| 植民地と植民地主義 | 項目ビュー | ||||
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| III. | 東方貿易と奴隷貿易 |
国内政治が安定し、海洋経験が豊富で、地理的にも有利だった15世紀のポルトガルは、ヨーロッパの他の諸国にさきがけてアフリカ大陸の南端をまわり、南アジアに到達した。香料交易支配を目的としていたポルトガル人は、植民地を建設するよりも、沿岸に交易の拠点や要塞(ようさい)をきずくことに力をいれた。16世紀後半になると、イギリスとオランダがポルトガルによる東方交易の独占をおびやかしはじめた。喜望峰に進出したオランダは、ポルトガル人を駆逐し、17~18世紀にジャワ島とセイロン(現スリランカ)を支配下におさめている。一方、イギリスはインドに東インド会社を設立して、1757年のプラッシーの戦以降から本格的なインド本土の侵略を開始した。
ヨーロッパが南北アメリカ大陸の植民化をすすめた背後には、さまざまな目的があった。貴金属の探索、新たな耕地の必要性、宗教的弾圧からの逃避、先住民のキリスト教化などである。そのため、交易拠点よりも入植地が建設された。ひとたび植民地が確立すれば、宗主国との間で独占的な交易が展開された。アメリカ大陸でもっとも幅をきかせていたスペインは、中央アメリカと南アメリカにひろく進出し、ポルトガルはブラジルを中心に入植した。スペインとポルトガルが現地の住民を吸収する混在型の入植地を建設したのに対し、北アメリカにはいったイギリスとフランスは、土着の住民を駆逐して純粋な植民地をつくった。
この時期の植民地経営の大きな特徴に奴隷貿易があった(→ 奴隷制)。とりわけスペインは、南北アメリカの植民地経営にあたって、先住民を奴隷化しただけでなく、16世紀前半からはアフリカの黒人を奴隷として大量におくりこむようになった。ポルトガルがそれにつづき、17世紀にはオランダ、フランス、イギリスに中心がうつって奴隷貿易は盛んとなった。
しかし、1800年をむかえるころ、ヨーロッパの各植民地帝国は大部分おとろえていた。スペイン、ポルトガル、フランスが、南北アメリカにきずいた植民地の大半は、フランス革命およびナポレオン戦争とその余波に乗じて独立をはたした。オランダも植民地をうしない、他の列強植民地との密輸を細々とつづけるだけだった。奴隷貿易も、フランス革命の影響などによって廃止の方向にむかっていった。
イギリスは、1776年のアメリカ独立によって北アメリカでの植民地をうしなったが、それでも植民地大国としての地位はたもちつづけた。インド支配だけでなく、カナダや喜望峰、セイロンなど、多くのヨーロッパでの戦争の間に獲得した海外植民地も、戦略上の必要から維持していた。18世紀後半のイギリス植民地帝国は、ヨーロッパの拡張主義の第1期と第2期の橋渡しの役目をはたしている。