検索ビュー ニカラグア

この項目内で、特定の言葉で検索するには、[編集] メニューの [このページの検索] をクリックします。

入力した言葉とまったく同じ言葉で検索されます。見つからない場合は、別の言葉で検索してみてください。

ニカラグア
I. プロローグ

中央アメリカ中央部にある共和国。正式国名はニカラグア共和国。北はホンジュラス、南はコスタリカに接し、東はカリブ海、西は太平洋に面している。面積は12万9494km²。人口は578万586人(2008年推計)。首都は最大の都市マナグア。

II. 国土と天然資源

北西から南東にかけ、標高約600mの高地がつづく。この高地には、最高点が2100mをこえるイサベリア山地をはじめ、いくつかの山脈が東西にはしる。西部に広がる大きな盆地には、中央アメリカ最大の湖ニカラグア湖と、マナグア湖があり、この2つの湖はティピタパ川によってむすばれている。両湖と太平洋岸の間によこたわる火山性山脈が、たびたび地震をおこしている。

東部のカリブ海沿岸部には、モスキトス海岸とよばれる海岸平野が70km以上の幅でつづき、その一部は熱帯雨林におおわれている。カリブ海には、サンフアン川、ココ川(ワンクス川)、グランデ川、エスコンディド川がそそぐ。

1. 気候

海岸地方は熱帯性の気候で、年平均気温は25.5°C。内陸部では高度により15.5~26.5°Cと幅がある。雨季は5~10月。カリブ海沿岸の年降水量は3810mmである。

2. 天然資源

農耕に適した土地にめぐまれ、土壌は火山噴出物によりきわめて肥沃(ひよく)である。国土の39.9%(2005年推計)が森林におおわれている。鉱物資源として、金、銀などを産する。1996年に制定された鉱業法で、採掘者は環境保全に配慮することが義務づけられた。

3. 植生と動物

植生は亜熱帯性の特徴をもつ。カリブ海岸と高地の東側斜面には、深い熱帯雨林が広がる。カシ、マツ、バルサム、マホガニー、野生のゴムノキや、50種ほどの果樹が数多く自生する。野生動物では、ピューマ、シカ、数種のサル、ワニをはじめとする爬虫類(はちゅうるい)などが生息する。オウム、ハチドリ、野生のシチメンチョウといった鳥類も多数みられる。

III. 住民

住民のおよそ69%がメスティソ(スペイン系とアメリカ先住民の混血)、17%が白人。そのほか、9%の黒人と、5%のアメリカ先住民がいる。

1. 人口

人口は578万586人(2008年推計)で、人口密度は48人/km²(2008年推計)。住民の約60%が西部に集中し、また58%(2005年推計)が都市部に居住する。

2. 行政区分と主要都市

国土は太平洋地域、中央地域、大西洋地域の3地域に大別され、さらに17の行政区域(2自治区と15県)にわけられる。首都マナグアの首都圏人口は93万7489人(2005年)で、経済的にも国の中心都市である。レオンは宗教・文化の中心地である。グラナダを起点とする鉄道が、太平洋岸の代表的な海港コリントまで通じている。

3. 言語と宗教

公用語はスペイン語。住民の85%がカトリック(カトリック教会)を信仰し、それ以外は大部分がプロテスタント(プロテスタンティズム)である。

4. 教育

初等・中等教育は義務教育で無償だが、施設の整備がおくれているため、中等学校に進学しない者も多い。初等学校の入学者数は83万8437人(2000年)、中等学校への入学率は61%にすぎない。高等教育機関の入学者数は合計で10万363人(2002-2003年)で、主要な大学は、レオンとマナグアにキャンパスのあるニカラグア国立自治大学(1812年創立)、マナグアの中央アメリカ大学(1961)、ニカラグア工科大学(1967)など。15歳以上の国民の識字率は68%(2005年推計)である。

5. 文化

ほかの中央アメリカ諸国と同様、ニカラグア文化には、植民地時代以来のスペイン文化とアメリカ先住民文化の要素が混在している。各地方ゆかりの聖人をまつる行事や、キリスト教に起源をもつ祭事が頻繁におこなわれる。楽器ではマリンバがよくつかわれるほか、農村部ではチリミア(クラリネット)、マラカス、スル(横笛)などによる民俗音楽が盛んである。植民地時代からつづく伝統的なダンスや建築も現在につたえられている。

