| 検索ビュー | メキシコ | 項目ビュー |
| I. | プロローグ |
北アメリカ大陸南部にある連邦共和国。正式国名はメキシコ合衆国。領土は、レビヤヒヘド諸島など本土周辺の多くの島々もふくむ。面積は196万4382km²。人口は1億995万5400人(2008年推計)。首都はメキシコシティで、国内の最大都市。
| II. | 国土と資源 |
国土の大部分は山地と広大な高原からなる。西側の太平洋岸を西シエラマドレ山脈、東のメキシコ湾側を東シエラマドレ山脈がそれぞれ南北にはしり、山麓(さんろく)から海岸にかけて幅の狭い海岸平野が広がる。東シエラマドレ山脈と西シエラマドレ山脈は南東部のラフンタとよばれる地帯で合流し、複雑な火山列を北辺にもつ南シエラマドレ山脈を形成する(→ シエラマドレ山脈)。ポポカテペトル山(標高5452m)などの高峰がつらなる南シエラマドレ山脈は、カンペチェ湾とテワンテペック湾とをわけるテワンテペック地峡へとのびる。
アメリカ南西部の平原からつづく高原地帯は、メキシコ国土の半分以上を占め、西部と南部にむかうほど高度をます。北部にマピミー盆地があり、中央部に広大なアナワク高原(メキシコ中央高原)が広がる。
メキシコ湾岸は砂質の低地が多いが、太平洋岸では山地が海にせまっている所がある。北西端から南に細長くのびるカリフォルニア半島(長さ1200km)は、アメリカのカリフォルニア州からつづく海岸山脈の延長部にあたる。南東端には平均標高152mの低平なユカタン半島がある。
メキシコには長大な河川が少なく、大半の河川は船の航行ができない。最長の河川はリオグランデ(メキシコでの名称はリオブラボーデルノルテ)で、アメリカとの国境をながれている。そのほかの重要な河川に、南部のバルサス川、メスカラパ川、ウスマシンタ川、北部のコンチョス川がある。主要な港として、メキシコ湾側にタンピコ、ベラクルス、コアツァコアルコス(プエルトメヒコ)、太平洋側にはアカプルコ、マサトラン、マンサニージョ、サリナクルスがある。最大の湖は西部にあるチャパラ湖で、中央部のアナワク高原には浅い湖沼が点在する。
| 1. | 気候 |
国土は中央部を横断する北回帰線で二分され、南半分は熱帯に属する。しかし、気候は高度にともなって変化し、標高差により次の3つにわけられる。
ティエラカリエンテ(「暑い土地」の意)は海岸平野をふくむ標高約900mまでの地域で、気候は多湿、年平均気温は16~49°C。ティエラテンプラダ(「温暖な土地」の意)は約900~1800mの地域で、年平均気温は17~21°C。ティエラフリア(「寒い土地」の意)は約1800~2700mの高地で、年平均気温は15~17°Cである。なお、メキシコシティの平均気温は1月が7~21°C、7月が12~23°C、モンテレーでは1月が9~20°C、7月が22~34°Cとなる。
5~10月が雨季で、南にむかうほど降水量は多く年間1000~1500mmに達する所がある。ただし、国土の大半はひじょうに乾燥している。年降水量は標高に応じて地域差がみられ、ティエラテンプラダが約640mm、ティエラフリアが約460mm、北部の半乾燥地帯が約250mmで、メキシコシティは848mm、モンテレーは639mmである。
| 2. | 植生と動物 |
植生はきわめて変化にとんでいる。北部の乾燥地帯には、サボテン、ユッカ、リュウゼツラン、メスキートが多くみられる。ティエラカリエンテには多種類の植物が密生し、熱帯林の地域ではココヤシ、ゴムノキ、アーモンド、イチジク、オリーブなどがしげる。山腹にはカシ、マツ、モミが分布し、高地では極地方の植物相がみられる。
動物相も変化にとみ、哺乳類(ほにゅうるい)は491種がみられる。北部にはオオカミ、コヨーテ、山腹の森林にはオセロット、ジャガー、ペッカリー、クマ、ピューマが生息する。海岸部にはアザラシがすむ。爬虫類(はちゅうるい)はリクガメ、イグアナ、ガラガラヘビ、トカゲなど704もの種類が生息している。
| 3. | 天然資源 |
地下資源は量、種類ともに豊富である。銀、石油、天然ガス、石炭、鉄鉱石、リン、ウラン、金、銅、鉛、亜鉛、蛍石、マンガン、タングステン、モリブデンなど、おもな鉱物資源のほとんどが採掘されている。銀、石油、天然ガスの埋蔵量は世界有数の規模をほこり、メキシコ湾側にあるカンペチェ湾の沖合には巨大な油田がいくつかある。また国土の32.8%(2005年推計)を森林が占め、マホガニー、クルミ、ローズウッド(→ シタン)などの森林資源も豊富である。農地は国土の14.3%(2003年推計)を占めるにすぎない。国土の3.3%は灌漑を必要とする乾燥地帯である。
| III. | 住民 |
住民は3つの主要グループにわかれる。スペイン系白人、先住民族インディオ、スペイン系白人とインディオとの混血のメスティソである。このうちメスティソがもっとも多く人口の約60%を占め、インディオが約30%、ヨーロッパ系白人が約9%の構成となっている。
人口密度は57人/km²で、人口の76%(2005年推計)が都市部に居住している。行政地域は、31の州と1つの連邦区(メキシコシティ)にわかれている。
| 1. | 主要都市 |
