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ラトビア
I. プロローグ

ヨーロッパ北東部にある共和国。正式国名はラトビア共和国。かつてはラトビア・ソビエト社会主義共和国として、旧ソビエト連邦の構成共和国だったが、1991年9月に独立。エストニア、ロシア、ベラルーシ、リトアニアと国境を接し、西はバルト海とリガ湾にのぞむ。エストニア、リトアニアとともにバルト三国とよばれる。面積は6万3700km²。人口は225万9810人(2007年推計)。首都は、同国最大の都市で貿易港としても知られるリガ。

II. 国土と資源

国土の大部分は平坦(へいたん)な低地で、東部には丘陵地帯があり、最高点は312mである。地形は氷河作用の跡をとどめ、湖、小川、沼地、泥炭地が多い。しかし、全長531kmの海岸線はあまり屈曲しておらず、至る所に砂浜が広がる。最大の川は、ロシアに源を発するダウガバ川(西ドビナ川)である。国土の47.4%(2005年推計)が森林で、マツ、トウヒ、カバノキ、ハコヤナギが多い。気候は海洋性であるが、東部では大陸性気候の特徴をしめし、寒暖の差が大きい。西部では夏は冷涼で冬の寒さも穏やかである。動物はシカとイノシシが多い。

III. 住民

ラトビア人(レット人)が全人口の59%を占める。ラトビア人は、1935年には、全人口の4分の3を占めていたが、40年にソビエト連邦の構成共和国となってからロシア人の移住がふえ、ラトビア人の比率が低下した。現在、ロシア人は全人口の29%を占め、おもに都市部に居住する。ほかに、ベラルーシ人、ウクライナ人、ポーランド人、リトアニア人などもいる。公用語はラトビア語で、インド・ヨーロッパ語族のバルト語派に属し、リトアニア語に近い。ロシア語も通用する。ラトビア人の多くは、ルター派のプロテスタントまたはカトリック教徒で、ロシア人はロシア正教会(東方正教会)の信者が多い。

ラトビアは都市化がすすんでおり、全人口の66%(2005年推計)が都市圏に居住する。首都リガの人口は73万5241人(2004年推計)で、全人口のほぼ3分の1が集中している。その他の主要都市は、ダウガフピルスとリエパヤである。

IV. 経済

ラトビアの主要産業は、木材加工、金属加工、機械、電子機器、自動車部品、化学・医薬品、繊維、食品加工などの製造業である。サービス部門では運輸業が盛ん。鉱物資源としては泥炭、苦灰石、石灰石を産出する。

農業は畜産と酪農を中心とし、穀物、ジャガイモ、アマ(亜麻)、テンサイ(甜菜)などが栽培される。漁業もおこなわれ、おもにタラとニシンが水揚げされる。

ラトビアはエネルギーの大部分を外国にたよっている。そのため、ロシアが化石燃料を国際価格で購入するように要求してから、経済は大きな打撃をこうむった。ロシアの値上げに対抗して、1992年、ラトビアは、ラトビアの海港ベンツピルスにいたる石油パイプラインを管理下におき、輸送費用を2倍以上値上げした。ロシア政府はラトビアへの石油供給を停止すると牽制(けんせい)し、実際にラトビアにおくる石油を大幅に削減した。その結果、ラトビアはエネルギー不足におちいり、全土で電力供給が制限され、工場が閉鎖された。同年、ロシアにつづいてエストニアが電力の輸入代価を交換可能通貨でしはらうよう要求した。93年6月、ロシアの国営天然ガス会社が、輸入代金の未払いを理由にラトビアへの天然ガスの供給を停止した。

ラトビアは、ロシア・ルーブルを放棄して独立した経済圏の確立をおしすすめた。1992年5月、ロシア・ルーブルの不足をおぎなう目的で暫定的な通貨ラトビア・ルーブルが発行されたが、93年3月に独自通貨ラト(ラッツ)を導入し、ラトはルーブルにかわって唯一の法定通貨になった。

1995年6月、ラトビアはEU(ヨーロッパ連合)とヨーロッパ協定(準加盟国協定)に調印した。そして、2002年12月に、EUがラトビアの加盟を決定、03年9月におこなわれた国民投票で加盟が承認され、04年5月に正式加盟した。EU加盟を機にラトビアの経済成長率は急激にのび、賃金高騰、消費ブーム、高インフレ、景気拡大を背景とした貿易赤字の急増、経常収支の悪化などがおしよせた。加熱気味の経済は07年半ば以降、沈静化にむかっているが、インフレの抑制、人材不足の解消、輸出産業の育成などの課題をかかえている。

