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オーストリア
I. プロローグ

ヨーロッパ中南部にある共和国。正式国名はオーストリア共和国。東アルプスが東西にはしり、国土の大半を占めている。国土は東西に長く約580kmで、面積は8万3858km²。人口は819万9783人(2007年推計)。首都はウィーンで、この国最大の都市である。

II. 国土と資源

オーストリアは山が多く、平均標高は910m。国土のほとんどは東アルプスに属する。主要な山脈は東西方向にはしっており、それぞれの山脈は大きな谷によってへだてられている。もっとも北の山脈群には、バイエリッシュアルペンとキッツビューエルアルプスがあり、中央の山脈群の中のホーエタウエルン山脈には、同国最高峰のグロースグロックナー山(3797m)がそびえる。

最南の山脈群には、エッツタールアルプス、ツィラータールアルプス、カルニックアルプス、カラバンケン山脈がふくまれる。こうした東西方向にのびる山脈のほかに、南北方向にはしる山脈もある。山脈には、ブレンナー峠やゼンメリンク峠などの峠が随所にみられる。

オーストリアの主要地域は北部と東部の国境地帯で、北部は起伏の緩やかな丘陵地帯、東部の国境地帯はドナウ川流域にあたる。

1. 河川と湖

代表的な河川はドナウ川である。ドナウ川は、ドイツのパッサウからオーストリアに入って南東方向へながれ、リンツとウィーンをへてスロバキアのブラチスラバにいたる。ドナウ川の支流には、イン川、トラウン川、エンス川、イブス川がある。南部の主要河川は、ムール川とミュルツ川である。

オーストリアには湖も多く、ドイツとスイスとにまたがるボーデン湖(コンスタンツ湖)、ハンガリーに隣接するブルゲンラントのノイジードラー湖が知られる。ノイジードラー湖の標高は115mで、同国の最低点となっている。

2. 気候

気候は標高や局地風の性格によってことなる。さらに、大西洋、大陸、地中海のどの影響をうける位置にあるかによってもちがってくる。山岳地域の一部は大西洋の影響下にあり、東部の低地よりも降水量が多い。国内を通じて、春と秋は一般に温暖である。夏は短いが適度な気温である。

河谷地帯では、寒くきびしい冬が約3カ月間つづくが、フェーン(フェーン現象)とよばれる南からのあたたかい乾燥した風がふくとおわる。フェーンはしばしば霧を生じ、雪崩(なだれ)の原因となる急激な雪解けをおこすが、これによって南部の河谷ではやくからの耕作が可能となるため、農業に貢献している。

オーストリア全体の年平均気温は約7~9°Cである。年降水量は、ウィーンで607mm、インスブルックで870mm、河谷部では1520~2030mmに達する所もある。

3. 動植物と天然資源

標高の低い地帯はブナ、オーク、カバノキなどの広葉樹林帯で、それより高所には、トウヒ、モミ、カラマツ、オーストリアクロマツなどが森林限界まで広がっている。標高の高い地帯では、エーデルワイスやリンドウ、サクラソウ、キンポウゲ、トリカブトといった高山植物が、わずかな期間だけ、かれんな花をさかせている。

野生動物は少ないが、シャモア、シカ、マーモットがみられる。かつては多数いたクマは、今日ではほぼ絶滅した。狩猟は、残存する種を保護するためにきびしく制限されている。

鉱物資源では、鉄鉱石、褐炭、マグネサイト、石油、天然ガスの埋蔵量が多く、黒鉛は高品質で世界有数の供給地でもある。量は少ないながらも、瀝青炭をはじめとして、鉛、亜鉛、銅などが産出される。

III. 住民

大半がドイツ系だが、一方でオーストリアは多民族国家でもある。これは、オーストリア・ハンガリー二重帝国時代の遺産といえる。ブルゲンラントには、多くのクロアチア人とハンガリー人がすんでいる。ケルンテンにはスロベニア人が、ウィーンにはチェコ人がいるほか、わずかながらイタリア人、セルビア人、ルーマニア人もいる。第2次世界大戦後に難民が流入したため、民族の数は増大し、その後トルコ人といった新しい集団もくわわった。

人口は819万9783人(2007年推計)、人口密度は100人/km²。人口の66%(2005年推計)が都市に居住し、人口の4分の1以上が5大都市のウィーン、グラーツ、リンツ、ザルツブルク、インスブルックにすんでいる。

1. 行政区分と主要都市

オーストリアは、ブルゲンラント、ザルツブルク、シュタイアーマルク、ティロル、オーバーエスターライヒ、ニーダーエスターライヒ、ケルンテン、フォアアールベルク、ウィーンの9つの州(ラント)からなる連邦国家で、ウィーンは州であると同時に首都でもある。

最大の都市は、ドナウ川流域にあるウィーン(165万1437人(2006年推計))。このほかのおもな都市は、重工業の中心地グラーツ、ドナウ川沿いの港町リンツ、文化都市ザルツブルクなど。ティロル州の州都インスブルックは、アルプスの山にかこまれた街並みがうつくしく、ザルツブルクとともに観光客が多い。

