒト条約によりフェリペ5世のスペイン王位は承認されたが、ヨーロッパにおけるスペイン領土のほとんどがオーストリアに割譲された。

9. ブルボン朝の始まり

スペインはブルボン朝のもと、国内の諸制度の改革がすすめられた。さらに、植民地経営の立て直しとともにスペイン経済は回復しはじめ、人口の増加がみられた。しかし、制海権をめぐってイギリスとの対立を深め、ポーランド継承戦争(1733~35年)やオーストリア継承戦争(1740~48年)、七年戦争(1756~63年)をフランスと同盟をむすんでイギリスと交戦した。これらの戦争の結果、イタリアの領土の一部をとりもどし、北アメリカのフロリダ、ルイジアナを獲得した。

10. フランス革命の影響

1788年に即位したカルロス4世は、近衛将校(このえしょうこう)だったゴドイにスペイン統治を一任した。89年にフランス革命がおこると、革命思想の波及をおそれたスペインは、ヨーロッパ列強とともに革命政府との戦争をはじめた。しかし、この戦いに敗退するとゴドイは政策を一転させ、フランスと同盟をむすぶが、トラファルガーの海戦でイギリスに大敗する。

1808年、民衆が暴動をおこし、ゴドイは失脚した。ナポレオン1世はスペインを直接支配下におくため、自分の兄ジョゼフをホセ1世として王位につけた。

11. スペイン独立戦争

ジョゼフを国王としてみとめない民衆は各地で反乱をおこし、イギリス軍がこれに味方した。フランス軍は反乱地域の多くを制圧したが、ゲリラ活動になやまされつづけた。こうした状況の中、諸都市で評議会が結成される。1812年、少数の評議会代表が南部の町カディスにあつまって国民議会が開かれ、議院内閣制の導入などをもりこんだ、進歩的な憲法が採択された。

スペイン独立戦争(1808~14年)の名で知られるこの争乱の結果、フランス軍は撤退したが、6年におよぶ戦闘でスペイン経済は弱体化し、アメリカ大陸の植民地の独立をうながした。1826年には、アメリカ大陸の植民地はいずれも独立を達成し、支配下にのこったのはキューバとプエルトリコのみとなった。

1814年、カルロス4世の子、フェルナンド7世が王位につき、カディス憲法を廃止して絶対主義体制をしいた。6年後、自由主義派将校らの軍事クーデタがおこり、政府を樹立。カディス憲法が施行されたが、自由主義派の内部対立により政権は安定しなかった。神聖同盟諸国はスペインにおける革命が近隣諸国に波及することをおそれて、フランス軍のスペインへの軍事介入を決定する。自由主義政府はたおされ、フェルナンド7世による絶対主義体制が復活した。

12. カルリスタ戦争

1833年にフェルナンド7世が没し、生後間もない娘のイサベル2世が母を摂政として即位すると、王弟カルロスに王位をつがせるべきとするカルリスタ(カトリック伝統主義勢力)が反乱をおこした。この対立は全国的な争乱に発展したが、39年ごろまでに政府軍に制圧された。

13. 対立と危機

イサベル2世の治政下では進歩派と穏健派の対立がつづき、しばしば軍事蜂起(ほうき)による政権交代がおきた。1868年9月、進歩派が海軍とむすんで軍事蜂起し、イサベル2世はフランスへ亡命を余儀なくされた。「9月革命」とよばれるこの事件につづく6年間は、スペインにおける民主主義への道を開く時代となる。

9月革命体制のもとでは、民主的な1869年憲法が制定され、71年にはイタリアの王子アマデオを国王にむかえた。しかし、カルリスタ戦争の再発にくわえ、キューバの独立運動や急進的な自由主義の拡大にもなやまされ、アマデオは73年には退位した。同年、第1共和政が成立したが、共和派内部の対立や地方の反乱がおこり、政情は安定しなかった。74年、軍事蜂起により共和政は打倒され、イサベルの息子アルフォンソ12世を新国王としてブルボン朝が復活する。

14. 王政の復活

復古王政下では、1876年に制定された新憲法にもとづき、保守党と自由党の二大政党制の導入による立憲君主制の確立がはかられた。政治的安定の時代がしばらくつづいたが、アメリカの支援をうけてキューバの独立運動がふたたび激しさをまし、98年にはアメリカ・スペイン戦争に発展した。敗北したスペインはキューバから撤退し、プエルトリコ、グアム島、フィリピンをアメリカに割譲した。