V. 環境問題

旧ソビエト連邦の共和国の例にもれず、ラトビアも数十年にわたる生態系や環境の保護を無視した政策による負の遺産になやまされている。ソ連の経済政策は、軽工業にくらべて公害が多発しやすい重工業の急速な発展をおしすすめた。しかし、コスト面の問題で、ソ連政府は排気ガス規制の技術を導入することができず、また既存の技術や設備を改良あるいは交換することもできなかった。そのため、産業公害はラトビア独立後の今でも解消されていない。

工業、農業、地方自治体の公共事業などがひきおこした水質汚濁は危険なレベルに達している。とりわけ、西ドビナ川やリガ湾の水質汚濁は深刻だが、これはじゅうぶんな下水処理施設をもたない首都リガの未処理の廃水や、西ドビナ川およびその支流沿岸の工場から産業廃水がながれこんだためである。さらに、軍事基地から流入する化学物質や石油生成物が土壌や地下水を汚染している。

大気汚染は、風のない曇った日にはとりわけひどくなる。おもな大気汚染物質は、二酸化硫黄、アンモニア、フェノール類、ホルムアルデヒド、窒素酸化物などである。酸性雨になやまされるラトビアでは樹木の半分以上が枯死した。また、泥炭の採取によって野生生物の生息地が破壊されつづけている。1980年代の終わりには、独立運動の一環として、環境問題も広く議論されるようになり、その後、ラトビア政府は国土の12.7%(2004年)を保護地域に指定した。

VI. 政治

現在のラトビアは、1918~40年のラトビア共和国を継承するもので、93年には、22年の民主憲法が正式に復活した。

国会(セイム)は一院制で、定員は100名。議員は選挙によってえらばれ、任期は4年である。国家元首は大統領であり、国会が選出する。大統領の任期は4年である。首相と内閣は大統領が指名して議会が承認する。他のバルト諸国と同じく、ラトビアは独立国家共同体(CIS)に加盟していない。

1990年代に市民権と選挙権をさだめる法律が大幅に改定された。90年、複数政党の立候補がみとめられた最初の議会選挙では、ソ連の軍事関係者をふくめ、すべての住民に選挙権があたえられた。しかし、独立後の91年末に制定された法により有権者の資格に制限がくわえられ、40年以前にラトビアの市民権をもっていた者とその子孫には民族を問わず選挙権がみとめられたが、それ以外の住民(多くはロシア人)には、一定の居住条件をみたし、ラトビア語の能力試験に合格することがもとめられた。

1994年初頭には、ラトビア人以外の住民に帰化の道を開く新しい市民権法案が議会で審議された。この法案は95年には5万人、96~99年にはさらに18万人に市民権をあたえるものであり、94年6月に法律として公布された。優先されるのは、40年以前にラトビアに居住していたか、ラトビア人を配偶者か親にもつ者である。この法律では、2000年以降は市民権取得に割当人数をもうけることになっており、ロシアやいくつかのヨーロッパ諸国、国際機関から非難された。

のちの法改正で割当人数制は廃止されたが、ラトビア語の能力試験はひきつづき課され、旧ソ連軍の関係者には帰化がみとめられないため、無国籍状態のロシア系住民は約70万人にのぼった。こうした事態に欧米諸国からも批判が強まった結果、1998年10月の国民投票をへて、ロシア系住民の国籍取得条件は緩和された。それでも人口の約20%が依然として無国籍者のままである。

VII. 歴史
1. ドイツやロシアによる支配

ラトビア人が現在のラトビア付近にすみついたのは9世紀ごろとされる。13世紀以降、ラトビアはドイツ、ポーランド、ロシアに次々と支配された。13世紀初頭から、ドイツ騎士修道会の東方植民がはじまり、バルト海沿岸部はキリスト教化されていった。ドイツは征服した領土をリボニアと命名し、ラトビアも1237~1561年にはリボニアの一部であり、ドイツ騎士修道会の支配下にあった。61年にリボニアが解体されてポーランドの支配下に入り、バルト海東部沿岸南部はクールランド公国となった。1629年にはスウェーデンが南部以外を征服したが、1700~21年の北方戦争と、72年、93年、95年のポーランド分割をへて、95年にラトビア全土がロシア領となった。

ドイツの支配下でラトビア人が農奴化されて以来、ラトビアでは農奴制が定着していたが、19世紀初頭にロシア本国に先だって農奴解放がおこなわれた。ただし、ドイツ人やロシア人の地主が支配階級としてとどまり、彼らが資本家、ラトビア人が労働者、さらに知識人という構図ができあがった。学生らによる「青年ラトビア」運動以来、政治的、文化的な組織を通じて民族意識も高まった。1917年のロシア革命が好機となり、18年11月19日、ラトビアは独立共和国を宣言した。その後、ロシアの革命勢力がリガを掌握したが、20年に連合国軍がロシアの革命政府軍をラトビアから追放した。ラトビアとロシア革命政府がむすんだ和平協定には、ロシアはラトビアの主権を尊重するとうたわれた。