首都で文化の中心地メキシコシティは人口1400万7495人(2005年推計)の大都市。ほかに商業の中心地グアダラハラ、メキシコシティの近郊都市ネツァワルコヨトル、重工業の中心地モンテレー、古都で製陶業の中心地プエブラ、農業の中心地レオン、商業・食品加工業の中心地シウダーフアレス、観光と製造業の中心地ティフアナなどがある。
| 2. | 宗教と言語 |
国民の89%がカトリック教徒で、プロテスタントは少数派である。長い間メキシコは政教分離政策をとっていたが、1992年に憲法を改正して教会の法的地位がみとめられ、宗教団体の経営する学校も認可されるようになった。
公用語はスペイン語で、住民の大部分が使用している。先住諸民族の言語は13をかぞえ、おもなものとしてナワトル語(→ アステカ)、ユカタン半島のマヤ語(→ マヤ)、中央メキシコのオトミ語などがあげられ、ほかにミシュテカ語(→ ミシュテカ)、サポテカ語(→ サポテカ)などがある。
| 3. | 教育 |
6~15歳(2002-2003年)までの初等教育を無償とする義務教育制度が確立されている。中等教育は職業・技術訓練に重点がおかれている。成人の識字率は、1940年代初めに50%未満だったが、政府の識字運動により、2005年推計で92.7%に達した。
高等教育機関の2001年度の在籍者は214万7075人にのぼる。著名な大学として、メキシコシティにあるメキシコ国立自治大学(1551年創立)と国立総合技術大学(1936)、グアダラハラ大学(1792)、ベネメリタ・プエブラ自治大学(1937)、ハラパにあるベラクルス大学(1944)、モンテレー工科大学(1943)などがあげられる。
| IV. | 文化 |
メキシコの文化は、先住民文化、スペイン文化、アメリカ文化がまじりあっている。農村部には、高度に発達したマヤ、アステカ、トルテカなどの文化を継承している先住民と、スペイン系やメスティソの農民、労働者が居住しており、それぞれの伝統が豊かな地方文化をつくりあげている。都市部で顕著なのは、ヨーロッパ、とくにスペインとフランスの文化と北アメリカ文化の影響である。メキシコの現代芸術家の多くは、スペイン、先住民、近代ヨーロッパの様式を融合させた独自の創作をめざしている。
| 1. | 文学 |
16世紀からスペイン語によるメキシコの文学作品がつくられたが、作品の多くは先住民の口頭伝承から題材をとっている。20世紀の著名な作家としてアスエラ、ルイス・グスマン、ヤニェス、フエンテスがおり、ほかに戯曲家のバロソ、ウシグリ、詩人で散文家のレイエス、1990年にノーベル文学賞を受賞したパスらがいる。→ ラテンアメリカ文学
| 2. | 音楽と舞踊 |
地方では古くから民謡や民族舞踊が盛んで、マリアッチ楽団は大衆的な辻楽団として有名である。この楽団は通常、バイオリン2、5弦ギター2、低音部を担当する大型のギタロン、トランペットで構成される。東部の港ベラクルスの合奏団は、ハープ1台と2つの小さなギターだけで演奏する。南部ではマリンバ合奏団が人々をたのしませている。コリードとよばれる物語歌は、スペインのロマンサに由来する4行詩で民間伝承の物語をうたいあげるもので、アメリカのフォーク・ミュージックや民衆詩に大きな影響をあたえた。スペイン植民地時代以前の舞踊も、伴奏はスペインふうながら地方にのこっている。
芸術音楽の分野では、作曲家で指揮者のカルロス・チャベスが知られている。彼は1928年のメキシコ国立交響楽団の創立に貢献した。振付師のアマリア・エルナンデスは、バレエ・フォルクロリコを52年に創立している。
| 3. | 建築 |
スペイン植民地時代の建造物が各地にのこされている。その建築様式はゴシック様式、プレテレスコ様式(16世紀スペインの建築様式)、古典様式、バロック様式などによるものだが、先住民文化の装飾をとりいれたものもある。19世紀後半から20世紀前半にかけて、ハプスブルク家出身の皇帝マクシミリアンとその後のディアス大統領の統治期に、フランスの壮麗な第2帝政期様式が首都に導入された。メキシコシティにある華麗な芸術院宮殿は、ディアス独裁下で建設がはじまり、1930年代に完成したものである。
1945年からメキシコでは建築のルネサンスがおこり、世界じゅうの注目をあびた。メキシコ国立自治大学につくられた新しい建物群は、カルロス・ラソの基本計画のもとにデザインされ、建築家で画家のフアン・オゴルマンやディエゴ・リベラらによるフレスコやモザイクの壁画がかざられている。メキシコの著名な建築家としてフェリックス・カンデラがいる。彼はコンクリートをつかった独創的なデザインで、教会のほか、68年にはメキシコシティのオリンピック・スタジアムなどを手がけた。
| 4. | 美術 |
メキシコには、スペイン人の植民以前から絵画や彫刻のすぐれた伝統があった。植民地時代の美術家は、この伝統とスペインの文化、技術とをむすびつけ、みずみずしく深みのある作品を生みだした。しかし植民地時代後半になると、形式ばかりを重視する作品が主流になる。