この事件を契機に反体制運動が活発になっていく。農民や工業労働者の間にアナーキズムが浸透し、工場や鉱山では社会主義運動が根をはりはじめた。カタルニャでは自治をもとめる運動が活発化した。1909年、モロッコ派兵のために予備役を招集すると、バルセロナの労働者らは過激な抗議運動をおこし、軍隊との衝突で多数の死者が出た。

15. 第1次世界大戦

第1次世界大戦(1914~18年)で中立をまもったスペインは、かつてない好況を経験したが、物価高騰による生活苦から労働者の不満が高まった。1917年には、サンディカリスト(サンディカリズム)らの決行したゼネストが軍隊との衝突に発展し、危機的な事態となる。さらに21年、モロッコのリフ族との戦闘に敗北し、王政復古体制は終焉(しゅうえん)をむかえた。

16. プリモ・デ・リベラ独裁

1923年、国王アルフォンソ13世の支持をうけ、プリモ・デ・リベラ将軍がクーデタを決行し、軍部による独裁制がしかれた。憲法停止とともに国会は解散させられ、労働者組織の多くが抑圧される。26年、リベラはモロッコ独立運動の制圧に成功し、経済発展のために道路網や灌漑施設の整備をすすめた。

1928年ごろになると、反体制派の台頭や景気の後退により独裁制はゆきづまり、30年、リベラは辞任においこまれる。リベラ独裁を支持していた王政を批判する声が高まり、31年の統一地方選挙で共和派が勝利をおさめると、アルフォンソ13世はみずからフランスへの亡命をえらんだ。同年4月、第2共和政の樹立が宣言され、12月に新憲法が制定されたのち、サモラが初代大統領に、アサーニャが首相に就任した。

17. 第2共和政

第2共和政は、世界恐慌後の不況と世界的なイデオロギー対立の中で成立した。改革派と保守派の対立を軸に、政党間の反目と分裂がくりかえされ、労働争議が頻発する。アサーニャ首相のもとで共和政を支持する左派諸政党の連立政権が成立し、市民の政治的権利の拡大、カタルニャ自治憲章の制定、農地改革など、大胆な改革がすすめられた。

1933年の総選挙では、アサーニャ内閣を批判していた右派と中道右派諸政党が勝利し、教会政策を修正するとともに、農地改革、労働関係立法も後退させた。36年の総選挙では、左派諸政党の連合「人民戦線」が辛勝。ふたたびアサーニャを首相とする連立政権が発足したが、ストライキが恒常化し、左右両勢力による武力衝突や農民による土地の占拠が頻発した。

18. 内乱

1936年7月、人民戦線政府打倒をめざす軍の反乱がスペイン各地でおこったが、ただちに鎮圧されたため、クーデタとしては失敗におわる。しかし、これを契機にスペインは国全体を二分する内乱へと突入していった。

反乱軍は、ファシズムの支配下にあったイタリアとドイツから大量の武器や兵員の援助をうけた。共和国政府軍にはヨーロッパやアメリカ各地から多くの民間人が義勇兵としてくわわったが、イギリスとフランスは不干渉政策をとり、武器の援助をおこなったのはソビエト連邦(ソ連)だけだった。フランコを指導者とする反乱側は武力の優勢を背景に強い団結力をみせ、共和国政府側は、社会主義者、カタルニャやバスクの民族主義者など、雑多な勢力のためまとまりを欠いていた。

反乱軍は、マドリード攻略に失敗すると、北部の工業地域に攻撃目標をうつした。ドイツ空軍によるゲルニカ爆撃は、この北部攻略中におきている。1938年のミュンヘン協定の結果、共和国政府側はイギリス、フランスから援助をうける道がたたれた。39年にバルセロナ、マドリードが占領され、内乱は反乱軍の勝利におわった。

19. フランコ独裁

フランコは、「国民運動」とよばれる統一党を唯一の合法政党とするとともに、軍部に対する統率を徹底し、教会とも緊密な関係をむすんで、みずからの権力基盤をかためた。第2共和政時代の法律は、ほとんどが廃止された。第2次世界大戦(1939~45年)に際して、フランコは内乱中に援助をうけた枢軸国への支持を表明したものの、参戦をもとめるヒトラーの圧力には、国内の疲弊を理由に最後まで屈しなかった。