2. ソビエト連邦の構成共和国に

1930年代、ラトビアは着々と経済の基盤をかためた。第2次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると中立の立場をとった。39年10月5日、ラトビアはソビエト連邦(ソ連)と相互援助条約をむすんだ。40年6月にソ連軍が進駐、ソ連はラトビアが隣国のエストニアと結託して反ソ軍事同盟をむすんだと非難し、ラトビアをソ連軍の占領下においた。ソ連軍の監視のもとに選挙が実施されて、共産主義政権が成立し、40年8月5日ラトビアはソビエト連邦の15番目の構成共和国になった。

3. 独立後の政治

1980年代末にラトビアの民族主義が復活した。91年8月のソ連保守派によるクーデタ失敗後、9月6日にソ連政府は正式にラトビア、エストニア、リトアニアの独立を承認し、同月中にこれらバルト三国は、国際連合に加盟した。93年6月、ラトビアで独立後はじめての議会選挙が実施された。新議会は経済学者のウルマニスを大統領に選出した。ウルマニスは首相にビルカウスを指名した。94年2月、ラトビアは「平和のためのパートナーシップ」協定に加盟した。これは、NATO(北大西洋条約機構)に加盟するためのステップであった。

1994年3月には、ラトビアとロシアの首脳が、ロシア軍を同年8月31日までに撤退させることで合意した。このロシア軍撤退協定には、スクルンダにある未完成の早期レーダー警戒施設以外の、稼働中のレーダー施設を98年までロシア軍が利用する権利もふくまれていた。ロシアの最後の軍隊は予定どおり94年8月に撤退した。

1994年、経済改革の諸問題をめぐって、ビルカウスの「ラトビアの道」を中心とする連立政権が分裂した。ビルカウスとその内閣も辞職においこまれ、6月には独立後に最初に成立した政権が崩壊した。9月に「ラトビアの道」によって新しい連立政権が成立し、ガイリスが首相に就任したが、95年の選挙で与党「ラトビアの道」は議席をへらし、第2党となった。選挙後の組閣は難航した。12月になってようやく、民間からシケレを首相にむかえ、第1党となった民主党や「ラトビアの道」など6党による連立内閣が発足したものの、その後も政局の混乱がつづき、97年には首相が2度辞任した。96年6月の大統領選挙では、ウルマニスが再選された。ウルマニス大統領は98年12月に初訪日した。

1998年10月の総選挙で国民党が第1党となったが、第2党の「ラトビアの道」は「祖国と自由」などとの中道右派連立内閣を成立させ、クリストパンスが首相となった。99年6月、議会はカナダ移民でモントリオール大学の教授をしていた女性ビケフレイベルガを大統領に選出した。7月、新首相にシケレ元首相が就任したが、2000年4月に閣内対立から辞任。5月に、リガ市長のベルジンシュを首相とする新内閣が発足した。

4. NATO、EUへの加盟

2002年10月の総選挙では、世代交代と減税をうったえたレプシェ元中央銀行総裁がひきいる中道右派「新時代」が勝利し、「ラトビアの道」は議席を獲得できなかった。その結果、「新時代」を中心に4党の連立政権が発足した。03年6月の国会による大統領選出では、ビケフレイベルガが再選された。

NATOは、2002年11月にバルト三国など中・東欧7カ国の新規加盟を決定、EUも、同年12月にバルト三国など10カ国の加盟を決定した。EU加盟の是非を問うラトビアの国民投票は03年9月に実施され、67%の賛成で承認された。そして、04年3月にNATO、5月にEUへの正式加盟が実現した。

一方、内政では、2004年1月末に「ラトビア第1党」が連立政権から離脱し、レプシェ内閣が総辞職した。つづくエムシス内閣が短命におわったあと、12月に国民党のカルビティスを首相とする4党連立内閣が発足。好景気を背景におこなわれた06年10月の総選挙では、4月に政権を離脱した「新時代」をのぞく連立与党3党(国民党、緑と農民連合、「ラトビア第1党」)が議席をのばして過半数を獲得し、カルビティスは、11月に「祖国と自由」をくわえた4党連立による中道右派の第2次政権を発足させた。07年5月、ビケフレイベルガの任期満了にともなう大統領選挙では、医師のザトレルスが選出され、7月に大統領に就任した。

2007年3月、カルビティスはモスクワで、ラトビアとロシアの国境を画定する条約に調印した。ラトビアは独立後、1940年にソ連に併合されてその構成共和国となった際にソ連に割譲した土地(現ロシア連邦プスコフ州の一部)の返還をロシアに要求していたが、ロシアとの関係正常化をもとめるEUにうながされ、ラトビア側が領土要求をとりさげて旧ソ連時代の境界をみとめることで調印にいたった。