2. 宗教と言語

人口の約74%がカトリック教徒である。プロテスタント5%、イスラム教徒が4%を占める。残りは、その他の宗教、無宗教など。

公用語はドイツ語である。人口の約2%がドイツ語以外の言語、主としてクロアチア語、スロベニア語、チェコ語、トルコ語を話す。

IV. 教育と文化
1. 教育

教育制度は全国共通で、公立学校の授業料や教材費は無料である。義務教育は6歳から9年間。基礎学校(4年制)を出たあと、2つのコースにわかれる。ひとつは、ハウプトシューレとよばれる中学校(4年制)をへて総合技術教育課程(1年)をおさめたあと、職業学校や企業で訓練をうける。もうひとつは、普通教育中等学校(8年制)にすすみ、最終学年で修了試験をうけて大学入学資格を手にする。どちらも、途中でコースを変更でき、職業上級学校から大学に進学するケースもある。

19の大学レベルの教育機関のうち、最大のものがウィーン大学(1365年創立)である。グラーツ大学(1586)、インスブルック大学(1669)、ザルツブルク大学(1622)なども長い歴史をもつ。ほかに、音楽・芸術大学、工科大学や医科大学、鉱山、農業、獣医学、商業の各単科大学、工芸と音楽の専門学校がある。

2. 図書館と博物館

オーストリアにある2400の図書館のうち、1526年に設立された国立図書館が最大である。かつての王室のコレクションの中には、816年の公文書、1555年の神聖ローマ帝国の文書類、オーストリア帝国やオーストリア・ハンガリー二重帝国に関する文書もみられる。

ウィーンの美術館と博物館は、多くの収集品で世界的に知られている。ウィーン美術史美術館は、ブリューゲル父子の絵や、オランダ、イタリア、ドイツの画家の作品で名高い。作曲家モーツァルトの生誕地であるザルツブルクには、彼の手稿譜やメモをあつめた博物館がいくつかあり、生家が博物館となっている。

3. 文学

オーストリア文学

4. 美術

オーストリアの美術は通常、ドイツ南部の芸術とみなされがちだが、17~18世紀のウィーン、ザルツブルク、メルクにおける優美なバロック建築や彫刻に、オーストリア独特の様式がみられる。著名な現代画家に、クリムト、エゴン・シーレ、ココシュカ、フンデルトバッサーらがいる。

手工芸には、木彫、ゴブラン織、手彫り手描きのタンス、ステンド・グラス、ウィーン郊外アウガルテンの磁器、刺繍、革製品がある。

5. 音楽

オーストリアは「音楽の国」ともいわれ、18世紀、19世紀を通じて、ウィーンは、とりわけ音楽の世界的な中心であった。作曲家のモーツァルト、ブルックナー、ハイドン、シューベルト、シュトラウス父子、マーラー、シェーンベルク、指揮者のワインガルトナー、カラヤンなどの音楽家は、この国の文化を豊かにした人々の一握りにすぎない。ウィーン少年合唱団とウィーン・フィルハーモニー管絃楽団は世界的に名高い。

ウィーンには、フォルクス・オーパーとウィーン国立歌劇場の2つの有名なオペラハウスがある。さらに、すべての州都には劇場があり、ウィーン、ザルツブルクの夏の音楽祭は、ひときわ著名な音楽イベントとなっている。

V. 経済

オーストリアの経済は、民営企業と国営企業のバランスのうえになりたっている。1946年、すべての基幹産業は国有化された。これには、石油の生産、精製、大規模な商業銀行、河川や航空の主要な交通企業、鉄道、天然ガス、発電所などがふくまれた。しかし80年代末から90年代初頭にかけて、多くの国営企業が民営化され、90年代半ばに公的部門としてのこったのは、郵便、一部の銀行、テレコミュニケーションなど、かぎられた事業だけとなった。近年、EU(ヨーロッパ連合)に加盟した中・東欧向けの輸出と投資の伸びで経済は好調を維持している。GDP(国内総生産)は3061億米ドル(2005年)、1人当たりでは3万7175米ドルである。

1. 農林業

国土の17.6%(2005年推計)が耕作地(耕地と長期作付用地)である。主要農作物には、テンサイ、オオムギ、コムギ、トウモロコシがある。家畜では豚、牛、ヒツジなどが飼育されている。農作物は国内の消費をほぼみたしており、酪農製品などの余剰は輸出にあてられる。

国土の46.8%(2005年推計)が森林である。第2次世界大戦でうけた損失とその後の過度な伐採をおぎなうため、1950年代初頭から再緑化計画がすすめられている。森林の約78%を占める針葉樹は、建築資材のほか、紙・パルプ工業に利用されている。

2. 鉱工業

おもな鉱物資源は、亜鉛鉱、褐炭、鉄鉱石、原油などである。このほか、銅、鉛、黒鉛、石膏(せっこう)、陶土、岩塩なども採掘されている。

オーストリアの工業は、少数の大企業と、無数の中小企業とでなりたっている。多数の中小企業は、木工、ガラス、織物、焼物など伝統的手工業をささえている。労働人口の28%(2005年)が製造業に従事する。おもな工業は、製鉄、機械、金属、食品加工、化学、繊維、木材、製紙など。プラント建設とチップや集積回路などの電子機器の製造については国際的に注目されている。

3. 観光

アルプスで名高いオーストリアは、豊富な文化・レクリエーション施設をそなえ、世界でも有数の観光地にかぞえられる。観光業はオーストリア経済に重要な位置を占めており、観光収入は年間111億米ドル(2005年)である。外国人観光客数は、年間1995万人(2005年)。このうちの半数以上がドイツ人で、ほかに、オランダ、イタリア、イギリス、スイス、フランス、アメリカ合衆国からの観光客も多い。