1946年に国際連合(国連)がスペイン排斥決議を採択すると多くの国が外交関係をたち、スペインは国際的孤立を強いられた。フランコは、国民憲章、国民投票法などの基本法を制定し、民主制の装いをみせた。47年には国家首長継承法が制定され、スペインを王国と規定するとともに、フランコを終身国家元首に任じている。

20. スペインの復興

第2次世界大戦後、アメリカとソビエト連邦(ソ連)の対立が深まり冷戦に進展していった中、1950年に朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)すると、アメリカは反共産主義同盟国としてスペインへの経済援助を開始し、国際連合(国連)のスペイン排斥決議も解除される。53年、スペインはアメリカ軍への基地貸与と引き換えに本格的な経済、軍事援助をうけることになった。55年には国連加盟を承認され、国際社会へのいちおうの復帰をはたした。

フランコ体制下ですすめられた自給自足型の経済政策は、1950年代になると行き詰まりをみせた。59年、政府は経済安定計画を策定し、経済の開放化をおしすすめた。

21. スペイン経済の奇跡

1961年以降、スペインは未曽有(みぞう)の高度経済成長期に入った。工業の発展や観光業の急成長にくわえ、外国の資本投下や国外の出稼ぎ労働者からの本国送金が経済発展の支えとなった。農村から都市へのはげしい人口流出、高校および大学教育の拡大、現代的なライフスタイルの定着など、急激な社会変化も生まれた。

反体制派に対する弾圧はつづいていたが、民主化の動きも少しずつあらわれはじめ、1960年代後半には、出版の自由拡大や議会の代表制と権能の拡大がはかられた。56年にモロッコからの撤退を完了していたが、60年代末から70年代半ばには、赤道ギニアの独立を承認し、西サハラの領有権も放棄する。

22. 民主主義の復活

高度経済成長と限定的な民主化にもかかわらず、1960年代後半から70年代前半を通じてストライキが多発し、学生の抗議運動が活発になった。さらに、バスク、カタルニャなどの民族運動は激しさをまし、バスク祖国と自由(ETA)のテロが公然化した。反体制運動がうずまく中、75年11月、フランコは死去した。

フランコの死後、ただちにフアン・カルロス1世が即位する。国王により新首相に指名されたアドルフォ・スアレスは1976年、政治改革法案を国民投票にかけ、成立させた。77年には共産党が合法化され、約40年ぶりの民主選挙がおこなわれた。選挙の結果スアレスの民主中道連合が勝利をおさめ、政府がすすめてきた改革路線への支持が確認された。

1978年に制定された新しい民主憲法は、スペインを立憲君主国と規定するとともに、政党結成の自由や各地方への自治権賦与などをふくむ画期的な内容であった。カタルニャとバスクは自治州としてみとめられ、ガリシアもこれにつづき、80年代初めまでに全国が17の自治州で構成される現在の制度が形づくられた。民主化をすすめたスアレスは79年の総選挙でも勝利したが、内部対立の調整に失敗し、経済情勢も悪化したため、81年に辞任を表明、副首相のソテロに首相の座をゆずった。82年、スペインはNATO(北大西洋条約機構)に加盟している。

23. ゴンサレス政権

1982年の総選挙では、分裂した民主中道連合勢力が惨敗し、社会労働党(PSOE)が過半数を大幅にうわまわって圧勝し、フェリペ・ゴンサレス政権が誕生した。86年、スペインは念願のEC(ヨーロッパ共同体。現EU:ヨーロッパ連合)加盟をはたし、名実ともにヨーロッパの一員となった。社会労働党のすすめる成長政策、世界的な景気回復、EC加盟などによって、80年代後半には高度の経済成長が達成された。

社会労働党は、1986年と89年の総選挙でも保守系の国民党(PP)に大勝し、長期政権をきずいた。アメリカ大陸発見500周年にあたる92年には、バルセロナ・オリンピックとセビーリャ万博が開催されている。93年の総選挙では、社会労働党は過半数をわり、カタルニャ同盟の協力をえてかろうじて政権を維持したが、その後も、不況や長期政権化による政治腐敗などで党勢がおとろえ、94年のヨーロッパ議会選挙や95年の統一地方選挙で敗北した。