19世紀末から20世紀にかけて活躍した版画家ホセ・グアダルーペ・ポサダ(1852~1913)は、強烈で衝撃的なポスター、石版画、木版画によって、民族の独立と革命をうながした。ポサダにつづくリベラ、シケイロス、オロスコら現代メキシコ派の代表画家は、美術家集団のリーダーとして壁画芸術を再興し、写実的な油絵でも重要な作品を制作した。民族美術をモチーフとしたのはフリーダ・カーロで、彼女自身の体験と幻想をおりまぜた作品を発表した。また織物、陶器、銀細工、木工、ガラス、皮革の工芸職人たちも、独自の伝統工芸を生みだしており、世界じゅうの人々を魅了している。
→ ラテンアメリカ美術
| 5. | 映画と舞台芸術 |
メキシコの映画産業で、もっともよく知られている映画監督はスペイン生まれのルイス・ブニュエルである。第2次世界大戦後にメキシコにすみ、多くの傑作をのこした。他の監督ではエミリオ・フェルナンデス、撮影ではフィゲロア、俳優ではカンティンフラス(マリオ・モレノ)やアルメンダリス、デル・リオらが有名である。演劇とミュージカル、とくにオペラは都市部で人気がある。メキシコ民族舞踊団のバレエ・フォルクロリコは、メキシコシティに本拠地をおき、世界各地で巡行公演をおこなっている。闘牛はスペインからもたらされ、今日では本場以上に盛んで、観光ポイントのひとつとなっている。
| 6. | 図書館と博物館 |
主要図書館の多くは大学付属のもので、メキシコシティにある国立図書館はメキシコ国立自治大学に付属している。
全国各地に博物館がつくられている。メキシコシティには、植民地時代以降の歴史をあつかった国立歴史博物館がチャプルテペック城にあり、国立人類学博物館にはマヤやアステカその他の考古学的工芸品が収蔵されている。ユカタン州のメリダにも貴重な考古学資料を所蔵する博物館がある。メキシコの博物館はすべて国立人類学歴史学研究院の管轄下にある。
| V. | 経済 |
メキシコは、鉱業と農業を中心とする一次産品生産国から工業国へとかわった。近年は自由貿易に積極的で、1982年に1155あった国有企業は大幅に減少、新規事業への外資導入を積極的にすすめている。2005年度税制改正では法人所得税などが国際基準にあらためられている。
1970年代にメキシコは石油開発と工業化をすすめ経済成長を達成したが、80年代以降、原油価格の急落により不況におちいった。82年には金融危機にみまわれ、インフレが深刻化した。GDP(国内総生産:→ GNPとGDP)は、81年から92年ではわずか年1.4%の伸びとなり、95年には-6.9%と32年以来最低を記録した。この間、92年のNAFTA(北米自由貿易協定)の調印後、南部のチアパス州でNAFTAに反対する先住民による武装蜂起(ほうき)が発生、94年には政治不安が増大したことから外資が逃避した。しかし、同年のNAFTA発効によって翌年からは対米貿易がふえはじめた。2001年以降は、アメリカ経済の停滞や同時多発テロ事件などの影響をうけ、経済にブレーキがかかったものの、04年からは石油価格の上昇にくわえて輸出も堅調で、景気は回復した。
| 1. | 農業 |
農業労働者の多くはエヒード(共同農場)に雇用されている。1915年に政府は農地改革を実施し、80年代までに大部分の土地がエヒードに転換された。92年の憲法改正で共有地の所有権を実際の耕作者に移譲できるようになり、農業への投資が促進されている。また灌漑プロジェクトによって耕作地が拡大し、収穫もふえている。
おもな農産物はトウモロコシ、サトウキビ、モロコシ、コムギ、オレンジ、カカオ、トマト、バナナ、ジャガイモなど。家畜は牛、豚、馬、ラバ、ロバなどが飼育される。
| 2. | 林業と漁業 |
国土の32.8%(2005年推計)を森林が占める。かつて乱伐されたため、政府は伐採の規制管理につとめている。丸材や角材、チクル(チューインガムの原料)、樹脂、テレビン油などを産する。
カリフォルニア半島沿岸に漁場があり、水産業はおもに特定魚種の独占権をもつ協同組合によって管理されている。主要な水産物はイワシ、マグロ、シクリッド、クルマエビ、カキである。漁獲量は145万t(2005年推計)。
| 3. | 鉱業 |
かつてメキシコの鉱業会社はすべて外国企業であった。しかし、1960年代に政府が民族資本の育成発展をすすめると、大半の外国企業が協力し、現在では各企業の主たる管理はメキシコ人がおこなっている。
石油は最重要の地下資源で、おもな産油地はベラクルス、タバスコ、チアパス各州にあり、国営のメキシコ石油公社ペメックス(PEMEX)が生産を管理している。1990年代初め、原油と石油製品は輸出総額の36%を占めた。2004年の産出量は12億3122万バレル。天然ガスは(422億2240万m³(2003年推計))、銀の生産量は(2700t(2004年推計))で世界一。西シエラマドレ山脈の太平洋側山腹には金の産出地がある。銅はグアナフアト近郊で、鉄鉱石はコアウィラとドゥランゴでとれる。そのほか石炭、硫黄(いおう)、亜鉛、蛍石、鉛、アンチモン、重晶石、黒鉛、マンガン、タングステン、モリブデンなどが産出し、ウラン埋蔵地もある。
| 4. | 工業とエネルギー |
メキシコの工業はラテンアメリカ諸国でもっとも発達している。1980年代末以降は北部のアメリカとの国境近くに工業拠点が多数建設された。これらの多くは保税輸入した原材料を製品に加工し、多くはアメリカ市場に輸出する外資系工場で、関税免除などの恩典をうけて発展した。これはマキラドーラとよばれ、アメリカや日本などの企業の投資も急増した。NAFTAの取り決めによって加盟国向け輸出に対してのマキラドーラの保税制度は2000年11月に廃止・変更された。メキシコの主要工業は、自動車および自動車部品、機械、電気機器、石油、鉄鋼、繊維、食品加工、製紙などである。