IV. 経済

1970年代末に政情不安が深刻化するまでは、かなりの経済成長がみられた。90年発足のチャモロ政権が内戦により疲弊した経済を再建し、90年代後半にはインフレもおちついた。2006年におけるGDP(国内総生産:GNPとGDP)は53億米ドルで、国民1人当たりでは958.10米ドルにとどまる。

農業が経済をささえているが、マナグア市内や近郊では近代的な製造業もはじめられている。代表的な地下資源は金である。政府が経済運営に大きく関与するが、海外援助への依存度も高い。1980年代半ばには食糧と燃料が不足した。

1. 農業

労働人口の31%(2003年)が農業などの第1次産業従事者である。おもな商品作物はサトウキビ、コーヒー、バナナで、ほかには綿花、トウモロコシ、米、豆類、ラッカセイ、オレンジが栽培される。牛の飼育も盛んである。

2. 林業と漁業

国土の39.9%(2005年推計)が森林におおわれ、カリブ海にそそぐ主要河川の流域で林業がいとなまれている。漁獲量は4万897t(2005年推計))で、各種エビ類の漁獲量が大きい。

3. 工業とエネルギー

製造業は、国内総生産の29.5%(2006年)を占め、セメント、化学製品、石油、消費財などが生産されている。コーヒー加工工場、精糖所などがあり、紡績工場では国内市場向けの綿布がつくられる。

総発電量は25億300万kWh(2003年推計)である。そのうち76%を火力発電、12%を水力発電、12%を地熱発電などでまかなっている。

4. 通貨と外国貿易

通貨単位はコルドバ・オロ。1コルドバ・オロが100センタボに相当する。主要輸出品はコーヒー、肉、金、綿花、バナナなど106品目で、輸出額は7億6711万米ドル(2004年)。輸入品は燃料、原材料、機械類、消費財などで、輸入額は22億5053万米ドル(2004年)だった。おもな貿易相手国は、アメリカ合衆国、ベネズエラ、コスタリカ、メキシコ、ホンジュラス、エルサルバドルなどである。

ニカラグアは、経済統合と自由貿易圏をめざす中米共同市場(CACM)に1960年の設立当初から参加しているほか、カリブ海沿岸の国々からなる通商機構であるカリブ諸国連合(ACS)にも加盟している。メキシコとの自由貿易協定(FTA)が発効しており、米・中米自由貿易協定(DR-CAFTA)が2006年4月に発効、アメリカへの輸出の増大やアメリカからの投資増が期待されている。

5. 交通とコミュニケーション

道路の総延長は1万8669km(2004年)で、そのうち384kmがパン・アメリカン・ハイウェーである。かつて総延長373kmの鉄道があったが、1993年以降閉鎖され施設が撤去されている。ニカラグア湖には蒸気船が運航する。ニカラグア航空が国内・国際線に就航し、首都マナグアの東にマナグア(アウグストセサルサンディーノ)国際空港がある。

電話の回線数は1000人当たり43台(2005年)。またラジオは130万台、テレビは35万台保有されている(2000年)。おもな日刊紙は6紙(2004年)で、マナグアで発行されているバリカーダ、ヌエボ・ディアリオ、ラ・プレンサ、レオンで発行されているエル・セントロアメリカノなどがある。

V. 政治

1979年、臨時政権の国家再建委員会により74年憲法は廃止され、人権宣言が発せられた。84年11月の選挙で、民政が復活した。87年には新憲法が発効し、95年に改正された。

2000年1月に国家監査官制度の見直しを柱とする憲法の一部改正、05年1月に大統領の閣僚任命権について国会の3分の2以上の承認を必要とする一部改正がおこなわれた。

1. 行政と立法

行政の最高責任者は大統領(任期は5年)。大統領は国家元首で、政府を統轄し、軍最高司令官をかねる。副大統領1名が大統領を補佐する。選挙権は16歳以上の国民にあたえられる。1979~84年は国家評議会が統治した。

1985年以後の国民議会の審議をへて、87年1月に公布された憲法により、定数92名の一院制の国会が発足した。

2. 政党

1980年代には、61年結成のサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が政権を担当。84年の選挙に参加したのは、そのほとんどがFSLNと友好関係をもつ勢力で、野党勢力のいくつかは選挙そのものをボイコットした。

1996年の選挙では野党国民連合(UNO)が勝利し、2001年の選挙では政党の再編がすすみ、第1党の立憲自由党(PLC)と第2党のFSLNがほぼ議席をわけあった。