24. アスナール政権

1996年3月の繰り上げ総選挙で社会労働党は国民党にやぶれ、ゴンサレス政権は退陣した。下院第1党となった国民党は、単独過半数におよばなかったため地方民族主義政党のカタルニャ同盟(CiU)やバスク国民党(PNV)などの閣外協力をとりつけ、ホセ・マリア・アスナールを首班とする内閣を発足させた。アスナール政権は、NATO(北大西洋条約機構)の軍事機構への参加を決定したほか、社会労働党政権時代からすすめられていたヨーロッパ通貨統合の参加にむけた努力を継続、99年よりスペインはユーロ圏の一員としての歩みをはじめた。

この間スペイン経済は好調にのびつづけ、失業率もかつてない水準まで低下した。こうした経済面での成果を背景に2000年3月におこなわれた総選挙で、国民党は単独で過半数の議席を獲得、アスナールの続投がきまった。一方の社会労働党は、1997年にゴンサレス前首相が党首を辞任してから求心力をうしない、総選挙にむけて、関係が悪化していた統一左翼(IU:スペイン共産党を中心とする連合)との選挙協定をむすんだが、右派の伸びにおいつかなかった。

対イラク軍事行動(イラク戦争)に際して、アスナール政権は、「大量破壊兵器の除去」と「打倒フセイン」をかかげて先制攻撃を主張するアメリカを支持。国民の大多数がイラク攻撃に反対する中、2003年3月16日、アスナール首相はアゾレス諸島での緊急3首脳会談にのぞみ、アメリカのブッシュ大統領、イギリスのブレア首相とともに、国連決議なしでもイラク攻撃にふみきることを確認しあった。3月20日からはじまった大規模戦闘への出兵はみあわせたが、その後、スペイン軍1300人をイラクに派遣した。

与党国民党は、2003年5月の統一地方選挙で大幅に後退し、アメリカ追随とイラク戦争支持に対する批判が反映されるかたちになったが、マドリード市議選では善戦した。同年11月イラクのバグダッドで、スペイン情報機関員8人をのせた車両が待ち伏せ攻撃され、7人が死亡した。

25. 「バスク祖国と自由」(ETA)のテロ活動

バスク地方の分離独立をもとめる「バスク祖国と自由」(ETA)の武力闘争は、民主化移行後のスペインにおける最大問題のひとつとされてきた。1960年代以降、ETAによるテロの犠牲者は政治家、軍幹部、警官など800人以上にのぼるといわれる。80年代には、治安警備隊のメンバーらが構成する非合法の反テロ組織GALがETA幹部の殺害などに暗躍、のちにGALへの政府の関与が指摘された。

1997年、バスク州議会の国民党議員ブランコがETAによって誘拐・殺害されると、反ETAの声はスペイン全土に広がった。98年9月、ETAは、突然、無期限全面停戦を宣言。しかし、テロの終焉とひきかえに民族自決権、スペイン憲法の修正、フランス側バスクの領土一体性の承認などを要求するETAと政府の交渉は難航し、ETAは99年8月、交渉中断を通告、同年12月、停戦を破棄した。

2001年のアメリカ同時多発テロ後、アスナール政権はETAに対する圧力を強め、02年6月には改正政党法を成立させて、ETAの政治部門であるバタスナの非合法化をはかった。バスク州議会で1割の議席を占める政党バタスナは、ETAのテロ活動との関わりを否定しているが、最高裁判所は3年間の政治活動停止を命じ、03年3月、バタスナ党本部は閉鎖された。その間、国家警察とバスク州警察の連携によってETA幹部の摘発もすすめられ、03年12月、アスベス内相は「ETAはほぼ壊滅した」とアピールした。

26. 列車同時爆破テロと政権の交代

総選挙を3日後にひかえた2004年3月11日朝、首都マドリードの中心部にあるアトーチャ駅など3つの鉄道駅で同時多発爆破事件が発生した。4つの列車に13の爆弾がしかけられ、うち10発が次々に爆発するという、スペイン史上かつてない規模のテロで、通勤・通学の時間帯であったことから、死者191人、負傷者1800人以上という大惨事となった。政府はただちに「バスク祖国と自由」(ETA)の犯行との見方をしめしたが、ほどなくしてイスラム過激派の関与が濃厚になった(のちにイスラム過激派グループが逮捕され、21人が有罪判決をうけた)。