メキシコの発電量の82.9%(2003年推計)は火力発電による。水力発電は9.4%、原子力発電も4.77%ある。2003年の総発電量は2092億kWhである。
| 5. | 通貨と外国貿易 |
通貨単位はメキシコ・ペソ(1メキシコ・ペソ=100センタボ)。1994年12月、メキシコ政府はペソの大幅な切り下げをおこない、世界の主要通貨に対するペソの対外価値は45%低落した。発券銀行の機能をもつ中央銀行はメキシコ銀行(1925年設立)で、アメリカの連邦準備金制度をモデルとしている。市中銀行は82年に国有化されたが、90年代初めに民間管理にもどった。
2003年の輸出総額は1653億9455万米ドル、輸入総額は1712億9076万米ドル。おもな輸出品は原油、石油製品、銀、自動車、自動車部品、家電製品。おもな輸入品は自動車、金属加工機械、鋼鉄、農業機械、電気部品、組立用自動車部品、航空機、食料である。最大貿易相手国はアメリカで、NAFTA加盟のアメリカとカナダが輸出入総額の70~80%を占める。アメリカ、カナダ以外の主要貿易相手国は日本、中国、ドイツ、スペイン、ブラジル、韓国、台湾である。観光や国境貿易、アメリカではたらくメキシコ人労働者からの送金なども重要な外貨獲得源となっている。
メキシコは自由貿易に積極的で、NAFTAのほか、コロンビア、ベネズエラと3カ国グループ(G3)自由貿易圏を形成している。また、EU(ヨーロッパ連合)や日本など43カ国と自由貿易協定(FTA)を締結しており、日本とのFTAは2005年4月1日に発効した。1994年にOECD(経済協力開発機構)に加盟している。
| 6. | 交通とコミュニケーション |
鉄道は国営である。総距離は2万6662km(2005年)。道路の総延長は34万9038km(2003年)であり、50%が舗装されている。主要幹線道路のうち4本はアメリカ国境とメキシコシティとをつないでおり、パン・アメリカン・ハイウェーの一部をなしている。航空網はひじょうに発達し、国内の主要都市をアエロメヒコやメヒカーナなどの航空会社がむすんでいる。国際空港はメキシコシティのベニート・フアレス空港など、国内に55(2000年)ある。商船は110万t級を780隻(2007年)保有している。
2002年には300紙の日刊新聞が発行され、総発行部数は925万部にのぼる。おもな日刊紙には「レフォルマ」「エクセルシオール」「ラ・ホルナダ」「エル・ウニベルサル」「エル・フィナンシエロ」などがある。民間のラジオ局は1000以上あり、メキシコシティだけでもAM、FMあわせて三十数局ある。全国放送されているテレビ局はテレビサやテレビ・アステカなど。ラジオ台数は3100万台(1997年)、テレビ台数は2800万台である。
| 7. | 労働 |
2002年の労働人口は4230万人で、そのうち組合に加入しているのは5分の1にみたない。最低賃金および1日8時間、週6日の最高労働時間が法律で規定されている。
| VI. | 環境問題 |
海岸線が長く、山の多いメキシコは、地球上でもとりわけ多様な生態系にめぐまれ、野生動植物の生息地も多い。メキシコの植物相と動物相は、地理上の位置から南北両アメリカ大陸の要素をあわせもち、インドネシア、ブラジル、コロンビアにつぐ豊かな生物多様性をほこる。メキシコは爬虫類の種の数では世界2位、哺乳類の種の数では世界第1位である。メキシコの陸上に生息する脊椎動物(せきついどうぶつ)の3分の1近くが固有種であり、全植物種のおよそ半数がメキシコでしかみられないものである。メキシコ近海には、全世界の魚介類の種のうち14%が生息する。
しかし、人口増加とそれにともなう生活資源の需要の高まりから、メキシコの自然環境は今、大きな危機に直面している。農地は野放図に拡大され、管理運営のまったくでたらめな農法が横行している。土壌の浸食、塩害、農薬や肥料による川や用水路、地下水の水質汚濁などが各地で問題となっている。なかでもとくに深刻なのが、人口密度の高さでは世界有数の都市、メキシコシティの自然破壊である。ここには各種の産業や交通機関が集中しており、家庭でのエネルギー消費も大きい。山にかこまれた盆地状の地形であることと、気候の特性が重なって、大規模な大気汚染をひきおこしている。
メキシコでは年間の森林伐採率が0.46%(1990-2005年)とかなり高く、農地に転用するために樹木が次々と切りたおされている。かつて全国土の6%を占めていた多湿の熱帯林は、今ではその半分にまで減ってしまった。そのほか、山地の広葉樹、マングローブ林や沿岸部の湿地帯、高湿性の熱帯林、乾燥性の熱帯林、乾燥地域などに危機がせまっている。