3. 防衛

2004年の兵力は、陸軍1万2000人、海軍800人、空軍1200人である。90年の選挙に勝利して発足した反サンディニスタ政府は、ゲリラ組織の解体をすすめるとともに、国軍の規模も削減している。それにともない徴兵制も廃止された。

VI. 歴史

1502年、コロンブスがニカラグアの東海岸を視認しているが、最初に上陸したスペイン探検隊は、22年のゴンサレス・ダビラ一行だった。ゴンサレス・ダビラの一行はいくつかの入植地を建設した。その後おとずれた征服者フェルナンデス・デ・コルドバが23年にグラナダを、24年にレオンを建設している。

1. スペイン植民地時代

1526~31年は、ペドロ・アリアス・ダビラがニカラグアを統治した。その後、スペイン人征服者間のはげしい対立と戦闘をへて、16世紀中にグアテマラ総監領に併合された。植民地時代のニカラグアは、比較的平穏で、ある程度の繁栄をみせたが、イギリス人のドレークやホーキンズに代表される海賊が幾度となく沿岸地方を襲撃、略奪した。

18世紀になるとイギリス人は、アメリカ先住民と黒人との混血ミスキート族と非公式な同盟関係をむすび、スペイン人の支配に挑戦した。18世紀半ばから後半にかけて、モスキトス海岸がイギリス領とみなされた時期もあった。しかし、アメリカ独立革命(1775~83)がおこると、ニカラグアに恒久的地歩をかためようとしたイギリスの思惑はきえさった。

2. 独立の達成

19世紀になると、独立の気運が高まり、1821年スペインからの独立を宣言した。翌年にイトゥルビデのメキシコ帝国の一部となるが、23年、イトゥルビデの失脚とともに、中央アメリカ連邦にくわわった。

ニカラグア政治の最大の特徴は、レオンを拠点とする自由派とグラナダを拠点とする保守派の間の対立・抗争にある。単独国家をめざした自由派は、中央アメリカ連邦が崩壊した1838年、ニカラグア共和国の樹立を宣言した。その後も内紛はやまず、少数の部下とともにやってきたアメリカ人山師ウォーカーが、55年、自由派勢力の要請をうけてその首領となった。同年、ウォーカーはグラナダを占領し、略奪行為におよび、さらに56年にはニカラグアの大統領に就任した。

ウォーカーは、同じアメリカ人の実業家コーネリアス・バンダービルトの輸送会社が所有する資産を接収したことで、バンダービルトの恨みを買った。バンダービルトは、ウォーカーと対立する保守派に肩入れし、1857年、ウォーカーはイギリスの援助をうけた中央アメリカ連合軍によりニカラグアから追放された。以後57~93年の長期にわたって保守派政権がつづいた。

3. アメリカ合衆国の干渉

1893年、自由党(自由派)は政権の奪回に成功し、セラヤが大統領に就任した。セラヤは16年間独裁者として君臨するが、1909年に権力の座をおわれ、ディアスが暫定大統領に選出された。12年、ディアスは反乱が発生すると秩序維持のためアメリカ合衆国に軍事的支援をもとめ、アメリカは海兵隊を派遣した。16年のブライアン・チャモロ条約により、アメリカは300万ドルをニカラグアにしはらい、カリブ海から太平洋にいたる運河を同国に建設する権利、コーン諸島の租借権、フォンセカ湾に海軍基地を建設する権利を獲得した。

このブライアン・チャモロ条約は他の中央アメリカ諸国の反発をうけ、ニカラグア国内ではゲリラによる反米闘争がはじまった。アメリカ海兵隊はニカラグアに1925年まで駐留した。海兵隊が撤収すると反乱がはじまったため、アメリカ軍は翌年ニカラグアにもどった。28年、アメリカの監視下で選挙が実施され、自由党のモンカダ将軍が大統領となった。

しかし、自由党の指導者のひとりサンディーノは、その後数年にわたってアメリカにゲリラ戦をいどんだ。1933年、アメリカ海兵隊は撤退に際し、アナスタシオ・ソモサを国家警備隊司令官にすえた。そのソモサはサンディーノを暗殺し、37年に大統領に就任した。以後、40年以上にわたりソモサ一族がニカラグアに君臨することとなる。

4. ソモサ一族の支配

1941年12月9日、ニカラグアは第2次世界大戦に参戦した。45年6月には国際連合設立に参画。48年には米州機構にくわわり、51年、中央アメリカ諸国の共通課題を解決するためにもうけられた中央アメリカ機構(OCAS)にも参加した。