4. エネルギー

水力発電所が多く、オーストリアの総電力量の59%(2003年推計)が水力による。水力発電による電力をほかのヨーロッパ諸国に輸出する一方で、自国のエネルギー需要をみたすために、東ヨーロッパから原油や天然ガスを輸入している。

5. 通貨と外国貿易

通貨単位はオーストリア・シリング(1シリング=100グロシェン)であったが、2002年1月からEUの単一通貨ユーロの紙幣や硬貨が流通し、独自の通貨は2月末に法的効力をうしなった。国立銀行のほか、商業銀行、貯蓄銀行、信用金庫、抵当銀行がある。

2004年における輸入総額は1045億米ドルで、輸出総額は1037億米ドル。輸入品は、産業機械、輸送機器、電気機器、医薬品などの化学製品、石油と石油製品、食料品などで、輸出品目は、特殊機械と産業機械、自動車、医薬品などの化学製品、紙と紙製品、鉄鋼などである。貿易相手国はドイツが最大で、このほか、イタリアをはじめとしたEU諸国、アメリカ合衆国、中国、日本などである。

6. 交通とコミュニケーション

鉄道、航空、水路、高速道路が発達し、高度な交通システムが整備されている。道路の総延長は13万3718km(2003年)におよび、100%が舗装されている。山がちな内陸国であるため、外国貿易の多くを鉄道輸送に依存している。鉄道の総延長は5781km(2005年)。水運はドナウ川にほぼ限定される。国有の航空会社オーストリア・エアラインは、ヨーロッパ各国と国内へ多くの航空路線をもつ。

放送局が合資会社へ転換される1957年まで、ラジオ、テレビ、電話はすべて国の独占事業であった。オーストリア放送は、3つのラジオ局と2つのテレビ局を運営している。新聞は17紙(1998年)の日刊新聞が発行されており、総発行部数は238万部である。

7. 労働

2005年の労働人口は398万人で、このうちの約60%が、オーストリア労働組合連盟を構成する15の組合に属している。組合への参加は自由意思によるが、法律により、すべての賃金労働者はそれぞれの労働委員会に参加しなければならない。労働委員会は州ごとに組織され、法的諸問題において労働者を代表する。総労働人口における女性従事者の割合は44.6%(2005年)である。

VI. 環境問題

オーストリアの環境問題のうちもっとも深刻なものは酸性雨である。産業施設や観光客の自動車から大気中にはきだされる汚染物質、さらにドイツ、スロバキア、チェコなど、周辺各国から風にのって流れこむ汚染物質が大気中の水分にとけこみ、酸性雨となっている。オーストリアの全森林のうち4分の1が酸性雨によるなんらかの被害をうけ、地域によっては樹木がかなり減少しつつある。この問題に対処するために、オーストリアは、ヨーロッパでもっともきびしい自動車排気ガスの規制をおこなっている。また、農地の拡大、水力発電のためのダム建設、森林がうしなわれたためにひきおこされる土壌の浸食などが、環境に悪影響をもたらしている。

山岳地帯に多くの河川をもつオーストリアは、この水を発電に利用してクリーンな電力を大量につくり、一部は外国にも輸出している。だが、水量が季節によって変動するため、発電量も一定せず、冬季には逆に輸入しなければならない。1970年代に原子力発電所が建設されたが、住民の強い反対にあい、稼働前に使用中止がきまった。しかし皮肉なことに、そのわずか8年後、ウクライナのチェルノブイリ原発事故で飛散した大量の放射性物質によって、大きな汚染被害をうけた。91年、隣国の旧チェコスロバキアが稼働させている原子力発電所の安全性に不安をもったオーストリア政府は、万一の場合の放射能汚染による甲状腺疾病に対応するため、ヨウ化カリウムの錠剤を国民全員に配布した。またオーストリア大統領は、オーストリア、イタリア、ハンガリー、旧チェコスロバキア、旧ユーゴスラビアからなる非核地帯の創設を提案した。

オーストリアの環境保護制度は、主として9つの州(ラント)ごとに指定地域をもうける形でおこなわれている。国土の24%がなんらかの保護対象となっており、3つの国立公園、数百カ所の自然保護区、自然公園、景勝保護地区がもうけられている。狩猟や釣りは、自然保護制度のもとで地域ごとに規制をうけながら、おおむね許可されている。

オーストリア国内にはヨーロッパ評議会による生物圏保護区が18カ所、ユネスコの「人間と生物圏計画」による生物圏保護地区が6カ所ある。そのほか、周辺諸国と協力してアルプス山脈の環境保護にむけた計画を立案中で、ドイツ、ハンガリーとは、国境にまたがる自然保護地区の指定を検討している。

VII. 政治

オーストリアは、1920年に制定され29年に改正された憲法にもとづく民主的な連邦共和国である。ヨーロッパの民主主義国家と同様に、オーストリアの憲法も行政、立法、司法の三権分立をさだめている。ドイツやスイスにくらべてオーストリアの連邦制は州の独立性は低い。

1. 行政と立法

国家元首である大統領は、6年ごとに国民の直接選挙によって選出される(3選は禁じられている)。大統領は内閣にしたがい、内閣は、4年の任期で大統領によって任命される首相が組織する。選挙権は19歳以上の国民にあたえられている。