古代マヤ文明の時代から、メキシコでは自然保護という考えがあった。マヤの人々は特定の森林を保護地域にさだめ、耕作は生態学的な視点から計画的にすすめられた。ところが、ヨーロッパ人に征服されたのち、こうした土地管理の伝統はうしなわれ、自然破壊は野放しとなった。19世紀末になって、ようやく近代的な環境保全の政策がとられはじめた。1992年、46カ所の国立公園をはじめとして、計68カ所の自然保護地域が指定され、その総面積は全土のおよそ20%になった。だが、こうした指定地域の多くは境界があいまいで、等級の指定水準や法解釈、政府の熱の入れ方などにより、保護政策の程度もまちまちである。そのため現実に保護されているのは、国土のわずか8.7%(2007年)しかなく、指定地域内でも森林伐採、密猟、ゴミの投棄、鉱物開発、過剰放牧、土壌の浸食といった問題は解決していない。ユネスコによる「人間と生物圏計画」の一環として、メキシコ国内の6カ所が生物保護区に指定され、国際的に認知されている。
| VII. | 政治 |
メキシコは、1917年2月5日公布の憲法にもとづく連邦共和国である。
| 1. | 行政・立法・司法 |
元首は大統領。大統領は任期6年で、再選はみとめられていない。内閣の構成員は大統領が任命し、議会の承認をうける。
議会は、上院128名(任期6年)と下院500名(任期3年)からなる二院制である。議員は連続2期つとめてはならないとされている。選挙権有資格者は18歳以上。
最高司法機関は最高裁判所で、21名の常任判事は大統領の指名と上院の承認をうける。その下に高等裁判所と地方裁判所がある。
| 2. | 地方自治・政党 |
連邦区(メキシコシティ)と31州からなる。各州の最高行政官は州知事で任期6年。連邦区の市長は大統領の指名による。各州の立法権は州議会に帰属し、議員の任期は3年である。
最大の政党はPRI(制度的革命党)である。PRIの前身は1928年に結成されたPNR(国民革命党)で、以来、政党名を数回かえながら政権を維持。PRIは2000年の大統領選挙で保守系の国民行動党(PAN)に政権をうばわれるまで、70年以上も政権をにない、世界最長政権といわれた。PANはメキシコ北部に支持者が多く、カトリック教徒や中産階級の支持をえている。ほかに左翼政党のPRD(革命民主党)や労働党(PT)がある。
| 3. | 防衛 |
選抜徴兵制(1年)がとられている。2004年の兵力は、陸軍14万4000人、海軍3万7000人、空軍1万1770人。
| VIII. | 歴史 |
現在のメキシコの地には、1万数千年前から人間が居住し、農耕は前8000年ごろからはじまったと推定されている。最初に都市をつくったのはオルメカ文化の人々で、前1200~前300年に繁栄した。6世紀ごろにはユカタン半島でマヤ文明が最盛期をむかえた。
| 1. | アステカ王国 |
10世紀、北方からトルテカ人が侵入してアナワク高原に王国をきずいたが、11世紀にはチチメカ人におわれた。12世紀、北方からナワ人の7集団が連合してアナワク高原に侵入。その統率集団だったアステカ(メシカ)は1325年、テスココ湖の湿地に居住地をさだめ、その地をテノチティトランと命名した。初代国王イツァコアトルのもとで王国は勢力範囲を高原全域に拡大し、15世紀までに中部および南部メキシコを支配する。アステカ文明はトルテカとチチメカの文明をもとにしたもので、スペイン人による征服までつづいた。
1517年、コルドバがヨーロッパ人としてはじめて到着し、ユカタン半島のマヤ遺跡を発見した。翌年、グリハルバが東海岸を探検してアステカ王国の情報をもたらす。19年、キューバにいたスペイン植民地総督ベラスケスは、コルテスに命じて部隊を派遣し、アステカ軍をやぶって21年にテノチティトランを制圧した。以後、スペイン植民地時代となる。
| 2. | スペイン植民地時代 |
スペイン植民地時代は1521~1821年の300年間にわたる。この間、植民地ヌエバエスパーニャ領は、現在のアメリカ合衆国のテキサス、ニューメキシコ、カリフォルニア州などまで拡大した。
スペインに征服されたのち、先住民は鉱山開発などの労働力として動員された。スペイン人貴族、聖職者、軍人らに土地と住民の支配権をあたえるというエンコミエンダ制(植民地荘園制)の中で、先住民は過酷な労働を強制され、天然痘などの流行もあって人口が激減した。
16世紀には、ローマ・カトリック教会のフランシスコ会、ドミニコ会、イエズス会などの宣教師たちが布教活動をおこなった。教会は遺贈、寄贈によって富をふやし、国の資産と土地の3分の1を占有した。教会財産が国有化されたのは1859年のことである。
植民地時代には人種間での混血がすすみ、複雑な社会階級制が生まれた。社会階級は先住民、メスティソ(人口が急増)、黒人奴隷、自由黒人、白人とわかれ、さらに白人もペニンスラール(スペイン本国生まれ)とクレオール(白人だが植民地生まれ)にわかれた。スペインからおくりこまれたペニンスラールは行政や教会機構で重要な役職を独占し、クレオールを蔑視(べっし)した。こうしたクレオールらの不満にくわえて、植民地行政における官吏の腐敗、1789年のフランス革命後ヨーロッパから入った自由主義思想などを背景として、19世紀初めに独立への気運が高まっていく。
ヨーロッパではナポレオン軍がスペインに侵攻、これをきっかけに植民地と本国との断絶がはじまった。1808年、クレオールらの圧力をうけた副王(→ 副王制)は彼らの行政参加を承認した。これに対してペニンスラールらが異議をとなえて副王を追放するなど政治的混乱がおこり、こうした中でメキシコ民衆の独立運動が展開された。