国際社会が注目する中、総選挙は予定どおり3月14日に実施され、下院で社会労働党が大勝した。国民党政権は、スペイン経済を好調の波にのせ、失業率を半減し、ETAに対する強硬姿勢も評価されて、選挙戦の終盤まで勝利が確実視されていた。その流れが逆転したのは、テロでイスラム過激派の犯行説が浮上したことにより、世論にさからってイラク戦争を支持したことへの反発がよびさまされたためと考えられている。テロに関して政府がETA犯行説を強調したことも不信感をあおる結果となった。

27. サパテロ政権

2004年4月、首相に就任した社会労働党の書記長サパテロは、男女同数の内閣を組閣。アスナール政権時代の親米路線から親欧・国際協調路線へと外交方針を転換して、政権発足後すぐにイラク駐留スペイン軍部隊の撤退をきめ、5月に撤退を完了した。サパテロが提案した同性婚の合法化は、カトリック教会と保守層が猛反発して大きな語論をまきおこしたが、上院で否決後、下院で再可決されて05年に成立した。また、ヨーロッパ各国が移民に対する規制を強化する中で、サパテロ政権は、期限内に申請した不法移民に滞在・労働許可をあたえるという大幅な緩和策をうちだし、60万人近い不法移民を合法化した。滞在許可をえた移民はEU(ヨーロッパ連合)内を自由に移動できるため、スペインの緩和策はドイツなどからきびしい非難をあびることになった。

2006年12月末、マドリードのバラハス空港の駐車場で、「バスク祖国と自由」(ETA)の犯行とみられる爆発がおこり、犠牲者2人を出した。サパテロ政権は、06年3月に「無期限停戦声明」を出したETAに対し、国内の批判をうけながら和平対話路線をすすめてきたが、この事件により対話の打ち切りを宣言する事態においこまれた。その数日後、爆破事件の犯行声明を発表したETAは、6月、停戦の破棄を表明し、テロ活動を再開した。

2008年3月、総選挙がおこなわれ、「われわれの社会改革には、あと4年必要」とうったえた社会労働党が、下院で5議席ふやして第1党を維持した。移民の規制強化をかかげた最大野党の国民党も議席数を拡大し、二大政党化がすすんだ。なお、上院では国民党が第1党を維持したため、前回選挙からの「ねじれ」状態がつづく。4月14日に発足したサパテロの新内閣は、首相をのぞく17閣僚中9人が女性で、国防相も初の女性起用となった。与党の勝利は、これまでの順調な経済や民主改革が国民に承認された結果といえるが、経済成長は07年から失速しており、失業問題や、ふえつづける移民、ETAのテロなど、2期目に入ったサパテロ政権がかかえる問題は多い。イラク撤退以来冷えきっているアメリカとの関係修復も、外交の大きな課題となっている。

28. 日本との関係

日本とスペインの交流は、1549年(天文18年)、ザビエルがキリスト教布教のために鹿児島に上陸したときにはじまる。以後、1624年(寛永元年)に江戸幕府がスペイン船の来航を禁止するまでの間、多数の宣教師が渡来し、交易活動も盛んにおこなわれた。1584年(天正12年)にスペインに渡航した天正遣欧使節がフェリペ2世に謁見し、1615年(元和元年)には、伊達政宗が派遣した支倉常長一行がフェリペ3世に謁見した。

1868年(明治元年)、日本はスペインと修好通商航海条約をむすび、国交を再開する。第2次世界大戦中も親密な関係が維持されたが、1945年(昭和20年)のマニラでのスペイン宣教師殺害事件がきっかけとなり国交が断絶した。

1956年に国交が回復して以後、両国の関係は外交、経済、文化の各方面でいちじるしい進展をみせている。80年代後半にはEC(ヨーロッパ共同体)諸国への輸出拠点作りのために日本からスペインへの直接投資が急増した。また82年に文化協定がむすばれてからは、政府、民間レベルでの文化交流が活発になっている。2007年(平成19年)に設立された「セルバンテス文化センター東京」は、スペイン政府が設立したセルバンテス文化センターの東京支部で、日本におけるスペイン語教育の推進や、スペインおよびスペイン語圏諸国の文化の紹介などをおこなっている。