一方、国内では、一度退任したのち、大統領職にかえりざいたアナスタシオ・ソモサが1956年に暗殺され、息子のルイス・ソモサが後をついだ。彼は、父の残任期間をつとめた後選挙に勝利をおさめ、さらに1期4年をつとめた。その後4年間は、ソモサ一族の側近が大統領職にあったが、67年、ルイス・ソモサの弟ソモサ・デバイレが大統領に就任した。彼は軍部の支持をうけて独裁体制をしき、国家警備隊を利用して圧政をおこなった。

1971年8月、議会は憲法を放棄し、みずから解散した。72年2月の制憲議会選挙では、ソモサ・デバイレの自由党が圧勝した。同年5月、彼は軍最高司令官の地位にしりぞき、自由党2名、保守党1名からなる三頭政治がはじまった。12月23日、首都マナグアが大地震におそわれ、約6000人が死亡、2万人が負傷する惨事となった。戒厳令が布告され、ソモサ・デバイレが実質的な大統領の地位に復帰し、74年、正式に大統領に再選された。

5. サンディニスタの蜂起

マナグアの新聞ラ・プレンサ紙の編集長をつとめ、長く反ソモサの論陣をはってきたチャモロが、1978年初頭に暗殺された。国民はソモサ・デバイレ大統領の関与をうたがい、国内は騒然として事実上の内戦状態に突入した。サンディーノの名前にちなんで61年に結成されたサンディニスタ民族解放戦線は、反ソモサ闘争をくり広げ、ニカラグアは79年4月に完全な混乱状態におちいった。

キューバにつづく西半球第2の共産主義政権誕生を懸念したアメリカは、穏健派の連立政権を成立させるため、ソモサ・デバイレに辞職をせまった。ソモサ・デバイレは1979年7月17日に辞任し、フロリダ州マイアミをへてパラグアイにのがれたが、80年、同国で暗殺された。

サンディニスタ政権は最高評議会を中心に国政運営にあたったが、深刻な経済的困難に直面し、経済活性化のためアメリカに援助をもとめた。しかしアメリカは左傾化するサンディニスタ政権に対する懸念を深め、エルサルバドルの反乱を扇動したとして同政権を非難し、1981年には援助をうち切り、反サンディニスタのゲリラ組織コントラへの支援を開始した。82年、サンディニスタ政権はソ連と援助協定を締結し、84年11月の選挙ではサンディニスタの大統領候補オルテガが大勝した。

1985年10月、オルテガ大統領は1年間の非常事態宣言を発し、公民権を停止した。同年、アメリカ議会ではコントラへの軍事援助が否決され、その結果、援助は86年10月まで再開されなかった。しかし11月、援助停止期間中にアメリカがイランへひそかに武器を売却し、その代金をコントラへ横流ししていたとの報道がながれた(イラン・コントラ事件)。88年3月、初の直接和平交渉の結果、コントラとサンディニスタは一時停戦に合意した。

6. チャモロ政権

国際監視のもとで1990年2月におこなわれた選挙では、アメリカの支持をうけた反サンディニスタ勢力の連合体、野党国民連合(UNO)が議会の過半数を獲得、同連合のチャモロ女史がオルテガにかわって大統領に就任した。彼女は国家再建計画にのりだし、コントラの解体、国軍の段階的兵力削減、通貨改革などの諸政策をすすめた。はげしいインフレは沈静化したが、経済成長率は依然低迷をつづけ、失業率は上昇した。

1991年、チャモロ大統領がオルテガ前大統領の弟ウンベルト・オルテガを軍総司令官の地位にとどめたため、コントラ支持者の反発をまねき、コントラの一部勢力は再武装をはじめた。93年にはコントラの部隊が38人の人質をとり、同司令官の辞任を要求するなど混乱は拡大した。これに対し、サンディニスタ支持者も副大統領ほか32人を人質にとり応酬した。これらの人質は同年8月までに全員が解放されたが、チャモロ大統領は94年に同司令官を解任することを約束したことで、サンディニスタ勢力からの支持をもうしなった。