| 3. | 独立戦争 |
1810年9月16日、ドロレスという小村の司祭イダルゴは、先住民の過酷な労働と身分差別の撤廃をもとめて反乱をおこしたが、11年に王党派によりチワワで処刑される。独立運動はモレロス司祭がひきつぎ、14年にスペインからの独立と共和制の宣言がおこなわれたが、翌年モレロス軍はイトゥルビデ将軍ひきいる王党派軍に敗北した。独立運動はゲレーロの指導で継続するが、規模の縮小を余儀なくされた。
1820年に本国スペインで自由主義革命がおこると、メキシコの保守派は動揺し、本国からの分離を画策した。イトゥルビデはゲレーロと同盟し、「独立と君主制の樹立」「国教としてのローマ・カトリック」「スペイン人とクレオールとの平等」をかかげたイグアラ綱領を発表。21年、メキシコはスペインからの独立を達成した。
| 4. | 帝政と共和制 |
1822年、イトゥルビデはクーデタによって皇帝アグスティン1世として即位したが、10カ月後には反乱がおこり失脚した。24年、憲法が制定され共和国が樹立されたが、保守派である中央集権主義者(教会勢力、大土地所有者、クレオール、軍人ら)と、自由主義、反教会派からなる連邦主義者との間で抗争がはじまる。33年、軍の支持をうけた中央集権主義者のサンタ・アナが大統領に就任した。
| 5. | アメリカ・メキシコ戦争 |
メキシコ政府の支配下にあった北部のテキサスでは、政府の奴隷制廃止宣言(1829)とサンタ・アナの中央集権政策に対する不満が高まっていたが、1835年に反乱がおこり、36年4月メキシコ軍が敗北してテキサスは分離独立した。46年、テキサスを併合したアメリカが宣戦を布告(→ アメリカ・メキシコ戦争)、翌年にはアメリカ軍がメキシコシティを占領する。48年2月、両国はグアダルーペ・イダルゴ条約をむすび、リオグランデ川をテキサスとの国境として画定、また現在のカリフォルニア州とニューメキシコ州にあたるメキシコの領土がアメリカに割譲された。
1853年のガズデン購入ではニューメキシコとの国境が画定され、現在のアリゾナ南部とニューメキシコ南西部の一部が新たにアメリカの領土となる。領土の半分以上をうしなったメキシコ国内では、保守勢力に対抗した自由主義派が台頭し、権力をにぎった。
| 6. | フアレスとマクシミリアン |
自由主義派の改革指導者として登場したフアレスは、1857年、連邦制や男子普通選挙、言論の自由などをもりこんだ自由主義憲法を制定。58年、財産の国有化に反発した教会を中心とする保守勢力と自由主義派との間に内戦がおこり、フアレス政府がアメリカの支持をえて、60年に勝利した。
その後、フアレスは外国債務の利子支払い停止を宣言、これを不満としたフランス、イギリス、スペイン3国の武力干渉をまねき、1861年にベラクルスが占領される。63年にはフランス軍がメキシコシティを占領、フアレスは亡命した。保守勢力の臨時政府がメキシコ帝国樹立を宣言し、ナポレオン3世の干渉により、オーストリア大公マクシミリアンがメキシコを支配することとなった。
マクシミリアンの第2帝政時代は1864年からはじまったが、67年フアレスを支持するアメリカ政府の圧力でフランス軍は撤退、ディアス将軍指揮のフアレス軍がメキシコシティを奪回した。ケレタロでマクシミリアンは降伏し、軍法会議ののち処刑された。フアレスが大統領に就任する。
1871年にフアレスは再任されたが、72年に急死する。76年、レルド・デ・テハダが大統領の座についたが、ディアスがクーデタを成功させ、77年に大統領となった。
| 7. | ディアス独裁時代 |
ディアスは、1877~1911年の34年間にわたり独裁をつづけた。この間にメキシコは近代的発展をとげたが、ディアスの実施した鉄道拡張、公共事業、港湾整備などの多くは外国資本によるものだった。また、ディアスは富裕な大土地所有者や教会勢力を厚遇したため、農民、労働者、民族資本家の不満と反乱の気運がメキシコ全土で高まった。
不満を察知したディアスは1908年、民主主義尊重をかかげて、10年の大統領選挙への対立候補の参加をよびかけた。自由主義派候補のマデロとディアスが対立する中でメキシコ革命がおこり、マデロの指導による民衆蜂起により、11年にディアスは大統領を辞任し、国外に亡命する。
| 8. | 混乱の時代 |
1911年、マデロが大統領に就任した。しかし、サパタやビリャなどほかの革命指導者らが反発、将軍ウエルタがマデロを殺害し権力をにぎったが、サパタ、ビリャ、カランサらが武装蜂起し、14年にカランサが権力を掌握した。15年、ラテンアメリカ8カ国とアメリカはカランサ政権を正式に承認し、ビリャをのぞく革命指導者たちもこれにしたがった。ビリャはアメリカへの反発から16年にニューメキシコに侵攻、20年まで国境地帯で戦いをつづけた。
| 9. | 憲法の制定 |
1917年にカランサが大統領に就任し、革命の理念をもりこんだ憲法が制定された。新憲法には労働法の制定、大統領の継続就任の禁止、教会勢力の権限の抑制、先住民の共有地の回復などの条項が明記され、とくに外国による鉱物資源や土地の保有権を制限する条項は画期的なものだった。