議会は二院制で、立法権は主として、下院である国民議会にあたえられている。国民議会は、比例代表制による直接選挙によって4年の任期で選出される183名の議員で構成される。上院の連邦議会は、人口に比例して9つの州議会から選出される64名の議員からなり、任期は4~6年である。

各州にはそれぞれ州議会があり、議員は、国民議会と同じく比例代表制による直接選挙で選出される。州知事は州議会で選出され、州政府をひきいる。州知事はすべての法律を連邦許可省に提出しなければならないが、連邦政府の拒否権は、州議会の過半数の投票によって無効にすることができる。

2. 防衛

1955年5月の国家条約(主権回復条約)により、オーストリア軍は公認された。この条約は軍の規模に制限をあたえていないが、軍備は通常兵器にかぎられている。

オーストリアには18~50歳の男性に対して、7カ月間の兵役義務にくわえ、予備役としての兵役もある。2004年の総兵力は3万9900人。NATO(北大西洋条約機構)には加盟していない。

VIII. 歴史

前10世紀ごろにはすでに、現在のオーストリアの地域にはインド・ヨーロッパ系のイリュリア人がすんでいた。彼らは数世紀にわたって、いわゆるハルシュタット文化をいとなみ、イタリアの北部平原へと進出していった。かなりはやくからケルト人もすみつき、前2世紀にはノリクム王国をきずいた。紀元前後ごろになるとローマ人がドナウ川流域に進出し、やがてノリクム王国と、現在のドイツとスイスの一部をふくみ、ハンガリーやスロベニアへいたる地域を帝国の属州とした。

この属州における最初のローマ軍の拠点のひとつとなったのが、ウィンドボナ(現ウィーン)である。ウィンドボナをふくめてこの地域一帯はヨーロッパにおける交通の要衝にあたることから、その後も5世紀末のローマ人撤退まで、いくつかの民族のせめぎあいの地となった。2世紀にはゲルマン人が南下してきたため、その対応に手こずりながらも、ローマ帝国はこの地域に3世紀から4世紀にかけてキリスト教を広めた。

395年のローマ帝国の分裂後、5世紀に入ると東からアッティラにひきいられたフン族が侵入し、435年から約20年間その支配下におかれる。アッティラの死後は、しばらくの間ゲルマン諸部族の抗争の時代がつづいたが、5世紀末にスラブ人とともにアバール人が東方から進出してくるにおよんで、ローマ人はこの地域から一掃された。6~7世紀には西方からバイエルン人も進出してきた。

1. 中世

ヨーロッパ北西部における長期にわたるゲルマン諸部族の抗争の末、フランク族が勢力を拡大し、5世紀末にはフランク王国を形成していた。8世紀末、カロリング朝カール大帝はバイエルンを支配下におき、さらに東にすすんでアバール人の領土を占領、エンス川とラーバ川にはさまれた土地に植民地オストマルクを建設した。これは、フランク王国の東方の備えとして設置されたものである。この植民地は、のちに東の国すなわち「オーストリア」とよばれるようになった。

こうした備えにもかかわらず、880年、東からマジャール人が侵入する。955年、レヒフェルトの戦でマジャール人をやぶったザクセン朝東フランク王国のオットー1世は、オストマルクを再建し、その地の行政官に辺境伯という影響力のある称号をあたえた。

976年、神聖ローマ帝国皇帝となったオットー2世はオストマルクをバーベンベルク家にさずけたが、辺境伯領の境界は、その後の植民の進展にともない北東へしだいに拡大し、11世紀初期には現在のモラビアまでおよんだ。1156年には公領に昇格し、92年にはシュタイアーマルク公領もあわせてバーベンベルク家の所領となった。彼らは各地に都市と道路を建設、商業を奨励し、十字軍への参加によって名声を高めた。

しかし、1246年、バーベンベルク家最後の領主が死去すると、混乱の時代がつづいた。ボヘミア王オタカル2世は51年にウィーンを占領し、さらにシュタイアーマルク、カルニオラを勢力下におき、神聖ローマ帝国の皇帝位も要求した。これに対してドイツ諸侯は、73年にハプスブルク家のルドルフを神聖ローマ皇帝にえらぶ。ルドルフ1世は、帝国領の返還をこばむオタカルを78年マルヒフェルトに敗死させ、82年までにその領土の多くを息子アルベルト1世におさめさせた。

2. ハプスブルク家支配下でのオーストリア

オーストリアの興隆はハプスブルク家と密接にむすびついている。14~15世紀の間、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の東部に所領を拡大した。ルドルフ4世はハプスブルク家の世襲領地の不可分を宣言したが、それは現代のオーストリア共和国の領土とほぼ一致している。1438~1806年の期間(1742~45年をのぞく)、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の皇帝位を独占した。

マクシミリアン1世が在位した1493~1519年以後、ハプスブルク家は政略結婚により領土を拡大し、強国となっていった。1496年、彼は息子のフィリップをフェルナンド5世とイサベル1世の娘ジョアンナと結婚させ、スペインに対する権利を確立した。1515年、フィリップの息子フェルディナントはボヘミア・ハンガリーの王女と結婚し、26年にはフェルディナント1世としてボヘミア王に即位する。フェルディナントの兄カールは1519年、マクシミリアン1世の死後カール5世として神聖ローマ皇帝となった。