1994年、コントラの再武装グループと政府の間で協定がむすばれ、「レコントラ」とよばれるこのグループは武装解除し、国家警察にくわわることに同意した。議員間の汚職非難によって分裂していた国会も、94年1月、2年ぶりに審議をおこなった。5月、オルテガ軍総司令官の退役決定が発表され、12月にはクアドラが後任に指名された。オルテガは95年2月予定どおり辞任し、ニカラグアの歴史上はじめて、軍の最高ポストの平和的交代が実現した。

1996年10月には大統領選挙と国会選挙がおこなわれた。大統領選挙では、立憲自由党(PLC)など右派5党で構成する自由連合(AL)から立候補したPLC党首アルノルド・アレマン・ラカヨがサンディニスタ民族解放連合(FSLN)のオルテガらをやぶって当選、国会選挙では自由連合が42議席を獲得して、37議席のオルテガのFSLNをおさえた。

1999年の対外債務残高は60億ドルをこえており、IMF(国際通貨基金)は同年9月、重債務貧困国と認定し、経済改革やODA債権の放棄などの救済計画適用をきめた。2000年5月にはアレマン大統領が訪日した。

7. ボラニョス政権から第2次オルテガ政権へ

国民議会で国家監査官制度の見直しがおこなわれ、それをふくむ憲法改正案を議会は承認。2000年1月20日に施行された。この制度ではPLCとFSLNが複数の監査官を選出することとなった。

アレマン大統領の任期満了を前に2001年におこなわれた大統領選挙で、保守与党PLCはボラニョス副大統領を、FSLNはオルテガ元大統領を候補に選出。オルテガは貧困を改善できなかった前政権時の政策はまちがっていたとみとめ、「福祉社会」を公約にかかげて11年ぶりの政権奪回をねらった。それに対しボラニョスは「15万人の雇用創出」を公約。いずれの候補も市場を重視した経済政策をおこなう主張ではかわらなかったが、01年9月にアメリカで同時多発テロ事件がおきたあと、国際社会では反テロリズムが大勢となった。ボラニョスはこの機運に乗じて「オルテガ候補にはイラクなどの独裁国家と接点がある」と攻撃。アメリカもオルテガ政権時の「人権問題」を批判した。

2001年11月に投票がおこなわれたが、ボラニョスの得票率がオルテガを大きくうわまわり、ボラニョスは「民主主義を確固たるものとする新たな一歩」と勝利宣言。オルテガは敗北をみとめる一方、「外部から強い干渉があった」とアメリカなどを批判した。

2002年1月、ボラニョスは大統領に就任し、就任演説で雇用創出、貧困撲滅、汚職追放を公約として宣言した。就任後も大統領は汚職に対してきびしい対応をとり、02年12月にはアレマン前大統領が在職中の公金横領の罪で逮捕された。しかし、逮捕によって与党PLC内でアレマン派とボラニョス大統領の関係が悪化し、国会での政権基盤は大きく弱体化した。04年11月の地方選挙では約150の自治体のうち、首都マナグア市長をふくむ過半数を野党FSLNが制した。さらにPLCのアレマン支持派は05年1月、野党FSLNとともに大統領の閣僚任命権を制限する憲法の一部改正を国会で成立させるなど、政争は激化していったが、内政の安定をのぞむ米州機構やアメリカによる仲介がおこなわれた。06年4月には、ドミニカ共和国をふくむ米・中米自由貿易協定(DR-CAFTA)が発効した。

2006年11月の大統領選挙では、FSLNのオルテガ元大統領が新党のニカラグア自由同盟・保守党(ALN-PC)候補のモンテアレグレらをしりぞけて当選をはたし、16年ぶりに左派政権が誕生することとなった。オルテガは、1990年以来たびたび大統領選挙に出馬しながら政権をうばえず、党内での求心力も弱まっていたが、選挙期間中、3期つづいた中道・保守政権下で経済は比較的順調だったが、その恩恵は一部の富裕層だけのもので格差は広がったとして貧困対策重視をうったえた。また、反米的な言動をやめて右派ともあゆみより、カトリック教会との和解も実現した。アレマン政権下での汚職や、自由主義経済によってもいっこうによくならない生活に幻滅していた貧困層を中心とする国民も、左派政権誕生をささえた。

オルテガは当選後、雇用を拡大して貧困問題を解決するために市場経済の原則はまもるとし、企業家の入閣なども約束した。前政権時にアメリカの制裁の中で経済が疲弊したことをふまえ、今度はブラジルのように穏健な中道左派的な政策をめざすようにもみえる。2007年1月10日の就任後、オルテガ新政権の政策がどうなるのか内外の注目があつまっている。