カランサ政権は外国資本による石油資源の支配を不満とし、関税などの制限措置を実施する。しかし1920年にカランサは殺害され、かわってオブレゴンが大統領となり、アメリカの石油会社の要求に妥協した政策をすすめた。24年にはカジェスが大統領に就任し、憲法上の諸改革を推進したが、教会勢力の反発をまねいた。
1928年にオブレゴンが大統領に復帰したが、数カ月後、カトリックの狂信者に殺害される。以後、ポルテス・ヒルとロドリゲスが暫定大統領に就任。32年、与党のPNR(国民革命党)は「社会主義にむけた協同経済システム」のための改革的な6カ年計画を提示した。
1934年にカルデナスが大統領に就任し、PNRの計画実施に着手、農地改革や社会福祉、公教育に力をそそいだ。36年に土地改革のための収用法が議会を通過し、37年に鉄道の国有化、38年には石油産業の国有化が推進され、メキシコ石油公社ペメックスが設立される。しかし、一連の国有化政策に反発するアメリカ、オランダ、イギリスへの石油販売が困難となり、かわってイタリア、ドイツ、日本との貿易が拡大した。39年に第2次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)し、41年のアメリカの参戦をきっかけに、メキシコとアメリカ両国の関係は緊密となった。
| 10. | 第2次世界大戦と戦後 |
メキシコはアメリカとの協力政策にもとづき、1941年にイタリア、ドイツ、日本と断交、42年5月に宣戦を布告した。同年6月には国際連合の設立にくわわり、経済、軍事面でアメリカとの協力態勢を強化するとともに、国内の産業育成や工業化を推進した。
1946年、ミゲル・アレマンが大統領に就任する。アレマン政権は、49年に外国企業にペメックス管理下での石油採掘を許可する一方、貿易不均衡解消のためペソ切り下げなどを実施した。49年の総選挙では、3年前にPRI(制度的革命党)と改称した与党が勝利し、翌年には外資に対する規制がさらに緩和された。
| 11. | 現代のメキシコ |
1952年、PRIのコルティネスが大統領に就任し、以後PRIの長期政権がつづく。翌年、婦人参政権が成立。58年からのマテオス政権のもと、62年には企業の利益を労働者に分配することを規定した法律が成立した。
1964年からのオルダス政権では、外交面で不干渉主義を表明、米州機構が同年に採択したキューバとの断交決定にしたがわなかった。オルダスは66年に5カ年計画を発表して経済開発を推進、翌年には近隣国との経済提携をはかるため中央アメリカ諸国を歴訪する。しかし、国内では貧富の格差が拡大して反政府運動が高まり、オリンピック開催直前の学生暴動は弾圧された。
1970年からのエチェベリア政権では、バランスのとれた経済発展と輸出の増大をめざし、ラテンアメリカ諸国、カナダ、EC(ヨーロッパ共同体。EUの前身)、ソビエト連邦(ソ連)などとの経済協力がはかられた。70~74年に経済は順調に発展したが、75年に入って停滞し、翌年にはペソの切り下げが実施された。この政権下で南部諸州で油田が発見される。
1976年からはロペス・ポルティーヨ政権となり、緊縮財政により経済はかなり改善されたが、インフレは高率のまま推移した。70年代にメキシコの石油生産量は倍増し、石油供給国としての重要性は増大した。
| 12. | 金融危機 |
1982年からのデ・ラ・マドリ政権では、石油価格の急落から累積対外債務が急速に悪化し、金融危機におちいった。85年には大地震が発生し、経済状況はさらに悪化した。
1988年、PRIの不正選挙に対する批判の嵐の中で、同党のサリナスが大統領に就任した。同年、大規模なハリケーン災害が発生する。経済の復興をめざすサリナス政権は、89~93年に80%の国営企業を民営化した。外資規制も緩和され、100%外国資本の企業も誕生。92年6月には憲法を修正し、17年の憲法制定以来、教会に課せられていた規制を廃止した。同年12月には、貿易と外資導入の拡大を目的にアメリカ、カナダとの3国間でNAFTA(北米自由貿易協定)を締結、NAFTAは94年1月1日に発効した。
NAFTA発効の同日、先住民のサパティスタ民族解放軍(EZLN)が協定に反対して南部のチアパス州で武装蜂起し、サリナス政権に改革要求をつきつけた。サパティスタの名は、19世紀の革命指導者で農地改革をおこなったサパタに由来する。政府は、前メキシコシティ市長カマチョ・ソリスを代表者としてEZLNと交渉をはじめた。
1994年の大統領選挙では、PRIのコロシオ候補がティフアナ市で暗殺される悲劇がおこった。後継候補はセディジョで、8月の選挙に勝利した。9月には、PRIの書記長ルイス・マシエウ暗殺事件が発生する。
一方、EZLNは、チアパス州における政府軍の軍備増強や政府の交渉に対する消極的態度を不満とし、1994年10月交渉を中断、12月にはふたたび武力攻勢に出た。政府は国家調整委員会を設立して紛争解決にのりだした。
1994年12月、セディジョが大統領に就任した。メキシコはペソの大幅な切り下げと国際信用の低落による経済危機におちいり、チアパス州問題や、コロシオ、ルイス・マシエウの暗殺事件は状況をさらに悪化させた。政府はアメリカやほかの国際金融機関に借款(しゃっかん)を要請した。