スペインなどもふくめたハプスブルク家の領土は、一皇帝が支配するには拡大しすぎていたため、1521年とその翌年、カールはフェルディナントにオーストリアとドイツの一部をあたえた。カールは、56年にスペイン王として息子フェリペ2世を支持し、また同年に皇帝位を弟フェルディナントにゆずって退位した。この時点で、ハプスブルク王朝のスペインとオーストリアへの分割は完了する。

2.A. 内戦と対外戦争

宗教改革は神聖ローマ帝国内にも急速に浸透し、オーストリアでも宗派をめぐって内戦がおこった。アウクスブルクの和議(1555)では信仰の自由が制限され、諸侯がみずからの宗教とその領内の人々の宗教を決定する権利をもつことが承認された。これはハプスブルク家でも尊重され、1619年にボヘミア王となった反宗教改革の擁護者フェルディナント2世はカトリックの教義を国民におしつけた。ボヘミアの新教徒は18年に暴動をおこし、これは三十年戦争に発展する。ハプスブルク家は敗戦し、ウェストファリア条約(1648)によって神聖ローマ帝国の支配力は弱められた。

1680年代、ハプスブルク家の支配に対するハンガリーの反乱をオスマン帝国が援助し、オスマン軍がウィーンを包囲したが、ポーランド・ドイツ連合軍にすくわれた。

1700年、継承者のいないままスペインのカルロス2世が死去すると、スペイン系のハプスブルク家領はフランス王ルイ14世の孫フェリペ5世にのこされた。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世は、これらの領地は息子ヨーゼフ1世のものであると宣言し、スペイン継承戦争に突入した。13年の戦争終結時、ハプスブルク家はスペインの王位をうしない、オランダの支配権と北イタリアにあるスペインの領土を獲得した。

1713年、神聖ローマ皇帝カール6世は国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン)を制定し、彼の財産は分割できないこと、オーストリア系ハプスブルク家の父系および母系に相続されることを宣言する。ヨーロッパの君主のほとんどは、さまざまな譲歩を見返りとしてこれをみとめたが、カール6世が死去し、男性相続人がいなくなった40年に、はやくもその約定は反古(ほご)にされた。

2.B. 啓蒙専制君主制

国事詔書にしたがって、1740年にカール6世の長女マリア・テレジアがハプスブルク家の全領土を相続した。しかし、このことはすぐさま列強の干渉をまねき、オーストリア継承戦争(1740~48)がはじまった。その結果、マリアの夫フランツ1世が皇帝位をえる一方、オーストリアは経済的にもっとも発展していたボヘミア北部のシュレジエン(シロンスク)の大部分をプロイセンにうばわれた。失地回復をねらってマリア・テレジアは七年戦争(1756~63)をおこすが、失敗におわる。戦後復興のために、オーストリアの行政、財政、教育、法体系の改革などが急速にすすめられた。

マリア・テレジアの息子ヨーゼフ2世は啓蒙思想(けいもうしそう)に刺激され、1781年、農奴制を廃止した。さらに彼は、信教と表現の自由をもりこんだ寛容令を出した。しかし、ヨーゼフの改革に対する反動も大きかった。彼の弟で後継者のレオポルド2世は、90年に神聖ローマ皇帝となると改革のほとんどを廃止した。マリア・テレジア、ヨーゼフ2世といった啓蒙専制君主の時代に、オーストリアはロシアとプロイセンによるポーランド分割(→ポーランドの「ポーランド分割」)にくわわり、ポーランドの一部を獲得している。

2.C. フランスとの戦争

1792~1815年、ハプスブルク家は、最初にフランス革命、つづいてナポレオン戦争とたえず戦争にまきこまれた。オーストリア領維持のために、レオポルド2世の子フランツ2世は1804年、自身をオーストリア皇帝フランツ1世と称し、つづいて06年、神聖ローマ皇帝位を辞して、ここに神聖ローマ帝国は消滅した。

ナポレオン没落後の1814~15年のウィーン会議において、オーストリアはベルギーとドイツ南西部の領土をうしなったが、ロンバルディア、ベネツィア、イストリア(イストラ半島)、ダルマチアをえた。宰相メッテルニヒの外交手腕によって、オーストリアは反動的なヨーロッパ新秩序の中心となった。

2.D. 1848年の革命

1820年代以降の工業の発展による社会変化は、さまざまな問題をもたらした。ナショナリズムの高まりや農民の不満とあいまって、48年3月、ウィーンで暴動がおこり(48年革命)、メッテルニヒは退陣においこまれる。オーストリア帝国内の各民族が体制に反旗をかかげ、革命の波は急速に広がった。12月、皇帝フェルディナント1世にかわって18歳のフランツ・ヨーゼフ1世が即位し、以後彼の統治は1916年までつづいた。彼は議会制をしき、農民を封建制から解放する法律を発布した。

革命勢力は、まもなく階層間や民族間の対立によって弱体化した。オーストリア軍は、ロシアの援助をえてイタリアやハンガリーの暴動を鎮圧し、自由主義的主張の芽はつまれた。フランツ・ヨーゼフ1世は、憲法制定議会を解散し、帝国を民族の要求をいれて再組織化する計画を却下した。

2.E. オーストリアの敗北

クリミア戦争(1853~56)における戦略を通じて、オーストリアは長い間同盟関係にあったロシアを敵にまわし、フランスやプロイセンの反オーストリア政策を助長させる結果をまねいた。1859年におこったイタリアの独立戦争で、オーストリアはイタリア半島から撤退を余儀なくされる。この敗北後、皇帝は限定的な憲法を発布したが、敵対する勢力が満足するものではなかった。

プロイセン首相ビスマルクは、オーストリアがドイツ問題に干渉することをこばみ、プロイセン主導のもとにドイツの統一をはかることをめざした。1866年にプロイセン・オーストリア戦争でオーストリアがやぶれると、ドイツ同盟は解体され、プロイセンの主導でドイツは統一を達成、オーストリアはベネツィアをうしなった。

3. 二重帝国

1867年、フランツ・ヨーゼフ1世は、マジャール人貴族とハンガリー国家創立について妥協し、独自の憲法とほぼ独立した地位をもつ国家ハンガリーを成立させた。以後、オーストリア・ハンガリー二重帝国とよばれ、それぞれの国は同一の君主をいただくものの、独自の憲法、議会、言語をもち、ハンガリーではマジャール人が、オーストリアではドイツ人が支配的な地位についた。

この妥協により、チェコ人、ポーランド人をはじめとする民族間でも自治をもとめる動きが活発となる。しかし、こうした動きは、二重帝国の政治構造をかえないというハンガリーの決定によりおさえこまれた。

1867年に制定され、1918年まで有効だったオーストリアの憲法は、自由主義的ではあったが実際には制限されたものであった。選挙権は富裕層にかぎられ、貴族が影響力をもち、皇帝の権限も大きかった。その後、経済成長がすすむにつれて社会問題もふえ、大衆政党が勃興(ぼっこう)し、反ユダヤ主義も台頭した。

3.A. ドイツとの同盟

1871年のドイツ帝国の成立以後、オーストリア外交の関心はバルカン半島の情勢にむけられた。外相アンドラーシは現状維持をはかってドイツと友好関係をむすび、ドイツの内政に干渉しないかわりに、ドイツがロシアの南下をはばむ後ろ盾となることを約束させた。ロシア・トルコ戦争後のベルリン会議(1878)で、オーストリアは、かつてのトルコ領ボスニアとヘルツェゴビナを獲得する。79年にドイツとオーストリア・ハンガリー二重帝国は正式に同盟をむすび、82年にはイタリアがくわわって三国同盟が成立した。これによって、オーストリア・ハンガリー二重帝国はドイツの庇護の下に入ることになった。

ベルリン会議によりトルコから独立したセルビア王国は、1903年までオーストリア・ハンガリー二重帝国の衛星国だったが、やがて南スラブ人を統一して大きなセルビア人国家をつくることを主張しはじめる。したがって、08年、ボスニアとヘルツェゴビナがオーストリア・ハンガリー二重帝国に併合された際には、ロシアに支援されたセルビアははげしく反発した。その後、セルビアが12~13年のバルカン戦争で勝利したため、オーストリアとセルビアの緊張は一気に高まった。

3.B. 第1次世界大戦

1914年6月28日、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントと皇太子妃がボスニアの首都サラエボで暗殺された。オーストリア外務省は、セルビアに暗殺の責任があるとしてきびしい要求をセルビア政府につきつけた。セルビアがほぼ要求をのんだにもかかわらず、オーストリアは7月28日、セルビアに宣戦布告する。8月上旬、ドイツがロシアとフランスに宣戦布告し、第1次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した。

1915年5月にイタリアは三国同盟を破棄し、連合国側について参戦。オーストリア・ハンガリー軍は敗北をつづけ、君主制が数十年にわたる国内の混乱で弱体化していたこともあり、16年のフランツ・ヨーゼフ1世の死後、帝国は崩壊しはじめる。彼の後継者であるカール1世は17年、連合国側と単独で秘密裏に和平をむすぼうとして失敗し、ドイツの怒りを買った。同時に、チェコ人、ポーランド人、南スラブ人の代表が、連合国内で臨時政府を樹立した。

1918年、オーストリア・ハンガリー軍はあらゆる前線で敗北した。食糧や生活必需品が欠乏し、ストライキやデモがおこったため、ナショナリストのグループは独立した政府として機能する国民会議を組織した。18年10月7日、南スラブ人はセルビアと連合し、10月28日にチェコ人はプラハで共和国の独立を宣言する。ハンガリー政府は、11月3日にオーストリアから完全に分離することを発表した。同日、オーストリアとハンガリーは、それぞれ連合国側との休戦協定に調印した。11月12日、カール1世は国政のすべてを放棄してオーストリアをさり、数日のうちにオーストリアとハンガリーは共和国を宣言した。

4. オーストリア第一共和国

オーストリア共和国は700万の民をかかえ、混乱と貧困におちいった。帝国の崩壊によってボヘミアとモラビアの工業地域をうしない、ハンガリーの連合により形成されていた巨大な国内市場も消失した。ドイツ系オーストリア人はドイツとの統一をのぞんだが、これはベルサイユ条約とサンジェルマン条約によって禁じられていた。1920年には、二院制議会と民主的な選挙を内容とする連邦制憲法がつくられる。

経済再建が外国機関の支援でおこなわれ、1919~20年にはアメリカ合衆国、イギリス、スウェーデンから食糧が提供された。インフレの進行により国の財政困難はきわまり、22年にオーストリアは国際連盟に援助を要請。国際連盟は経済の崩壊をふせぐため大規模な借款を付与し、その条件として、オーストリアは少なくとも20年間、中立であることをちかわせられる。借款の条件だったデフレ政策は、多くの経済難と失業を生んだが、オーストリアの財政は徐々に安定していった。