コロシオ暗殺事件では、その背後にPRI高官らの存在が明らかとなり、ルイス・マシエウ暗殺事件では前大統領サリナスの関与がうたがわれ、サリナスは国外退去となる。PRI内部の改革派だったコロシオ、ルイス・マシエウの暗殺事件はPRIに大きな打撃をあたえ、ハリスコ州知事選やグアダラハラ市長選でPRIは敗北した。
1995年1月、政府とEZLNの交渉が再開された。断続的な話し合いのすえ、96年2月には先住民の権利と文化の尊重などをふくむ合意文書が調印されたが、その後また対立が生じ、交渉は頓挫(とんざ)した。97年9月、和平対話の中断に抗議してEZLNとその支持者1000人余りがチアパス州から首都に行進し、政治組織「サパティスタ民族解放戦線」を結成した。12月になると、チアパス州で、EZLNを支持する先住民の農民が武装集団に襲撃され、子供をふくめ45人が殺害される事件が発生した。州政府とPRIの事件への関与が明らかになり、98年1月、内相とチアパス州知事が辞任するにいたった。また、ゲレロ州では97年5月に、96年に旗揚げした先住民のゲリラ組織「革命人民軍」と政府軍の間で戦闘がおこなわれた。
1997年7月、連邦下院全議席と上院の4分の1、メキシコシティ(連邦区)市長などの選挙が実施された。下院では、68年間にわたって政権を担当してきたPRIがはじめて過半数をしたまわり、上院では改選議席32のうちPRIの獲得議席は13にとどまった(非改選とあわせると過半数は維持)。はじめて公選となったメキシコシティ市長選では、PRI候補が革命民主党(PRD)候補に大敗し、同市議会選挙では、選出議席40議席中1議席も獲得できず、6州知事選でも2州で敗退する結果となった。
| 13. | 71年ぶりに政権交代 |
2000年7月、PRIの「一党支配の是非」を最大の争点とする大統領選挙がおこなわれ、前グアナフアト州知事で、親米右派の野党・国民行動党(PAN)候補のビセンテ・フォックスが大勝した。世界最長政権といわれてきたPRIは、長期一党支配体制の中で、権威主義や利益誘導型の政治がはびこるようになり、貧富の格差は広がり、社会のあちこちに腐敗と矛盾の根が広がっていた。一方勝利したPANは、北部を中心に一部財界やカトリック教会が支持する保守政党で、近年は経済の自由化をとなえるなど、都市部の中産階級にも支持層が広がっていた。
フォックス大統領は12月の就任演説で「7つの改革」を提唱、先住民の権利尊重、世界の人権や女性の権利の重視、さらに貧困対策や教育への取り組みを最優先する姿勢をみせた。翌2001年3月にはEZLNの司令官が先住民の自治や諸権利をみとめる法律の制定をもとめて連邦議会で演説、新政権は4月、憲法改正をもりこんだ「先住民権利法」を議会で通過させた。しかし、この法律は自治権付与の内容などで先住民にとってふじゅうぶんなもので、EZLNはこれを拒否、交渉はふたたび頓挫(とんざ)した。
フォックス大統領の就任当初の意気込みの割には、外交、内政ともに思ったような成果はあがらなかった。アメリカとの関係は親米路線をかかげて積極的な外交をおこなったが、麻薬取り締まり問題でぐらつき、好調だった経済も、アメリカ経済の低迷や同時多発テロ事件の影響をうけて低迷した。アメリカに不法滞在するメキシコ人を合法化する交渉でも、同時多発テロ事件後にアメリカが不法移民取り締まり強化をはじめたために暗礁にのりあげた。
内政では、独占的に石油生産を管理している国営の石油公社ペメックス(PEMEX)の経営改革に失敗、税制改革でも食料品や医薬品へ付加価値税を課す法案が野党PRIの抵抗をうけて頓挫した。2003年7月には連邦下院議員選挙がおこなわれ、与党PANが大幅に議席をへらしたため、フォックス政権はさらにきびしい議会運営を強いられた。03年1月21日、南西部のコリマ州を震源とするマグニチュード7.3の強い地震がおき、死者26人以上の被害が出た。
2004年に入ってようやく、石油価格の上昇もあってメキシコ経済は回復基調をしめし、経済成長は4%をこえた。04年7月にはメルコスール(南米共同市場)への準加盟を要請、翌05年4月1日には日本との自由貿易協定(FTA)が発効した。
2006年7月、フォックス大統領の任期満了にともなう大統領選挙がおこなわれ、PRDのロペス・オブラドール前メキシコ市長と、与党PANのフェリペ・カルデロン元エネルギー相の事実上の一騎打ちとなった。中道左派のロペス・オブラドールは、医療や教育の無料化などの貧困対策やNAFTAの一部見直しなどをうったえ、カルデロンはフォックス政権の親米的な新自由主義政策を継続して雇用拡大をめざすことや所得税率の引き下げなどを公約した。まれにみる接戦の中、中央選挙管理委員会の集計結果は、0.58%という僅差(きんさ)でカルデロンの勝利となった。しかし、ロペス・オブラドールは「集計時の不正」を理由に票の数え直しをもとめる不服申し立てを連邦選挙裁判所におこない、メキシコシティでは数十万人から100万人ものロペス・オブラドール支持者たちによる抗議集会やデモがあった。
9月、連邦選挙裁判所はカルデロンの当選を宣言、混乱は2カ月余りで収拾にむかった。大統領選挙と同じ日に実施された連邦上・下両院選挙では、PANとPRDは大きく議席をふやし、PANは上・下両院ともに第2党から第1党へとなった。