国内の政治状況は、社会党の強いウィーンと保守的な地方の州が対立したため、安定しないままであった。1927年7月15日、ウィーンで社会主義者による大規模なデモが発生、裁判所は放火され、警察とデモ隊の衝突により約100人の死者が出た。

4.A. ファシズムと併合

オーストリア連邦政府は保守的なキリスト教社会党に支配され、社会不安や大恐慌による経済難を克服することができなかった。さらに、オーストリア・ナチズムの勃興は新たな不安を生みだした。キリスト教社会党の首相ドルフスは1933年3月に議会を閉鎖し、すべての権力をにぎる。政府は、陸軍とファシストの準軍事組織である護国団をひきいて34年2月、社会民主党を弾圧し、保守勢力を統合した祖国戦線をのぞいて、すべての政党を廃止した。同年4月、ドルフスは議会政治を廃止し、政府にすべての権限をあたえる憲法を導入したが、7月ナチスのクーデタで暗殺された。

新首相シュシュニックのもとで体制はますます弱体化したが、イタリアの独裁者ムッソリーニは約束をまもり、とりあえず現状は維持された。しかし、それも1936年のローマ・ベルリン枢軸の設定までであった。シュシュニックはまもなく、オーストリアを「ドイツの州」とすることでヒトラーと合意した。シュシュニックがオーストリアの独立について国民投票を計画した38年、ヒトラーは彼を辞任においこみ、3月12日、ドイツ軍はオーストリアに侵入、オーストリアはドイツに併合される。

4.B. 第2次世界大戦

1943年10月、アメリカ、イギリス、ソ連の外相は、オーストリアの再建案をしめしたモスクワ宣言に署名した。45年4月、ソ連軍がオーストリアの東部を解放する。5月のドイツの無条件降伏にともない、ドイツとオーストリアの合邦は消滅した。国民議会の選挙が11月におこなわれ、国民党が過半数の議席を獲得した。12月に両院総会で共和国大統領にレンナーが選出され、国民党のフィグルを首相とする連立政権がつくられた。

4.C. 連合国の占領

オーストリアは、アメリカ、フランス、イギリス、ソ連の4カ国によって分割占領され、各地区のドイツ人の財産は、それぞれの占領国に委譲された。

戦争は産業を破壊し、交通とコミュニケーションの機関を分断した。オーストリアの国民は、飢餓など多大の苦難をうけたが、UNRRA(国連救済復興機関)の救援をうけ、1947年半ばには飢餓の危機は回避される。経済の回復は、マーシャル・プランのもとでおこなわれたアメリカの支援によって、48年以降促進された。51年までには工業生産高が戦前のピークをこえ、その後も増大しつづけた。

4.D. 主権の回復

1947年からの長い交渉の末に、55年5月、国家条約に調印してオーストリアの主権が回復した。連合国側にとって主要な関心は、ドイツの将来にあった。そのためソ連は、オーストリアにおける戦略上の地位の放棄をしぶった。最終的にソ連の譲歩と引き換えに、オーストリアが「いかなる軍事同盟にも加入せず、領土内に外国基地を設置させない」ことを約束して、条約調印となったのである。

この条約は、オーストリアとドイツの併合を禁じ、オーストリアが核兵器や誘導ミサイルなどを所有または生産する権利を否定するものだった。すべての占領軍が1955年10月までに撤退し、議会はオーストリアの軍事的中立をちかう法律を採択した。同年12月には国際連合のメンバーとなった。

5. 第二共和国

1945~66年、オーストリアは社会党と国民党の連立政権によって統治された。連立体制は、工業や労働問題、農業といった経済的側面にも拡大され、独自の市場経済を生みだした。発電所と製油所などの国営化は経済的繁栄をもたらし、政府は銀行も統制する。戦時中の破壊からの国家の再建といった経験、東西の架け橋として特別な立場からえる国際的名声、これらを共有することを基盤に、オーストリアの国民意識は発展した。

1950年12月、レンナー大統領が死去し、社会党のケルナーが後任となる。70年まで、社会党から大統領が、国民党からは連邦首相が選出された。56年、59年、62年の国民議会の選挙で、両党の勢力関係にはほとんど変化がなかった。

1960年、オーストリアはEFTA(ヨーロッパ自由貿易連合)の設立協定に調印した。61年7月、EEC(ヨーロッパ経済共同体)と連携してもオーストリアの軍事的中立は確保できるとの判断から、EECとの連携を発表。72年にEECとの自由貿易協定に調印した。

5.A. クライスキー政権

1966年までつづいた連立政権が崩壊したのち、しばらく国民党の単独政権となったが、70年3月の選挙では社会党が辛勝する。この勢いをかって翌年の総選挙で大勝した社会党は、第3党の自由党の協力をえて、党首クライスキーを首班にオーストリア初の社会党単独政権を樹立した。12年におよぶクライスキー政権下では、多くの社会改革と労働改革がおこなわれ、近代化がすすみ、生活水準が向上した。クライスキーの外交手腕によって、オーストリアは国際舞台においても高い地位を確立する。

その一方、クライスキーの人気と業績にもかかわらず、環境問題、金融スキャンダル、増税、とりわけウィーン近郊の原子力発電所建設問題をめぐって反発もまねいた。1978年の国民投票で反核勢力が勝利し、政府は完成間近なプラントを廃棄するにいたった。クライスキーは、社会党が総選挙で過半数をわった83年に辞任した。

5.B. 社会党(社会民主党)と国民党の大連立時代

1983年、社会党のジノワッツは自由党との連立政権を成立させたが、この連立は、自由党の右傾化により86年に崩壊する。公共部門における管理ミスと解雇が、民営化をめぐる議論とあいまって、社会党政府に対する不満をつのらせた。86年の大統領選挙では、国民党の候補者、国連事務総長をつとめたワルトハイムが、第2次世界大戦中のドイツ陸軍での自身の行動について虚偽をのべたと非難されたにもかかわらず、勝利をおさめた。

1986年11月の総選挙後、ジノワッツ首相は辞任し、社会党のフラニツキが国民党との連立で首相に就任する。フラニツキ政権は、公共部門の削減、赤字財政、ワルトハイム選出に対する国際的批判に対処しなければならなかった。90年、社会党は党名を社会民主党にかえている。92年には、国民党のクレスティルが大統領にえらばれた。94年にオーストリアのEU加盟が欧州議会で採択され、国民投票での承認をへたのち、95年1月1日、オーストリアはスウェーデンなどとともに正式にEUに加盟、同年4月には、EU域内での国境検問を廃止するシェンゲン協定に調印した。

しかし、1996年のヨーロッパ議会選挙では国民党が第1党となり、社会民主党は、フラニツキ政権の緊縮政策が批判をあびて勢力が大きく後退、さらに、オーストリアのEU加盟後から倒産があいついだことなどから、EU加盟に対する国内での批判も強まり、97年1月フラニツキ首相は辞任、かわって社会民主党のクリマ蔵相を首班とする社会民主党、国民党の連立内閣が発足した。

5.C. 極右政党の政権参加

1999年10月におこなわれた選挙で、社会民主党はかろうじて第1党を維持、第2党には、国民党にならんで自由党がくいこんだ。自由党は移民排斥を主張する極右政党で、党首でケルンテン州知事のハイダーは、しばしばナチス賛美・人種差別の発言をくりかえしてきた。自由党が躍進した背景には、国民党と社会民主党による長期政権の利権独占に対する国民の不満があったが、ナチスをささえた責任に背をむける国民意識も指摘されている。

社会民主党は国民党との連立交渉に入ったが不調におわり、結局、2000年2月、国民党党首シュッセルを首相として、国民党と自由党の連立政権が発足した。極右政党の政権参加に対してイスラエルが大使を召還するなど、各国は強い懸念を表明し、EU14カ国は7カ月にわたって対オーストリア外交制裁を実施した。ハイダーは自由党に対するEUの非難をかわすため、この年2月に党首をしりぞいたが、国民党寄りの現実路線に転じた後任党首リースパッサー(連立政権副首相)への非難を強めていった。02年9月、減税実施の先送りをめぐる両者の意見対立は党を二分する内紛となり、自由党閣僚6人のうちリースパッサーら主要3閣僚が辞任。シュッセル首相は議会解散にふみきり、ヨーロッパ右傾化の口火をきった連立政権は2年半で崩壊した。

2002年11月におこなわれた繰り上げ総選挙は、国民党が42%以上の得票率で圧勝し、社会民主党にかわって約30年ぶりに第1党の地位を回復した。社会民主党は37%、自由党は内紛騒動で3分の2近い議席をうしない、得票率は10%あまりにとどまった。3カ月あまりの連立交渉の結果、国民党と自由党の連立が決定。03年2月、第2次シュッセル内閣が成立した。04年4月、クレスティル大統領の任期満了にともなう大統領選挙で、中立政策の堅持を主張する社会民主党のフィッシャーが、将来NATOへの加盟も視野にいれて永世中立の見直しをうったえる国民党候補を小差でくだした。

2005年4月、ハイダーが自由党をはなれて新党「オーストリア未来連合」を結成し党首に就任した。自由党の閣僚と国民議会議員のほとんどが新党にうつったため、シュッセル首相は連立相手を自由党からオーストリア未来連合にかえて政権を継続。5月、議会はEU拡大にそなえるEU憲法の批准を承認した。しかし、トルコのEU加盟については反対する国民が多数を占めており、10月のトルコ加盟交渉開始には最後まで難色をしめした。同年7月には、オーストリアに長期滞在を希望する外国人に義務づけたドイツ語習得のための受講時間を、100時間から300時間に延長するなど、「外国人同化法」(2003年施行)の厳格化がきまった。

5.D. 近年の動向

2006年10月、総選挙がおこなわれ、社会民主党が第1党にかえりざいた。オーストリア経済は好調だが雇用不安があること、年金削減や企業優遇税の導入が有権者の不評をかって、与党国民党は僅差(きんさ)でやぶれた。社会民主党は緑の党と連立しても過半数に達しないため、国民党との連立協議に入り、07年1月合意が成立。社会民主党党首グーゼンバウアーを首班とする大連立政権が発足した。社会民主党は7年ぶりに首相の座をえたが、連立協議で守勢にたったため、外務、内務、財務などの主要な大臣ポストは国民党が占めるという異例の内閣になった。国民党と連立をくんでいた極右政党は政権をはなれたが、移民受け入れの全面停止を主張する自由党は得票率をのばして第3党の位置を維持し、オーストリア未来連合も議席を獲得して、2党をあわせた極右勢力はこれまでの1.5倍となっている。